【冒頭】
東京では、昭和六年の元旦に、雪が降った。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木の林の陰に、外套の襟を立て、無帽で、煙草をふかしながら、いらいら歩きまわっている男が在った。
【結句】
ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はっきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬されているような思いであった。
・新潮文庫『新樹の言葉』所収。
・昭和13年11月末から12月初めまでの間頃に中絶。
・昭和14年5月20日、書下ろし短篇集『愛と美について』収載。
新樹の言葉 (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
*
東京では、昭和六年の元旦に、雪が降った。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木の林の陰に、外套の襟を立て、無帽で、煙草をふかしながら、いらいら歩きまわっている男が在った。これは、どうやら、善光寺助七である。
ひょっくり木立のかげから、もうひとり、二重まわし着た小柄な男があらわれた。三木朝太郎である。
「ばかなやつだ。もう来てやがる。」三木は酔っている様子である。「ほんとうに、やる気なのかね。」
助七は、答えず、煙草を捨て、外套を脱いだ。
「待て。待て。」三木は顔をしかめた。「薄汚い野郎だ。君は一たい、さちよをどうしようというのかね。ただ、腕ずくでも取る、戸山が原へ来い、片輪にしてやる、では、僕は君の相手になってあげることができない。」
ものを言わず、助七うってかかった。
「よせ!」三木は、飛びのいた。「逆上してやがる。いいか。僕の話を、よく聞け。ゆうべは、僕も失礼した。要らないことを言った。」
ゆうべは、新宿のバアで一緒にのんだ。かねて、顔見知りの間柄である。ふと、三木が、東北の山宿のことに就いて、口を滑らせた。さちよの肉体を、ちらと語った。それから、やい、さちよはどこにいる。知らない。嘘つけ、貴様がかくした。よせやい、見っともねえぞ、意馬心猿。それから、よし、腕ずくでも取る、戸山が原へ来い、片輪にしてやる、ということになったのである。三木も、蒼ざめて承知した。元旦、正午を約して、ゆうべはわかれた。
「さちよの居どころは、僕は、知っている。」三木は、落ちつきを見せるためか、煙草をとりだし、マッチをすった。雪の原を撫でて来るそよ風が、二度も三度もマッチの焔を吹き消し、やっと煙草に火をつけて、「だけど、僕とは、なんでも無い。あのひとは、いま、一生懸命、勉強している。学問している。僕は、それは、あのひとのために、いいことだと思っている。あのひとに在るのは、氾濫している感受性だけだ。そいつを整理し、統一して、行為に移すのには、僕は、やっぱり教養が、必要だと思う。叡智が必要だと思う。山中の湖水のように冷く曇りない一点の叡智が必要だと思う。あのひとには、それがないから、いつも行為がめちゃめちゃだ。たとえば、君のような男にみこまれて、それで身動きができずに、――」
「恥ずかしくないかね。」助七は、せせら笑った。「けさから考えに考えて暗記して来たような、せりふを言うなよ。学問? 教養? 恥ずかしくないかね。」
三木は、どきっとした。われにもあらず、頬がほてった。こいつ、なんでも知っている。「不愉快な野郎だ。よし、相手になってやる。僕は、君みたいな奴は、感覚的に憎悪する。宿命的に反撥する。しかし、最後に聞くが、君は、さちよを、どうするつもりだ。」煙草の火は消えていた。消えているその煙草を、すぱすぱ吸って、指はぶるぶる震えていた。
「どうするも、こうするも無いよ。」こんどは、助七のほうが、かえって落ちついた。「いまに居どころをつきとめて、おれは、おれの仕方で大事にするんだ。いいかい。あの女は、おれでなければ、だめなんだ。おれひとりだけが知っている。おめえは山の宿で、たった一晩、それだけを手がら顔に、きゃあきゃあ言っていやがる。あとは、もう、おめえなんかに鼻もひっかけないだろう。あいつは、そんな女だ。」
三木は思わず首肯いた。まさに、そのとおりだったのである。
「だが、おい。」助七は、さらに勢よく一歩踏み出し、「その一晩だって、おめえには、ゆるさぬ。がまんできない。よくも、よくも。」
「そうか、わかった。相手になる。僕も君には、がまんできない。よくよく思いあがった野郎だ。」煙草をぽんとほうって、二重まわしを脱ぎ、さらに羽織を脱ぎ、ちょっと思案してから兵古帯をぐるぐるほどき、着物まですっぽり脱いで、シャツと猿又だけの姿になり、
「女を肉体でしか考えることができないとは、気の毒なものさ。こちらにまで、その薄汚さの臭いが移ら。君なんかと取組んで着物をよごしたら、洗っても洗ってもしみがとれまい。やっかいなことだ。」言いながら、足袋を脱ぎ、高足駄を脱ぎ捨て、さいごに眼鏡をはずし、「来い!」
