記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#114「新ハムレット」五

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【冒頭】

ポロ。「ハムレットさま!」

ハム。「ああ、びっくりした。なんだ、ポローニヤスじゃないか。そんな薄暗いところに立って、何をなさっているのです。」

ポロ。「あなたを、お待ち申していました。ハムレットさま!」

【結句】

ハム。「ははん、ホレーショー、僕たちが冗談に疑って遊んでいたら、それが、本当だってさ。なんて事だい。馬鹿笑いが出るよ。」

 

「新ハムレット 五」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和16年5月末に脱稿。

・昭和16年7月2日、最初の書下し中篇小説『新ハムレット』を文藝春秋社から刊行。

新ハムレット (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」より)      

五 廊下

 ポローニヤス。ハムレット

 ポロ。「ハムレットさま!」
 ハム。「ああ、びっくりした。なんだ、ポローニヤスじゃないか。そんな薄暗いところに立って、何をなさっているのです。」
 ポロ。「あなたを、お待ち申していました。ハムレットさま!」
 ハム。「なんです。気味の悪い。放して下さい。僕は、いま、ホレーショーを捜しているのです。ホレーショーが、どこにいるか、知りませんか?」
 ポロ。「他所話よそばなしは、およし下さい。ハムレットさま。わしは、けさ辞表を提出しました。」
 ハム。「辞表を? なぜです。何か、問題が起ったのですか? 軽率ですね。あなたは、いまのエルシノア王城に無くてはかなわぬ人です。」
 ポロ。「何をおっしゃる。あなたの、その無心なお顔に、ポローニヤスは、いままでだまされて来ました。わしは城中の残念な噂を、やっと、きのう耳にしました。」
 ハム。「噂を? なあんだ、その事か。でも、あれは重大です。僕だって、あなたをだましていたわけではないのです。あんないやな噂を聞かされて、それでも知らぬ振りしてとぼけている事など、とても僕には出来ません。本当に、僕も知らなかったのです。実は、ゆうべ或る人から、はじめて聞かされ、おどろいたのです。けれども、あなたが今まで、ご存じなかったとは意外です。日頃のあなたらしくも無いじゃありませんか。ちょっと、迂濶うかつでしたね。本当に、ご存じなかったのですか? そんな事は無いでしょう。もし、本当に、ご存じなかったとしたら、それは、引責辞職の問題も起るでしょうけど、でも、あなたほどの人が、ご存じなかったという筈は無い。」
 ポロ。「ハムレットさま、失礼ながら、正気でいらっしゃいますか?」
 ハム。「なんですって? ばかにしないで下さい。見ればわかるじゃないですか。まさか、あなたまで、あの噂を信じていらっしゃるわけじゃないでしょうね。」
 ポロ。「嘘の天才! よくもそんな、白々しい口がきけるものだ。ハムレットさま、そんな浅墓あさはか韜晦とうかいは、やめて下さい。若い者なら若い者らしく、もっと素直におっしゃったら、いかがです。とても隠し切れるものでは、ありません。わしは、きのう直接、当人から聞いてしまいました。」
 ハム。「なんです、いったい、なんの事を言っているのです。ポローニヤス、言葉が過ぎやしませんか? 僕は、あなたの主人だとか何とか、そんな事は考えていませんが、あなたの言葉は、たとい親しい友人同志の間であっても笑っては済まされん。僕は、御推量のとおり、だらしのない、弱虫の、道楽者です。何一つ、あなた達のお手伝いが出来ません。けれども、僕だってデンマーク国のためには、いつでも命を捨てるつもりなのだ。ハムレット王家の将来にいても、心をくだいている筈だ。ポローニヤス、言葉が過ぎます。何をそんなにこわい顔をして怒っているのです。失敬ですよ。」
 ポロ。「見上げたものです。涙も出ません。これが、わしの二十年間、手塩にかけてお育て申したお子さまか。ハムレットさま、ポローニヤスは夢のようです。」
 ハム。「困りますね。ポローニヤスも、おとしをとられたようですね。往年の智慧ちえしゃも、僕の乱心などを信じるようじゃ、おしまいだ。」 
