記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#94「乞食学生」第五回

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【冒頭】

私は暫く何も、ものが言えなかった。裏切られ、ばかにされている事を知った刹那の、あの、つんのめされるような苦い墜落の味を御馳走されて気持で、食堂の隅の椅子に、どかりと坐った。私と向い合って、熊本君も坐った。やや後れて少年佐伯が食堂の入り口に姿を現したと思うと、いきなり、私のほうに風呂敷包みを投げつけ、身を翻(ひるがえ)して逃げた。

【結句】

「僕は、だめだ。」そう言って、私には、腹にしみるものが在った。「けれども僕は、絶望していないんだ。酒だって、たまにしか飲まないんだ。冷水摩擦だって、毎日やっているんだ。」じぶんながら奇妙と思われたような事を口走って、ふっと眼が熱くなり、うろたえた。

 

「乞食学生 第五回」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和15年9月23、24日頃までに脱稿。

・昭和15年11月1日、『若草』十一月号に発表。

新ハムレット (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)      

     第五回

 私はしばらく何も、ものが言えなかった。裏切られ、ばかにされている事を知った刹那せつなの、あの、つんのめされるような苦い墜落の味を御馳走された気持で、食堂の隅の椅子に、どかりと坐った。私と向い合って、熊本君も坐った。やや後れて少年佐伯が食堂の入口に姿を現したと思うと、いきなり、私のほうに風呂敷包みを投げつけ、身をひるがえして逃げた。私は立ち上って食堂から飛び出し、二、三歩追って、すぐに佐伯の左腕をとらえた。そのまま、ずるずる引きずって食堂へはいった。こんな奴に、ばかにされてたまるか、という野蛮な、動物的な格闘意識が勃然ぼつぜんと目ざめ、とかく怯弱きょうじゃくな私を、そんなにも敏捷びんしょうに、ほとんど奇蹟きせき的なくらい頑強に行動させた。佐伯は尚も、のがれようとして※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいた。
「坐り給え。」私は彼を無理矢理、椅子に坐らせようとした。
 佐伯は、一言も発せず、ぶるんと大きく全身をゆすぶって私の手から、のがれた。のがれてぐにポケットから、きらりと光るものを取り出し、
「刺すぞ。」と、人が変ったような、かすれた声で言った。私は、流石さすがに、ぎょっとした。殺されるかも知れぬ、と一瞬思った。恐怖の絶頂まで追いつめられると、おのずから空虚な馬鹿笑いを発する癖が、私に在る。なんだか、ぞくぞく可笑おかしくて、たまらなくなるのだ。きもが太いせいでは無くて、極度の小心者ゆえ、こんな場合ただちに発狂状態に到達してしまうのであるという解釈のほうが、より正しいようである。
「はははは。」と私は空虚な笑声を発した。「恥ずかしくて、きりきり舞いした揚句あげくの果には、そんな殺伐なポオズをとりたがるものさ。覚えがあるよ。ナイフでも、振り上げないことには、どうにも、形がつかなくなったのだろう?」
 佐伯は、黙って一歩、私に近寄った。私は、さらに大いに笑った。佐伯は、ナイフを持ち直した。その時、熊本君は、佐伯の背後からむずと組み附いて、
「待って下さい。」と懸命の金切り声を挙げ、「そのナイフは、僕のナイフです。」と又しても意外な主張をしたのである。「佐伯君、君はひどいじゃないか。そのナイフは、僕の机の左の引出しにはいっていたんでしょう? 君は、さっき僕に無断で借用したのに、ちがいありません。僕は、人間の名誉というものを重んずる方針なのだから、えて、盗んだとは言いません。早く返して下さい。僕は、大事にしていたんだ。僕は、この人に帽子と制服とだけは、お貸ししたけれど、君にナイフまでは、お貸しした覚えが無いのです。返して下さい。僕は、お姉さんから、もらったんだ。大事にしていたんですよ。返して下さい。そんなに乱暴に扱われちゃ困りますよ。そのナイフには、小さいはさみも、缶切かんきりも、その他三種類の小道具が附いているんですよ。デリケエトなんですよ。ごしょうだから返して下さい。」と、れいの泣き声で、わめき散らしたのである。
 悪漢佐伯も、この必死の抗議には参ったらしく、急に力が抜けた様子で、だらりと両腕を下げ、蒼白そうはくの顔に苦笑を浮かべ、
「返すよ。返すよ。返してやるよ。」と自嘲の口調で言って、熊本君の顔を見ずにナイフを手渡し、どたりと椅子に腰を下した。
「さあ、何とでも言うがいい。」と佐伯は、ほんものの悪党みたいな、下品な口をきいたので、私は興醒きょうざめして、しきりに悲しかった。佐伯の隣りの椅子に、腰をおろして、
