記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#169「津軽」四 津軽平野

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【冒頭】
津軽」本州の東北端日本海方面の古称。

【結句】
兄は黙って歩き出した。兄は、いつでも孤独である。 

 

津軽」について

新潮文庫津軽』所収。
・昭和19年7月末までに脱稿。
・昭和19年11月15日、「新風土記叢書7」として小山書店から刊行。


津軽 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

四 津軽平野


津軽」本州の東北端日本海方面の古称。斉明天皇の御代、コシ国司阿倍比羅夫出羽方面の蝦夷地を経略して齶田アキタ(今の秋田)渟代ヌシロ(今の能代津軽に到り、遂に北海道に及ぶ。これ津軽の名の初見なり。乃ち其地の酋長を以て津軽郡領とす。此際、遣唐使坂合部連石布イハシキ蝦夷を以て唐の天子に示す。随行の官人、伊吉連博徳ユキノムラジハカトコ、下問に応じて蝦夷の種類を説いて云はく、類に三種あり近きを蝦夷ニギエゾ、次を蝦夷アラエゾ、遠きを都加留ツガルと名くと。其他の蝦夷は、おのづから別種として認められしものの如し。津軽蝦夷の称は、元慶二年出羽の夷反乱の際にも、屡々散見す。当時の将軍藤原保則、乱を平げて津軽より渡島ワタリジマに至り、雑種の夷人前代未だ嘗て帰附せざるもの、悉く内属すとあり。渡島は今の北海道なり。津軽陸奥に属せしは、源頼朝奥羽を定め、陸奥の守護の下に附せし以来の事なるべし。
青森県沿革」本県の地は、明治の初年に到るまで岩手・宮城・福島諸県の地と共に一個国を成し、陸奥といひ、明治の初年には此地に弘前・黒石・八戸・七戸シチノヘおよび斗南トナミの五藩ありしが、明治四年七月列藩を廃して悉く県となし、同年九月府県廃合の事あり。一時みな弘前県に合併せしが、同年十一月弘前県を廃し、青森県を置き、前記の各藩を以て其管下とせしも、後二戸ニノヘ郡を岩手県に附し、以て今日に到れり。
津軽氏」藤原氏より出でたる氏。鎮守府将軍秀郷より八世秀栄、康和の頃陸奥津軽郡の地を領し、後に津軽十三の湊に城きて居り、津軽を氏とす。明応年中、近衛尚通の子政信、家を継ぐ。政信の孫為信に到りて大に著はる。其子孫わかれて弘前・黒石の旧藩主たりし諸家等となる。
津軽為信」戦国時代の武将。父は大浦甚三郎守信、母は堀越城主武田重信の女なり。天文十九年正月生る。幼名扇。永禄十年三月、十八歳の時、伯父津軽為則の養子となり、近衛前久の猶子となれり。妻は為則の女なり。元亀二年五月、南部高信と戦ひこれを斬り、天正六年七月二十七日、波岡城主北畠顕村を伐ち其領を併せ、尋で近傍の諸邑を略し、十三年には凡そ津軽を一統し、十五年豊臣秀吉に謁せんとして発途せしも、秋田城介安倍実季、道を遮り果さずして還る。十七年、鷹、馬等を秀吉に贈り好を通ず。されば十八年の小田原征伐にも早く秀吉の軍に応じたりしを以て、津軽及合浦・外ヶ浜一円を安堵せり。十九年の九戸乱にも兵を出し、文禄二年四月上洛して秀吉に謁し、又近衛家に謁え、牡丹花の徽章を用ふるを許さる。尋で使を肥前名護屋に遣はし、秀吉の陣を犒ひ、三年正月には従四位下右京大夫となり、慶長五年関ヶ原の役には、兵を出して徳川家康の軍に従ひ、西上して大垣に戦ひ、上野国大館二千石を加増す。十二年十二月五日、京都にて卒す。年五十八。
津軽平野陸奥国、南・中・北、三津軽郡に亘る平野。岩木川の河谷なり。東は十和田湖の西より北走する津軽半島の脊梁をなす山脈を限とし、南は羽後境矢立峠・立石越等により分水線を劃し、西は岩木山塊と海岸一帯の砂丘(屏風山と称す)に擁蔽せらる。岩木川は其本流西方よりし、南より来るヒラ川及び東より来る浅瀬石アサセイシ川と弘前市の北にて会合し、正北に流れ、十三潟に注ぎて後、海に入る。平野の広袤、南北約十五里、東西の幅約五里、北するに随つて幅は縮小し、木造・五所川原の線にて三里、十三潟の岸に到れば僅かに一里なり。此間土地低平、支流溝渠網の如く通じ、青森県産米は、大部分此平野より出づ。

(以上、日本百科大辞典に拠る)

 津軽の歴史は、あまり人に知られてゐない。陸奥青森県津軽と同じものだと思つてゐる人さへあるやうである。無理もない事で、私たちの学校で習つた日本歴史の教科書には、津軽といふ名詞が、たつた一箇所に、ちらと出てゐるだけであつた。すなはち、阿倍比羅夫蝦夷討伐のところに、「幸徳天皇が崩ぜられて、斉明天皇がお立ちになるや、中大兄皇子は、引続き皇太子として政をお輔けになり、阿倍比羅夫をして、今の秋田・津軽の地方を平げしめられた。」といふやうな文章があつて、津軽の名前も出て来るが、本当にもう、それつきり、小学校の教科書にも、また中学校の教科書にも、高等学校の講義にも、その比羅夫のところの他には津軽なんて名前は出て来ない。皇紀五百七十三年の四道将軍の派遣も、北方は今の福島県あたり迄だつたやうだし、それから約二百年後の日本武尊蝦夷御平定も北は日高見国までのやうで、日高見国といふのは今の宮城県の北部あたりらしく、それから約五百五十年くらゐ経つて大化改新があり、阿倍比羅夫蝦夷征伐に依つて、はじめて津軽の名前が浮び上り、また、それつ切り沈んで、奈良時代には多賀城(今の仙台市附近)秋田城(今の秋田市)を築いて蝦夷を鎮められたと伝へられてゐるだけで津軽の名前はも早や出て来ない。平安時代になつて、坂上田村麻呂が遠く北へ進んで蝦夷の根拠地をうち破り、胆沢城いざはじやう(今の岩手県水沢町附近)を築いて鎮所となしたとあるが、津軽まではやつて来なかつたやうである。その後、弘仁年間には文室綿麻呂の遠征があり、また元慶二年には出羽蝦夷の叛乱があり藤原保則その平定に赴き、その叛乱には津軽蝦夷も荷担してゐたとかいふ事であるが、専門家でもない私たちは、蝦夷征伐といへば田村麻呂、その次には約二百五十年ばかり飛んで源平時代初期の、前九年後三年の役を教へられてゐるばかりである。この前九年後三年の役だつて、舞台は今の岩手県秋田県であつて、安倍氏清原氏などの所謂蝦夷ニギエゾが活躍するばかりで、都加留ツガルなどといふ奥地の純粋の蝦夷の動静に就いては、私たちの教科書には少しも記されてゐなかつた。それから藤原氏三代百余年間の平泉の栄華があり、文治五年、源頼朝に依つて奥州は平定せられ、もうその頃から、私たちの教科書はいよいよ東北地方から遠ざかり、明治維新にも奥州諸藩は、ただちよつと立つて裾をはたいて坐り直したといふだけの形で、薩長土の各藩に於けるが如き積極性は認められない。まあ、大過なく時勢に便乗した、と言はれても、仕方の無いやうなところがある。結局、もう、何も無い。私たちの教科書、神代の事は申すもかしこし、神武天皇以来現代まで、阿倍比羅夫ただ一個所に於いて「津軽」の名前を見つける事が出来るだけだといふのは、まことに心細い。いつたい、その間、津軽では何をしてゐたのか。ただ、裾をはたいて坐り直し、また裾をはたいて坐り直し、二千六百年間、一歩も外へ出ないで、眼をぱちくりさせてゐただけの事なのか。いやいやさうではないらしい。ご当人に言はせると、「かう見えても、これでなかなか忙がしくてねえ。」といふやうなところらしい。