 ポロ。「乱心? そうです、あなたは、たしかに気が狂って居られる。むかしのハムレットさまは、なんぼなんでも、これほどじゃなかった。」
 ハム。「寄ってたかって、僕を本物の気違いにしようとしている。それではポローニヤス、あなた迄が、あの噂を本当に全部、信じているのですね?」
 ポロ。「信じるも何も。いまさら、何をおっしゃる。もういい加減に、そんな卑怯ひきょうな言いかたは、およしなさい。」
 ハム。「卑怯だと? 何が卑怯だ。僕は、どうして卑怯なのだ。あなたこそ失敬至極じゃないか。僕にはあなたに、おわびしなければならぬ事もあるのだし、これまでずいぶん、あなたには遠慮して来た。いまだって、殴りつけてもやりたい気持を何度も抑えて、あなたと話しているのです。するとあなたは、いよいよ僕を見くびって、聞き捨てならぬ悪口雑言を並べたてる。僕も、もう容赦しません。ポローニヤス、僕は、はっきり言います。あなたは、不忠の臣だ。叔父上の悪事の噂を信じ、母上を嘲笑ちょうしょうし、僕を本物の気違いにしようとしている。ハムレット王家の、おそるべき裏切者だ。辞表を提出するまでも無い。即刻、姿を消してもらいたい。」
 ポロ。「なるほど、いろいろの手があるものだ。そういう出方でかたをなさろうとは、智慧者のポローニヤスにも考え及ばぬ事でした。ポローニヤスも、お言葉のように、としをとったものと見えます。なるほど、いやな噂が、もう一つあった。此の際に、そのほうだけを騒ぎ立て、ご自分の不仕鱈ふしだらな噂のほうは二の次にしようとなさる。ご自分の悪事を言われたくないばかりに、やたらに他人の噂を大事件のように言いふらし、困ったことさなどと言って思案投首なげくび、なるほど聡明そうめいな御態度です。醜聞の風向を、ちょいと変える。クローヂヤスさまこそ、いい迷惑だ。あ、痛い! ハムレットさま、ひどい、何をなさる。殴りましたね。おう痛い。気違いにあっちゃ、かなわない。」
 ハム。「もう一方のほおを殴ってやろうか。あなたの頬は、ひどく油切っているから、殴り甲斐がいがあります。僕は、あなたと、これ以上話をしたくない。」
 ポロ。「お待ちなさい。逃げようたって、逃がしません。ハムレットさま、あなたは卑怯です。あなたのおかげで、わしの一家は滅茶滅茶めちゃめちゃです。わしは田舎にひっこんで貧乏な百姓親爺おやじとして余生を送らなければならなくなりました。レヤチーズも、可哀想かわいそうに。いさんでフランスへ出かけていったのに、呼び戻さなければなりますまい。あの子の将来も、まっくらやみです。それから、あの、――」
 ハム。「オフィリヤは、僕と結婚します。御心配に及びません。ポローニヤス、あなたがそれほどまで僕を憎んでいるんだったら、僕も、はっきり申しましょう。僕はあなたを、もっと濶達かったつな文化人だと思っていた。もっと軽快な、ものわかりのいい人だと思っていました。やがては僕の味方になってくれる人だろうとさえ思っていました。あなたには、おわびしなければならぬ事がありました。その事に就いては、いずれゆっくり相談をするつもりで居りました。あなたに、力になっていただきたいと思っていました。ご存じのように僕は今、叔父上とも母上とも、どうしても、うまく折合いが附かず困って居ります。僕だって何も、好きこのんで、あの人たちと気まずくしているわけではないのですが、どうも、いけないのです。こだわりを感じるのです。しっくり行かないのです。僕は、あの人たちに、僕のくるしい秘密を打ち明ける事が、どうしても出来ず、夜も眠られぬ程ひとりでもだえていました。何としても、あの人たちを、信頼する事が出来ぬのです。打ち明けて相談すると、かえって、ひどく悪い結果になるような気がして、僕は此の頃あの人たちとうのを、避けるようにさえなりました。こわいのです。なんだか、とても暗い、いやな気がするのです。あの人たちと顔を合せると、僕は、ただ、おどおどするばかりです。なんにも言えなくなるのです。あの人たちだって、悪い人ではない。いつも僕の事を、心配してくれています。それは、わかっている。あるいは深く愛していて下さるのかも知れないが、けれども、僕はいやなんだ。相談するのがいやなんだ。ポローニヤス、僕は、あなたを最後の力とたのんでいました。どうにも仕様が無くなれば、あなたに何もかも打ち明けて、おゆるしを願い、今後の事も相談しようと思っていました。