記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#56「火の鳥」⑦(『愛と美について』)

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【冒頭】

成功であった。劇団は、「鷗座(かもめざ)」。劇場は、築地小劇場狂言は、チェホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。

【結句】

助七に、ぐんと脊中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその脊中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめてみる楽屋。

 

火の鳥」について

新潮文庫新樹の言葉』所収。

・昭和13年11月末から12月初めまでの間頃に中絶。

・昭和14年5月20日、書下ろし短篇集『愛と美について』収載。

新樹の言葉 (新潮文庫)

  

 全文掲載(「青空文庫」より)

         *

 成功であった。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であった。青年、高須隆哉は、三日目に見に行った。幕があく。オリガ、マーシャ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にいる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかった。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
 ――あの日、寒かったわね。雪が降っていたんだもの。――あたし、とても生きていられないような、――でも、もうあれから一年たって、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思い出せるようになったし、――(時計が十二時を打つ。)
 ゆっくり打つ舞台の時計の音を、聞いているうちに青年は、急にきょろきょろしはじめて、ちえっ、ちえっと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立って廊下に出た。
 僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシッサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さえその気になったら、なんでもできると思っている。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになったのだろう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちっとも、なんとも、思っていない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那せつなだ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしている。恥じるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思っていた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知しっちしている。けれども僕は、断じて肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘いものさ。精神が、信仰が、人間の万事を決する。僕は、聖母受胎をさえ、そのまま素直に信じている。そのために、科学者としての僕が、破産したって、かまわない。僕は、純粋の人間、真正の人間で在りさえすれば、――
 などとあらぬ覚悟を固めたりしはじめて、全身、異様な憤激にがくがく震え、寒い廊下を大胯おおまたで行きつ戻りつ、何か自分が、いま、ひどい屈辱を受けているような、世界のひとみんなからあざ笑われているような、いても立っても居られぬ気持で、こんなときに乙やんが生きていたらな、といまさらながら死んだ須々木乙彦がなつかしく、興奮がそのままくるりと裏返って悲愁断腸だんちょうの思いに変じ、あやうく落涙しそうになって、そのとき、
「よう、」と肩を叩いたのは、助七である。「あなたは、初日を見なかったね?」
 ――あたし、あなたの心持が、よくわかってよ、マーシャ。さちよのオリガが、涙声でそういうのが、廊下にまで聞えて来る。
「素晴らしいね。」助七は、眼を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかったんですか? センセーション。大センセーション。天才女優の出現。ああ、笑っちゃいけません。ほんとうなんですよ。おれのとこでは、梶原剛氏に劇評たのんだのだが、どうです、あのおじいさん涙を流さんばかり、オリガの苦悩を、この女優にってはじめて知らされた、と、いやもう、流石さすがのじいさん、まいってしまった。どれ、どれ、拝見。」背後のドアをそっと細めにあけ、舞台をのぞいて、「何か、こう、貫禄かんろくとでも、いったようなものが在りますね。まるで、別人の感じだ。ああ、退場した。」ドアをぴたとしめて、青年の顔をちらと見て、不敵に笑い、「うまい! 落ちついていやがる。あいつは、まだまだ、大物おおものになれる。しめたものさ。なにせ、あいつは、こわいものを知らない女ですからな。」
