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【日刊 太宰治全小説】#109「新ハムレット」はしがき

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【冒頭】

こんなものが出来ました、というより他に仕様が無い。

【結句】

作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁解をしてみたところで、はじまらぬ。

 昭和一六年、初夏。

 

「新ハムレット はしがき」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和16年6月上旬に脱稿。

・昭和16年7月2日、最初の書下し中篇小説『新ハムレット』を文藝春秋社から刊行。

新ハムレット (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)      

   はしがき

 こんなものが出来ました、というよりほかに仕様が無い。ただ、読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁さおうの「ハムレット」の註釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の「ハムレット」から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である。
 過去のる時代にける、一群の青年の、典型を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る青年をめぐって、一家庭の、(厳密に言えば、二家庭の、)たった三日間の出来事を書いたのである。いちどお読みになっただけでは、見落しやすい心理の経緯もあるように、思われるのだが、そんな、二度も三度も読むひまなんか無いよ、と言われると、それっきりである。おひまのある読者だけ、なるべくなら再読してみて下さい。また、ひまで困るというような読者は、の機会に、もういちど、沙翁の「ハムレット」を読み返し、此の「新ハムレット」と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れない。
 作者も、此の作品を書くに当り、坪内博士訳の「ハムレット」と、それから、浦口文治氏著の「新評註ハムレット」だけを、一とおり読んでみた。浦口氏の「新評註ハムレット」には、原文も全部載っているので、辞書を片手に、大骨折りで読んでみた。いろいろの新知識を得たような気もするが、いまそれを、ここでいちいち報告する必要も無い。
 なお、作中第二節に、ちょっと坪内博士の訳文を、からかっているような数行があるけれども、作者は軽い気持で書いたのだから、博士のお弟子でしも怒ってはいけない。このたび、坪内博士訳の「ハムレット」を通読して、沙翁の「ハムレット」のような芝居は、やはり博士のように大時代な、歌舞伎かぶき調で飜訳ほんやくせざるを得ないのではないかという気もしているのである。
 沙翁の「ハムレット」を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この「新ハムレット」などは、かすかな室内楽に過ぎない。
 なおまた、作中第七節、朗読劇の台本は、クリスチナ・ロセチの「時と亡霊」を、作者が少しあくどく潤色してつくり上げた。ロセチの霊にも、おびしなければならぬ。
 最後に、此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りして置きたい。作者は、もとより小説家である。戯曲作法にいては、ほとんど知るところが無い。これは、わば LESEDRAMA ふうの、小説だと思っていただきたい。
 二月、三月、四月、五月。四箇月間かかって、やっと書き上げたわけである。読み返してみると、さびしい気もする。けれども、これ以上の作品も、いまのところ、書けそうもない。作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁解をしてみたところで、はじまらぬ。

昭和十六年、初夏。




  人物。

クローヂヤス。(デンマーク国王。)
ハムレット。(先王の子にして現王のおい。)
ポローニヤス。(侍従長。)
レヤチーズ。(ポローニヤスの息。)
ホレーショー。(ハムレットの学友。)

ガーツルード。(デンマーク王妃。ハムレットの母。)
オフィリヤ。(ポローニヤスの娘。)

その他。

  場所。

デンマークの首府、エルシノア。

 

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