前編・三鷹の聖地巡礼に続いて、桜桃忌の太宰散歩を続けていきます。
【前回の記事はこちら!】
太宰が通ったうなぎ屋へ
三鷹から場所を移します。
JR中央線に乗って、電車に揺られること10分程度。国分寺に到着です。
国分寺駅南口から7分程度歩くと、目的地である太宰が鰻を食べた『若松屋』に到着。三鷹で太宰が一番通った飲み屋です。
現在は代が替わって三代目が跡を継ぎ、太宰が当時通った三鷹から国分寺に移転して営業してます。
三鷹散歩の帰りは、ここで夕食を取って帰ります。年に一度の贅沢。
17時の開店に合わせて入店。一番目のお客さんでした。中串鰻重と麦酒(ビール)、訊いたらあるとのことだったので肝焼きを注文。
太宰は鰻が好きだったといっても、串焼きより肝焼きの方がメインだったようです。太宰は「通は肝を食べるもんだよ」なんて言ってたみたいですが、麦酒と肝焼きで、すっかり太宰と飲んでいる気分に。
太宰を担当していた編集者の一人、野原一夫が書いた『回想 太宰治』に「仕事のあとの酒はまず若松屋。奥の腰掛けに坐って、のれんのあいだから道行く人をぼんやり眺めながら、うなぎの肝でコップ酒ということになる。肝を好んだようであるが、安かったせいもあるかもしれない」と書いてあります。
どうやら、昔は鰻が安かったらしいです。
良いなぁ…と思いながら、麦酒を飲み干し、続けて日本酒を注文。鰻は全て静岡産で、日本酒も静岡の地酒を多く置いているそうです。
鰻の焼ける匂いを肴にちびちびやっていると、鰻重がやって来ました。肝吸とお新香付です。
初代の頃から継ぎ足しで使っているタレは少し濃口。脂の乗った鰻、濃口のタレ、キリッと辛口の日本酒、これ以上ない組合せで、太宰と乾杯。
途中からは「桜桃忌帰りだと思ったよ」と声を掛けてくれた女将さんとも仲良くなり、色々と楽しくお話しさせて頂きました。
帰りがけに女将さんから、ポストカードと若松屋も登場する太宰の短編「メリイクリスマス」の小冊子を頂きました。美味しい鰻だけではなく、最後の最後までありがとうございます。また来ます!
桜桃忌に思うこと
国分寺を最後に、今回の桜桃忌・太宰散歩は終了となります。
三鷹で降りても、国分寺で降りても、ルートが頭に入っており、既に散歩道だなぁ…と思いながら、その時、その場だけの一期一会も多くあり、楽しく、とても収穫のある1日でした。
最後に、ふと思い出したことを。
文学サロンを訪問した時。6月19日を桜桃忌と呼ぶのか、生誕祭と呼ぶのかで、議論をしていました。
近年、生誕祭とも呼ばれるようになり、特に生家のある青森・五所川原市ではそう呼ばれています。亡くなった日として悼むより、生まれた日として祝う方が印象が良い、ということでしょうか。奇遇にも、太宰治は生まれた日も亡くなった日(玉川上水で死体が上がった日)も同日の6月19日です。
しかし、あえて今さら桜桃忌を生誕祭と言い換える必要も無いのではないかとも思います。桜桃忌は俳句の季語になるくらい定着していますし。
太宰が生まれた青森では「生誕祭」と。
多くの作品を生み出し、39年間の人生に幕を降ろした三鷹では「桜桃忌」と。
太宰が生まれなければ、作品は読めなかったから、生誕祭として祝う。
多くの人から愛されているから、亡くなった日を桜桃忌と呼び、故人を悼む。
それで良いのではないでしょうか。
…という訳で、桜桃忌の太宰散歩は、これで以上となります。
取り留めのないTweetになりましたが、何かの参考になったり、太宰に興味を持って頂けるきっかけになれば幸いです。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
【増補1】
太宰が若松屋さんで鰻の肝を食べるシーンで、『「通は肝を食べるもんだよ」なんて言ってたみたいですが』と書きましたが、それを読んだ記憶はあれど、ネットで検索すると、自分が過去にネットで書いたまとめが出てきてしまい、出典が不明でした。
改めて調べてみたところ、本文中でも引用した、野原一夫『回想 太宰治』44ページで見つけました。若松屋の大将とのやり取りで「通は、肝を食うものです。な、そうだろう。」「そういうもんですかねえ。」というやり取りの記載が記憶の出どころでした。