「五一郎君、」とはじめて佐伯の名を、溜息と共に言い、「そんなふてくされたものの言いかたをするものじゃないよ。君らしくも無いじゃないか。」
「猫撫で声は、よしてくれ。げろが出そうだ。はっきり負けた奴に、そんなに優しくお説教をはじめるのは、いい気持のものらしいね。」佐伯は、顔を不機嫌にしかめて、強く、吐き出すように言い、両腕をぐったりテエブルの上に投げ出した。手が附けられぬくらいに、ふてくされてしまっている。私は、いよいよ味気ない思いであった。
「君はくだらない奴だね。」と私は、思ったままを、つい言ってしまった。
「ああ、そうさ。」すぐに、はね返して寄こすのである。「だから、はじめから、言ってるじゃねえか。説教なんか、まっぴらだって言ったじゃないか。って置いてくれたっていいんだ。」まっすぐに、食堂の壁を見ながら言っているのであるが、その眼は薄く涙ぐんでいた。私は、その様を見て何だか、ものを言うのが再び、いやになった。熊本君は、ちゃんと私たちと向い合って坐っていて、いましがた死力を尽して奪い返したデリケエトのナイフが、損傷していないかどうか、たんねんに調べ、無事である事を見とどけてから、ハンケチに包んで右のたもとの中にしまい込み、やっと、ほっとしたような顔になり、私たち二人を改めてきょろきょろ見比べ、
「なんですか? さて、どうしたのですか。あなたのおっしゃる事にも、また、佐伯君の申す事にも、一応は首肯しゅこうできるような気がするのですけれど、もっと、つき進めた話を伺わないことには。」と、あくまで真面目くさった顔で言い、「コオヒイにしますか。それとも何か食べますか。とにかく何か、注文いたしましょう。ゆっくり話し合ってみたら、或は一致点に到達できるかも知れませんからね。」熊本君は、私たち二人に更に大いに喧嘩させて、それを傍で分別顔して聞きながら双方に等分に相槌あいづちを打つという、あの、たまらぬ楽しみを味わうつもりでいるらしかった。佐伯は逸早いちはやく、熊本君の、そのずるい期待を見破った様子で、
「君は、もう帰ったらどうだい。ナイフも返してやったし、制服と帽子も今すぐ、この人が返してあげるそうだ。ステッキを忘れないようにしろよ。」にこりともせず、落ちついた口調で言ったのである。
 熊本君は、もう既に泣きべそをいて、
「そんなに軽蔑しなくてもいいじゃないですか。僕だって、君の力になってやろうと思っているのですよ。」
 私は、熊本君のその懸命の様子を、可愛く思った。
「そうだ、そうだ。熊本君は、このとおり僕に制服やら帽子やらを貸してくれたし、謂わば大事な人だ。ここにいてもらったほうがいい。コオヒイ、三つだ。」私は、食堂の奥のほうに向って大声でコオヒイを命じた。薄暗い、その食堂の奥に先刻から、十三、四歳の男の子が、ぼんやり立って私たちのほうを眺めていたのである。
「母ちゃん、お風呂へ行った。」その、まだ小学校に通っているらしい男の子は、のろい口調で答えるのである。「もうすぐ、帰って来るよ。」
「ああ、そうか。」私は瞬間、当惑した。「どうしましょう。」と小声で熊本君に相談した。
「待っていましょう。」熊本君は、泰然たいぜんとしていた。「ここは、女の子がいないから、気がとても楽です。」やはり、自分の鼻に、こだわっている。
「ビイルを飲めば、いいじゃないか。」佐伯は、突然、言い出した。「そこに、ずらりと並んである。」
 見ると、奥の棚にビイルの瓶が、成程なるほどずらりと並んである。私は、誘惑を感じた。ビイルでも一ぱい飲めば、今の、この何だかいらいらした不快な気持を鎮静させることが出来るかも知れぬと思った。
「おい、」と店番の男の子を呼び、「ビイルだったら、お母さんがいなくても出来るわけだね。栓抜せんぬきと、コップを三つ持って来ればいいんだから。」
 男の子は、不承不承に首肯うなずいた。
「僕は、飲みませんよ。」熊本君は、またしても、つんと気取った。「アルコオルは、罪悪です。僕は、アカデミックな態度を、とろうと思います。」
「誰も君に、」佐伯は、やや口を尖らせて言った。「飲めと言ってやしないよ。へんな事を言わないで、お姉さんに叱られますと言ったほうが、早わかりだ。」
「君は、飲むつもりですか?」熊本君も、こんどは、なかなか負けない。「止し給え。僕は、忠告します。君は、おとといもビイルを飲んだそうじゃないですか。留置場に、とめられたって、学校じゃ評判なんですよ。」
 男の子が、ビイルを持って来て、三人の前に順々にコップを置くが早いか熊本君は、一つのコップを手に取って憤然、ぱたりと卓の上に伏せた。私は内心、閉口した。
「よし、佐伯も飲んじゃいかん。僕が、ひとりで飲もう。アルコオルは、本当に、罪悪なんだ。なるべくは、飲まぬほうがいいのだ。」言いながら、私はビイル瓶の栓を抜き、ひとりで自分のコップにいで、ぐっと一息で飲みほした。うまかった。「ああ、まずいな。」とてれ隠しの嘘をついて、「僕も、アルコオルは、きらいなんだ。でも、ビイルは、そんなに酔わないからいいんだ。」何かと自己弁解ばかりして、「アカデミックな態度ばかりは、失いたくありませんからね。」と熊本君にまで卑しいお追従ついしょうを言ったのである。
