【冒頭】
成功であった。劇団は、「鷗座(かもめざ)」。劇場は、築地小劇場。狂言は、チェホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。
【結句】
助七に、ぐんと脊中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその脊中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめてみる楽屋。
「火の鳥」について
・昭和13年11月末から12月初めまでの間頃に中絶。
・昭和14年5月20日、書下ろし短篇集『愛と美について』収載。
全文掲載(「青空文庫」より)
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成功であった。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。昭和六年三月下旬、七日間の公演であった。青年、高須隆哉は、三日目に見に行った。幕があく。オリガ、マーシャ、イリーナの三人の姉妹が、舞台にいる。やがて、オリガの独白がはじまる。はじめ低くて、聞えなかった。青年は、暗い観客席の一隅で、耳をすました。とぎれ、とぎれに聞えて来る。
――あの日、寒かったわね。雪が降っていたんだもの。――あたし、とても生きていられないような、――でも、もうあれから一年たって、あたしたちもその時のことを、楽な気持で思い出せるようになったし、――(時計が十二時を打つ。)
ゆっくり打つ舞台の時計の音を、聞いているうちに青年は、急にきょろきょろしはじめて、ちえっ、ちえっと、二度もはげしく舌打して、それから、つと立って廊下に出た。
僕は、あんな女は好まない。僕は、あんな女を好かない。あいつは、所詮ナルシッサスだ。あの女は、謙虚を知らない。自分さえその気になったら、なんでもできると思っている。なぜ、あいつは、くにを飛び出し、女優なんかになったのだろう。もう、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちっとも、なんとも、思っていない。悪魔、でなければ、白痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな
などとあらぬ覚悟を固めたりしはじめて、全身、異様な憤激にがくがく震え、寒い廊下を
「よう、」と肩を叩いたのは、助七である。「あなたは、初日を見なかったね?」
――あたし、あなたの心持が、よくわかってよ、マーシャ。さちよのオリガが、涙声でそういうのが、廊下にまで聞えて来る。
「素晴らしいね。」助七は、眼を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかったんですか? センセーション。大センセーション。天才女優の出現。ああ、笑っちゃいけません。ほんとうなんですよ。おれのとこでは、梶原剛氏に劇評たのんだのだが、どうです、あのおじいさん涙を流さんばかり、オリガの苦悩を、この女優に
「あなたは、毎日、見に来ているの?」
「そうさ。」青年の無表情な質問に、助七は、むっとしたらしく、語調を変えた。「おれは、てれ隠しに、こうしてはしゃいでいるんじゃないんだぜ。君たちと違って、おれは正直だ。感情をいつわることが、できない。うれしいのだ。ほんとうに、うれしいのだ。おどり出したいくらいだ。社の用事なんか、どうにでも、ごまかせるのだから、毎日ここへやって来て、廊下の評判を聞いている次第です。軽蔑し給うな。」
「それは、あなたは、うれしいだろうな。」高須は軽く首肯し、それでもはやり無表情のままで、「だんだん、あの人も、立派になってゆくし。」
「えっへっへ。」助七は、急に
「もし、もし。」水兵服着た女の子に小声で呼びとめられた。
「あのう、これを、高野さんから。」小さく折り畳まれた紙片である。
「なんだね。」助七は、大きい右手を差し出した。
「いいえ。」青白い顔の眼の大きいその女の子は、名女優のように
「僕だ。」高須は、傍から、ひったくるようにして、受け取り、顔をしかめて開いて見た。紙ナプキンに、色鉛筆でくっきり色濃くしたためられていた。
――さっき、あたしの舞台に、ずいぶん高い舌打なげつけて、そうして、さっさと廊下に出て行くお姿、見ました。あなたのお態度、一ばん正しい。あなたの感じかた、一ばん正しい。あたしは、あなたのお気持、すみのすみまで判ります。あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はっきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでしょう。自分がまるで、こんにゃくの化け物のように、汚くて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。舞台で、私の着ている青い衣裳を、ずたずた
と、書きかけて、そのままになっていた。
高須は顔を
「見せろ。あいびきの約束かね?」
「君には、これを読む資格がない。」はっきりした語調で言って、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代という役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居をひろげて居ります。」
「そんなこと言うもんじゃないよ。」助七は当惑気に、両手を頭のうしろに組んで、「いや
助七に、ぐんと背中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめて見る楽屋。
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