記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#187「惜別」四

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【冒頭】
あの松島の旅館で、当時二十四歳の留学生、周さんは、だいたい以上のような事情を私に打ち明けて聞かせてくれたのであるが、もちろんその夜、周さんがひとりでこんなに長々と清国の現状やら自身の生立ちやらを順序を追って講演したというわけではなく、お酒を少し飲んだりして私と夜明け近くまで語り合ったさまざまの事柄を綴り合せ、それにまた私が後に得た知識をも多少補足して、以上の如くまとめ上げてみたのである。

【結句】
言いかけて、立ったまま泣いてしまった。

 

惜別せきべつ」について

新潮文庫『惜別』所収。
・昭和20年2月20日頃に脱稿。
・昭和20年9月5日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。


惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 

 あの松島の旅館で、当時二十四歳の留学生、周さんは、だいたい以上のような事情を私に打明けて聞かせてくれたのであるが、もちろんその夜、周さんがひとりでこんなに長々と清国の現状やら自身の生立おいたちやらを順序を追って講演したというわけではなく、お酒を少し飲んだりして私と夜明け近くまで語り合ったさまざまの事柄をつづり合せ、それにまた私が後に得た知識をも多少補足して、以上の如くまとめ上げてみたのである。とにかく、私はあの夜、周さんの打明け話を聞いて、かなり感動した。私みたいに、ただ、親が医者だから、その総領息子そうりょうむすこの自分もまた医者、というようないい加減な気持で医専に入学したのではなく、さすがに、はるばる海を越えてやって来た人には、やっぱりそれだけの、深い事情と、すぐれた決意とが秘められているものだとうなるほど感心し、この異国の秀才に対して大いに尊敬をあらたにし、何とかしてこの人の高邁こうまいの目的を完遂させてやりたいと、そのくせ何の助力も出来ないくせに、義気さかんに起るを覚えたものである。周さんは、私を、周さんの弟さんに似ていると言っていたし、また、私のほうでは、周さんと逢って話をしている時だけは、自分のれいの言葉のなまりにいての苦慮から解放されるという秘密のよろこびがあって、そんな事が二人の親しい友交を成立させたとも考えられるが、しかし、そんなにいちいち理由らしいものを取上げて言うまでも無く、ただ、俗に呼称する「ウマが合った」とかいう小さい奇蹟きせきは、国籍を異にしている人の間にもたまたま起り得る現象なのかも知れない。けれども、この日本三景の一の松島海岸で不思議に結ばれた孤独者同士の何の駈引かけひきも打算も無いわばすこぶ鷹揚おうような交友にも、時々へんな邪魔がはいった。純粋に二人きりの、のんきな交友など、この世に存在をゆるされないものかも知れない。必ず第三者牽制けんせいやら猜疑さいぎやら嘲笑ちょうしょうやらが介入するもののようである。その松島の宿で互いに遠慮を忘れ、思う事を語って笑い、あくる日、一緒に汽車で仙台に帰り、ではまたあした学校で、どうも、いろいろ有難う、いや僕こそ、と意外に楽しかった小旅行を共に感謝し合って別れ、その次の朝は、新しい友人にまた逢えるという張合いがあって、下宿のひとたちも驚いていたくらいに早く起きて学校に出たのだが、周さんの姿は校庭にも、教室にも見受けられなかった。私はその日一日はなはだ索莫さくばくたる気持で、いろんな先生の講義を聞いた。私は周さんほど痛切な目的を以て、この医学に志したわけでも無かったから、そのさまざまな講義も別段ありがたく思えなかったし、また、たいして新鮮にも感ぜられなかった。藤野先生の講義にも、その日はじめて出席してみたが、周さんがあんなに情熱をこめてめていたほど、それほど、たのしい授業ではなかった。