ぴしゃあんと雪の原、木霊して、右の頬を殴られたのは、助七であった。間髪を入れず、ぴしゃあんと、ふたたび、こんどは左。助七は、よろめいた。意外の強襲であった。うむ、とふんばって、腰を落し、両腕をひろげて身構えた。取組めば、こっちのものだと、助七にはまだ、自信があった。
「なんだい、それあ。田舎の草角力じゃねえんだぞ。」三木は、そう言い、雪を蹴ってぱっと助七の左腹にまわり、ぐゎんと一突き助七の顎に当てた。けれども、それは失敗であった。助七は三木のそのこぶしを素早くつかまえ、とっさに背負投、あざやかにきまった。三木の軽いからだは、雪空に一回転して、どさんと落下した。
「ちきしょう。味なことを。」三木は、尻餅つきながらも、力一ぱい助七の下腹部を蹴上げた。
「うっ。」助七は、下腹をおさえた。
三木はよろよろ立ちあがって、こんどは真正面から、助七の眉間をめがけ、ずどんと自分の頭をぶっつけてやった。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひっくりかえり、しばらく、うごこうともしなかった。鼻孔からは、鼻血がどくどく流れ出し、両の眼縁がみるみる紫色に腫れあがる。
はるか遠く、楢の幹の陰に身をかくし、真赤な、ひきずるように長いコオトを着て、蛇の目傘を一本胸にしっかり抱きしめながら、この光景をこわごわ見ている女は、さちよである。
さちよは、あの翌る日に出京して、そうして別段、勉強も、学問も、しなかった。もと銀座の同じバアにつとめていて、いまは神田のダンスホオルで働いている友人がひとり在って、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯をしたり、食事の手伝いをしてやったり、毎日そんなことで日を送っていた。べつに、あわてて仕事を見つけようともしなかった。流石に、ふたたびバアの女給は、気がすすまない様子であった。そのうちに、三木朝太郎は、山の宿から引きあげて来て、どこで聞きこんだものか、さちよの居所を捜し当て、にやにやしながら、どうだい、女優になってみないか、などと言うのだが、さちよは、おやおや、たいへんねえ、と笑って相手にしなかった。三木は、それでも断念せず、ときどきアパアトにふらと立ち寄っては、ストリンドベリイやチエホフの戯曲集を一冊二冊と置いていった。けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子の友だちと話合い、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀しながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シャツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力に遭って、宙に一廻転しているところであった。さちよは、ひとりで大笑いした。見ていると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたわむれているようで、期待していた決闘の凛烈さは、少しもなかった。二人の男も、なんだか笑いながらしているようで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひっくりかえり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになって、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走って三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしゃと三木の頬をぶった。
三木は、ふりかえって、
「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがって、さっさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛しているのか。」
さちよは、烈しく首を振った。
「それじゃ、そんな、おセンチな正義感は、よしたまえ。いいかい。憐憫と愛情とは、ちがうものだ。理解と愛情とは、ちがうものだ。」言いながら、身なりを調い、いつもの、ちょっと気取った歴史的さんにかえって、「さあ、帰ろう。君は、君の好ききらいに、もっとわがままであって、いいんだぜ。きらいな奴は、これは、だめさ。どんなに、つき合ったって、好きになれるものじゃない。」
助七は、仰向に寝ころんだまま、両手で顔を覆い、異様に唸って泣いてた。
三木の二重まわしの中にかくれるようにぴったり寄り添い、半丁ほど歩いて、さちよは振り向いてみて、ぎょっとした。助七は、雪の上に大あぐらをかき、さちよの置き忘れた柳の絵模様の青い蛇の目傘を、焚火がわりに、ぼうぼう燃やしてあたっていた。ばりばりと傘の骨の焼ける音が、はっきり聞えて、さちよは、わが身がこのまま火葬されているような思いであった。
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