記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#79「女の決闘」第二

f:id:shige97:20181210205824j:plain

【冒頭】
前回は、「その下に書いた苗字を読める位に消してある。」というところ迄でした。その一句に、匂わせて在る心理の微妙を、私は、くどくどと説明したくないのですが、読者は各々勝手に味わい楽しむがよかろう。なかなか、ここは、いいところなのであります。

【結句】
遠くに見えている白樺の白けた森が、次第にゆるゆると近づいて来る。手入をせられた事の無い、銀鼠色(ぎんねずいろ)の小さい木の幹が、勝手に曲りくねって、髪の乱れた頭のような枝葉を(いただ)いて、一塊(ひとかたまり)になっている。そして小さい葉に風を受けて、互に囁き合っている。』

 

(おんな)決闘(けっとう) 第二」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。
・昭和14年12月5日頃に脱稿。
・昭和15年2月1日、『月刊文章』二月号に発表。


新ハムレット (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」より)

    第二

 前回は、「その下に書いた苗字を読める位に消してある。」というところ迄でした。その一句に、におわせて在る心理の微妙を、私は、くどくどと説明したくないのですが、読者は各々勝手に味わい楽しむがよかろう。なかなか、ここは、いいところなのであります。また、劈頭へきとうの手紙の全文から立ちのぼる女の「なま」な憎悪感に就いては、原作者の芸術的手腕に感服させるよりは、直接に現実のなまぐさい迫力を感じさせるように出来ています。このような趣向が、果して芸術の正道であるか邪道であるか、それについてはおのずから種々の論議の発生すべきところでありますが、いまはそれに触れず、この不思議な作品の、もう少しさきまで読んでみることに致しましょう。どうしても、この原作者が、目前に遂行されつつある怪事実を、新聞記者みたいな冷い心でそのまま書き写しているとしか思われなくなって来るのであります。すぐつづけて、
『この手紙を書いた女は、手紙を出してしまうと、直ぐに町へ行って、銃を売る店を尋ねた。そして笑談じょうだんのように、軽い、好い拳銃を買いたいと云った。それから段々話し込んで、うそ尾鰭おひれを付けて、かけをしているのだから、拳銃の打方を教えてくれと頼んだ。そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。そのとき女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。
 中庭の側には活版所がある。それで中庭にこもっている空気は鉛の匂いがする。この辺の家の窓は、ごみで茶色に染まっていて、その奥には人影が見えぬのに、女の心では、どこの硝子ガラスの背後にも、物珍らしげに、好い気味だと云うような顔をして、のぞいている人があるように感ぜられた。ふと気が付いて見れば、中庭の奥が、古木の立っている園に続いていて、そこに大きく開いた黒目のような、まとが立ててある。それを見たとき女の顔は火のように赤くなったり、灰のように白くなったりした。店の主人は子供に物を言って聞かせるように、引金や、弾丸を込める所や、筒や、照尺をいちいち見せて、射撃の為方しかたを教えた。弾丸を込める所は、一度射撃するたびに、おもちゃのように、くるりと廻るのである。それから女に拳銃を渡して、始めての射撃をさせた。
 女は主人に教えられた通りに、引金を引こうとしたが、動かない。一本の指で引けと教えられたのに、内内二本の指を掛けて、力一ぱいに引いて見た。そのとき耳が、がんと云った。弾丸は三歩ほど前の地面にあたって、はじかれて、今度は一つの窓に中った。窓が、がらがらと鳴って壊れたが、その音は女の耳には聞えなかった。どこか屋根の上に隠れて止まっていた一群の鳩が、驚いて飛び立って、唯さえ暗い中庭を、一刹那せつなの間、一層暗くした。
 つんぼになったように平気で、女はそれから一時間程の間、矢張り二本の指を引金に掛けて引きながら射撃の稽古けいこをした。一度打つたびに臭い煙が出て、胸が悪くなりそうなのを堪えて、その癖その匂いを好きな匂いででもあるように吸い込んだ。余り女が熱心なので、主人も吊り込まれて熱心になって、女が六発打ってしまうと、直ぐ跡の六発の弾丸を込めて渡した。
 夕方であったが、夜になって、的の黒白の輪が一つの灰色に見えるようになった時、女はようよう稽古をめた。今まで逢った事も無いこの男が、女のためには古い親友のように思われた。
「この位稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出掛けられますでしょうね。」と笑談のようにこの男に言ったらこの場合に適当ではないかしら、と女は考えたが、手よりは声の方が余計にふるえそうなのでそんな事を言うのは止しにした。そこで金を払って、礼を云って店を出た。