「奥羽とは奥州、出羽の併称で、奥州とは陸奥むつ州の略称である。陸奥とは、もと白河、勿来の二関以北の総称であつた。名義は『道の奥』で、略されて『みちのく』となつた。その『みち』の国の名を、古い地方音によつて『むつ』と発音し、『むつ』の国となつた。この地方は東海東山両道の末をうけて、一番奥にある異民族住居の国であつたから、漠然と道の奥と呼んだに他ならぬ。漢字『陸』は『道』の義である。
 次に出羽は『いでは』で、出端いではしの義と解せられる。古は本州中部から東北の日本海方面地方を、漠然とこしの国と呼んだ。これも奥の方は、陸奥みちのくと同じく、久しく異民族住居の化外の地で、これを出端いではしと言つたのであらう。即ち太平洋方面なる陸奥と共に、もと久しく王化の外に置かれた僻陬であつたことを、その名に示してゐる。」といふのは、喜田博士の解説であるが、簡明である。解説は簡単で明瞭なるに越した事はない。出羽奥州すでに化外の僻陬と見なされてゐたのだから、その極北の津軽半島などに到つては熊や猿の住む土地くらゐに考へられてゐたかも知れない。喜田博士は、さらに奥羽の沿革を説き、「頼朝の奥羽平定以後と雖も、その統治に当り自然他と同一なること能はず、『出羽陸奥に於いては夷の地たるによりて』との理由のもとに、一旦実施しかけた田制改革の処分をも中止して、すべて秀衡、泰衡の旧規に従ふべきことを命ずるのやむを得ざる程であつた。随つて最北の津軽地方の如きは、住民まだ蝦夷の旧態を存するもの多く、直接鎌倉武士を以てしては、これを統治し難い事情があつたと見えて、土豪安東あんどう氏を代官に任じ、蝦夷管領としてこれを鎮撫せしめた。」といふやうな事を記してゐる。この安東氏の頃あたりから、まあ、少しは津軽の事情もわかつて来る。その前は、何が何やら、アイヌがうろうろしてゐただけの事かも知れない。しかし、このアイヌは、ばかに出来ない。所謂日本の先住民族の一種であるが、いま北海道に残つてしよんぼりしてゐるアイヌとは、根本的にたちが違つてゐたものらしい。その遺物遺跡を見るに、世界のあらゆる石器時代の土器に比して優位をしめてゐる程であるとも言はれ、今の北海道アイヌの祖先は、古くから北海道に住んで、本州の文化に触れること少く、土地隔絶、天恵少く、随つて石器時代にも、奥羽地方の同族に見るが如き発達を遂げるに到らず、殊に近世は、松前藩以来、内地人の圧迫を被ること多く、甚しく去勢されて、堕落の極に達してゐるのに反し、奥羽のアイヌは、溌剌と独自の文化を誇り、或いは内地諸国に移住し、また内地人も奥羽へ盛んに入り込んで来て、次第に他の地方と区別の無い大和民族になつてしまつた。それに就いて理学博士小川琢治氏も、次のやうに論断してゐるやうである。「続日本紀には奈良朝前後に粛慎人及び渤海人が、日本海を渡つて来朝した記載がある。そのうち特に著しいのは聖武天皇天平十八年(一四〇六年)及び光仁天皇宝亀二年(一四三一年)の如く渤海人千余人、つぎに三百余人の多人数が、それぞれ今の秋田地方に来着した事実で、満洲地方と交通が頗る自由に行はれたのは想像し難くない。秋田附近から五銖銭が出土したことがあり、東北には漢文帝武帝を祀つた神社があつたらしいのは、いづれも直接の交通が大陸とこの地方との間に行はれたことを推測せしめる。今昔物語に、安倍頼時満洲に渡つて見聞したことを載せたのは、これらの考古学及び土俗学上の資料と併せ考へて、決して一場の説話として捨てるべきものでない。われわれは、更に一歩を進めて、当時の東北蕃族は皇化東漸以前に、大陸との直接の交通に依つて得たる文華の程度が、不充分なる中央に残つた史料から推定する如く、低級ではなかつたことを同時に確信し得られるのである。田村麻呂、頼義、義家などの武将が、これを緩服するに頗る困難であつたのも、敵手が単に無智なるがために精悍なる台湾生蕃の如き土族でなかつたと考へて、はじめて氷解するのである。」
 さうして、小川博士は、大和朝廷の大官たちが、しばしば蝦夷えみし東人あづまびと毛人けびとなどと名乗つたのは、一つには、奥羽地方人の勇猛、またはその異国的なハイカラな情緒にあやかりたいといふ意味もあつたのではなからうかと考へてみるのも面白いではないか、といふやうな事も言ひ添へてゐる。かうして見ると、津軽人の祖先も、本州の北端で、決してただうろうろしてゐたわけでは無かつたやうでもあるが、けれども、中央の歴史には、どういふものか、さつぱり出て来ない。わづかに、前述の安東氏あたりから、津軽の様子が、ほのかに分明して来る。喜田博士の曰く、「安東氏は自ら安倍貞任の子高星たかぼしの後と称し、その遠祖は長髄彦ながすねひこの兄安日あびなりと言つてゐる。長髄彦神武天皇に抗して誅せられ、兄安日は奥州外ヶ浜に流されて、その子孫安倍氏となつたといふのである。いづれにしても鎌倉時代以前よりの、北奥の大豪族であつたに相違ない。津軽に於いて、口三郡は鎌倉役であり、奥三郡は御内裏様御領で、天下の御帳に載らざる無役の地だつたと伝へられてゐるのは、鎌倉幕府の威力もその奥地に及ばず、安東氏の自由に委して、謂はゆる守護不入の地となつてゐたことを語つたものであらう。
 鎌倉時代の末、津軽に於いて安東氏一族の間に内訌あり、遂に蝦夷の騒乱となるに到つて、幕府の執権北条高時、将を遣はしてこれを鎮撫せしめたが、鎌倉武士の威力を以てしてこれに勝つ能はず、結局和談の儀を以て引き上げたとある。」
 さすがの喜田博士も津軽の歴史を述べるに当つては、少し自信のなささうな口振りである。まつたく、津軽の歴史は、はつきりしないらしい。ただ、この北端の国は、他国と戦ひ、負けた事が無いといふのは本当のやうだ。服従といふ観念に全く欠けてゐたらしい。他国の武将もこれには呆れて、見て見ぬ振りをして勝手に振舞はせてゐたらしい。昭和文壇に於ける誰かと似てゐる。それはともかく、他国が相手にせぬので、仲間同志で悪口を言ひ合ひ格闘をはじめる。安東氏一族の内訌に端を発した津軽蝦夷の騒擾などその一例である。津軽の人、竹内運平氏青森県通史に拠れば、「この安東一族の騒乱は、引いて関八州の騒動となり、所謂北条九代記の『是ぞ天地の命の革むべき危機の初め』となつてやがては元弘の変となり、建武の中興となつた。」とあるが、或いはその御大業の遠因の一つに数へられてしかるべきものかも知れない。まことならば、津軽が、ほんの少しでも中央の政局を動かしたのは、実にこれ一つといふ事になつて、この安東氏一族の内訌は、津軽の歴史に特筆大書すべき光栄ある記録とでも言はなければならなくなる。