記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#95「乞食学生」第六回

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【冒頭】

「青年よ、若き日のうちに享楽せよ!」

と教えし賢者の言葉のままに、

振舞うた我の愚かさよ。

(悔ゆるともいまは詮なし)

見よ!次のペエジにその賢者

素知らぬ顔して、記し置きける、

「青春は空(くう)に過ぎず、しかして、

弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン

【結句】

「カルピスを、おくれ。」おおいに若々しいものを飲んでみたかった。

茶店の床几にあぐらをかいて、ゆっくりカルピスを啜ってみても、私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実を犇(ひし)と護らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度、反芻しているばかりであった。

 

「乞食学生 第六回」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和15年10月23、24日頃までに脱稿。

・昭和15年12月1日、『若草』十二月号に発表。

新ハムレット (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)      

       第六回

「青年よ、若き日のうちに享楽せよ!」
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ! 次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春はくうに過ぎず、しかして、
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン


 むかし、フランソワ・ヴィヨンという、巴里パリ生まれの気の小さい、弱い男が、「ああ、残念! あの狂おしい青春の頃に、我もし学にいそしみ、風習のよろしき社会にこの身を寄せていたならば、いま頃は家も持ち得て快き寝床もあろうに。ばからしい。悪童の如くまなを叛き去った。いま、そのことを思い出す時、わが胸は、張り裂けるばかりの思いがする!」と、地団駄じだんだ踏んで、その遺言書に記してあったようだが、私も、いまは、その痛切な嘆きには一も二も無く共鳴したい。たかが熊本君ごときに、酒を飲む人の話は、信用できませんからね、と憫笑を以て言われても、私には、すぐにね返す言葉が無い。冷水摩擦を毎日やっていると言ってみたところで、それがこの場合、どうなるというものでもない。つまらない事を口走ったものである。けれども私には、それが精一ぱいであったのである。私には、謂わば政治的手腕も無ければ、人に号令する勇気も無し、教えるほどの学問も無い。何とかして明るい希望を持っていたいと工夫の揚句が、わずかに毎朝の冷水摩擦くらいのところである。けれども無頼ぶらいの私にとっては、それだけでも勇猛の、大事業のつもりでいたのだ。私は、いまこの二少年の憫笑に遭い、自分の無力弱小を、いやになるほど知らされた。私が、ふっと口をつぐんで片手にビイルのコップを持ったまま思いに沈んでいるのを、見兼ねたか、少年佐伯は、低い声で、
「何も、そんなに卑下して見せなくたって、いいじゃないか。」と私を慰めさとすように言って、私の顔をのぞき込み、「ごめんよ。君は知っているね。僕は、恥ずかしかったんだ。本当の事を、どうしても言えなかったんだ。でも、僕は嘘つきじゃない。たった一つだけ嘘を言ったんだ。映画の会は、おととい、やっちゃったんだ。僕は、説明しちゃったんだ。だから、僕は、おとといの夜、会が済んでから制服も靴も売り払って、街でビイルを飲んで、お巡りさんに見つかって、それから、――」