あなたは、きっと僕たちの事を、ゆるして下さるだろうと、なぜだか、そんな気がしていたのです。さっき、あなたに呼びとめられ、ひやっとしました。来たな、と思いました。ちょうどよい機会だ、こちらから全部、打ち明けてやろうと覚悟して、あなたの顔を見ると真蒼まっさおで、ひどく取乱して居られる様子なので、急にいやになり、逃げようとしたら、あなたが僕の腕をつかんで辞表を出したのなんのと、大変な事を言うので僕は、他にも何か事件が起きたのかしらんと思い、あなたに尋ねたら、あなたは城中の噂、とおっしゃったので、ああ、あれか、と早合点してしまったわけなのです。決して、故意にはぐらかしたのではありません。僕は卑怯な男ではないのです。」
 ポロ。「御弁舌さわやかでございます。なかなか、たくみに言いのがれをなさる。けれども、ポローニヤスは、もう、だまされません。何も、今さらそんなにクローヂヤスさまや、王妃さまの事を、出し抜けに問題になさる必要が無いじゃありませんか。あなたは、それを、てれ隠しの道具に使っていらっしゃるのだ。こじつけです。やはり、なんだか、ごまかそうとしていらっしゃる。もっと、当面の問題を、はっきりお伺いしたいのです。」
 ハム。「疑い深いね。そんなに、しつっこく追及されると、僕も開き直って、もっと馬鹿正直に言ってやりたくなります。きのう迄は、僕の悩みは一つしか無かった。オフィリヤ。それだけです。けれどもゆうべ、僕は、もう一つの不愉快極まる話を聞いてしまったのです。もうオフィリヤどころでは無い、と言えば、あなたはすぐに醜聞の風向きを変えるの、てれ隠しの道具に使うのと冷笑しますが、決して、そんなことはない。僕は、ゆうべは、くるしみましたよ。さびしかった。たまらなく淋しかった。ベッドの中で泣きました。何もかも、ばからしく、腹立たしく、やり切れない思いでした。二つの問題が、異様にからみ合って、手がつけられない。オフィリヤどころでは無い、というのは言いかたが、まずいので、オフィリヤの事も念頭より離れず、それに今度の恐ろしい疑惑がおおいかぶさり、乱雲が、もくもくき立ち、流れ、かさなり、僕の苦しみが三倍にも五倍にも、ふくれあがって、ゆうべは、本当に、一睡も出来ませんでした。発狂したら、いっそ気楽だ。ポローニヤス、わかりますか? あなたから、城中の残念な噂、と言われて、オフィリヤの事か? とちらと考えてもみたのですが、僕には、その事よりも、もっと色濃く、もう一つの噂のほうが問題だったので、ついそのほうに話を持って行きましたが、決して故意に、そらとぼけたわけではないのです。そんな出方でかたもあったか、などと言われると、僕は実に、どうにも不愉快だ。殴ったのは、僕の失態でした。ごめんなさい。かっとしちゃったのです。でも、あなたも、これからは、あんな不愉快な言いかたは、しないで下さい。オフィリヤの事なら、心配は要りません。結婚します。あたり前の事です。どんな障害があっても、結婚しなければいけません。僕は、オフィリヤを愛しています。ただ、僕のくるしんでいるのは、王と王妃に僕たちの事を告白し、そのおゆるしを得る事です。僕は、あの人たちに打ち明けて、お願いするのは、なんとしても、いやなのです。死んだほうがいい。ことにも、ゆうべ、あんな噂を耳にしたので、なおさら打ち明けるのが苦痛になった。僕は、とにかく、あの噂の根元こんげんを、突きとめてみたい。何か、ある。きっと、ある。僕には、そんな予感がする。根も葉も無い噂だとしたなら、僕は幸福だ。かえって、それを機会に、あの人たちに僕の日頃の無礼を素直にびて釈然と笑い合う事が出来るようになるかも知れない。とにかく僕は、あの噂の真偽を、もっと追及してみたい。すべては、それからだ。ポローニヤス、わかりますか? オフィリヤの事は、しばらく、そっとして置いて下さい。無責任な事は、いたしません。ああ、ポローニヤス、僕もなんだか勇気を得ました。きょうから僕は、勇気のある男になるんだ。くるしさの、とても逃げられぬどん底まで落ちると、人は新しい勇気を得るものだね。」