ちょうどそのころ、藤野先生の講義は、骨学総論を終り、骨学各論にはいったばかりのところであったが、等身大の躯幹骨くかんこつの標本を傍に置いて、まるでそれがご自分の肉親のお骨でもあるかのように実になつかしげにでまわしながら、聴講生ひとり残らず全部の者に深くあやまたず納得させずんばやまじというような、懇切丁寧を極めた講義であって、良心的というのか、くそまじめというのか、私のように気の短いものには、どうにもややこしくて、やり切れない感じがした。解剖学というものが、もともとそんな、ややこしい学問であるという事は後で知ったが、それにしても、藤野先生の繰り返し繰り返しの熱心な説明には、まいらざるを得なかった。風貌ふうぼうも、その時はちゃんとネクタイをしておられたし、飄々ひょうひょうなどという仙人じみた印象は微塵みじんも無く、お顔は黒く骨張って謹直な感じで、鉄縁の眼鏡の奥のお眼は油断なく四方を睥睨へいげいし、なつかしいどころか、私にはどの先生よりも手剛てごわいお方のように見受けられた。それでも、やはり周さんが話したように、教室のうしろの方の古狸連中は、何でも無い事にどっと笑い崩れたりして騒いでいたが、それは私の観察したところでは、かの落第生たちは、藤野先生のこんな几帳面きちょうめんすぎると言っていいくらいの真剣な講義に圧迫を感じ、かえって虚勢を示し、われら古参の兵には、こんな講義など可笑おかしくてかなわぬ、新入生たちよ、そんなに緊張しなさんな、という示威運動を試みているだけのものの如く思われ、ひょっとしたら、あの連中は全部、藤野先生の解剖学で落第点をもらって、その腹いせに、あんな無意味な騒ぎ方をしているのではないかしらと疑いたくさえなった程で、とにかく、藤野先生の講義そのものは、決して私の予期していたような春風駘蕩たいとうたるものではなく、痛々しいくらいに、まじめで、むきなものであった。もっとも、痛々しいという感じは、特に私ひとりだけに強く響いたものかも知れない。というわけは、この先生は、その講義に於いてずいぶんご自分の言葉使いに気をくばっておいでの様子で、私もまた自分の言葉の田舎訛いなかなまりにはかねがね苦労させられているので、他人のそんな気持には敏感に同情できて、そのせいもあって、特に痛々しいなどと感じたのかも知れなかった。先生は、ひどい関西訛りであった。それを隠そうと、なみなみならぬ努力をしておられるようであったが、異国人の周さんにさえ、特徴のある語調だと看破されているくらい、やっぱりその講義には、かなりの関西訛りがまじっていた。かくの如く観じ来れば、後にいたって、この藤野先生と周さんと私と三人が結んだあの親密な同盟も、何の事は無い、日本語不自由組の同気相求めた結果のものに過ぎなかったのではないか、と情け無い気持にもなるが、しかし、それは、あまりにもふざけた冗談の推論かも知れない。当時、私は自分の田舎訛りを非常に気にしていたのは事実であるから、それは、たしかに周さんとの出会であいの当初に於いても、共感を生ぜしめた卑近なきっかけの一つになったのは前にも幾度となく、くどいくらいに念を押して説明して来たとおりで、そのことに就いてはいまも決して否定しようとは思わぬが、しかし、それから後に到っても、私たちは、ただそんな卑俗の理由ひとつだけで結ばれていたわけでは断じて無いのだ、とすこし大きく出たい気持も現在の私には有るのである。しからば、その他の高遠な理由というのは、何であるか。それは実のところ、私にもはっきりわかっていないのである。何であるか、一口には言えないのであるが、とにかく、「ウマが合った」という説明も、周さんと私と若い者同士が、ふっと互いに打ち解け合う事に使用されてこそ自然な感じがするものの、この二人の交友に、さらに藤野先生が加った時、「ウマが合った」など失礼な俗語で説明しようとしても、それだけでは追いつかぬように思われる。事実、それから後に於ける私たち三人の同盟には、そんな、日本語不自由組だの「ウマが合った」だのの観念を超越した何か大きいものに向っての信憑しんぴょうと努力とがあったのだが、それが何であったか、私にはどうも、よくわからない。