いまの青森県の太平洋寄りの地方は古くから糠部ぬかのぶと称する蝦夷地であつたが、鎌倉時代以後、ここに甲州武田氏の一族南部氏が移り住み、その勢ひ頗る強大となり、吉野、室町時代を経て、秀吉の全国統一に到るまで、津軽はこの南部と争ひ、津軽に於いては安東氏のかはりに津軽氏が立ち、どうやら津軽一国を安堵し、津軽氏は十二代つづいて、明治維新、藩主承昭は藩籍を謹んで奉還したといふのが、まあ、津軽の歴史の大略である。この津軽氏の遠祖に就いては諸説がある。喜田博士もそれに触れて、「津軽に於いては、安東氏没落し、津軽氏独立して南部氏と境を接して長く相敵視するの間柄となつた。津軽氏は近衛関白尚通の後裔と称してゐる。しかし一方では南部氏の分れであるといひ、或ひは藤原基衡の次男秀栄ひでしげの後だとも、或ひは安東氏の一族であるかの如くにも伝へ、諸説紛々適従するところを知らぬ。」と言つてゐる。また、竹内運平氏もその事に就いて次のやうに述べてゐる。「南部家と津軽家とは江戸時代を通じ、著しく感情の疎隔を有しつつ終始した。右の原因は、南部氏が津軽家を以て祖先の敵であり旧領を押領せるものと見做す事、及び津軽家はもと南部の一族であり、被官の地位にあつたのに其主に背いたと称し、また一方、津軽家にては、わが遠祖は藤原氏であり、中世に於いても近衛家の血統の加はれるものである、と主張する事等から起つて居るらしい。勿論、事実に於いて南部高信は津軽為信のために亡ぼされ、津軽郡中の南部方の諸城は奪取せられて居るのみならず、為信数代の祖大浦光信の母は、南部久慈備前守の女であり、以後数代南部信濃守と称して居る家柄であつたから、南部氏の津軽家に対し一族の裏切者として深怨を含んで居る事も無理のない事と思ふ。なほ、津軽家はその遠祖を藤原、近衛家などに求めてゐるが、現在より見ては、必ずしも吾等を首肯せしむる根本証拠を伴うて居るものではない。南部氏に非ず、との弁護の立場を取つて居る可足記の如きも、甚だ力弱い論旨を示して居る。古くは津軽に於いても高屋家記の如きは、大浦氏を以て南部家の支族とし、木立日記にも『南部様津軽様御家は御一体なり』と云ひ、近来出版になつた読史備要等も為信を久慈氏(南部氏一族)として居る事に対し、それを否定すべき確実なる資料は、今のところ無いやうに思ふ。しかし津軽には過去にこそ南部の血統もあり、また被官ではあつても、血統の他の一面にはどんな由緒のものもないとは云へない。」と喜田博士同様、断乎たる結論は避けてゐる。それを簡明直截に疑はず規定してゐるのは、日本百科大辞典だけであつたから、一つの参考としてこの章のはじめに載せて置いた。
 以上くだくだしく述べて来たが、考へてみると、津軽といふのは、日本全国から見てまことに渺たる存在である。芭蕉の「奥の細道」には、その出発に当り、「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」と書いてあるが、それだつて北は平泉、いまの岩手県の南端に過ぎない。青森県に到達するには、その二倍歩かなければならぬ。さうして、その青森県日本海寄りの半島たつた一つが津軽なのである。昔の津軽は、全流程二十二里八町の岩木川に沿うてひらけた津軽平野を中心に、東は青森、浅虫あたり迄、西は日本海々岸を北から下つてせいぜい深浦あたり迄、さうして南は、まあ弘前迄といつていいだらう。分家の黒石藩が南にあるが、この辺にはまた黒石藩としての独自の伝統もあり、津軽藩とちがつた所謂文化的な気風も育成せられてゐるやうだから、これは除いて、さうして、北端は竜飛である。まことに心細いくらゐに狭い。これでは、中央の歴史に相手にされなかつたのも無理はないと思はれて来る。私は、その「道の奥」の奥の極点の宿で一夜を明し、翌る日、やつぱりまだ船が出さうにも無いので、前日歩いて来た路をまた歩いて三厩まで来て、三厩で昼食をとり、それからバスでまつすぐに蟹田のN君の家へ帰つて来た。歩いてみると、しかし、津軽もそんなに小さくはない。その翌々日の昼頃、私は定期船でひとり蟹田を発ち、青森の港に着いたのは午後の三時、それから奥羽線で川部まで行き、川部で五能線に乗りかへて五時頃五所川原に着き、それからすぐ津軽鉄道津軽平野を北上し、私の生れた土地の金木町に着いた時には、もう薄暗くなつてゐた。蟹田と金木と相隔たる事、四角形の一辺に過ぎないのだが、その間に梵珠山脈があつて山中には路らしい路も無いやうな有様らしいので、仕方なく四角形の他の三辺を大迂回して行かなければならぬのである。金木の生家に着いて、まづ仏間へ行き、嫂がついて来て仏間の扉を一ぱいに開いてくれて、私は仏壇の中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。それから、常居じよゐといふ家族の居間にさがつて、改めて嫂に挨拶した。
「いつ、東京を?」と嫂は聞いた。
 私は東京を出発する数日前、こんど津軽地方を一周してみたいと思つてゐますが、ついでに金木にも立寄り、父母の墓参をさせていただきたいと思つてゐますから、その折にはよろしくお願ひします、といふやうな葉書を嫂に差上げてゐたのである。
「一週間ほど前です。東海岸で、手間どつてしまひました。蟹田のN君には、ずいぶんお世話になりました。」N君の事は、嫂も知つてゐる筈だつた。
「さう。こちらではまた、お葉書が来ても、なかなかご本人がお見えにならないので、どうしたのかと心配してゐました。陽子やみつちやんなどは、とても待つて、毎日交代に停車場へ出張してゐたのですよ。おしまひには、怒つて、もう来たつて知らない、と言つてゐた人もありました。」
 陽子といふのは長兄の長女で、半年ほど前に弘前の近くの地主の家へお嫁に行き、その新郎と一緒にちよいちよい金木へ遊びに来るらしく、その時も、お二人でやつて来てゐたのである。光ちやんといふのは、私たちの一ばん上の姉の末娘で、まだ嫁がず金木の家へいつも手伝ひに来てゐる素直な子である。その二人の姪が、からみ合ひながら、えへへ、なんておどけた笑ひ方をして出て来て、酒飲みのだらしない叔父さんに挨拶した。陽子は女学生みたいで、まだ少しも奥さんらしくない。
「をかしい恰好。」と私の服装をすぐに笑つた。
「ばか。これが、東京のはやりさ。」
 嫂に手をひかれて、祖母も出て来た。八十八歳である。
「よく来た。ああ、よく来た。」と大声で言ふ。元気な人だつたが、でも、さすがに少し弱つて来てゐるやうにも見えた。
「どうしますか。」と嫂は私に向つて、「ごはんは、ここで食べますか。二階に、みんなゐるんですけど。」
 陽子のお婿さんを中心に、長兄や次兄が二階で飲みはじめてゐる様子である。
 兄弟の間では、どの程度に礼儀を保ち、またどれくらゐ打ち解けて無遠慮にしたらいいものか、私にはまだよくわかつてゐない。
