記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#188「惜別」五

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【冒頭】
「革命思想。」と先生は、ひとりごとのように低く言って、しばらく黙って居られた。

【結句】
「月のいい夜には、時々それを思い出すのです。これがまあ、僕の唯一の風流な追憶でしょう。僕のような俗人でも、月光を浴びると、少しは Sentimental になるようです。」

 

惜別せきべつ」について

新潮文庫『惜別』所収。
・昭和20年2月20日頃に脱稿。
・昭和20年9月5日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。


惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

「革命思想。」と先生は、ひとりごとのように低く言って、しばらく黙って居られた。やがて窓の方を見ながら、「私の知っている家で、兄は百姓、次男は司法官、末弟は、これは変り者で、役者をしている、そんな家があるのです。はじめは、どうも、やはり兄弟喧嘩きょうだいげんかなんかしていたようですが、しかし、いまでは、お互い非常に尊敬し合っているようです。理窟りくつでないんです。何と言ったらいいのかなあ、各人各様にぱっとひらいたつもりでも、それが一つの大きい花なんですね。家、というものは不思議なものです。その家は、地方の名門、と言えば大袈裟おおげさだが、まあ、その地方で古くから続いている家です。そうして、いまでも、やっぱりその地方の人たちから、相変らず信頼されているようです。私は東洋全部が一つの家だと思っている。各人各様にひらいてよい。支那の革命思想に就いては、私も深くは知らないが、あの三民主義というのも、民族の自決、いや、民族の自発、とでもいうようなところに根柢こんていを置いているのではないかと思う。民族の自決というと他人行儀でよそよそしい感じもするが、自発は家の興隆のために最もよろこぶべき現象です。各民族の歴史の開化、と私は考えたい。何も私たちのこまかいおせっかいなど要らぬ事です。数年前、東亜同文会の発会式が、東京の万世倶楽部まんせいクラブで挙げられて、これは私も人から聞いた話ですが、その時、近衛篤麿このえあつまろ公が座長に推され、会の目的綱領を審議する段になって、革命派の支持者と清朝しんちょうの支持者との間にはげしい議論が持ち上った。両々相対峙あいたいじして譲らず、一時はこのために会が決裂するかとも思われたが、その時、座長の近衛篤麿公が、やおら立ち上って、支那の革命を主張せられる御意見も、また、清朝を支持し列国の分割を防止せむとせられる御意見も、つまるところは他国に対する内政干渉であって、会の目的としてははなはだ面白くない。しかし、両説の目標とするところは、共に支那保全にあるのだから、本会は『支那保全』を以てその目的としては如何いかがであろう、という厳粛な発言を行って満座を抑え、両派共これには異議無く、満場一致喝采だいかっさいりに会の目的が可決され、この『支那保全』は、爾来じらい、わが国の対支国是となっているという事です。私たちは、もうこの上、何も言う事が無いやないか。支那にだって偉い人がたくさんいますよ。私たちの考えている事くらい、支那の先覚者たちも、ちゃんと考えているでしょう。まあ、民族自発ですね。私はそれを期待しています。支那の国情は、また日本とちがっているところもあるのです。支那の革命は、その伝統を破壊するからよろしくないと言っている人もあるようですが、しかし、支那にいい伝統が残っていたから、その伝統の継承者に、革命の気概などが生れたのだとも考えられます。たち切られるのは、形式だけです。家風あるいは国風、その伝統は決して中断されるものではありません。東洋本来の道義、とでも言うべき底流は、いつでも、どこかで生きているはずです。そうしてその根柢の道において、私たち東洋人全部がつながっているのです。共通の運命を背負っていると言っていいのでしょう。さっき話した家族みたいに、どんなに各人各様に咲いたつもりでも、やっぱり一つの大きい花になるのだから、それを信じて周君とも大いに活溌かっぱつに交際する事ですね。何もむずかしく考える事はない。」先生は笑いながら立ち上り、「一口で言えるやないか? 支那の人を、ばかにせぬ事。それだけや。」