相互の尊敬というものであろうか、隣人愛とでもいうものであろうか、あるいは、正義とでもいうべきものであろうか、いやいや、そんな気持をみんなひっくるめた何かぼんやりして、もっと大きいもののような気がする。或いは、藤野先生がよくおっしゃっていた「東洋本来の道」とかいうものが、それに当っているのかも知れないが、どうもよくわからない。藤野先生の関西訛りから、妙な議論に発展してしまったが、要するに、私たちの後に到って結んだ同盟は、日本語不自由組の団結なんかではなかったのだ、それだけのものと見られるのは、いかにも残念、という気持を述べたいばかりの事であったのである。私たちの同盟の本質は何であったか、その判定は、私の力には余ることで、いずれ思想家どもの御意見にたよるより他は無かろうが、まあ、私はいまは恩師と旧友の面影をただていねいに書きとめて置けたら満足、それ以上の望蜀ぼうしょくの希求はあきらめて、この貧しい手記を書き続けて行くという事にしよう。さて、松島の奇遇に依って、のんきに結ばれた周さんと私の交友にも、時々へんな邪魔がはいったと前に書いたが、その不愉快な介入者が、まことに早く思いがけない方面からあらわれたのである。私は、その日、周さんに逢うのを楽しみにして、いつになく早く起きて登校したのだが、周さんの姿はどこにも見えず、また期待していた藤野先生の講義も、固苦しいと言っていいほどまじめなものだったので、少し閉口の気味で、結局その日は何の面白い事もなく、夕方、授業を終えてぼんやり校門を出た時、
「おい、ちょっと、君。」と呼びとめられ、ふりむくと、背の高い、鼻の大きな脂顔のキザったらしい生徒が、にやにや笑って立っていた。周さんと私との交友の、最初の邪魔者は、この男であった。その名は、津田憲治。
「ちょっと君に話したいことがあるんだがね。」横柄な口のきき方である。しかし、訛りは無かった。東京者かも知れぬ、と私はひそかに緊張した。「一番丁あたりで、晩めしをつき合ってくれないかね。」
「はあ。」東京者に対しては、私は極度に無口である。
「承知してくれるね。」先に立ってどんどん歩いて、「さあ、どこがいいかな。東京庵の天ぷら蕎麦そばも油くさくて食えないし、ブラザー軒のカツレツは固くて靴の裏と来ているし、どうも仙台には、うまいものがなくて困るね。まあ、行きあたりばったりの小料理屋で鳥鍋とりなべでもつついていたほうが無難かも知れない。それとも、どこか他にいいところを知っているかね。」
「いや、はあ、べつに。」私は相手の威勢に圧倒されて、しどろもどろであった。この江戸っ子みたいな妙な学生は、いったい私にどんな話があるのだろうとすこぶる不安ではあったが、相手は私の気持などにはてんで無関心の様子で、勝手な事をおしゃべりしながら、まるで私の上官の如く颯爽さっそうと先に立って歩くので田舎者の私には、何とも挨拶の仕様がなく、ただかすかに苦笑しながら、その後について行くより他に仕方が無かったのである。
「それじゃ、まあ、とにかく一番丁へ行ってみて、どこかあらたに開拓するとしよう。おいしい蒲焼かばやきでもたべさせる家があるといいんだが、どうも、仙台のうなぎにはすじがある。」さかんに、へんな食通振りを発揮する。鰻の筋とはどんなものだか、それから四十年を経過した今日に到ってもいまだに解し得ない深い謎として私の胸中に滓沈しちんされている。それから私たちは、仙台の浅草とも称すべき東一番丁に行って、彼の所謂「行きあたりばったり」の小料理屋にはいり、これまた彼の言葉にしたがえば「無難」の鳥鍋をつつく事になったのであるが、彼は私と卓をはさんで坐り込むと、まず一葉の名刺を差し出した。仙台医学専門学校、クラス会幹事、津田憲治とある。この肩書では、彼は医専の先生にしてクラス会の幹事を兼ねているのか、それとも生徒なのか、或いはまた何年生のクラス会の幹事なのか、いっさいがあいまいである。そこがまた、彼のねらいなのかも知れない。当時の専門学校級の生徒は、いまと違って、社会から一個の紳士としての待遇を受けていたので、その所属の学校の名刺を所持している学生も多かったが、しかし、こんな出鱈目でたらめな肩書の印刷されてある名刺は、実にめずらしいものであった。