この会話の後、若松屋の前を林聖子さん(【増補4】を参照)が通ったところを太宰が呼び止め、大将に鰻を注文するのですが、「中串のほうがいいだろう。肝はオトナが食べるものだからね。」と言います。昔、父親が焼き秋刀魚の肝を美味しそうに食べていたのと似た感覚でしょうか。
肝をおいしいと感じる事が出来るようになった私は、太宰言うところの「オトナ」になる事ができた、という事で良いのでしょうか(笑)
【増補2】
桜桃忌の三鷹・太宰散歩のTweetまとめをTogetterにアップした後、いくつか感想を頂いた中で、山崎富栄さんに関する部分への反響もありました。
この機会に、富栄さんへの理解をさらに深めたいと思い、2017年6月22日、江戸川橋にある曹洞宗寺院・永泉寺へお墓参りに行って来ました。駅から歩いて徒歩5分程度のところにあります。
長篠康一郎『太宰治文学アルバム 女性篇』から、富栄さんのお墓に関するエピソードを抜粋します。
山崎富栄の遺骨は密葬のあと父の山崎晴弘が八日市町に持ち帰り、母信子との最後の別れののち再び上京、山崎家の菩提寺である永泉寺に埋葬された。
だが山崎晴弘は、娘が世間を騒がせて申し訳ないとの考えから、富栄には白木の墓標を建てただけで、住職の安田弘達師に対しても、富栄の墓所が永泉寺に在ることを世間には公表しないで欲しいと依頼したという。
亡くなった後、根も葉もない噂が広まり、特に太宰関係者や縁者サイドから、太宰の首を絞めてから玉川上水に引き摺り込んだだとか、青酸カリを飲ませてから入水した、といった誹謗中傷が飛び交っていたそうです。
当時の遺族の方の心労は計り知れません。
もちろん、本にも書かれているように、残された晴弘さんには「娘が世間を騒がせて申し訳ない」という想いもありつつ、一方で「娘を守ってあげたい」という気持ちも大きかったのではないかと思います。
山崎家のお墓に着くと、白百合が供えられていました。桜桃忌の際に供えられたものでしょうか。山崎富栄さんの命日は『白百合忌』と呼ばれています。享年28歳。早すぎる死です。
道中、太宰と富栄さんについて書かれている本を読んでいたせいか、目を瞑った瞬間、脳裏に富栄さんのお顔が鮮明に浮かび上がって来ました。心からご冥福をお祈りします。
前回の記事でも触れたように、お墓は昭和36年3月に建て直され、はじめて富栄さんの名前が暮石に刻まれました。
先に触れた両親の配慮から、没年月日も、享年も、彫られてはいません。
お墓参りを終え、富栄さんへの理解を深めたいとの想いから、本棚から、長篠康一郎『太宰治武蔵野心中』を引っ張り出して、再読しました。
冒頭の太宰が富栄さんに殺されたという事が、如何にして世間の『定説』となっていったか、という部分を読んでいるだけで、胸が痛みます。
昭和51年度版、高校生の現代国語(三)の教科書に載っていた、太宰に関する文書というのも衝撃的でした。
敗戦後、かれは東京に転入したが、結果から言うとむざんな最後を遂げるために東京に出て来たようなものであった。
かれは女といっしょに上水に身を投げた。その死に場所を見ると、かれの下駄で土を深くえぐひ取った跡が二条残っていて、いよいよのときかれが死ぬまいと抵抗したのをしのぶことができた。
その下駄の跡は連日の雨でも一ヶ月後まで消えないで残っていた。
ー井伏鱒二『点滴』(太宰治 (中公文庫)所収)
こんな根拠に乏しい文章が堂々と掲載されている教科書の編集委員に、ことごとく有名大学の教授の名前が連ねられているというのだから驚きです。
しかも、日本は先進国の中でも珍しく、文部科学省の検定が入らないと、教科書として使用する事ができない。いわば、根も葉も無く、文壇で悪意を持って作られた誹謗中傷が、そのまま高校生の『定説』と化してしまっているのです。
現在の国語の教科書で、太宰がどのように紹介されているのかは分かりませんが、私が高校だった時には「女の人と入水した暗い作家」というイメージでした。こうやって、パブリックイメージは作られていくんだな、という過程を垣間見た気がします。