「お差支へなかつたら、二階へ行きませうか。」ここでひとりで、ビールなど飲んでゐるのも、いぢけてゐるみたいで、いやらしい事だと思つた。
「どちらだつて、かまひませんよ。」嫂は笑ひながら、「それぢや、二階へお膳を。」と光ちやんたちに言ひつけた。
 私はジヤンパー姿のままで二階に上つて行つた。金襖の一ばんいい日本間にほんまで、兄たちは、ひつそりお酒を飲んでゐた。私はどたばたとはひり、
「修治です。はじめて。」と言つて、まづお婿さんに挨拶して、それから長兄と次兄に、ごぶさたのお詫びをした。長兄も次兄も、あ、と言つて、ちよつと首肯いたきりだつた。わが家の流儀である。いや、津軽の流儀と言つていいかも知れない。私は慣れてゐるので平気でお膳について、光ちやんと嫂のお酌で、黙つてお酒を飲んでゐた。お婿さんは、床柱をうしろにして坐つて、もうだいぶお顔が赤くなつてゐる。兄たちも、昔はお酒に強かつたやうだが、このごろは、めつきり弱くなつたやうで、さ、どうぞ、もうひとつ、いいえ、いけません、そちらさんこそ、どうぞ、などと上品にお互ひゆづり合つてゐる。外ヶ浜で荒つぽく飲んで来た私には、まるで竜宮か何か別天地のやうで、兄たちと私の生活の雰囲気の差異に今更のごとく愕然とし、緊張した。
「蟹は、どうしませう。あとで?」と嫂は小声で私に言つた。私は蟹田の蟹を少しお土産に持つて来たのだ。
「さあ。」蟹といふものは、どうも野趣がありすぎて上品のお膳をいやしくする傾きがあるので私はちよつと躊躇した。嫂も同じ気持だつたのかも知れない。
「蟹?」と長兄は聞きとがめて、「かまひませんよ。持つて来なさい。ナプキンも一緒に。」
 今夜は、長兄もお婿さんがゐるせゐか、機嫌がいいやうだ。
 蟹が出た。
「おあがり、なさいませんか。」と長兄はお婿さんにもすすめて、自身まつさきに蟹の甲羅をむいた。
 私は、ほつとした。
「失礼ですが、どなたです。」お婿さんは、無邪気さうな笑顔で私に言つた。はつと思つた。無理もないとすぐに思ひ直して、
「はあ、あのう、英治さん(次兄の名)の弟です。」と笑ひながら答へたが、しよげてしまつて、これあ、英治さんの名前を出してもいけなかつたかしら、と卑屈に気を使つて、次兄の顔色を伺つたが、次兄は知らん顔をしてゐるので、取りつく島も無かつた。ま、いいや、と私は膝を崩して、光ちやんに、こんどはビールをお酌させた。
 金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、かうして書くからいけないのだ。肉親を書いて、さうしてその原稿を売らなければ生きて行けないといふ悪い宿業を背負つてゐる男は、神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、生家のなつかしい夢を見て慕ひ、あちこちうろつき、さうして死ぬのかも知れない。
 翌る日は、雨であつた。起きて二階の長兄の応接間へ行つてみたら、長兄はお婿さんに絵を見せてゐた。金屏風が二つあつて、一つには山桜、一つには田園の山水とでもいつた閑雅な風景が画かれてゐる。私は落款を見た。が、読めなかつた。
「誰です。」と顔を赤らめ、おどおどしながら聞いた。
「スイアン。」と兄は答へた。
「スイアン。」まだわからなかつた。
「知らないのか。」兄は別に叱りもせず、おだやかにさう言つて、「百穂のお父さんです。」
「へえ?」百穂のお父さんもやつぱり画家だつたといふ事は聞いて知つてゐたが、そのお父さんが穂庵すいあんといふ人で、こんないい絵をかくとは知らなかつた。私だつて、絵はきらひではないし、いや、きらひどころか、かなりつうのつもりでゐたのだが、穂庵を知らなかつたとは、大失態であつた。屏風をひとめ見て、おや? 穂庵、と軽く言つたなら、長兄も少しは私を見直したかも知れなかつたのに、間抜けた声で、誰です、は情ない。取返しのつかぬ事になつてしまつた、と身悶えしたが、兄は、そんな私を問題にせず、
「秋田には、偉い人がゐます。」とお婿さんに向つて低く言つた。
津軽綾足あやたりはどうでせう。」名誉恢復と、それから、お世辞のつもりもあつて、私は、おつかなびつくり出しやばつてみた。津軽の画家といへば、まあ、綾足くらゐのものらしいが、実はこれも、この前に金木へ来た時、兄の持つてゐる綾足の画を見せてもらつて、はじめて、津軽にもこんな偉い画家がゐたといふ事を知つた次第なのである。
「あれは、また、べつのもので。」と兄は全く気乗りのしないやうな口調で呟いて、椅子に腰をおろした。私たちは皆、立つて屏風の絵を眺めてゐたのだが、兄が坐つたので、お婿さんもそれと向ひ合つた椅子に腰をかけ、私は少し離れて、入口の傍のソフアに腰をおろした。
「この人などは、まあ、これで、ほんすぢでせうから。」とやはりお婿さんのはうを向いて言つた。兄は前から、私には、あまり直接話をしない。
 さう言へば、綾足のぼつてりした重量感には、もう少しどうかするとゲテモノに落ちさうな不安もある。
「文化の伝統、といひますか、」兄は背中を丸めてお婿さんの顔を見つめ、「やつぱり、秋田には、根強いものがあると思ひます。」
津軽は、だめか。」何を言つても、ぶざまな結果になるので、私はあきらめて、笑ひながらひとりごとを言つた。
「こんど、津軽の事を何か書くんだつて?」と兄は、突然、私に向つて話しかけた。
「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので、」と私はしどろもどろになり、「何か、いい参考書でも無いでせうか。」
「さあ、」と兄は笑ひ、「わたしも、どうも、郷土史にはあまり興味が無いので。」
津軽名所案内といつたやうな極く大衆的な本でも無いでせうか。まるで、もう、何も知らないのですから。」
「無い、無い。」と兄は私のずぼらに呆れたやうに苦笑しながら首を振つて、それから立ち上つてお婿さんに、
「それぢやあ、わたしは農会へちよつと行つて来ますから、そこらにある本でも御覧になつて、どうも、けふはお天気がわるくて。」と言つて出かけて行つた。
「農会も、いま、いそがしいのでせうね。」と私はお婿さんに尋ねた。
「ええ、いま、ちやうど米の供出割当の決定があるので、たいへんなのです。」とお婿さんは若くても、地主だから、その方面の事はよく知つてゐる。いろいろこまかい数字を挙げて説明してくれたが、私には、半分もわからなかつた。
「僕などは、いままで米の事などむきになつて考へた事は無かつたやうなものなのですが、でも、こんな時代になつて来ると、やはり汽車の窓から水田をそれこそ、わが事のやうに一喜一憂して眺めてゐるのですね。ことしは、いつまでも、こんなにうすら寒くて、田植ゑもおくれるんぢやないでせうか。」私は、れいに依つて専門家に向ひ、半可通を振りまはした。
「大丈夫でせう。このごろは寒ければ寒いで、対策も考へて居りますから。苗の発育も、まあ、普通のやうです。」