「はあ、そうですか。」私はき出したいのをこらえて、「僕は名刺を持っていませんけど、田中、――」と名乗りかけると、
「いや知っている。田中卓。H中学出身。君はクラスの注意人物なんだ。学校にさっぱり出て来ないじゃないか。」
 私は、むっとした。学校に出ないからとて、「注意人物」とは大袈裟おおげさすぎる。失敬である。私は黙っていた。
「それは冗談だが、」と相手は笑って、「君の事は、きのう、周さんからくわしく聞いた。君たちは、松島の旅館で一晩、何だか眠らずに論じ合ったそうじゃないか。周さんは、おかげで風邪かぜをひいて寝込んでしまった。あのひとには、ちょっと Lunge の傾向があるんだから、そんな徹夜なんて乱暴な事をさせちゃいけない。」
 その時、私はふいと思い出した。あの夜、周さんが、或る物好きな学生の過度の親切には閉口している、と言っていたが、その学生の名は、たしか津田といったような気がする。なあんだ、それではあの、とろろ汁の指導者が、この目前の食通氏であったのか。
「熱があるのですか。」
「うん。たいした事もないらしいが、あまり丈夫な体質でもないようだからね。まあ、二、三日は学校を休ませるつもりだ。どうも、外国人は、世話が焼けるよ。ところで、鳥は、水たきがいいかね。酒も飲むだろう。」
「はあ、どうでも。」
「肉がかたいと困るな。いっそ、たたきにしてもらおうか。あれなら、無難だ。」
 私は思わず、くすと笑ってしまった。津田氏の上顎うわあごが全部ぶさいくな義歯なのを看破したからである。ブラザー軒のカツレツを靴の裏と断じ、また鰻の筋の珍説も、鳥のたたきの所望も、すべてこの義歯となんらかの聯関れんかんがあるのではなかろうかと思った。
「まったくね。」と津田氏は私の笑いを他の事と勘違いしたらしく、「水っぱなみたいな薄いソップの水たきなんざ、恐れ入るからね。田舎料理は、たたきに限るよ。」
 そうして、たたきとお酒が注文され、津田氏みずからしさいらしく鍋の調理をして、さて、お酒をくみかわしながら、
「君、外国人とつき合うには、よっぽど気をつけてもらわないと困るよ。いまは日本は戦争中なんだからね、それを忘れていてはいけないよ。」と妙な事を言いはじめた。
 私はきょとんとして、
「はあ?」と言った。
「はあではない。僕は東京の府立一中の出身だがね、この戦争がはじまってからの東京の緊張と来たら、それはとても、こんな田舎で想像してみたって及ぶものではない。」まことに変な威張り方である。「清国留学生なんてのも、東京には何千人といるんだ。ちっとも珍しい事なんかありゃしない。」いよいよ出ていよいよ奇である。「しかし、だね、この留学生問題なんかも、よっぽど慎重に考えてみなければいかんのじゃないかね。何せ、日本はいま、北方の大強国と戦争中なんだからね。旅順りょじゅんもなかなか陥落しそうでないし、バルチック艦隊もいよいよ東洋に向って出発するそうだし、こりゃもう、大変な事になるかも知れない。この時に当って、清国政府は、日本に対して、まあ、好意的な中立の態度をとってくれているが、しかし、これがまた今後、どのように変化するかわかったものでない。清国政府自体がいま、ぐらつきはじめているのだからね。君たちには、わかるまいが、革命思想がいま支那の国内に非常な勢いで蔓延まんえんしているらしいからね。たたきが煮えたよ、たべないか。煮えすぎると固くなっていけない。それで、その、革命思想だがね、そいつの急先鋒きゅうせんぽうが、この留日学生だと来ているんで、問題がややこしくなる。君、こんな事はあまり人にしゃべってもらっては困るよ。これは、ここだけの話なんだからね。僕がなぜこんなに支那の内情に通じているかと言えば、だね、津田清蔵、知らないかね、僕の叔父貴おじきなんだが、津田、それから清いくらと書いて清蔵せいぞう、知らない筈はないんだがね、やっぱりこのへんは田舎だな、身内の僕の口から言うのもへんだが、いまの日本の外交界では、まあ、若手の一流の働き手、というようなところだろうな。