今週のエッセイ
◆『春』
1945年(昭和20年)、太宰治 36歳。
1945年(昭和20年)3月6日頃に脱稿。
『春』は、1945年(昭和20年)春、「藝苑」のために執筆されたが、戦災のため雑誌も出ず、没後、1958年(昭和33年)6月24日発行の「東京新聞」第五七一二号に「未発表遺稿」として「『春』について」(奥野健男)と共に掲載された。
「春」
もう、三十七歳になります。こないだ、或る先輩が、よく、まあ、君は、生きて来たなあ、としみじみ言っていました。私自身にも、三十七まで生きて来たのが、うそのように思われる事があります。戦争のおかげで、やっと、生き抜く力を得たようなものです。もう、子供が二人あります。上が女の子で、ことし五歳になります。下は、男の子で、これは昨年の八月に生れ、まだ何の芸も出来ません。敵機来襲の時には、妻が下の男の子を背負い、私は上の女の子を抱いて、防空壕に飛び込みます。先日、にわかに敵機が降下して来て、すぐ近くに爆弾を落し、防空壕に飛び込むひまも無く、家族は二組にわかれて押入れにもぐり込みましたが、ガチャンと、もののこわれる音がして、上の女の子が、やあ、ガラスがこわれたと、恐怖も何も感じない様子で、無心に騒ぎ、敵機が去ってから、もの音のした方へ行って見ると、やっぱり三畳間の窓ガラスが一枚こわれていました。私は黙って、しゃがんで、ガラスの破片を拾い集めましたが、その指先が震えているので苦笑しました。一刻も早く修理したくて、まだ空襲警報が解除されていないのに、油紙を切って、こわれた跡に張りつけましたが、汚い裏側のほうを外に向け、きれいなほうを内に向けて張ったので、妻は顔をしかめて、あたしがあとで致しますのに、あべこべですよ、それは、と言いました。私は、再び、苦笑しました。
疎開しなければならぬのですけれど、いろいろの事情で、そうして主として金銭の事情で、愚図々々しているうちに、もう、春がやって来ました。
ことしの東京の春は、北国の春とたいへん似ています。
雪溶けの滴 の音が、絶えず聞えるからです。上の女の子は、しきりに足袋を脱ぎたがります。
ことしの東京の雪は、四十年振りの大雪なのだそうですね。私が東京へ来てから、もうかれこれ十五年くらいになりますが、こんな大雪に遭った記憶はありません。
雪が溶けると同時に、花が咲きはじめるなんて、まるで、北国の春と同じですね。いながらにして故郷に疎開したような気持ちになれるのも、この大雪のおかげでした。
いま、上の女の子が、はだしにカッコをはいて雪溶けの道を、その母に連れられて銭湯に出かけました。
きょうは、空襲が無いようです。
出征する年少の友人の旗に、男児畢生 危機一髪、と書いてやりました。
忙、閑、ともに間一髪。
かぼちゃの花
今回は、太宰のエッセイ『春』にちなんで、太宰の弟子・
小山清(1911~1965)は、東京府浅草区千束生まれの小説家です。
29歳の時、自作原稿を携えて三鷹の太宰宅を訪れ、以後、太宰に師事します。小山は、その当時仕事にしていた新聞配達のかたわら、度々、太宰宅を訪れました。
太宰と出会って以降、小山は文筆活動に励むようになり、太宰に原稿を見せては批評を受けていました。太宰の死後、小山は太宰に触れた文章を数多く書いています。
■小山清
それでは、小山の著書「二人の友」に所収のエッセイ『かぼちゃの花』を引用します。このエッセイの書き出しには、太宰がエッセイ『春』を書いた36歳の頃について触れられています。
太宰が三十六才の晩秋の頃、私が二度、吉原へ案内した。一度は
田中英光 が来ていた。竜泉寺町の飯田さんの古本屋さんは、本所の錦糸堀にある府立三中で堀辰雄と同年であって、夕方から私達は四人、江戸町一丁目の傍のある店で酒を飲んだ。
タバコはそろそろ無くなったので、その時、私が少しばかりタバコをあげたが、太宰と英光は二人ともに武者振つくほどであった。郭 のある店で、太宰は「みんな、呼ばねえんだよ」と笑っていた。
甲府へ疎開していた頃、太宰と私は、よくぶらついていた。病院の二階で女が外を眺めていたが、太宰はそこを通りあわせて、さびしい女の心を、「いいねえ」と言った。
「富嶽百景」という作品に、御坂峠へ、色さまざまの遊女たちが、富士を眺めている、暗く、わびしい風景を書いたことがあった。
田中英光が二十四才で結婚した時、太宰が二十八才で色紙を呉れた。
はきだめの花
かぼちゃの花
わすれられぬなり
わがつつましき新郎の心を 治
太宰は千葉船橋に転地して、英光は朝鮮京城にいた。
小山のエッセイに登場する
田中英光(1913~1949)は、東京都生まれの小説家です。
1935年(昭和10年)、田中は早稲田大学政経学部を卒業後、横浜ゴム製造株式会社に入社し、朝鮮京城の同社出張所に赴任しました。同年8月、小説『空吹く風』を同人雑誌「非望」に発表すると、発表間もなく太宰から、「君の小説を読んで、泣いた男がある。
■田中英光
田中が太宰から色紙を受取ったのは、1937年(昭和12年)2月。小島喜代と結婚し、朝鮮神宮で挙式をしたことを祝して贈られたものでした。しかし、実はこの段階で、田中と太宰はまだ面識がありませんでした。
一年が経った1938年(昭和13年)2月、東京本社へ出張となった田中は、杉並区天沼に住んでいた太宰を訪ねますが、不在のため、会うことはできませんでした。
その後、召集を受けて中国山西省の最前線に従事。1940年(昭和15年)1月に除隊となった後、同年3月に本社販売部勤務となり、単身上京。三鷹を訪れ、初めて太宰と対面しました。
太宰から最初のハガキを受け取ってから、実に5年後のことでした。
【了】
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【参考文献】
・小山清『二人の友』(審美社、1965年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【太宰治39年の生涯を辿る。
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