三鷹の文学サロンでも話題にのぼったのですが、山崎富栄さんのお父様・山崎晴弘さんは日本で最初の美容学校・東京婦人美髪美容学校を創設した美容界の功労者であり、富栄さんもその技術を引き継ぎ、将来を期待された方でした。
亡くなっていなければ、更なる日本の美容界の躍進に尽力されていたであろう女性です。
普通なら敬遠するであろう、晩年の太宰の結核の看病を献身的に行ったのも富栄さんでした。
当事者が亡くなってしまった以上、真相は闇の中です。晩年の太宰の体調が芳しくなかったという事実もあります。
また、それまでに幾度も自殺未遂の経歴がある以上、今回で本当に死のうと思ったのか、どうせまた生き残っちゃうだろう、という気持ちで行われた、という可能性も否定はできません。
ただ、勝手な憶測や感情で、故人を誹謗中傷するのは、気分が良いものではないです。
それぞれの想いを胸に一生懸命に時代を駆け抜けた人として、これからも向き合っていきたいと思います。
【増補3】
訪問したのは2017年6月23日。
有名な下の写真(※ディープネットワークによる色付け加工をしています。http://hi.cs.waseda.ac.jp:8082/)が撮影された『銀座バー・ルパン』の訪問記です。
『銀座バー・ルパン』は、みゆき通りから少し脇に逸れた路地にあります。
開店時間の17時より少し早く到着したため、太宰の好きだった煙草・ゴールデンバットを近くのコンビニへ買いに行って、時間を潰します。
路地裏にぽっと光る「Lupin」の看板。
これを見つけただけで、ドキドキが止まりません。
いよいよ念願の『銀座バー・ルパン』の入り口までやって来ました。
扉を開けて、いざ中へ!
昔ながらの雰囲気が残る階段を地下へ降りていきます。
階段正面には、太宰の写真が入った広告が額縁に入って飾ってあります。興奮は最高潮。
興奮しっ放しで、店内の写真が全く無いのですが、店内一番奥の太宰が座っていた席に案内してもらいました。 ここに太宰が座っていたと想像するだけで、もう感無量でした。
マッチで火をつけたバットを吸いながら、ウイスキーを。 気分はすっかり太宰治です。
この『銀座・ルパン』、1928年(昭和3年)に里見弴・泉鏡花・菊池寛・久米正雄といった文豪の支援を受けて開店しました。 その影響で、永井荷風・川端康成・林芙美子などの文壇関係者や画壇関係者、映画・演劇関係者といった文化人の方々が常連でした。
開店当時は、「カフエー」という、女給のサービスでお酒を飲ませる洋風の酒場スタイルで、開店から7年後の1935年(昭和10年)9月に改装。その時に、控室だった一階も改装し、現在のヤチダモのL型カウンターで営業を始めたのだそうです。
その後、第二次世界大戦が始まり、1941年(昭和16年)には洋風の店名が禁止されたため、『麺包亭(ぱんてい)』と名乗るように。 1944年(昭和19年)には戦局も苛烈を極め、政令により一斉休業に追い込まれます。
1945年(昭和20年)1月に銀座は大空襲を受け、向かいのビルに爆弾が直撃。その爆風で入口の扉が飛ばされたり、一階の手洗所の天井が落ちたり、水道管の漏水が起こったりと、少なからず損害を被ってしまいます。
戦後、飲食営業緊急措置令で酒類の販売はできなかったものの、1946年(昭和21年)1月にはコーヒー店として営業を再開。1949年(昭和24年)5月に酒類が自由販売になるまでは、様々な手立てで酒を仕入れて売る時代が続いたそう。
酒不足のこの時代、日本各地で甘藷(さつまいも)や雑穀を使った密造焼酎「カストリ」が作られ、闇市で販売、庶民に愛されました。しかし、工業用アルコールに強い毒性を持つメチルアルコールを加えた「バクダン」と呼ばれる粗悪品も流行。これを飲んで、亡くなったり、失明した人もいました。
しかし、こんな時代でも、ルパンなら安心と、作家や出版関係者を中心に大勢のお客様が帰って来てくれたそうです。
その中に、太宰治・織田作之助・坂口安吾といった無頼派作家や写真家・林忠彦がいたという訳です。
そして、ようやくこの写真の登場です。