 ポロ。「どうだか、あぶないものです。ハムレットさま、あなたは、お若い。あなた達のおっしゃる事は、なんだか、わしには信用できない。新しい勇気、とおっしゃるけれど、勇気ばかりで、もの事が、うまく行くものではありません。また、勇気を得たのなんのと、その場かぎりの興奮から軽薄な大袈裟おおげさな事ばかりを言い散らす人は、昔から、なまけものの、お体裁屋ていさいやにきまって居ります。くるしいの、淋しいの、乱雲が湧き立ったのという気障きざな言葉は、見どころのある男子の口にせぬものです。とても本気では聞いて居られぬ言葉です。もう薄鬚うすひげも生えているのに、情無い。いつまで、いい気な夢を見ているのでしょう。もっと、しっかりして下さい。いまのあなたのお話で、とにかく、オフィリヤを一時のなぐさみものになさるおつもりでは、無かったという事だけは、わかりました。あなたを、お痛わしく思います。けれども、真の難関は、これからです。及ばずながら、ポローニヤスも御助勢申し上げますが、あなたも、もっと、しっかりして下さらなければ困ります。本当に、お願い致します。乱雲がもくもく湧き立ったのなんのという言葉は、これからは、なるべくおっしゃらないように。とても、まともには聞いて居られません。なんという、まずい事ばかりおっしゃるのでしょう。あなたも、そろそろ子供の父になるのですよ。」
 ハム。「だから、だから、それだから僕は、くるしんでいるのです。くるしい時に、くるしいと言ってはいけないのですか? なぜですか? 僕は、いつでも、思っていることをそのまま言っているだけです。素直に言っているのです。本当に、淋しいから、淋しいと言うのです。勇気を得たから、勇気を得たと言うのです。なんのきも、間隙かんげきも無いのです。精一ぱいの言葉です。乱雲が覆いかぶさったという言葉も、あなたには、大袈裟な下手な形容のように聞えるかも知れませんが、僕にとっては、そのまま、目に見えるような事実なのです。皮膚感触なのです。真実、といっていいかも知れない。僕は、あなたを、オフィリヤとの血のつながりにって、やっぱり愛しているのだから、それで安心して、僕の真実をそのままお伝えしようと思っているのだ。ちぇっ! 僕は、どうも、人を信頼し過ぎる。愛に夢中になりすぎる。」
 ポロ。「どうだっていいじゃありませんか、ハムレットさま。世の中は、哲学の教室でもなし、あなただって、失礼ながら聖人賢者におなりになるおつもりでもございますまい。愛だの真実だの乱雲だのと、賢者の口真似くちまねをなさっている間にも、オフィリヤのおなかが、刻一刻と大きくなります。それだけは、たしかに、目に見える事実です。わしは、いまあなたに愛されたって、安心されたって、ちっとも有難い事は、ありません。かえって迷惑ですよ。いまは、ただ、オフィリヤの事が、――」
 ハム。「だから、それだから、ああ、わからん、あなたには、わからん。それは安心していても、いいのですよ。ただ、僕のくるしさは、――」
 ポロ。「くるしさという言葉は、ない事にしましょう。脊中がぞくぞくする。あなたは、さっきからその言葉を、もう百回は、おっしゃっています。くるしいのは、あなただけでは、ありません。わしの一家だって、あなたのおかげで滅茶滅茶なのですよ。わしは、もう辞表を提出しました。あすにもの王城から出て行かなければなりません。事態は切迫しているのです。ハムレットさま、お力を貸していただきとう存じます。第一に、あなたのため、それからポローニヤス一家のために、執るべき手段は、ひとつしかありません。わしも、ゆうべ、眠らずに考えました。執るべき手段を考えました。ハムレットさま、お力を貸していただきとう存じます。」
 ハム。「ポローニヤス、急にあらたまって、どうしたのです。僕みたいな若輩が、あなたの力になるなんて、とんでもない。からかわないで下さい。あなたこそ夢でも見ているのでは、ありませんか?」
 ポロ。「ゆめ? そう、夢かも知れません。けれども、これこそは窮余の一策だ。ハムレットさま、ポローニヤスの忠誠を信じますか? いや、そんな事は、どうでもいい。つまらぬ事を言いました。ハムレットさま、あなたは正義を愛しますか?」
 ハム。「気味が悪い。急にロマンチストになりましたね。まるで逆になった。こんどは僕が現実主義者になりそうだ。あなたの口から、正義だの忠誠だのという言葉を伺えるとは思いませんでした。いったい、どうしたのです。そんなに、うなだれてしまって、どうしたのです。何を考えているのです。」
 ポロ。「ハムレットさま、わしは悪い人間ですねえ。おそろしい事を考えていました。娘の幸福のためには、王をさえ裏切ろうとする人間です。全部、打ち明けて申し上げます。ああ、いけない、ホレーショーがやって来ました。」