 始業のベルが、さっきから鳴っているのである。
「教育勅語ちょくごに、何と仰せられています? 朋友ほうゆう相信じ、とありましたね。交友とは、信じ合う事です。他には何も要りません。」
 私は駈寄かけよって先生と握手したい衝動にかられたが、こらえて、ていねいにお辞儀をしたとたんに、
「君の顔は、あまり見かけないようだが、私の講義に出た事がありますか。」
「はあ、」と私は泣き笑いの表情で、「あの、これから。」
「新入生ですね。まあ、みんな、はげまし合ってやってくれ給え。津田君には、私からもよく言っておきます。私も、どうもクラス会で、不要の出しゃばりの事を言った。これからは、不言実行、という事にしましょう。」
 私は廊下に走り出て、ほっと一息つき、なるほど、あれでは、周さんがめるわけだ、先生も偉いが、周さんも眼が高い、と先生と周さんに半分ずつ感心した。自分もこれから周さんに負けずに先生の崇拝者になろう、先生の講義の時には、必ず最前列の席に陣取ってノオトをとろう、周さんはきょう学校に出ているかしら。私は一刻も早く周さんと逢いたくなって、いそいで教室に行ってみたが、その日も、周さんの姿は見えなくて、そうして、津田氏のいやな眼が、ぎろりと光っていた。けれども私は、何だかもう寛大な気持になっていたので、少し笑って会釈えしゃくしてやった。津田氏もそんなに悪い人ではないらしい。ちょっとまごついて、それから、にやりと笑って会釈をかえした。でも、その日は一日、互いに避けるようにして、すすんで話合おうとはしなかった。放課後、周さんの病気というのはどの程度のものなのか、見舞いに行ってみたかったが、周さんの下宿が、はっきりわからなかったし、それに、同じ下宿にいる津田氏にまたたいへんな説教をされてもつまらないと思ってまっすぐに私の下宿にかえり、夕食後、ぶらりと宿を出て、東一番丁に行き、松島座で中村雀三郎じゃくさぶろう一座が先代萩せんだいはぎをやっていたので、仙台の先代萩はどんなものかしらという興味もあり、ちょっとのぞいてみたくなって立見席にはいった。先代萩というのは、ご存知の如く仙台の伊達藩だてはんのお家騒動らしいものを扱った芝居で、つつじヶ岡おかの近くに政岡まさおかの墓と称せられるものさえある程だから、この芝居も昔から仙台ではさだめし大受けであったろうと思っていたが、あとで人から聞いたところにると、それは反対で、この芝居は、旧藩時代にはこの地方では御法度物ごはっとものだったそうで、維新後になって、その禁制もおのずから解けて自由に演じて差支さしつかえ無くなったとはいうものの、それでも、仙台市内では永くこの芝居は興行せられず、時たま題をかえて演ぜられる事があっても、その都度、旧藩士と称する者が太夫元に面会を申し込み、たとえ政岡という烈婦が実在していたとしても、この芝居全体の仕組みは、どうも伊達家の名誉を毀損きそんするように出来ている、撤回せよ、と厳重な抗議を申し込んだものだそうであるが、さすがに明治の中ごろになったらそんな事はなくなり、同時に、仙台の観衆もまた、この芝居を、自分たちの旧藩の事件を取扱った芝居だからと特別の好奇心で見に来るという事もなくなって、もうそのころから、どこの国の事件だかまるで無関心、ふつうのあわれなお芝居として、みんな静かに見物しているだけというような有様になったらしい。けれども、当時、私はそんな事情はまだ知らなかったので、仙台の観客たちは、この先代萩を見てどんなに興奮しているだろう、とその熱狂振りを見たいという期待もあって小屋にはいったのであるが、観客は案外に冷静、しかもやっと五、六りなので、おやおやと思う一方また、さすがは大仙台の市民だ、自分のお国の事件が演ぜられているのに平気な顔して見物している、これが大都会の襟度きんどというものかも知れないなどと、山奥の田舎から出て来たばかりの赤毛あかげっとは、妙なところに感心したりして、そうして、雀三郎の政岡の「とは言うものの、かわいやな」という愁歎場しゅうたんばを見て泣き、ふと傍を見ると、周さんが立っている。やっぱり涙を流している。それを見たら、なおさら私は泣きたくなって、廊下に飛び出し、思いきりひとりで泣いて、それから涙を拭いて立見席にかえり、周さんの肩をぽんとたたいた。
