【冒頭】
「青年よ、若き日のうちに享楽せよ!」
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ!次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春は空(くう)に過ぎず、しかして、
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン)
【結句】
「カルピスを、おくれ。」おおいに若々しいものを飲んでみたかった。
茶店の床几にあぐらをかいて、ゆっくりカルピスを啜ってみても、私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実を犇(ひし)と護らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度、反芻しているばかりであった。
「乞食学生 第六回」について
・昭和15年10月23、24日頃までに脱稿。
・昭和15年12月1日、『若草』十二月号に発表。
全文掲載(「青空文庫」より)
第六回
「青年よ、若き日のうちに享楽せよ!」
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ! 次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春は空 に過ぎず、しかして、
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン)
と教えし賢者の言葉のままに、
振舞うた我の愚かさよ。
(悔ゆるともいまは詮なし)
見よ! 次のペエジにその賢者
素知らぬ顔して、記し置きける、
「青春は
弱冠は、無知に過ぎず。」(フランソワ・ヴィヨン)
むかし、フランソワ・ヴィヨンという、巴里 生まれの気の小さい、弱い男が、「ああ、残念! あの狂おしい青春の頃に、我もし学にいそしみ、風習のよろしき社会にこの身を寄せていたならば、いま頃は家も持ち得て快き寝床もあろうに。ばからしい。悪童の如く学 び舎 を叛き去った。いま、そのことを思い出す時、わが胸は、張り裂けるばかりの思いがする!」と、地団駄 踏んで、その遺言書に記してあったようだが、私も、いまは、その痛切な嘆きには一も二も無く共鳴したい。たかが熊本君ごときに、酒を飲む人の話は、信用できませんからね、と憫笑を以て言われても、私には、すぐに撥 ね返す言葉が無い。冷水摩擦を毎日やっていると言ってみたところで、それがこの場合、どうなるというものでもない。つまらない事を口走ったものである。けれども私には、それが精一ぱいであったのである。私には、謂わば政治的手腕も無ければ、人に号令する勇気も無し、教えるほどの学問も無い。何とかして明るい希望を持っていたいと工夫の揚句が、わずかに毎朝の冷水摩擦くらいのところである。けれども無頼 の私にとっては、それだけでも勇猛の、大事業のつもりでいたのだ。私は、いまこの二少年の憫笑に遭い、自分の無力弱小を、いやになるほど知らされた。私が、ふっと口を噤 んで片手にビイルのコップを持ったまま思いに沈んでいるのを、見兼ねたか、少年佐伯は、低い声で、
「何も、そんなに卑下して見せなくたって、いいじゃないか。」と私を慰め諭 すように言って、私の顔を覗 き込み、「ごめんよ。君は知っているね。僕は、恥ずかしかったんだ。本当の事を、どうしても言えなかったんだ。でも、僕は嘘つきじゃない。たった一つだけ嘘を言ったんだ。映画の会は、おととい、やっちゃったんだ。僕は、説明しちゃったんだ。だから、僕は、おとといの夜、会が済んでから制服も靴も売り払って、街でビイルを飲んで、お巡りさんに見つかって、それから、――」
「わかってる。」私は顔を揚 げて、佐伯の告白を払いのけるように片手を振った。「君に罪は無いんだ。みんな話の行きがかりだ。僕が、そそっかしいんだよ。君は、はじめから僕が渋谷へなど来るのをいやがっていたんだものね。」大きい溜息が出て、胸の中が、すっとした。