「わかってる。」私は顔をげて、佐伯の告白を払いのけるように片手を振った。「君に罪は無いんだ。みんな話の行きがかりだ。僕が、そそっかしいんだよ。君は、はじめから僕が渋谷へなど来るのをいやがっていたんだものね。」大きい溜息が出て、胸の中が、すっとした。
「うん、」佐伯は、恥ずかしそうに小さく首肯うなずき、「言い直すひまが無かったんだよ。僕は、なんぼ何でも、映画の説明なんて、そんなだらし無い事を、やっちゃったとは、言えなかったんだよ。だから、ね、」と又もや、両手でテエブルの上を矢鱈やたらに撫で廻しながら、「そこんところを、嘘ついちゃったんだよ。ごめんね。留置場へ入れられた事なんかを君に言うと、君に嫌われると思ったんだ。僕は、だめなんだよ。葉山にも、いままでお世話になっているんだし、映画説明なんてばからしいとは思ったけれど、最後のお礼のつもりで、おとといの晩、大勢の女の子の前でやっちゃったんだよ。やっちゃってから、いけないと思った。もう僕は、だめになったと思った。見込みの無い男だと思った。僕にもビイルを一ぱい下さい。僕は、いまは嬉しいのだ。何だか、ぞくぞく嬉しいのだ。木村君、君は、偉い人だね。君みたいに、何も気取らないで、僕たちと一緒に、心配したり、しょげたりしてくれると、僕たちには、何だか勇気が出て来るのだ。こうしては居られないと思うんだ。勉強しようと、しんから思うようになるんだ。僕は、心の弱さを隠さない人を信頼する。」立ち上って、三つのコップになみなみとビイルを注いだ。決然たる態度であった。「乾杯だ! 熊本も立て。喜びのための一ぱいのビイルは罪悪で無い。悲しみ、苦悩を消すための杯は、恥じよ!」
「では、ほんの一ぱいだけ。」熊本君は、佐伯の急激に高揚した意気込みに圧倒され、しぶしぶ立って、「僕は事情をよく知らんのですからね、ほんのお附合いですよ。」
「事情なんか、どうだっていいじゃないか。僕の出発を、君は喜んでくれないのか? 君は、エゴイストだ。」
「いや、ちがいます。」熊本君も、こんどは敢然と報いた。「僕は、物事を綿密に考えてみたいんだ。納得出来ない祝宴には附和雷同ふわらいどうしません。僕は、科学的なんです。」
「ちえっ!」佐伯は、たちまち嘲笑した。「自分を科学的という奴は、きまって科学を知らないんだ。科学への、迷信的なあこがれだ。無学者の証拠さ。」
「よせ、よせ。」私も立上り、「熊本君は、てれているんだ。君の、おくめんも無い感激振りに辟易へきえきしたんだ。知識人のデリカシイなんだよ。」
「古い型のね。」佐伯は低く附け加えた。
「乾杯します。」と熊本君は、思いつめた果のような口調で言った。「僕は、ビイルを飲むと、くしゃみするんです。僕は、その事を科学的と言ったんです。」
「正確だ。」佐伯は、噴き出した。私も笑った。
 熊本君は笑わず、ビイルのコップを手にとって目の高さまで捧げ、それから片手で着物のえりをきちんとき合わせて、
「佐伯君の出発を、お祝いいたします。あしたから、また学校へ出て来て下さい。」真剣な、ほろりとするような声であった。
「ありがとう。」佐伯も上品に軽くお辞儀をして、「熊本が、いつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。」
「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います。」私は、たいへん素直な気持で、そう言って泡立つビイルのコップを前方に差し出した。
 カチリと三つのコップが逢って、それから三人ぐっと一息に飲みほした。途端に、熊本君は、くしゃんと大きいくしゃみを発した。