 例の出来事を発明してからは、まだ少しも眠らなかったので、女はこれで安心して寝ようと思って、六連発の拳銃を抱いて、床の中へ這入はいった。』
 ここらで私たちも一休みしましょう。どうです。少しでも小説を読み馴れている人ならば、すでに、ここまで読んだだけでこの小説の描写の、どこかしら異様なものに、気づいたことと思います。一口で言えば、「冷淡さ」であります。失敬なくらいの、「そっけなさ」であります。何に対して失敬なのであるか、と言えば、それは、「目前の事実」に対してであります。目前の事実に対して、あまりにも的確の描写は、読むものにとっては、かえって、いやなものであります。殺人、あるいはもっとけがらわしい犯罪が起り、其の現場の見取図が新聞に出ることがありますけれど、奥の六畳間のまんなかに、その殺された婦人の形が、てるてる坊主の姿で小さく描かれて在ることがあります。ご存じでしょう? あれは、実にいやなものであります。やめてもらいたい、と言いたくなるほどであります。あのような赤裸々が、この小説の描写の、どこかに感じられませんか。この小説の描写は、はッと思うくらいに的確であります。もう、いちど読みかえして下さい。中庭の側には活版所があるのです。私の貧しい作家の勘で以てすれば、この活版所は、たしかに、そこに在ったのです。この原作者の空想でもなんでもないのです。そうして、たしかに、その辺の家の窓は、ごみで茶色に染まっているのであります。抜きさしならぬ現実であります。そうして一群の鳩が、驚いて飛び立って、唯さえ暗い中庭を、一刹那の間、一層暗くしたというのも、まさに、そのとおりで、原作者は、女のうしろに立ってちゃんと見ていたのであります。なんだか、薄気味悪いことになりました。その小説の描写が、しからぬくらいに直截ちょくせつである場合、人は感服かんぷくと共に、一種不快な疑惑を抱くものであります。うま過ぎる。淫する。神を冒す。いろいろの言葉があります。描写に対する疑惑は、やがて、その的確すぎる描写を為した作者の人柄ひとがらに対する疑惑に移行いたします。そろそろ、この辺から私(DAZAI)の小説になりかけて居りますから、読者も用心していて下さい。
 私は、この「女の決闘」という、ほんの十頁ばかりの小品をここまで読み、その、生きてびくびく動いているほどの生臭い、抜きさしならぬ描写に接し、大いに驚くと共に、なんだか我慢できぬ不愉快さを覚えた。描写に対する不愉快さは、やがて、直接に、その原作者に対する不愉快となった。この小品の原作者は、この作品を書く時、特別に悪い心境に在ったのでは無いかと、すこぶる失礼な疑惑をさえ感じたのであります。悪い心境ということについては二つの仮説を設けることが出来ます。一つは原作者がこの小説を書くとき、たいへん疲れて居られたのではないかという臆測おくそくであります。人間は肉体の疲れたときには、人生に対して、また現実生活に対して、非常に不機嫌に、ぶあいそになるものであります。この「女の決闘」という小説の書き出しはどんなであったでしょうか。私はここでそれを繰返すことは致しませんが、前回の分をお読みになった読者はすぐに思い出すことが出来るだろうと思います。いわば、ぶんなぐる口調で書いてあります。ふところ手をして、おめえに知らせてあげようか、とでもいうようなたいへん思いあがった書き出しでありました。だいいち、この事件の起ったとき、すなわち年号、(外国の作家はどんなささやかな事件を叙述するにあたっても必ず年号をいれる傾向があるように思われます。)それから、場所、それについても何も語っていなかったではありませんか。「ロシヤの医科大学の女学生が、或晩の事、何の学科やらの、」というような頗る不親切な記述があったばかりで、他はどの頁をひっくり返してみても、地理的なことはなんにも書かれてありません。実にぶっきらぼうな態度であります。作者が肉体的に疲労しているときの描写は必ず人を叱りつけるような、場合によっては、怒鳴りつけるような趣きを呈するものでありますが、それと同時に実に辛辣しんらつ無残の形相をも、ふいと表白してしまうものであります。人間の本性というものは或いはもともと冷酷無残のものなのかも知れません。肉体が疲れて意志を失ってしまったときには、鎧袖一触がいしゅういっしょく、修辞も何もぬきにして、袈裟けさがけに人を抜打ちにしてしまう場合が多いように思われます。悲しいことですね。この「女の決闘」という小品の描写に、時々はッと思うほどの、憎々しいくらいの容赦なき箇所の在ることは、慧眼けいがんの読者は、既にお気づきのことと思います。作者は疲れて、人生に対して、また現実のつつましい営みに対して、たしかに乱暴の感情表示をなして居るという事は、あながち私の過言でもないと思います。