「ああ、」と周さんは私の顔を見て笑いながら手の甲で涙を拭き、「あなたは、さっきから?」
「ええ、この幕のはじめから見ていました。あなたは?」
「僕も、そうです。この芝居は、どうも、子供が出て来るので、つい泣いてしまいますね。」
「出ましょうか。」
「ええ。」
 周さんは私と一緒に松島座を出た。
「風邪をひいたとか、津田さんから聞きましたけど。」
「もう、あなたにまで宣伝しているのですか。津田さんには、困ります。僕が少しせきをしたら無理矢理寝かせて、そうして、Lunge だと言うのです。僕があの人をお誘いしないで、ひとりで松島へ行ったので、それで怒っているのです。あの人こそ、Kranke です。Hysterie ですね。」
「そんならいいけど、でも、少しは、からだ工合を悪くしたんでしょう?」
「いいえ。Gar nicht です。寝ていよと言うので、きのうときょう寝ながら本を読んでいたのですが、退屈でたまらなくなって、こっそり逃げ出して来たのです。あしたから、学校へ出ます。」
「そうですね。津田さんの言う事なんかを、いちいちはいはいと聞いていたんじゃ、そのうち本当の肺病になってしまいますよ。いっそ、下宿をかえたらどうですか。」
「ええ、それも考えているのですが、そうすると、あの人がさびしがるでしょう。ちょっとうるさいけれども、しかし、正直なところもあって、僕は、そんなにきらいでないんです。」
 私は赤面した。津田氏よりも私のほうが、もっとやきもちやきなのかも知れないと思ったからである。
「寒くありませんか?」と私は、話頭を転じた。「お蕎麦でも、たべましょうか。」
 いつのまにか、東京庵の前まで来ていた。
「宮城野のほうがいいかしら。津田さんの説に拠ると、この東京庵の天ぷら蕎麦は、油くさくて食えないそうです。」
「いや、宮城野の天ぷらだって油くさいでしょう。油くさくない天ぷらは、にせものです。」周さんも僕と同様、あまり食通ではないようであった。
 私たちは東京庵にはいった。
「その油くさい天ぷら蕎麦をたべてみましょう。」と周さんは、少からずその油くさい天ぷらに興味を感じている様子であった。
「ええ、そうしましょう。案外、おいしいような予感がしますね。」
 天ぷら蕎麦とお酒を注文した。
「お国は、料理の国だそうですから、日本へ来ても、たべものがお粗末で困るでしょうね。」
「そんな事はありません。」と周さんは、まじめな顔をして首を振った。「料理の国だなんて、それは支那へ遊びに来る金持の外国人の言いはじめた事です。あの人たちは、支那享楽きょうらくしに来るのです。そうして自分の国へ帰れば、支那通というものになる。日本でも、支那通と言われている人は、たいてい支那に対するひとりよがりの偏見を振りまわして生きています。通人というのは、結局、現実から遊離した卑怯ひきょうな人ですね。支那でおいしい所謂いわゆる支那料理を食べているのは、少数の支那の大金持か、外国の遊覧客だけです。一般の民衆は、ひどいものを食べています。日本だってそうでしょう? 日本の旅館のごちそうを、日本の一般の家庭では食べていない。外国の旅行者は、それでも、その旅館のごちそうを、日本の日常の料理だと思って食べている。支那は決して、料理の国ではありません。僕は東京へ来て、八丁堀はっちょうぼり偕楽園かいらくえんや、神田の会芳楼などで、先輩から、所謂支那料理を饗応きょうおうされた事がありますが、僕は生れてはじめて、あんなおいしいごちそうを食べました。僕は日本へ来て、料理がまずいなどと思った事は一度もありません。」
「でも、とろろ汁は?」
「いや、あれは特別です。しかし津田式調理法を習得してから、どうにか、食べられるようになりました。おいしいです。」
 お酒が出た。
「日本の芝居はどうです。面白いですか。」
「僕には、日本の風景よりも、芝居のほうが、ずっとわかりいい。実は、先日の松島の美も、僕にはあまりわからなかったのです。僕はどうも風景に対しては、あなたと同様に、」と言いかけて口ごもった。