 ホレーショー。ハムレット。ポローニヤス。

 ホレ。「ハムレットさま、ひどい、ひどいなあ。僕は、大恥をかきましたよ。だまっているのだから、ひどいよ。もっとも、ゆうべは僕もいけませんでした。僕が要らない事ばかりおしゃべりして、それに何せ寒かったものですから、あなたのお話をよく聞こうとしなかったのが、失敗のもとでした。でも、もう、わかりました。ポローニヤスどの、このたびは、どうもとんだ事でしたねえ。御心配でしょう。それで? ハムレットさまは、いったい、どういう御意向なのですか? 此の際、ハムレットさまの御意向が、一ばん問題になると思うのですがね。」
 ハム。「ひとりで何を早合点しているのだ。相変らず、そそっかしいねえ、君は。何をそんなに騒いでいるのだ。僕が君に恥をかかせた覚えは、無いよ。」
 ホレ。「だめ、だめ。とぼけたって駄目だめです。僕は、いま王さまから一切を聞いて来たのですからね。いや、笑い事じゃない。慎重に考えなければ、いけない事です。」
 ハム。「そういう君こそ、なんだか、にやにや笑っているじゃないか。ひやかしちゃ、だめだよ。いったい何を、聞いて来たのさ。」
 ホレ。「なあんだ、そんなにお顔を赤くなさっている癖に、まだ、とぼけようとしている。かえって僕のほうで、てれくさくって、くすぐったくて、つい、笑わざるを得ざる有様でございます。」
 ハム。「畜生め。とうとう、見破りやがったな。畜生め、行くぞ!」
 ホレ。「よし来た、組打ちならば、負けやしません。さあ、どうだ! これでもか。」
 ハム。「平気、平気。畜生め、一ひねりだ。おっちょこちょいの、此ののどを、こんな具合にしめつけると、ぴいと鳴るから奇妙なものさ。」
 ポロ。「およしなさい、およしなさい。なんです。こんな廊下でいきなり組打ちをはじめるなんて、乱暴じゃありませんか。お二人とも、悪ふざけは、およしなさい。わけがわからん。そんなに、お二人とも、げらげら笑って、つかみ合いして、いったい、どうしたのです。よして下さい。いまは、そんな悪ふざけをしている場合ではありません。お互いに、も少し緊張する事にしましょうよ。さあさ、もういい加減におよしなさい。ホレーショーどのも、いったい、どうしたのです。ここは、大学と違うのですよ。」
 ハム。「ポローニヤス、あなたには、わからんよ。僕たちは、ひどく、てれくさい時には、こうして滅茶な組打ちをする事にしているんだ。こうでもしなけれあ、おさまりがつかんじゃないか。」
 ホレ。「まったくですよ。僕は、まんまと、だまされていたのだからなあ。ハムレットさま、ひどいよ。」
 ハム。「そんなでもないさ。これにも、いろいろ、わけがありましてね。へッへ。」
 ポロ。「ああ、そんな下品な笑いかたをなさって、なんという事です。わけもなんにもありゃしない。事件は、実に単純です。ホレーショーどの、まあ、もっとこっちへおいでなさい。おやおや、あなたの上衣うわぎすそは破れたじゃありませんか。どうも、あなたがたは乱暴でいけません。うちのレヤチーズも、ずいぶん乱暴者のようですが、でも、あなたがた程ではありませんよ。まあ、ハムレットさまも落ちつきなさい。いまは、重大な時です。笑って、ふざけている場合ではありません。ホレーショーどのも、これからは、わしたちの力になって下さらなければいけません。これからは、此の三人で、さまざま相談も致したいと思います。それで? ホレーショーどのは、いま王さまから、どんな事を伺って来たのです。聞かせて下さい。わしは、きょうからハムレットさまのお味方なのですから、信頼して、なんでも知らせて下さい。王さまは、あなたに、なんとおっしゃったのですか?」
 ホレ。「おどろいた、夢のようだと、おっしゃっていましたよ。」
 ハム。「それから、僕の悪口も言っていたろう。」
 ホレ。「ひがんじゃ、いけません。王さまは、なかなか、わかっていらっしゃる。いや、どうだかな? とにかく、おどろいていらっしゃる。」
 ポロ。「要領を得ない。もっと、はっきりおっしゃって下さい。王さまの御意見は、どうなんですか?」