「よし。よろこびのための酒は一杯だけにして止めよう。よろこびを、アルコオルの口実にしてはならぬ。」私は、もっとビイルを飲みたかったのだが、いまこの場の空気を何故だか、ひどく大事にして置きたくて、飲酒の欲望をからこらえた。「君たちも、これから、なるべくならビイルを飲むな! カール・ヒルティ先生のいわく、諸君は教養ある学生であるから、酒を飲んでも乱に陥らない。故に無害である。否、時には健康上有益である。しかし、諸君を真似て飲む中学生、又は労働者たちは自らを制することが出来ぬため、酒に溺れ、その為に身を亡す危険が多い。だから諸君は、彼等のために! 彼等のために酒を飲むな、と。彼等のため、ばかりではない。僕たちの為にも、酒を飲むな。僕たちは、悪い時代に育ち、悪い教育を受け、暗い学問をした。飲酒は、誇りであり、正義感の表現でさえあったのだ。僕たちの、この悪癖を綺麗きれいに抜くのは至難である。君たちに頼む。君たちさえ、清潔な明るい習慣を作ってくれたら、僕たちの暗黒の虫も、遠からずそれに従うだろう。僕たちに負けてはならぬ。打ち勝て。以上、一般論は終りだ。どうも僕は、こんなわかり切ったような概念論は、不得手ふえてなのだ。どんな、つまらない本にだって、そんな事は、ちゃんと書かれてあるんだからね。なるべくなら僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手へたくそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい。どうも、一般論は、てれくさい。演説は、これでやめる。」
 熊本君は、さかんに拍手した。佐伯は、立ったまま、にやにや笑っている。私は普通の語調にかえって、
「佐伯君、僕に二十円くらいあるんだがね、これで制服と靴とを買い戻し給え。また、外形は、もとの生活に帰るのだ。葉山氏の家にも、辛抱して行き給え。わびしい時には、下宿で毛布をかぶって勉強するのだ。それが一ばん華やかな青春だ。何くそと固パンかじって勉強し給え。約束するね?」
「わかってるよ。」佐伯は、ひどく赤面しながらも、口だけは達者である。「そんな事を言ってると、君の顔は、まるで、昔のさむらいみたいに見えるね。明治時代だ。古くさいな。」
「士族のお生まれではないでしょうか。」熊本君は、また変な意見を、おずおず言い出した。
 私は噴き出したいのを怺えて、
「熊本君、ここに二十円あります。これで、佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。」
「要らないよ、そんなもの。」佐伯は、いよいよ顔を真赤にして、小声で言った。
「いや、君にあげるわけじゃないんだ。熊本君の友情を見込んで、一時、おあずけするだけだ。」
「わかりました。」熊本君は、お金を受け取り、眼鏡の奥の小さい眼を精一ぱいに見開いて、直立不動の姿勢で言った。「たしかに、おあずかり致します。他日、佐伯君の学業成った暁には、――」
「いや、それには及びません。」私は、急に、てれくさくて、かなわなくなった。お金など、出さなければよかったと思った。「ここを出ましょう。街を、少し歩いて見ましょう。」
 街は、もう暮れていた。
 私ひとりは、やはり多少、酔っていた。自分のたいへんな、苦学生の姿も忘れて、何かと大声で、ばかな事ばかりしゃべり散らしていた。
「おい佐伯、その風呂敷包みは重くないか。僕が、かわりに持ってやろう。いいんだ、僕によこせ。よし来た。アル・テル・ナ・テ・ヴ・マン、と。知ってるかい? どっこいしょの、うんとこしょって意味なんだ。フロオベエルは、この言葉一つに、三箇月も苦心したんだぞ。」
 ああ、思えば不思議な宵であった。人生に、こんな意外な経験があるとは、知らなかった。私は二人の学生と、宵の渋谷の街を酔って歩いて、失った青春を再び、現実に取り戻し得たと思った。私の高揚には、限りが無かった。
「歌を歌おう。いいかい。一緒に歌うのだよ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。よし。