「さうですか。」と私は、もつともらしい顔をして首肯き、「僕の知識は、きのふ汽車の窓からこの津軽平野を眺めて得ただけのものなのですが、馬耕といふんですか、あの馬に挽かせて田を打ちかへすあれを、牛に挽かせてやつてゐるのがずいぶん多いやうですね。僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するといふ事は、ほとんど無かつたんですがね。僕なんか、はじめて東京へ行つた時、牛が荷車を挽いてゐるのを見て、奇怪に感じた程です。」
「さうでせう。馬はめつきり少くなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は飼養するのに手数がかからないといふ関係もあるでせうね。でも、仕事の能率の点では、牛は馬の半分、いや、もつともつと駄目かも知れません。」
「出征といへば、もう、――」
「僕ですか? もう、二度も令状をいただきましたが、二度とも途中でかへされて、面目ないんです。」健康な青年の、くつたくない笑顔はいいものだ。「こんどは、かへされたくないと思つてゐるんですが。」自然な口調で、軽く言つた。
「この地方に、これは偉い、としんから敬服出来るやうな、隠れた大人物がゐないものでせうか。」
「さあ、僕なんかには、よくわかりませんけど、篤農家などと言はれてゐる人の中に、ひよつとしたら、あるんぢやないでせうか。」
「さうでせうね。」私は大いに同感だつた。「僕なんかも、理窟は下手だし、まあ篤文家とでもいつたやうなこけの一念で生きて行きたいと思つてゐるのですが、どうも、つまらぬ虚栄などもあつて、常識的な、きざつたらしい事になつてしまつて、ものになりません。しかし、篤農家も、篤農家としてあまり大きいレツテルをはられると、だめになりはしませんか。」
「さう。さうです。新聞社などが無責任に矢鱈に騒ぎ立て、ひつぱり出して講演をさせたり何かするので、せつかくの篤農家も妙な男になつてしまふのです。有名になつてしまふと、駄目になります。」
「まつたくですね。」私はそれにも同感だつた。「男つて、あはれなものですからね。名声には、もろいものです。ジヤアナリズムなんて、もとをただせば、アメリカあたりの資本家の発明したもので、いい加減なものですからね。毒薬ですよ。有名になつたとたんに、たいてい腑抜けになつてゐますからね。」私は、へんなところで自分の一身上の鬱憤をはらした。こんな不平家は、しかし、さうは言つても、内心では有名になりたがつてゐるといふやうな傾向があるから、注意を要する。
 ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた。一木一草も変つてゐない感じであつた。かうして、古い家をそのまま保持してゐる兄の努力も並たいていではなからうと察した。池のほとりに立つてゐたら、チヤボリと小さい音がした。見ると、蛙が飛び込んだのである。つまらない、あさはかな音である。とたんに私は、あの、芭蕉翁の古池の句を理解できた。私には、あの句がわからなかつた。どこがいいのか、さつぱり見当もつかなかつた。名物にうまいものなし、と断じてゐたが、それは私の受けた教育が悪かつたせゐであつた。あの古池の句に就いて、私たちは学校で、どんな説明を与へられてゐたか。森閑たる昼なほ暗きところに蒼然たる古池があつて、そこに、どぶうんと(大川へ身投げぢやあるまいし)蛙が飛び込み、ああ、余韻嫋々、一鳥蹄きて山さらに静かなりとはこの事だ、と教へられてゐたのである。なんといふ、思はせぶりたつぷりの、月並つきなみな駄句であらう。いやみつたらしくて、ぞくぞくするわい。鼻持ちならん、と永い間、私はこの句を敬遠してゐたのだが、いま、いや、さうぢやないと思ひ直した。どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなつてしまふのだ。余韻も何も無い。ただの、チヤボリだ。謂はば世の中のほんの片隅の、実にまづしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあつたのだ。古池や蛙飛び込む水の音。さう思つてこの句を見直すと、わるくない。いい句だ。当時の檀林派のにやけたマンネリズムを見事に蹴飛ばしてゐる。謂はば破格の着想である。月も雪も花も無い。風流もない。ただ、まづしいものの、まづしい命だけだ。当時の風流宗匠たちが、この句に愕然としたわけも、それでよくわかる。在来の風流の概念の破壊である。革新である。いい芸術家は、かう来なくつちや嘘だ、とひとりで興奮して、その夜、旅の手帖にかう書いた。
「山吹や蛙飛び込む水の音。其角、ものかは。なんにも知らない。われと来て遊べや親の無い雀。すこし近い。でも、あけすけでいや。古池や、無類なり。」
 翌る日は、上天気だつた。姪の陽子と、そのお婿さんと、私と、それからアヤが皆のお弁当を背負つて、四人で、金木町から一里ほど東の高流たかながれと称する二百メートル足らずの、なだらかな小山に遊びに行つた。アヤ、と言つても、女の名前ではない。ぢいや、といふ程の意味である。お父さん、といふ意味にも使はれる。アヤに対する Femme は、アパである。アバとも言ふ。どういふところから、これらの言葉が起つて来たのか、私には、わからない。オヤ、オバの訛りか、などと当てずつぱうしてみたつてはじまらない。諸家の諸説がある事であらう。高流といふ山の名前も、姪の説に依ると、高長根たかながねといふのが正しい呼び方で、なだらかに裾のひろがつてゐるさまが、さながら長根の感じとか何とかといふ事であつたが、これにもまた諸家の諸説があるのであらう。諸家の諸説が紛々として帰趨の定まらぬところに、郷土学の妙味がある様子である。姪とアヤは、お弁当や何かで手間取つてゐるので、お婿さんと私とだけ、一足さきに家を出た。よい天気である。津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも、「昔より北地に遊ぶ人は皆夏ばかりなれば、草木も青み渡り、風も南風に変り、海づらものどかなれば、恐ろしき名にも立ざる事と覚ゆ。我北地に到りしは、九月より三月の頃なれば、途中にて旅人には絶えて逢ふ事なかりし。我旅行は医術修行の為なれば、格別の事なり。只名所をのみ探らんとの心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり。」としてあるが、旅行の達人の言として、読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林檎、梨、すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。自信ありげに、私が先に立つて町はづれまで歩いて来たが、高流へ行く路がわからない。小学校の頃に二、三度行つた事があるきりなのだから、忘れるのも無理はないとも思つたが、しかし、その辺の様子が、幼い頃の記憶とまるで違つてゐる。私は当惑して、