撮影されたのは1946年(昭和21年)11月25日。 坂口安吾・織田作之助と来店。太宰はビール、安吾はウイスキー、織田はコーヒーを飲んでいたといいます。
そこへやって来た写真家・林忠彦に太宰は「おい、俺も撮れよ。織田作(織田作之助)ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ。」と言ったそうで。
林は辛うじて1個だけ残っていたフラッシュバルブを使い、ワイドレンズがなく引きがないため、トイレのドアを開け、便器にまたがりながら夢中で撮影したとのこと。
この写真を撮影した1年後、太宰は入水。帰らぬ人となりました。
その影響で、この時の写真は貴重な1枚となり、注文が相次ぎ、林忠彦の出世作といえる作品となったそうです。
マスター曰く、使用しているウイスキーグラスは太宰の来店当時からあるものとのこと。太宰と乾杯した気分に。
その後、1972年(昭和47年)に、戦時中の爆風で痛み、老朽化が進んだビルを壊して、新しいビルが建築されましたが、今までの『ルパン』を残すため、全ての内装を丁寧に取り外して保管。1974年(昭和49年)に元通りの状態で営業再開したそうです。
トイレのドアも当時のままとのこと。「太宰もこのドアノブを回したかもしれませんね」とマスター。店内の色々なところで、太宰に想いを馳せることができます。
ぜひ一度足を運んで、太宰に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ちなみに、今年で開店90周年を迎えたそうです。
【増補4】
2018年6月18日に新宿五丁目の文壇バー『風紋』を訪問しました。
新宿はよく飲みに行く街で、そこに太宰ゆかりの『風紋』があることは知っていましたが、なかなか足を運ぶ機会がありませんでした。
しかし、「何が何でも行かねば!」と、私の重い腰を動かしたのが、新宿ゴールデン街にあるプチ文壇バー『月に吠える』(@puchi_bundanbar)さん、2018年6月4日付の以下のTweetでした。
「名前しか知らなかったけど、『風紋』が今年の6月いっぱいで閉店してしまう!?」
衝動に駆られた私は、居ても立っても居られず、『風紋』へと向かったのでした。
お店の前に着くと、シャッターが。
「今日はたまたまお休みだったのかな?」と思い、続けて翌週も訪問するも、またシャッターが。
自分には運がないのかと思いながら、三度目の正直で訪問したのが桜桃忌前日の6月18日でした。
暗闇にぼんやりと光る『風紋』の灯り。
ドキドキはやる気持ちを抑え、一歩一歩地下への階段を降りていきます。
『風紋』は新潮社や筑摩書房で働いたことのある林聖子さん(常連さんには「聖子ママ」と呼ばれてます)が1961年に開いたバーです。
筑摩書房・創業者の古田晁さん(太宰ともゆかりのある方)が常連となるなど、文壇バーとして知られていました。聖子ママは太宰の短編「メリイクリスマス」に出てくるシズエ子ちゃんのモデルとしても有名です。
ドアを開けると、店内は多くの常連さんで賑わっていました。暖かいお客さんに囲まれ、初めての訪問ながら、とても楽しい時間が過ごせました。
恥ずかしながら、過去2度訪れた日曜は定休日だったことも教えてもらいました。
持参した『風紋五十年』にサインを頂きました。
この本は2011年に『風紋』開店50年を記念して出版されたものです。
たまたまこの本の出版に携わった出版社の方にもお会いできました。『風紋』閉店のニュースは様々なメディアで取り上げられていたため、Amazonで注文が相次ぎ、『風紋五十年』は一時期在庫切れの状態になったそうです。
大切な宝物が、また一つ増えました。
『風紋』でお話しした方、太宰の描いた絵が長谷川利行と作風が似ていると話されていました。
絵には疎い私ですが「こんな絵だよ」と見せて頂くと、確かにタッチや雰囲気が似ているような。
長谷川利行は新宿界隈で飲む事もあったそうで、太宰と交流があったり、絵画について議論をしていたら面白いなぁ…なんて思いを巡らせてしまいました。
【今回の記事はこちらの加筆修正版です!】
【ほかにも太宰関連記事を書いてます!】