「うん、」佐伯は、恥ずかしそうに小さく首肯 き、「言い直すひまが無かったんだよ。僕は、なんぼ何でも、映画の説明なんて、そんなだらし無い事を、やっちゃったとは、言えなかったんだよ。だから、ね、」と又もや、両手でテエブルの上を矢鱈 に撫で廻しながら、「そこんところを、嘘ついちゃったんだよ。ごめんね。留置場へ入れられた事なんかを君に言うと、君に嫌われると思ったんだ。僕は、だめなんだよ。葉山にも、いままでお世話になっているんだし、映画説明なんてばからしいとは思ったけれど、最後のお礼のつもりで、おとといの晩、大勢の女の子の前でやっちゃったんだよ。やっちゃってから、いけないと思った。もう僕は、だめになったと思った。見込みの無い男だと思った。僕にもビイルを一ぱい下さい。僕は、いまは嬉しいのだ。何だか、ぞくぞく嬉しいのだ。木村君、君は、偉い人だね。君みたいに、何も気取らないで、僕たちと一緒に、心配したり、しょげたりしてくれると、僕たちには、何だか勇気が出て来るのだ。こうしては居られないと思うんだ。勉強しようと、しんから思うようになるんだ。僕は、心の弱さを隠さない人を信頼する。」立ち上って、三つのコップになみなみとビイルを注いだ。決然たる態度であった。「乾杯だ! 熊本も立て。喜びのための一ぱいのビイルは罪悪で無い。悲しみ、苦悩を消すための杯は、恥じよ!」
「では、ほんの一ぱいだけ。」熊本君は、佐伯の急激に高揚した意気込みに圧倒され、しぶしぶ立って、「僕は事情をよく知らんのですからね、ほんのお附合いですよ。」
「事情なんか、どうだっていいじゃないか。僕の出発を、君は喜んでくれないのか? 君は、エゴイストだ。」
「いや、ちがいます。」熊本君も、こんどは敢然と報いた。「僕は、物事を綿密に考えてみたいんだ。納得出来ない祝宴には附和雷同 しません。僕は、科学的なんです。」
「ちえっ!」佐伯は、たちまち嘲笑した。「自分を科学的という奴は、きまって科学を知らないんだ。科学への、迷信的なあこがれだ。無学者の証拠さ。」
「よせ、よせ。」私も立上り、「熊本君は、てれているんだ。君の、おくめんも無い感激振りに辟易 したんだ。知識人のデリカシイなんだよ。」
「古い型のね。」佐伯は低く附け加えた。
「乾杯します。」と熊本君は、思いつめた果のような口調で言った。「僕は、ビイルを飲むと、くしゃみするんです。僕は、その事を科学的と言ったんです。」
「正確だ。」佐伯は、噴き出した。私も笑った。
熊本君は笑わず、ビイルのコップを手にとって目の高さまで捧げ、それから片手で着物の襟 をきちんと掻 き合わせて、
「佐伯君の出発を、お祝いいたします。あしたから、また学校へ出て来て下さい。」真剣な、ほろりとするような声であった。
「ありがとう。」佐伯も上品に軽くお辞儀をして、「熊本が、いつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。」
「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います。」私は、たいへん素直な気持で、そう言って泡立つビイルのコップを前方に差し出した。
カチリと三つのコップが逢って、それから三人ぐっと一息に飲みほした。途端に、熊本君は、くしゃんと大きいくしゃみを発した。
「よし。よろこびのための酒は一杯だけにして止めよう。よろこびを、アルコオルの口実にしてはならぬ。」私は、もっとビイルを飲みたかったのだが、いまこの場の空気を何故だか、ひどく大事にして置きたくて、飲酒の欲望を辛 く怺 えた。「君たちも、これから、なるべくならビイルを飲むな! カール・ヒルティ先生の曰 く、諸君は教養ある学生であるから、酒を飲んでも乱に陥らない。故に無害である。否、時には健康上有益である。しかし、諸君を真似て飲む中学生、又は労働者たちは自らを制することが出来ぬため、酒に溺れ、その為に身を亡す危険が多い。だから諸君は、彼等のために! 彼等のために酒を飲むな、と。彼等のため、ばかりではない。僕たちの為にも、酒を飲むな。僕たちは、悪い時代に育ち、悪い教育を受け、暗い学問をした。飲酒は、誇りであり、正義感の表現でさえあったのだ。僕たちの、この悪癖を綺麗 に抜くのは至難である。