「停車場や何か出来て、この辺は、すつかり変つて、高流には、どう行けばいいのか、わからなくなりました。あの山なんですがね。」と私は、前方に見える、への字形に盛りあがつた薄みどり色の丘陵を指差して言つた。「この辺で、少しぶらぶらして、アヤたちを待つ事にしませう。」とお婿さんに笑ひながら提案した。
「さうしませう。」とお婿さんも笑ひながら、「この辺に、青森県の修錬農場があるとか聞きましたけど。」私よりも、よく知つてゐる。
「さうですか。捜してみませう。」
 修錬農場は、その路から半丁ほど右にはひつた小高い丘の上にあつた。農村中堅人物の養成と拓士訓練の為に設立せられたもののやうであるが、この本州の北端の原野に、もつたいないくらゐの堂々たる設備である。秩父の宮様が弘前の八師団に御勤務あそばされていらつしやつた折に、かしこくも、この農場にひとかたならず御助勢下されたとか、講堂もその御蔭で、地方稀に見る荘厳の建物になつて、その他、作業場あり、家畜小屋あり、肥料蓄積所、寄宿舎、私は、ただ、眼を丸くして驚くばかりであつた。
「へえ? ちつとも、知らなかつた。金木には過ぎたるものぢやないですか。」さう言ひながら、私は、へんに嬉しくて仕方が無かつた。やつぱり自分の生れた土地には、ひそかに、力こぶをいれてゐるものらしい。
 農場の入口に、大きい石碑が立つてゐて、それには、昭和十年八月、朝香宮様の御成、同年九月、高松宮様の御成、同年十月、秩父宮様ならびに同妃宮様の御成、昭和十三年八月に秩父宮様ふたたび御成、といふ幾重もの光栄を謹んで記してゐるのである。金木町の人たちは、この農場を、もつともつと誇つてよい。金木だけではない、これは、津軽平野の永遠の誇りであらう。実習地とでもいふのか、津軽の各部落から選ばれた模範農村青年たちの作つた畑や果樹園、水田などが、それらの建築物の背後に、実に美しく展開してゐた。お婿さんはあちこち歩いて耕地をつくづく眺め、
「たいしたものだなあ。」と溜息をついて言つた。お婿さんは地主だから、私などより、ずいぶんいろいろ、わかるところがあるのであらう。
「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏いてふの葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟たる美女ではある。
「金木も、どうも、わるくないぢやないか。」私は、あわてたやうな口調で言つた。「わるくないよ。」口をとがらせて言つてゐる。
「いいですな。」お婿さんは落ちついて言つた。
 私はこの旅行で、さまざまの方面からこの津軽富士を眺めたが、弘前から見るといかにも重くどつしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思ふ一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかつた。西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまつて、もはや美人の面影は無い。岩木山の美しく見える土地には、米もよくみのり、美人も多いといふ伝説もあるさうだが、米のはうはともかく、この北津軽地方は、こんなにお山が綺麗に見えながら、美人のはうは、どうも、心細いやうに、私には見受けられたが、これは或いは私の観察の浅薄なせゐかも知れない。
「アヤたちは、どうしたでせうね。」ふつと私は、その事が心配になり出した。「どんどんさきに行つてしまつたんぢやないかしら。」アヤたちの事を、つい忘却してゐるほど、私たちは、修錬農場の設備や風景に感心してしまつてゐたのである。私たちは、もとの路に引返して、あちこち見廻してゐると、アヤが、思ひがけない傍系の野路からひよつこり出て来て、わしたちは、いままであなたたちを手わけしてさがしてゐた、と笑ひながら言ふ。アヤは、この辺の野原を捜し廻り、姪は、高流へ行く路をまつすぐにどんどん後を追つかけるやうにして行つたといふ。
「そいつあ気の毒だつたな。陽ちやんは、それぢやあ、ずいぶん遠くまで行つてしまつたらうね。おうい。」と前方に向つて大声で呼んだが、何の返辞も無い。
「まゐりませう。」とアヤは背中の荷物をゆすり上げて、「どうせ、一本道ですから。」
 空には雲雀がせはしく囀つてゐる。かうして、故郷の春の野路を歩くのも、二十年振りくらゐであらうか。一面の芝生で、ところどころに低い灌木の繁みがあつたり、小さい沼があつたり、土地の起伏もゆるやかで、一昔前だつたら都会の人たちは、絶好のゴルフ場とでも言つてほめたであらう。しかも、見よ、いまはこの原野にも着々と開墾の鍬が入れられ、人家の屋根も美しく光り、あれが更生部落、あれが隣村の分村、とアヤの説明を聞きながら、金木も発展して、賑やかになつたものだと、しみじみ思つた。そろそろ、山の登り坂にさしかかつても、まだ姪の姿が見えない。
「どうしたのでせうね。」私は、母親ゆづりの苦労性である。
「いやあ、どこかにゐるでせう。」新郎は、てれながらも余裕を見せた。
「とにかく、聞いてみませう。」私は路傍の畑で働いてゐるお百姓さんに、スフの帽子をとつてお辞儀をして、「この路を、洋服を着た若いアネサマがとほりませんでしたか。」と尋ねた。とほつた、といふ答へである。何だか、走るやうに、ひどくいそいでとほつたといふ。春の野路を、走るやうにいそいで新郎の後を追つて行く姪の姿を想像して、わるくないと思つた。しばらく山を登つて行くと、並木の落葉松の蔭に姪が笑ひながら立つてゐた。ここまで追つかけて来てもゐないから、あとから来るのだらうと思つて、ここでワラビを取つてゐたといふ。別に疲れた様子も見えない。この辺は、ワラビ、ウド、アザミ、タケノコなど山菜の宝庫らしい。秋には、初茸はつたけ、土かぶり、なめこなどのキノコ類が、アヤの形容に依れば「かさつてゐるほど」一ぱい生えて、五所川原、木造あたりの遠方から取りに来る人もあるといふ。
「陽ちやまは、きのこ取りの名人です。」と言ひ添へた。また、山を登りながら、
「金木へ、宮様がおいでになつたさうだね。」と私が言ふと、アヤは、改まつた口調で、はい、と答へた。
「ありがたい事だな。」
「はい。」と緊張してゐる。
「よく、金木みたいなところに、おいで下さつたものだな。」
「はい。」
「自動車で、おいでになつたか。」
「はい。自動車でおいでになりました。」
「アヤも、拝んだか。」
「はい。拝ませていただきました。」
「アヤは、仕合せだな。」
「はい。」と答へて、首筋に巻いてゐるタオルで顔の汗を拭いた。