知らなけれあ仕様が無い。とにかく、そんな叔父貴があるんだから、いきおい僕も外国通になるさ。やあ、このたたきは、ひどいじゃないか。たたきには、卵をどっさりいれてよくり合わせないと、うまくない。卵を節約したに違いない。へんに饂飩粉うどんこくさいじゃないか。なってないねえ。やっぱり田舎だ。まあ、仕様が無い。食おう。ところで、その革命思想だがね、これは秘密だよ、ここだけの話なんだよ、そのつもりで聞いてくれ。いまはその本部が日本にある。驚いたろう。もっとはっきり教えてやろうか。東京にいる清国留学生たちが、その中心勢力になっているんだ。どうだい、話がいよいよ面白くなって来たろう。」
 しかし、私には少しも面白くなかった。支那の革命運動に就いては、そんないい加減な「ここだけの話」よりも、その実情をもっとくわしく周さんから聞いていたので、何の驚くところも無かった。ただ、あいまいにその外国通の秘密のささやきに合槌あいづちを打ち、もっぱら鳥鍋に首を突込んでばかりいた。田舎者の私には、その不評判のたたきも、別に饂飩粉くさくも感じられず、非常においしく思われた。
「問題は、ここだ。いいかい、今夜は一つゆっくり考えてくれ。清国政府が金を出して留学生を日本に送り、その留学生たちが、清国政府打倒の気勢を挙げているのだから、妙なものさ。これでは、まるで、清国政府がみずからを崩壊させるための研究費を留学生たちに給与しているようなものだ。日本の政府は、この留学生たちの革命思想に対して、いまのところは、まあ、見て見ぬ振りというような形でいるらしいが、しかし、民間の日本の義侠ぎきょうの士は、すすんでこの運動に援助を与えている。君、おどろいてはいけない。支那の革命運動の大立者、孫文という英雄は、もう早くから日本の侠客きょうかくの宮崎なんとかいう人の家にかくまわれているのだぞ。孫文。この名を覚えて置いたほうがいい。凄いやつらしいんだ。ライオンのような風貌ふうぼうをしているそうだ。留学生たちも、この人のいう事なら何でも聴く。絶対の信頼だ。そのおそるべき英傑の顧問が、その宮崎なんとかいう人をはじめ日本の民間の義士だ。ここが間一髪のところさ。日本政府が見て見ぬ振りをしていたところで、この革命思想が日本の首都の東京において強力な打清運動を展開するようになったら、清国政府が日本に対してどのような感情を抱くか。平時だったら、かまわないさ。支那というすぐれた文明の伝統を有する大国を、列国の侵略から救うためにはどうしても革命の手段が必要だというのなら、何も清国政府に遠慮なんかしている場合じゃない。僕だって、その孫文という英雄のもとせ参じて、大いに激励してやるさ。日本人は、みんなそれくらいの義気は持っている。大和魂やまとだましいの本質は、義気だからね。しかし、君、日本はいま国運をして、北方の強大国と戦争のまっさいちゅうだ。もし、清国政府が日本政府に対して悪感情を抱き、現在の好意的な中立の態度を放擲ほうてきして逆に露西亜ロシアに傾いて行ったら、どうなるか。この戦争も、或いは日本にとって非常に困難なものになりはせぬか。ここだ。いいかい、ここが外交の妙訣みょうけつさ。一面戦争、一面外交さ。何が、おかしい。真面目に聞けよ。国家の、実に重大な問題なんだぜ。君は、さっきからばかにひとりで酒をがぶがぶ飲んでいるが、お勘定かんじょうの方は、大丈夫かね。僕にはそんなにお金は無いよ。君は、いったい、いくら持っているんだい。まず自国の財政の見とおしをつけて置かなければ、戦争は不安だ。早く調べて、報告してくれ。」
 私は自分の財布さいふを取出し、嚢中のうちゅうの金額を調べて外務大臣に報告した。
「よし、大丈夫だ。それだけあるなら大丈夫だ。僕にも、五、六十銭ある。も少し飲もう。たたきは僕はもう、ごめんだ。あっさり、湯豆腐ゆどうふといこう。田舎料理では、まあ、無難なところだろうじゃないか。」しかし、私にはそれもまた彼の義歯となんらかの関係があるのではなかろうかと思われた。