「あなたは、毎日、見に来ているの?」
「そうさ。」青年の無表情な質問に、助七は、むっとしたらしく、語調を変えた。「おれは、てれ隠しに、こうしてはしゃいでいるんじゃないんだぜ。君たちと違って、おれは正直だ。感情をいつわることが、できない。うれしいのだ。ほんとうに、うれしいのだ。おどり出したいくらいだ。社の用事なんか、どうにでも、ごまかせるのだから、毎日ここへやって来て、廊下の評判を聞いている次第です。軽蔑し給うな。」
「それは、あなたは、うれしいだろうな。」高須は軽く首肯し、それでもはやり無表情のままで、「だんだん、あの人も、立派になってゆくし。」
「えっへっへ。」助七は、急に相好そうごうをくずした。「知っていやがる。それを言われちゃ、一言もない。あなたは、まだ忘れていないんだね。おれが、あいつを立派な気高い女にして呉れ、って、あなたに頼んだこと、まだ、忘れていないんだね。こいつあ、まいった。いや、ありがとう、ありがとう。こののちともに、よろしくたのむぜ。」言いながら、そっとドアに耳を寄せて、「あ、いけない。ヴェルシーニンの登場だ。おれは、あのヴェルシーニンの性格は、がまんできないんだ。背筋が、寒くなる。いやな、奴だ。」青年の肩を抱きかかえるようにして、「ね、むこうへ行こう。楽屋にでも遊びに行ってみるか。」歩きながら、「ヴェルシーニン。鼻もちならん。おれは、とうとう、せりふまで覚えちゃった。」えへんと軽くせきばらいして、「――そうです。忘れられてしまうでしょう。それが私たちの運命なんですから。どうにも仕方がないですよ。私たちにとって厳粛な、意味の深い、非常に大事のことのように考えられるものも、時がたつと、――忘れられて了うか、それとも重大でなくなってしまうのです。――ちえっ、まるで三木朝太郎そっくりじゃねえか。――そして、我々がこうやって忍従している現在の生活が、やがてそのうちに奇怪で、不潔で、無智で、滑稽で、事によったら、罪深いもののようにさえ思われるかも知れないのです。――いよいよ、三木だ。へどが出そうだ。」
「もし、もし。」水兵服着た女の子に小声で呼びとめられた。
「あのう、これを、高野さんから。」小さく折り畳まれた紙片である。
「なんだね。」助七は、大きい右手を差し出した。
「いいえ。」青白い顔の眼の大きいその女の子は、名女優のようにっと威厳を示して、「あなたでは、ございません。」
「僕だ。」高須は、傍から、ひったくるようにして、受け取り、顔をしかめて開いて見た。紙ナプキンに、色鉛筆でくっきり色濃くしたためられていた。
 ――さっき、あたしの舞台に、ずいぶん高い舌打なげつけて、そうして、さっさと廊下に出て行くお姿、見ました。あなたのお態度、一ばん正しい。あなたの感じかた、一ばん正しい。あたしは、あなたのお気持、すみのすみまで判ります。あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はっきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでしょう。自分がまるで、こんにゃくの化け物のように、汚くて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。舞台で、私の着ている青い衣裳を、ずたずた千切ちぎり裂きたいほど、不安で、いたたまらない思いでございました。あたしは、ちっとも、鉄面皮じゃない。生けるしかばね、そんなきざな言葉でしか言い表わせませぬ。あたし、ちっとも有頂天じゃない。それを知って下さるのは、あなただけです。あたしを、やっつけないで下さい。おねがい。見ないふりしていて下さい。あたしは、精一ぱいでございます。生きてゆかなければならない。誰があたしに、そう教えたのか。チエホフ先生ではありませぬ。あなたの乙やんです。須々木さんが、あたしにそれを教えて呉れました。けれども、あなたも教えて下さい。一こと、教えて下さい。あたし、間違っていましょうか。聞かせて下さい。あたしは、甘い水だけを求めて生きている女でしょうか。あたしを軽蔑して下さい。ああ、もう、めちゃめちゃになりました。あたしを呼んでいます。舞台に出なければなりません。十時に――
 と、書きかけて、そのままになっていた。
 高須は顔をあおくして、少し笑い、紙片を二つに裂いた。
「見せろ。あいびきの約束かね?」
「君には、これを読む資格がない。」はっきりした語調で言って、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代という役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居をひろげて居ります。」
「そんなこと言うもんじゃないよ。」助七は当惑気に、両手を頭のうしろに組んで、「いやだぜ。さちよも、一生懸命に書いたんだろう? 逢ってやれよ。よろこぶぜ。」
 助七に、ぐんと背中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめて見る楽屋。

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