 鶯が鳴いてゐる。スミレ、タンポポ、野菊、ツツジ、白ウツギ、アケビ、野バラ、それから、私の知らない花が、山路の両側の芝生に明るく咲いてゐる。背の低い柳、カシハも新芽を出して、さうして山を登つて行くにつれて、笹がたいへん多くなつた。二百メートルにも足りない小山であるが、見晴しはなかなかよい。津軽平野全部、隅から隅まで見渡す事が出来ると言ひたいくらゐのものであつた。私たちは立ちどまつて、平野を見下し、アヤから説明を聞いて、また少し歩いて立ちどまり、津軽富士を眺めてほめて、いつのまにやら、小山の頂上に到達した。
「これが頂上か。」私はちよつと気抜けして、アヤに尋ねた。
「はい、さうです。」
「なあんだ。」とは言つたものの、眼前に展開してゐる春の津軽平野の風景には、うつとりしてしまつた。岩木川が細い銀線みたいに、キラキラ光つて見える。その銀線の尽きるあたりに、古代の鏡のやうに鈍く光つてゐるのは、田光たつぴ沼であらうか。さらにその遠方に模糊と煙るが如く白くひろがつてゐるのは、十三湖らしい。十三湖あるいは十三がたと呼ばれて、「津軽大小の河水凡そ十有三の派流、この地に落合ひて大湖となる。しかも各河川固有の色を失はず。」と「十三往来」に記され、津軽平野北端の湖で、岩木川をはじめ津軽平野を流れる大小十三の河川がここに集り、周囲は約八里、しかし、河川の運び来る土砂の為に、湖底は浅く、最も深いところでも三メートルくらゐのものだといふ。水は、海水の流入によつて鹹水であるが、岩木川からそそぎ這入る河水も少くないので、その河口のあたりは淡水で、魚類も淡水魚と鹹水魚と両方宿り住んでゐるといふ。湖が日本海に開いてゐる南口に、十三といふ小さい部落がある。この辺は、いまから七、八百年も前からひらけて、津軽の豪族、安東氏の本拠であつたといふ説もあり、また江戸時代には、その北方の小泊港と共に、津軽の木材、米穀を積出し、殷盛を極めたとかいふ話であるが、いまはその一片の面影も無いやうである。その十三湖の北に権現崎が見える。しかし、この辺から、国防上重要の地域にはひる。私たちは眼を転じて、前方の岩木川のさらに遠方の青くさつと引かれた爽やかな一線を眺めよう。日本海である。七里長浜、一眸の内である。北は権現崎より、南は大戸瀬崎まで、眼界を遮ぎる何物も無い。
「これはいい。僕だつたら、ここへお城を築いて、」と言ひかけたら、
「冬はどうします?」と陽子につつ込まれて、ぐつとつまつた。
「これで、雪が降らなければなあ。」と私は、幽かな憂鬱を感じて歎息した。
 山の陰の谷川に降りて、河原で弁当をひらいた。渓流にひやしたビールは、わるくなかつた。姪とアヤは、リンゴ液を飲んだ。そのうちに、ふと私は見つけた。
「蛇!」
 お婿さんは脱ぎ捨てた上衣をかかへて腰をうかした。
「大丈夫、大丈夫。」と私は谷川の対岸の岩壁を指差して言つた。「あの岩壁に這ひ上らうとしてゐるのです。」奔湍から首をぬつと出して、見る見る一尺ばかり岩壁によぢ登りかけては、はらりと落ちる。また、するすると登りかけては、落ちる。執念深く二十回ほどそれを試みて、さすがに疲れてあきらめたか、流れに押流されるやうにして長々と水面にからだを浮かせたままこちらの岸に近づいて来た。アヤは、この時、立ち上つた。一間ばかりの木の枝を持ち、黙つて走つて行つて、ざんぶと渓流に突入し、ずぶりとやつた。私たちは眼をそむけ、
「死んだか、死んだか。」私は、あはれな声を出した。
「片附けました。」アヤは、木の枝も一緒に渓流にはふり投げた。
「まむしぢやないか。」私は、それでも、まだ恐怖してゐた。
「まむしなら、生捕りにしますが、いまのは、青大将でした。まむしの生胆は薬になります。」
「まむしも、この山にゐるのかね。」
「はい。」
 私は、浮かぬ気持で、ビールを飲んだ。
 アヤは、誰よりも早くごはんをすまして、それから大きい丸太を引ずつて来て、それを渓流に投げ入れ、足がかりにして、ひよいと対岸に飛び移つた。さうして、対岸の山の絶壁によぢ登り、ウドやアザミなど、山菜を取り集めてゐる様子である。
「あぶないなあ。わざわざ、あんな危いところへ行かなくつたつて、他のところにもたくさん生えてゐるのに。」私は、はらはらしながらアヤの冒険を批評した。「あれはきつと、アヤは興奮して、わざとあんな危いところへ行き、僕たちにアヤの勇敢なところを大いに見せびらかさうといふ魂胆に違ひない。」
「さうよ、さうよ。」と姪も大笑ひしながら、賛成した。
「アヤあ!」と私は大声で呼びかけた。「もう、いい。あぶないから、もう、いい。」
「はい。」とアヤは答へて、するすると崖から降りた。私は、ほつとした。
 帰りは、アヤの取り集めた山菜を、陽子が背負つた。この姪は、もとから、なりも振りも、あまりかまはない子であつた。帰途は、外ヶ浜に於ける「いまだ老いざる健脚家」も、さすがに疲れて、めつきり無口になつてしまつた。山から降りたら、郭公が鳴いてゐる。町はづれの製材所には、材木がおびただしく積まれてゐて、トロツコがたえず右往左往してゐる。ゆたかな里の風景である。
「金木も、しかし、活気を呈して来ました。」と、私はぽつんと言つた。
「さうですか。」お婿さんも、少し疲れたらしい。もの憂さうに、さう言つた。
 私は急にてれて、
「いやあ、僕なんかには、何もわかりやしませんけど、でも、十年前の金木は、かうぢやなかつたやうな気がします。だんだん、さびれて行くばかりの町のやうに見えました。いまのやうぢやなかつた。いまは何か、もりかへしたやうな感じがします。」
 家へ帰つて兄に、金木の景色もなかなかいい、思ひをあらたにしました、と言つたら、兄は、としをとると自分の生れて育つた土地の景色が、京都よりも奈良よりも、佳くはないか、と思はれて来るものです、と答へた。
 翌る日は前日の一行に、兄夫婦も加はつて、金木の東南方一里半くらゐの、鹿の子川溜池といふところへ出かけた。出発真際に、兄のところへお客さんが見えたので、私たちだけ一足さきに出かけた。モンペに白足袋に草履といふいでたちであつた。二里ちかくも遠くへ出歩くなどは、嫂にとつて、金木へお嫁に来てはじめての事かも知れない。その日も上天気で、前日よりさらに暖かかつた。私たちは、アヤに案内されて金木川に沿うて森林鉄道の軌道をてくてく歩いた。軌道の枕木の間隔が、一歩には狭く、半歩には広く、ひどく意地悪く出来てゐて、甚だ歩きにくかつた。私は疲れて、早くも無口になり、汗ばかり拭いてゐた。お天気がよすぎると、旅人はぐつたりなつて、かへつて意気があがらぬもののやうである。
「この辺が、大水の跡です。」アヤは、立ちどまつて説明した。川の附近の田畑数町歩一面に、激戦地の跡もかくやと思はせるほど、巨大の根株や、丸太が散乱してゐる。その前のとし、私の家の八十八歳の祖母も、とんと経験が無い、と言つてゐるほどの大洪水がこの金木町を襲つたのである。
「この木が、みんな山から流されて来たのです。」と言つて、アヤは悲しさうな顔をした。