ああ消えはてし  青春の
愉楽の行衛ゆくえ    今いずこ
心のままに    興じたる
黄金こがねの時よ    玉の日よ
いまし帰らず     その影を
求めて我は    歎くのみ
  ああ移り行く世の姿
  ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて   若人の
帽子かむりは古び    粗衣は裂け
長剣つるぎさびを    こうむりて
したたる光    今いずこ
うたげの歌も     消えうせつ
刃音はおと拍車はくしゃの    音もなし
  ああ移り行く世の姿
  ああ移り行く世の姿
されど正しき   若人の
心は永久とわに    むるなし
つとめの日にも   嬉戯たわむれ
つどいの日にも  輝きつ
りたる殻は   消ゆるとも
こそは残れ   我が胸に
  その実をひしまもらなん
  その実を犇と護らなん」(アルト・ハイデルベルヒ)


 歌っているのは、私だけであった。調子はずれの胴間声どうまごえで、おくすることなく呶鳴どなり散らしていたのだが、歌い終って、「なんだ、誰も歌ってやしないじゃないか。もう一ぺん。アイン、ツワイ、ドライ!」と叫んだ時に、
「おい、おい。」と背後から肩を叩かれた。振り向いて見ると、警官である。「宵の口から、そんなに騒いで歩いては、悪いじゃないか。君は、どこの学生だ。隠さずに言ってみ給え。」
 私は自分の運命を直覚した。これは、しまった。私は学生の姿である。三十二歳の酔詩人ではなかった。ちょっとのおびでは、ゆるされそうもない。絶体絶命。逃げようか。


「おい、おい。」重ねて呼ばれて、はっと我に帰った。私は、草原の中に寝ていた。陽は、まだ高い。ひばりの声が聞える。ようやく気が附いた。私は、やはり以前の、井の頭公園玉川上水土堤どての上に寝そべっていたのである。見ると、少年佐伯は、大学の制服、制帽で、ぴかぴか光る靴をはき、ちゃんと私の枕元に立っている。
「おい、僕は帰るぞ。」と落着いた口調で言い、「君は、眠っちゃったじゃないか。だらしないね。」
「眠った? 僕が?」
「そうさ。可哀そうなアベルの話を聞かせているうちに、君は、ぐうぐう眠っちゃったじゃないか。君は、仙人みたいだったぞ。」
「まさか。」私はさびしく笑った。「ゆうべから、ちっとも寝ないで仕事をしていたものだから、疲れが出ちゃったんだね。永いこと眠っていたかい?」
「なに十分か十五分かな? ああ、寒くなった。僕は、もう帰るぜ。しっけい。」
「待ち給え。」私は、上半身を起して、「君は、高等学校の生徒じゃなかったかね?」
「あたり前さ。大学へはいる迄は、高等学校さ。君は、ほんとうに頭が悪いね。」
「いつから大学生になったんだい?」
「ことしの三月さ。」
「そうかね。君は、佐伯五一郎というんだろう?」
寝呆ねぼけていやがる。僕は、そんな名前じゃないよ。」
「そうかね。じゃ、何だって、この川をはだかで泳いだりしたんだね?」
「この川が、気に入ったからさ。それくらいの気まぐれは、ゆるしてくれたっていいじゃないか。」
「へんな事を聞くようだが、君の友人に熊本君という人がいないかね? ちょっと、こう気取った人で。」
「熊本?――無いね。やはり、工科かね?」
「そうじゃないんだ。みんな夢かな? 僕は、その熊本君にも逢いたいんだがね。」
「何を言ってやがる。寝呆けているんだよ。しっかりし給え。僕は、帰るぜ。」
「ああ、しっけい。君、君、」と又、呼びとめて、「勉強し給えよ。」
「大きにお世話だ。」
 颯爽さっそうと立ち去った。私はひとり残され、わびしさ堪え難い思いである。その実をひしと護らなん、と呶鳴るようにして歌った自分の声が、まだ耳の底に残っているような気がする。白日夢。私は立上って、茶店のほうに歩いた。たもとをさぐってみると、五十銭紙幣は、やはりちゃんと残って在る。佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います、という私の祝杯の辞も思い出された。いますぐ、渋谷へ飛んで行って、確めてみたいとさえ思ったが、やはり熊本君の下宿の道順など、朦朧もうろうとしている。夢だったのに違いない。公園の森を通り抜け、動物園の前を過ぎ、池をめぐって馴染なじみ茶店にはいった。老婆が出て来て、
「おや、きょうは、お一人? おめずらしい。」
「カルピスを、おくれ。」おおいに若々しいものを飲んでみたかった。
 茶店床几しょうぎにあぐらをかいて、ゆっくりカルピスをすすってみても、私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。そのひしまもらなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度みたび反芻はんすうしているばかりであった。
 

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