「そうですとも。」熊本君は、御機嫌を直して、尊大な口調で相槌打った。「私たちは、パルナシヤンです。」
「パルナシヤン。」佐伯は、低い声でそっとつぶやいていた。「象牙ぞうげの塔か。」
 佐伯の、その、ふっと呟いた二言には、へんにせつない響きがあった。私の胸に、きりきり痛く喰いいった。私は、更に一ぱいビイルを飲みほした。
「五一郎君、」と私は親愛の情をこめて呼んだ。「僕には、なんでも皆わかっているのだよ。さっき君が僕に風呂敷包みを投げつけて、逃げ出そうとした時、はっと皆わかってしまったのだ。君は、僕をだましたね。いや、責めるのじゃない。人を責めるなんて、むずかしい事だ。僕は、わかったけれども、何も言えなかったのだ。言うのが、つらくて、いっそ知らん振りしていようかとさえ思ったのだが、いまビイルの酔いを借りて、とうとう言い出したわけだ。いや、考えてみると、君が僕に言わせるようにしむけてくれたのかも知れないね。ビイルを見つけてくれたのは、君なんだから。」
「なるほど、」と熊本君は小声で呟き、「佐伯君には、そんな遠大な思いやりがあって、ビイルのことを言い出したというわけですね。なるほど。」としきりに首肯うなずいて腕組みした。
「そんな、ばかな思いやりって、あるものか。」佐伯は少し笑って、「僕は、ただ、その、ほら、――」と言いよどんで、両手でやたらに卓の上を撫で廻した。
「わかってるよ。僕の機嫌を取ろうとしたのだ。いやそう言っちゃいけない。この場の空気を、明るくしようと努めてくれたのさ。佐伯は、これまで生活の苦労をして来たから、そんな事には敏感なんだ。よく気が附く。熊本君は、それと反対で、いつでも、自分の事ばかり考えている。」ビイルの酔いに乗じて、私は、ちくりと熊本君を攻撃してやった。
「いや、それは、」熊本君は、思いがけぬ攻撃に面くらって、「そんなことは、主観の問題です。」と言って、それからまた、下を向いてぶつぶつ二言、三言つぶやいていたが、私には、ちっとも聞きとれなかった。
 私は次第に愉快になった。謂わば、気が晴れて来たのである。ビイルを、更に、もう一本、注文した。
「五一郎君、」と又、佐伯のほうに向き直り、「僕は、君を、責めるんじゃないよ。人を責める資格は、僕には無いんだ。」
「責めたっていいじゃないか。」佐伯も、だんだん元気を恢復して来た様子で、「君は、いつでも自己弁解ばかりしているね。僕たちは、もう、大人の自己弁解には聞ききてるんだ。誰もかれも、おっかなびっくりじゃないか。一も二も無く、僕たちを叱りとばせば、それでいいんだ。大人の癖に、愛だの、理解だのって、甘ったるい事ばかり言って子供の機嫌をとっているじゃないか。いやらしいぞ。」と言い放って、ぷいと顔をそむけた。
「それあ、まあ、そうだがね。」と私は、醜く笑って、内心しまった! と狼狽していたのだが、それを狡猾に押し隠して、「君の、その主張せざるを得ない内心の怒りには、同感出来るが、その主張の言葉には、間違いが在るね。わかるかね。大人も、子供も、同じものなんだよ。からだが少し、薄汚くなっているだけだ。子供が大人に期待しているように、大人も、それと同じ様に、君たちを、たのみにしているものなのだ。だらしの無い話さ。でも、それは本当なんだ。力と、たのんでいるのだ。」
「信じられませんね。」と熊本君は、ばかに得意になってしまって、私を憐れむように横目で見下げて言った。
「君たちだって、ずるいんだ。だらし無いぞ。」私はビイルを、がぶがぶ飲んで、「少し優しくすると、すぐ、程度を越えていい気になるし、ちょっと強く言おうと思うと、言われぬ先から、泣きべそをかいて逃げたがるじゃないか。君たちに自信を持ってもらいたくて、愛だの、理解だのと遠廻しに言っているのに、君たちは、それを軽蔑する。君たちが、も少し強かったら、それは安心して叱りとばしてやる事も出来るんだ。君たちさえ、――」
「水掛け論だ。」佐伯は断定を下した。「くだらない。そんな言い古された事を、僕たちは考えているんじゃないよ。しっかりした人間とは、どんなものだか、それを見せてもらいたいんだ。」
「そうですね。」熊本君は、ほっとした顔をして、佐伯の言を支持した。「酒を飲む人の話は、信用出来ませんからね。」と言って、頬にかすかな憫笑びんしょうを浮かべた。
「僕は、だめだ。」そう言って、私には、腹にしみるものが在った。「けれども僕は、絶望していないんだ。酒だって、たまにしか飲まないんだ。冷水摩擦だって、毎日やっているんだ。」自分ながら奇妙と思われたような事を口走って、ふっと眼が熱くなり、うろたえた。

 

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