 ホレ。「いや、それが、その、いや、実に古くさい。ばかばかしい。僕は、あきれましたよ。僕には、ハムレットさまのお気持は、わかっているんだ。けれども王さまは、ひどい勘違いをなさっているので、僕はあきれました。おそれつつしんで退出したのですけれど、いや、ひどいなあ。」
 ハム。「わかったよ。とても許されぬ、と言うんだろう? イギリスから姫を迎える、と言うんだろう? わかっているよ。」
 ホレ。「そのとおり。いや、まだひどい。ハムレットさまのお気持も、そろそろ冷くなっているはずだと思う、とおっしゃっておいででした。だから、オフィリヤさんを、しばらく田舎へ引きこもらせて、それで万事を解決させる。人のうわさも、二箇月だとか、五箇月だとか、いや六箇月だったかな? とにかくそんな具合の御意見でした。悪いようにはしないそうです。王さまも、決して悪意でおっしゃっているのではないのです。それだけは、誤解なさらぬように。ただ、王さまは、勘違いなさって居られるだけなんだ。僕は、とにかく、ハムレットさまに、王さまの御厚志をお伝えするように言いつかったというわけなのです。王妃さまは、なんだか、ひとりで笑って居られました。ハムレットさまのお気持を、よくわかっておいでの御様子でありました。だから決して、絶望というわけではないのです。此の際、王妃さまにお願いするのですね。王さまは、だめです。根っから、いけません。つまり、古いという事になりますかねえ。」
 ハム。「ホレーショー、いい加減の事を言うのは、よせよ。古い、新しいの問題じゃない。現世主義者は、いつでもそうなんだ。叔父さんは、現世の幸福を信じているんだ。叔父さんとしては当然の意見だ。僕だって、それくらいの事は、はじめっから知っていたさ。問題は、そこだよ。そこが苦しいところなんだ。忍従か、脱走か、正々堂々の戦闘か、あるいはまた、いつわりの妥協か、欺瞞ぎまんか、懐柔か、to be, or not to be, どっちがいいのか、僕には、わからん。わからないから、くるしいのだ。」
 ポロ。「二度! くるしいという言葉を、二度もおっしゃいました。あなたは、すぐにそんな大袈裟な哲学めいた事を、口走って意味も無い溜息ためいきばかりいて、まるで下手な役者の真似みたいな表情をなさいますが、実にみっともない。王さまのお言葉は、わしだって覚悟していました。これしきの事で、取乱してはいけません。ポローニヤスには、王さまの御処置がわかっていました。だから、わしも、辞表を提出したのです。いまは、たのみとすべきは、ハムレットさま、あなただけです。わしには、わしの考えがあります。ホレーショーどのも、御助勢下さい。すべて、ハムレットさまのためです。さあ、ホレーショーどの、誓って下さい。わしの、これから言う事を必ず他言しないと誓って下さい。」
 ホレ。「どうしたのです。ポローニヤスどの、急に鹿爪しかつめらしくなってしまいましたね。」
 ポロ。「ハムレットさまのためです。誓言は、おいやなのですか?」
 ホレ。「誓いますよ、誓いますよ。なんだか、木に竹を継いだみたいに唐突なので、めんくらったのです。誓いますよ。ハムレットさまのためなら、どんないやな事だって致します。」
 ポロ。「あなたを信頼します。それでは、申し上げます。ハムレットさま、さっき、ちょっと言いかけて、ホレーショーどのが来たのでしましたが、実は、このごろの城中の、もう一つの暗い噂、あれを、ポローニヤスは信じています。」
 ハム。「なに? 信じている? ばかめ! あなたこそ気が狂った。さもなくば、あなたこそ、いやな噂をたねに王をおどかし、無理矢理オフィリヤを僕の妃に押しつけようとする卑劣下賤げせんの魂胆なのだ。きたない、きたない。ポローニヤス、あなたは、さっき言いましたね。わしは娘の幸福のためには、王をさえ裏切ろうとする人間だ、わしは悪い人間だ、とつぶやいていましたね。僕は、あの時は、なんの事やらわけがわからなかったが、もう、はっきりわかりました。ポローニヤス、あなたは、おそろしい人だ。」