 鍋がかわって、さらにお酒が持ち運ばれた。
「よく食い、よく飲むねえ。」と彼は私が豆腐をふうふう吹いて食べながら、また片手ではしきりに独酌で飲むさまを、いまいましそうな眼つきで見て、「君たちは、松島でも、随分飲んだそうじゃないか。こまかい事を聞くようだがね、その勘定は誰が払った。だいじな事だ。」語調を改めてそう言った。私ははしを置いて答えた。
「半分ずつにしました。僕が全部払うつもりだったのですが、周さんが、どうしてもそうさせませんでした。」
「いけない。君は、それだからいけない。一事は万事だ。君は、もう周さんと附き合うのは、やめたほうがいい。国家の方針を、あやまる。周さんが何と言ったって、君が全部支払うべきところだ。外国人とつき合う時には、自分も一個の外交官になったつもりでいなければいけない。第一には、日本の人はみんな親切だという印象を彼等に与えなければいけない。僕の叔父貴など、そのへんの苦心は、たいへんなものだ。何せ、いま戦争中なのだからね。中立諸国の者たちには、実に複雑微妙な外交的術策を用いなければいけない。ことに、清国留学生は難物だ。これは清国から派遣された学生でありながら、清国政府の打倒をもくろんでいる。これをただ矢鱈やたらにあまやかしても、日本の現政府の外交方針に、もとるような結果になりはせぬか。ただの親切だけでは駄目だ。一面親切、一面指導という優先者の態度をもって臨むのが、いまの外交官として妙訣ではないかと僕はにらんでいる。ここだよ、君。相手に弱味を見せちゃいけない。一緒に遊んだ時には、必ず勘定はこちらで全部引受ける。つねに一歩先んじなければいかん。僕だって、それはずいぶん苦労しているのだぜ。こないだのクラス会の時に、君は出なかったようだが、これからは出なければいかんね、そのクラス会の時にも、藤野先生が、幹事の僕に向って、留学生との交際には気をつけるように、とおっしゃった。」
 それは私には聞き捨てならぬ事であった。何か藤野先生に裏切られたような気がした。
「まさか、藤野先生が、そんなばからしい外交的術策なんか。」
「ばからしいとは何だ。失敬な事を言ってはいけない。君は非国民だ。戦争中は、第三国人は皆、スパイになり得る可能性があるのだ。殊に清国留学生は、ひとり残らず革命派だ。革命の遂行のためには、露西亜に助力をう場合だってあり得るだろう。監視の必要があるんだ。一面親切、一面監視だ。僕はそのためにあの留学生を、僕の下宿にひっぱり込んで、何かと面倒を見てあげていると同時に、また、いろいろ日本の外交方針に添った努力もしているのだ。」
「何ですか、そのいろいろの努力というのは。けちくさいじゃないですか。」私も、かなり酔っていた。
「や、けちくさいとは、よくも言った。君は、まさしく非国民だ。不良少年だ。」顔色をかえている。「ふとい野郎だ。田舎にもこんな不良少年がいるからなあ。叔父貴の名前も知らないなんて、なってないじゃないか。も少し勉強しろ。お前はいまに落第するぞ。もう帰れ。お前の飲んだり食ったりした分を払って、早く帰れ。たたきも湯豆腐も、お前がひとりで食べたようなものだ。」
 私は財布の中の金を全部、たたみの上にぶちまけて黙って立った。
「やるか、おい。」と津田氏は大あぐらに両肘りょうひじを突張ってわめいた。
 私は苦笑した。
 さようなら、とだけ言って外に出たが、さすがに面白くなかった。よし、あした藤野先生に直接逢って事の真偽をたしかめて見ようと思った。周さんがスパイになる可能性があって、そうして私が非国民の不良少年だなどと言われては黙って居られないような気がした。私は県庁裏の下宿している家に帰って、井戸端で顔を洗い、手を洗い、足を洗った。すこしさっぱりした気持になって、その夜は、ぐっすり眠れた。翌朝、私は意気込んで登校し、授業のはじまる前に、藤野先生の研究室に行き、ドアをたたいた。おはいり、という先生の声がする。躊躇ちゅうちょせず、ドアをあけると、部屋には朝日が一ぱいに射し込んでいて、先生は、上肢骨じょうしこつやら下肢骨やら頭蓋骨ずがいこつやら、すこぶる不気味な人骨の標本どもに取巻かれ、泰然たいぜんと新聞を読んで居られた。廻転椅子を少し私のほうにねじ向け、新聞を卓上に置き、