「ひどいなあ。」私は汗を拭きながら、「まるで、海のやうだつたらうね。」
「海のやうでした。」
 金木川にわかれて、こんどは鹿の子川に沿うてしばらくのぼり、やつと森林鉄道の軌道から解放されて、ちよつと右へはひつたところに、周囲半里以上もあるかと思はれる大きい溜池が、それこそ一鳥啼いて更に静かな面持ちで、蒼々満々と水を湛へてゐる。この辺は、荘右衛門沢といふ深い谷間だつたさうであるが、谷間の底の鹿の子川をせきとめて、この大きい溜池を作つたのは、昭和十六年、つい最近の事である。溜池のほとりの大きい石碑には、兄の名前も彫り込まれてゐた。溜池の周囲に工事の跡の絶壁の赤土が、まだ生々しく露出してゐるので、所謂天然の荘厳を欠いてはゐるが、しかし、金木といふ一部落の力が感ぜられ、このやうな人為の成果といふものも、また、快適な風景とせざるを得ない、などと、おつちよこちよいの旅の批評家は、立ちどまつて煙草をふかし、四方八方を眺めながら、いい加減の感想をまとめてゐた。私は自信ありげに、一同を引率し、溜池のほとりを歩いて、
「ここがいい。この辺がいい。」と言つて池の岬の木蔭に腰をおろした。「アヤ、ちよつと調べてくれ。これは、ウルシの木ぢやないだらうな。」ウルシにかぶれては、私はこのさき旅をつづけるのに、憂鬱でたまらないだらう。ウルシの木ではないと言ふ。
「ぢやあ、その木は。なんだか、あやしい木だ。調べてくれ。」みんなは笑つてゐたが、私は真面目であつた。それも、ウルシの木ではないと言ふ。私は全く安心して、この場所で弁当をひらく事にきめた。ビールを飲みながら、私はいい機嫌で少しおしやべりをした。私は小学校二、三年の時、遠足で金木から三里半ばかり離れた西海岸の高山といふところへ行つて、はじめて海を見た時の興奮を話した。その時には引率の先生がまつさきに興奮して、私たちを海に向けて二列横隊にならばせ、「われは海の子」といふ唱歌を合唱させたが、生れてはじめて海を見たくせに、われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に、とかいふ海岸生れの子供の歌をうたふのは、いかにも不自然で、私は子供心にも恥かしく落ちつかない気持であつた。さうして、私はその遠足の時には、奇妙に服装に凝つて、鍔のひろい麦藁帽に兄が富士登山の時に使つた神社の焼印の綺麗に幾つも押されてある白木の杖、先生から出来るだけ身軽にして草鞋、と言はれたのに私だけ不要の袴を着け、長い靴下に編上の靴をはいて、なよなよと媚を含んで出かけたのだが、一里も歩かぬうちに、もうへたばつて、まづ袴と靴をぬがせられ、草履、といつても片方は赤い緒の草履、片方は藁の緒の草履といふ、片ちんばの、すり切れたみじめな草履をあてがはれ、やがて帽子も取り上げられ、杖もおあづけ、たうとう病人用として学校で傭つて行つた荷車に載せられ、家へ帰つた時の恰好つたら、出て行く時の輝かしさの片影も無く、靴を片手にぶらさげ、杖にすがり、などと私は調子づいて話して皆を笑はせてゐると、
「おうい。」と呼ぶ声。兄だ。
「おうい。」と私たちも口々に呼んだ。アヤは走つて迎へに行つた。やがて、兄は、ピツケルをさげて現はれた。私はありつたけのビールをみな飲んでしまつてゐたので、甚だ具合がわるかつた。兄は、すぐにごはんを食べ、それから皆で、溜池の奥の方へ歩いて行つた。バサツと大きい音がして、水鳥が池から飛び立つた。私とお婿さんとは顔を見合せ、意味も無く、うなづき合つた。雁だか鴨だか、口に出して言へるほどには、お互ひ自信がなかつたやうなふうなのだ。とにかく、野生の水鳥には違ひなかつた。深山幽谷の精気が、ふつと感ぜられた。兄は、背中を丸くして黙つて歩いてゐる。兄とかうして、一緒に外を歩くのも何年振りであらうか。十年ほど前、東京の郊外の或る野道を、兄はやはりこのやうに背中を丸くして黙つて歩いて、それから数歩はなれて私は兄のそのうしろ姿を眺めては、ひとりでめそめそ泣きながら歩いた事があつたけれど、あれ以来はじめての事かも知れない。私は兄から、あの事件に就いてまだ許されてゐるとは思はない。一生、だめかも知れない。ひびのはひつた茶碗は、どう仕様も無い。どうしたつて、もとのとほりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である。この後、もう、これつきりで、ふたたび兄と一緒に外を歩く機会は、無いのかも知れないとも思つた。水の落ちる音が、次第に高く聞えて来た。溜池の端に、鹿の子滝といふ、この地方の名所がある。ほどなく、その五丈ばかりの細い滝が、私たちの脚下に見えた。つまり私たちは、荘右衛門沢のへりに沿うた幅一尺くらゐの心細い小路を歩いてゐるのであつて、右手はすぐ屏風を立てたやうな山、左手は足もとから断崖になつてゐて、その谷底に滝壺がいかにも深さうな青い色でとぐろを巻いてゐるのである。
「これは、どうも、目まひの気味です。」と嫂は、冗談めかして言つて、陽子の手にすがりついて、おつかなさうに歩いてゐる。
 右手の山腹には、ツツジが美しく咲いてゐる。兄はピツケルを肩にかついで、ツツジの見事に咲き誇つてゐる箇所に来るたんびに、少し歩調をゆるめる。藤の花も、そろそろ咲きかけてゐる。路は次第に下り坂になつて、私たちは滝口に降りた。一間ほどの幅の小さい谷川で、流れのまんなかあたりに、木の根株が置かれてあり、それを足がかりにして、ひよいひよいと二歩で飛び越せるやうになつてゐる。ひとりひとり、ひよいひよいと飛び越した。嫂が、ひとり残つた。
「だめです。」空言つて笑ふばかりで飛び越さうとしない。足がすくんで、前に出ない様子である。
「おぶつてやりなさい。」と兄は、アヤに言ひつけた。アヤが傍へ寄つても、嫂は、ただ笑つて、だめだめと手を振るばかりだ。この時、アヤは怪力を発揮し、巨大の根つこを抱きかかへて来て、ざんぶとばかり滝口に投じた。まあ、どうやら、橋が出来た。嫂は、ちよつと渡りかけたが、やはり足が前にすすまないらしい。アヤの肩に手を置いて、やつと半分くらゐ渡りかけて、あとは川も浅いので、即席の橋から川へ飛び降りて、じやぶじやぶと水の中を歩いて渡つてしまつた。モンペの裾も白足袋も草履も、びしよ濡れになつた様子である。
「まるで、もう、高山帰りの姿です。」嫂は、私のさつきの高山へ遠足してみじめな姿で帰つた話をふと思ひ出したらしく、笑ひながらさう言つて、陽子もお婿さんも、どつと笑つたら、兄は振りかへつて、
「え? 何?」と聞いた。みんな笑ふのをやめた。兄がへんな顔をしてゐるので、説明してあげようかな、とも思つたが、あまり馬鹿々々しい話なので、あらたまつて「高山帰り」の由来を説き起す勇気は私にも無かつた。兄は黙つて歩き出した。兄は、いつでも孤独である。

 【続】

 

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