 ポロ。「ちがう! ちがいます。わしの気持が変ったのです。はじめから、全部、申し上げましょう。わしが先王の幽霊の噂を耳にしたのは、ごく最近の事でした。困った事だと思っていました。そのうち王にも御相談申し上げ、適当の対策を講ずるつもりでりましたが、このごろ、王の御様子をうかがうと、なんだか曇りがあるのです。わしは、相談を躊躇ちゅうちょしました。なぜだか、相談しにくいのです。はっきり申し上げましょう。わしは、少しずつ王さまを疑うようになって来たのでした。まさか、と思いながらも、王の御様子を拝見していると、なんだか、いやな、暗い気持がして来るのです。わしは、その気持を、いままで誰にも打ち明けず、自分ひとりの胸に畳んで、おのずから明朗に解決される日を待っていました。杞憂きゆうであってくれたらいいと、ひそかに念じていたのです。けれども、さっき、娘が不憫ふびんのあまり、ふいと恐ろしい手段を考えました。ただいまハムレットさまのおっしゃったような陋劣ろうれつな事を考えました。けれども、ポローニヤスは、不忠の臣ではありません。それは、信じて下さい。ほんの一瞬、ちらと考えてみただけです。ゆうべ一晩、眠らずに考えたというのはうそでした。つい興奮して、心にも無い虚飾を申しました。としは、とっても、子供の事になると、わしもハムレットさまのように大袈裟な言葉を、つい言いたくなります。一瞬、ほんの一瞬だけ考えて、すぐにその陋劣に身震いし、こんどは逆に、猛烈に、正義という魂魄こんぱくを好きになりました。たまらなく好きになりました。オフィリヤの事よりも、まず、あの不吉な噂の真偽をたしかめる。その事こそ、臣下の義務、いや人間の義務だと気が附きました。ハムレットさま、いまでは、わしは、あなた達の味方です。きょうからは、わしも青年の仲間に入れていただくつもりなのです。青年の正義。世の中に、信頼できるものは、それだけです。」
 ハム。「へんですねえ。こっちが、てれてしまいます。なんだか、へんだ。ホレーショー、人生には、予期せぬ事ばかり起るものだねえ。」
 ホレ。「僕は、信じます。ポローニヤスどの、ありがとう。僕は、信じますよ。感激しました。でも、なんだか、へんだなあ。唐突すぎる。」
 ポロ。「へんな事はありません。あなた達こそ、臆病おくびょうなのです。わしは、もう、破れかぶれなのかも知れません。いや、ちがう。正義だ。正義! いい言葉だ。わしは、突貫しますよ。お力を貸して下さい。三人で、まず王さまを、ためしてみましょう。失礼な事かも知れないが、何も皆、正義のためだ。王さまの顔色を探ってみましょう。たしかな証拠をつきとめましょう。いかがです。わしには、一つ、いい考えがあるのです。相談に乗って下さい。何も皆、正義のためです。わしの行くべきみちは、それだけです。」
 ハム。「正義のほうで、顔負けしますよ。ポローニヤス、あなたは錯乱しています。いいとしをして、みっともない。落ちつきなさい。あなたは、いったい、あのばかな噂を本気に信じているのですか? 嘘でしょう? なんだか、底に魂胆がありそうですね。」
 ポロ。「情無い事を、おっしゃる。ハムレットさま、あなたは、可哀想かわいそうなお子です。なんにも御存じないのです。」
 ホレ。「ああ、いけない。ポローニヤスどの、もう、およし下さい。王さまは、いいお方です。ハムレットさまだって、心の底では王さまを、お慕い申しているのですよ。いまさら、そんな、薄気味わるい事は、おっしゃらないで下さい。いけない、いけない、ああ、僕は、また寒くなって来ました。震える。全身が、震える。」
 ハム。「ポローニヤス、重大な事ですよ。浮薄な言動は、つつしみなさい。たしかに、信ずべきふしが、あるのですか?」
 ポロ。「残念ながら、――ございます。」
 ハム。「ははん、ホレーショー、僕たちが冗談に疑って遊んでいたら、それが、本当だってさ。なんて事だい。馬鹿笑いが出るよ。」

 

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