君たちに頼む。君たちさえ、清潔な明るい習慣を作ってくれたら、僕たちの暗黒の虫も、遠からずそれに従うだろう。僕たちに負けてはならぬ。打ち勝て。以上、一般論は終りだ。どうも僕は、こんなわかり切ったような概念論は、不得手 なのだ。どんな、つまらない本にだって、そんな事は、ちゃんと書かれてあるんだからね。なるべくなら僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手 くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい。どうも、一般論は、てれくさい。演説は、これでやめる。」
熊本君は、さかんに拍手した。佐伯は、立ったまま、にやにや笑っている。私は普通の語調にかえって、
「佐伯君、僕に二十円くらいあるんだがね、これで制服と靴とを買い戻し給え。また、外形は、もとの生活に帰るのだ。葉山氏の家にも、辛抱して行き給え。わびしい時には、下宿で毛布をかぶって勉強するのだ。それが一ばん華やかな青春だ。何くそと固パンかじって勉強し給え。約束するね?」
「わかってるよ。」佐伯は、ひどく赤面しながらも、口だけは達者である。「そんな事を言ってると、君の顔は、まるで、昔のさむらいみたいに見えるね。明治時代だ。古くさいな。」
「士族のお生まれではないでしょうか。」熊本君は、また変な意見を、おずおず言い出した。
私は噴き出したいのを怺えて、
「熊本君、ここに二十円あります。これで、佐伯の制服と制帽と靴を買い戻してやって下さい。」
「要らないよ、そんなもの。」佐伯は、いよいよ顔を真赤にして、小声で言った。
「いや、君にあげるわけじゃないんだ。熊本君の友情を見込んで、一時、おあずけするだけだ。」
「わかりました。」熊本君は、お金を受け取り、眼鏡の奥の小さい眼を精一ぱいに見開いて、直立不動の姿勢で言った。「たしかに、おあずかり致します。他日、佐伯君の学業成った暁には、――」
「いや、それには及びません。」私は、急に、てれくさくて、かなわなくなった。お金など、出さなければよかったと思った。「ここを出ましょう。街を、少し歩いて見ましょう。」
街は、もう暮れていた。
私ひとりは、やはり多少、酔っていた。自分のたいへんな、苦学生の姿も忘れて、何かと大声で、ばかな事ばかりしゃべり散らしていた。
「おい佐伯、その風呂敷包みは重くないか。僕が、かわりに持ってやろう。いいんだ、僕によこせ。よし来た。アル・テル・ナ・テ・ヴ・マン、と。知ってるかい? どっこいしょの、うんとこしょって意味なんだ。フロオベエルは、この言葉一つに、三箇月も苦心したんだぞ。」
ああ、思えば不思議な宵であった。人生に、こんな意外な経験があるとは、知らなかった。私は二人の学生と、宵の渋谷の街を酔って歩いて、失った青春を再び、現実に取り戻し得たと思った。私の高揚には、限りが無かった。
「歌を歌おう。いいかい。一緒に歌うのだよ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。アイン、ツワイ、ドライ。よし。
ああ消えはてし 青春の
愉楽の行衛 今いずこ
心のままに 興じたる
黄金 の時よ 玉の日よ
汝 帰らず その影を
求めて我は 歎くのみ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて 若人の
帽子 は古び 粗衣は裂け
長剣 は錆 を こうむりて
したたる光 今いずこ
宴 の歌も 消えうせつ
刃音 拍車 の 音もなし
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
されど正しき 若人の
心は永久 に 冷 むるなし
勉 めの日にも 嬉戯 の
つどいの日にも 輝きつ
古 りたる殻は 消ゆるとも
実 こそは残れ 我が胸に
その実を犇 と護 らなん
その実を犇と護らなん」(アルト・ハイデルベルヒ)
愉楽の
心のままに 興じたる
求めて我は 歎くのみ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