 もう一つ、これは甚だロマンチックの仮説でありますけれども、この小説の描写に於いて見受けられる作者の異常な憎悪感は、(的確とは、憎悪の一変形でありますから、)直接に、この作中の女主人公に対する抜きさしならぬ感情から出発しているのではないか。すなわち、この小説は、徹底的に事実そのままの資料にったもので、しかも原作者はその事実発生したスキャンダルに決して他人ではなかった、という興味ある仮説を引き出すことが出来るのであります。更に明確にぶちまけるならば、この小品の原作者 HERBERT EULENBERG さん御自身こそ、作中の女房コンスタンチェさんの御亭主であったという恐るべき秘密の匂いをぎ出すことが出来るのであります。すれば、この作品の描写に於ける、(ことにもその女主人公のわななきの有様を描写するに当っての、)冷酷きわまる、それゆえにまざまざ的確の、作者の厭な眼の説明が残りなく出来ると私は思います。
 もとよりこれは嘘であります。ヘルベルト・オイレンベルグさんは、そんな愚かしい家庭のトラブルなど惹き起したお方では無いのであります。この小品の不思議なほどに的確な描写の拠って来るところは、恐らくは第一の仮説に尽くされてあるのではないかと思います。それは間違いないのでありますが、けれども、ことさらに第二の嘘の仮説を設けたわけは、私は今のこの場合、しかつめらしい名作鑑賞を行おうとしているのではなく、ヘルベルトさんには失礼ながら眼をつぶって貰って、この「女の決闘」という小品を土台にして私が、全く別な物語を試みようとしているからであります。ヘルベルトさんには全く失礼な態度であるということは判っていながら、つまり「尊敬しているからこそ甘えて失礼もするのだ。」という昔から世に行われているあのくすぐったい作法のゆえに、許していただきたいと思うのであります。
 さて、それでは今回は原作をもう少し先まで読んでみて、それから原作に足りないところを私が、傲慢ごうまんのようでありますが、たしかに傲慢のわざなのでありますが、少し補筆してゆき、いささか興味あるロマンスに組立ててみたいと思っています。この原作においてはこれからさき少しお読みになれば判ることでありますが、女房コンスタンチェひとり、その人についての描写に終始して居り、その亭主ならびに、その亭主の浮気の相手のロシヤ医科大学の女学生については、殆んど言及して在りません。私は、その亭主を、(乱暴な企てでありますが、)仮にこの小品の作者御自身と無理矢理きめてしまって、いわば女房コンスタンチェの私は唯一の味方になり、原作者が女房コンスタンチェを、このように無残に冷たく描写している、その復讐として、若輩ちから及ばぬながら、次回よりあたう限り意地わるい描写を、やってみるつもりなのであります。それでは今回は次に一頁ほど原作者の記述をコピイして、それからまた私の、亭主と女学生についての描写をもせいぜい細かくお目に懸けることに致しましょう。女房コンスタンチェが決闘の前夜、冷たいピストルを抱いて寝て、さてその翌朝、いよいよ前代未聞の女の決闘が開始されるのでありますが、それについて原作者 EULENBERG が、れいの心憎いまでの怜悧れいり無情の心で次のように述べてあります。これを少し読者に読んでいただき、次回から私(DAZAI)のばかな空想も聞いていただきたく思います。女房は、六連発の拳銃を抱いて、床の中へ這入はいりました。さて、その翌朝、原作は次のようになって居ります。
『翌朝約束の停車場で、汽車から出て来たのは、二人の女の外には、百姓二人だけであった。停車場は寂しく、平地に立てられている。定木で引いた線のような軌道がずっと遠くまで光って走っていて、その先の地平線のあたりで、一つになって見える。左の方の、黄いろみ掛かった畑を隔てて村が見える。停車場には、その村の名が付いているのである。右の方には沙地に草の生えた原が、眠そうに広がっている。
 二人の百姓は、町へ出て物を売った帰りと見えて、停車場に附属している料理店に坐り込んで祝杯を挙げている。
 そこで女二人だけ黙って並んで歩き出した。女房の方が道案内をする。その道筋は軌道を越して野原の方へ這入り込む。この道は暗緑色の草が殆ど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った輪の跡が二本走っている。
 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な平地にそびえている。丁度森が歩哨ほしょうを出して、それを引っ込めるのを忘れたように見える。そこここに、低い、片羽のような、病気らしい灌木かんぼくが、伸びようとして伸びずにいる。
 二人の女は黙って並んで歩いている。まるきり言語の通ぜぬ外国人同士のようである。いつも女房の方が一足先に立って行く。多分そのせいで、女学生の方が、何か言ったり、問うて見たりしたいのをこらえているかと思われる。
 遠くに見えている白樺しらかばの白けた森が、次第にゆるゆると近づいて来る。手入をせられた事の無い、銀鼠色ぎんねずいろの小さい木の幹が、勝手に曲りくねって、髪の乱れた頭のような枝葉を戴いて、一塊になっている。そして小さい葉に風を受けて、互にささやき合っている。』 

 

【ほかにも太宰関連記事を書いてます!】