「なんですか。」研究室に於ける先生は、教室の先生よりもずっと優しい。
「あの、第三国人と交際してはいけないのですか。」
「え、なんです?」先生は、関西なまりを丸出しにして問いかえした。
「周さんの事なんです。」私は先生の関西なまりに接して、思わず微笑した。こんどは落ちついて言うことが出来た。「周樹人君と交際してはいけないって、きのう或る人から言われたのですけど。」
「誰ですか。」
「名前は申しません。僕はその人の事を告げ口しに来たのではないんです。ただ、先生がそのようにお言いつけになったという話を聞いたものですから、本当かどうかお伺いにあがっただけなんです。」
 藤野先生に対しても私は、周さんに対した時と同じ様に、思っている事が割にすらすら言えた。その理由らしきものに就いては、前に幾度も、くどいくらいに書いたが、しかし、結局は藤野先生や周さんのお人柄のせいかも知れない。私はあの人たちに対した時には、何か安心なのである。
「変ですね。」先生は、不満そうに口髭くちひげを強くこすりながら言った。「私がそんなばかな事を言うはずが無いやないか?」
「でも、」私は口をとがらせ、「クラス会の時に先生が、」と言いかけたら、
「あ、津田君やな? あいつ、おっちょこちょいや。」と言って笑い出した。
「では、あれは、嘘なんですか。」
「いや、言った。私は、言いました。」と急に講義の時のようなまじめな口調になって、「こんど私たちの学校に、はじめて、清国留学生がひとり来た。この者と共に医学を勉強する事は、小にしては、支那に新しい医学を誕生せしむるためであり、大にしては、両者助け合って西洋医学をいち早く東洋に吸収し、もって世界全体の学術を更に進展せしむるところの好刺戟を作ってやるため、というくらいの意気込みをクラスの幹事たる者は持っていて欲しい、と私はあの時、津田君に言いました。その他の事は、何も言いません。」
「そうですか。」私は、拍子抜けしたみたいな感じで、「戦争中は、第三国人がスパイになる可能性があるとか何とか言って、――」
「何を言っているのです。これを御覧。」と先生は卓上の新聞を私の方に押してよこした。見ると、その新聞の上段に大きく、
 観菊会行幸
 赤坂離宮
 内外人四千九十二名
 などという見出しが掲げられてある。本文を読んでみるまでもなく、私にはわかった。
「国の光の、悠遠靉靆ゆうえんあいたいたる事に確信を持とうやないか。」先生は伏目になって、しんみりと言った。「国体の盛徳、とでも申したらよいか、私は戦争の時にひとしお深くそれを感じます。」ふいと語調をかえて、「君は周君の親友か?」
「いいえ、決して、そんな、親友ではないのですけれど、でも、僕はこれから周さんと仲良くしようと思っていたのです。周さんは、僕なんかより、ずっと高い理想をもって、この仙台にやって来たのです。周さんは、お父さんの病気のため、十三の時から三年間、毎日毎日、質屋と薬屋の間を走りまわって暮したのです。そうして、臨終りんじゅうのお父さんをのどが破れるほど呼びつづけて、それでも、お父さんは、死んじゃったんです。その時の、自分の叫びつづけた声が、いまでも耳について、離れないと言っているんです。だから、周さんは、支那杉田玄白になって、支那の不仕合せな病人を救ってやりたいと言っているのです。それを、それだのに、周さんたちは革命思想の急先鋒きゅうせんぽうだから、一面親切、一面監視だの、複雑微妙な外交手腕だの、そんな事、あんまりだと思うんです。あんまりです。周さんは、本当に青年らしい高い理想を持っているんです。青年は、理想を持っていなければ、いけないと思います。そうして、だから、青年は、理想を、理想というものだけを、――」言いかけて、立ったまま泣いてしまった。

 
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