塵をかぶりて 若人の
したたる光 今いずこ
ああ移り行く世の姿
ああ移り行く世の姿
されど正しき 若人の
心は
つどいの日にも 輝きつ
その実を
その実を犇と護らなん」(アルト・ハイデルベルヒ)
歌っているのは、私だけであった。調子はずれの胴間声 で、臆 することなく呶鳴 り散らしていたのだが、歌い終って、「なんだ、誰も歌ってやしないじゃないか。もう一ぺん。アイン、ツワイ、ドライ!」と叫んだ時に、
「おい、おい。」と背後から肩を叩かれた。振り向いて見ると、警官である。「宵の口から、そんなに騒いで歩いては、悪いじゃないか。君は、どこの学生だ。隠さずに言ってみ給え。」
私は自分の運命を直覚した。これは、しまった。私は学生の姿である。三十二歳の酔詩人ではなかった。ちょっとのお詫 びでは、ゆるされそうもない。絶体絶命。逃げようか。
「おい、おい。」重ねて呼ばれて、はっと我に帰った。私は、草原の中に寝ていた。陽は、まだ高い。ひばりの声が聞える。ようやく気が附いた。私は、やはり以前の、井の頭公園の玉川上水の土堤 の上に寝そべっていたのである。見ると、少年佐伯は、大学の制服、制帽で、ぴかぴか光る靴をはき、ちゃんと私の枕元に立っている。
「おい、僕は帰るぞ。」と落着いた口調で言い、「君は、眠っちゃったじゃないか。だらしないね。」
「眠った? 僕が?」
「そうさ。可哀そうなアベルの話を聞かせているうちに、君は、ぐうぐう眠っちゃったじゃないか。君は、仙人みたいだったぞ。」
「まさか。」私は淋 しく笑った。「ゆうべから、ちっとも寝ないで仕事をしていたものだから、疲れが出ちゃったんだね。永いこと眠っていたかい?」
「なに十分か十五分かな? ああ、寒くなった。僕は、もう帰るぜ。しっけい。」
「待ち給え。」私は、上半身を起して、「君は、高等学校の生徒じゃなかったかね?」
「あたり前さ。大学へはいる迄は、高等学校さ。君は、ほんとうに頭が悪いね。」
「いつから大学生になったんだい?」
「ことしの三月さ。」
「そうかね。君は、佐伯五一郎というんだろう?」
「寝呆 けていやがる。僕は、そんな名前じゃないよ。」
「そうかね。じゃ、何だって、この川をはだかで泳いだりしたんだね?」
「この川が、気に入ったからさ。それくらいの気まぐれは、ゆるしてくれたっていいじゃないか。」
「へんな事を聞くようだが、君の友人に熊本君という人がいないかね? ちょっと、こう気取った人で。」
「熊本?――無いね。やはり、工科かね?」
「そうじゃないんだ。みんな夢かな? 僕は、その熊本君にも逢いたいんだがね。」
「何を言ってやがる。寝呆けているんだよ。しっかりし給え。僕は、帰るぜ。」
「ああ、しっけい。君、君、」と又、呼びとめて、「勉強し給えよ。」
「大きにお世話だ。」
颯爽 と立ち去った。私は独 り残され、侘 しさ堪え難い思いである。その実を犇 と護らなん、と呶鳴るようにして歌った自分の声が、まだ耳の底に残っているような気がする。白日夢。私は立上って、茶店のほうに歩いた。袂 をさぐってみると、五十銭紙幣は、やはりちゃんと残って在る。佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います、という私の祝杯の辞も思い出された。いますぐ、渋谷へ飛んで行って、確めてみたいとさえ思ったが、やはり熊本君の下宿の道順など、朦朧 としている。夢だったのに違いない。公園の森を通り抜け、動物園の前を過ぎ、池をめぐって馴染 の茶店にはいった。老婆が出て来て、
「おや、きょうは、お一人? おめずらしい。」
「カルピスを、おくれ。」おおいに若々しいものを飲んでみたかった。
茶店の床几 にあぐらをかいて、ゆっくりカルピスを啜 ってみても、私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実 を犇 と護 らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度 、反芻 しているばかりであった。
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