「イムポテンツですか?」と私は無遠慮に言い放った。
「ええ、まあ、そうです。」とおもはゆいみたいに眼をぱちぱちさせ、「絵は子供の時から大好きでしたが、風景は、それほど好きではありません。もう一つ苦手は、音楽。」
 私は噴き出した。松島に於ける、れいの、雲よ雲よの唱歌をとたんに思い出したからである。
「でも、日本の浄瑠璃じょうるりなどは?」
「ええ、あれは、きらいでありません。あれは音楽というよりは、Roman ですものね。僕は俗人のせいか、あまり高尚な風景や詩よりも、民衆的な平易な物語のほうが好きです。」
「松島よりも松島座、ですか。」私は田舎者のくせに、周さんの前では、こんな駄洒落だじゃれみたいなものを気軽に飛ばす事が出来た。「このごろ仙台で活動写真がひどく人気があるようですが、あれは、どうです。」
「あれは、東京でもちょいちょい見ましたが、僕は、不安な気がしました。科学を娯楽に応用するのは危険です。いったいに、アメリカ人の科学に対する態度は、不健康です。邪道です。快楽は、進歩させるべきものではありません。昔、ギリシャで、げんを一本ふやした新式の琴を発明した音楽家を、追放したというじゃありませんか。支那の『墨子ぼくし』という本にも、公輸という発明家が、竹で作ったかささぎ墨子に示して、この玩具おもちゃは空へ放つと三日も飛びまわります、と自慢したところが、墨子は、にがい顔をして、でもやっぱり大工が車輪を作る事には及ばない、と言ってその危険な玩具を捨てさせたと書いてあります。僕はエジソンという発明家を、世界の危険人物だと思っています。快楽は、原始的な形式のままで、たくさんなのです。酒が阿片あへんに進歩したために、支那がどんな事になったか。エジソンのさまざまな娯楽の発明も、これと似たような結果にならないか、僕は不安なのです。これから四、五十年も経つうちには、エジソンの後継者が続々とあらわれて、そうして世界は快楽に行きづまって、想像を絶した悲惨な地獄絵を展開するようになるのではないかとさえ思われます。僕の杞憂きゆうだったら、さいわいです。」
 そんな事を語りながら、「油くさい」天ぷら蕎麦を、おいしく食べて、私たちは東京庵を出た。お勘定はその時、どっちが払ったか、津田氏の忠告に従ったか、どうだったか、そこまでは、さすがにいまは記憶していない。私はその夜、周さんを荒町の下宿まで送って行く事にした。
 月が出ていた。それは、間違いなく記憶している。風景のイムポテンツ同士も、月影にだけは無関心でなかったようである。
「僕は、子供の時分から芝居が好きで、」と周さんは静かに語った。「いまでもはっきり覚えていますが、毎年、夏になると母の故郷に遊びに出掛け、その母の実家から船で一里ばかり行ったところに村芝居の小屋がかかっていて、――」
 日が暮れてから、豆麦の畑の間を通る河を篷船ほうせんに乗って出掛けるのだが、大人を交えず大勢の子供たちだけの見物で、船もその中で比較的大きい子供が順番にぐのである。月光が河のもやに溶けて朦朧もうろうとして、青黒い連山はおどり上った獣の背のように見え、遠くに漁火いさりびがきらめいているかと思うとまたどこからともなく横笛の音が哀れに聞える。舞台は河沿いの空地に立っていて、周さんたちは船を河にとどめ、その船の中にいたままで、幻のような五彩の小さい舞台面を眺めるのである。舞台では、長髯ちょうぜんの豪傑が四つの金襴きんらんの旗を背中にさして長槍ちょうそうを振りまわし、また、半裸体の男が幾人もそろって一斉にとんぼ返りを打ったり、小旦わかおやまが出て来て何か甲高かんだかい声で歌うかと思うと、赤い薄絹を身にまとった道化役が、舞台の柱にしばられて胡麻塩髯ごましおひげの老人にむちでひっぱたかれたりするのだ。やがて船は帰途についても、月はまだ落ちていず、河はいよいよ明るく、振り返って見ると舞台はやはり赤い燈火の下でマッチ箱くらいの大きさで何やらさかんに騒いでいる。
「月のいい夜には、時々それを思い出すのです。これがまあ、僕の唯一の風流な追憶でしょう。僕のような俗人でも、月光を浴びると、少しは sentimental になるようです。」

 
「惜別」六へ

  

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