記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】津軽地方とチェホフ

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今週のエッセイ

◆『津軽地方とチェホフ』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)4月下旬頃に脱稿。
 『津軽地方とチェホフ』は、1946年(昭和21年)5月15日発行の「アサヒグラフ」第四十五巻第十四号に発表された。

津軽地方とチェホフ

 こないだ三幕の戯曲を書き上げて、それからもっと戯曲を書いてみたくなり、長兄の本棚からさまざまの戯曲集を持ち出して読んでみたが、日本の大正時代の戯曲のばからしさには(あき)れた。よくもまあ、こんなものを、書く人も退屈せずに書いたもの(かな)、そうしてこんなものでもたいてい大劇場に(おい)て当時の名優に依って演ぜられたものらしいが、よくもまあ、名優たちもこんなつまらない台詞を大真面目で暗誦したもの(かな)、よくもまあ、観客も辛抱して見ていたもの(かな)、つくづく(あき)れ、不愉快にさえなった。
 女  此頃お仕事をなさいませんのね。
 男  出来ないのです。行き詰まって其処(そこ)から奥へどうしても突き入れないんです。
 女  今にお出来になりますわ。せきとめられた水が(せき)を破って出るような勢で。
 馬鹿にするな、と言ってやりたい。これはほんの一例であるが、まあ、たいていこんな按配で、とても読んで行けない。戯曲に限らず、大正時代の文学で、たいへん有名なものでも、今読むと実にひどいのが多い。いちど全部、大掃除の必要があるように思われる。それで、その戯曲の話だが、いろいろ読んで、私にはやはりチェホフの戯曲が一ばん面白かった。チェホフの有名な戯曲は、たいてい田舎の生活を主題にしている。いま私は、戦災のため田舎暮しを余儀なくされているが、ちょうどいまの日本の津軽地方の生活が、そっくりチェホフ劇だと言ってよいような気さえした。津軽地方にも、いまはおびただしく所謂(いわゆる)「文化人」がいる。そうしてやたらに「意味」ばかり求めている。たとえば、「伯父ワーニャ」のアーストロフ氏の言の如く、
ーーインテリゲンチャには閉口です。あの連中は我々の善良なる友人であるが、考えが偏狭で感情はうそ寒く、自分の鼻からさきの事はまるで見えない……何の事はない、ただもう馬鹿なんです。少し利巧な見ばえのするような人間は、これはまたヒステリイ、疑いと卑屈に蟲食われてしまっています……こういう手合いは愚痴を言う、人を憎む、病的に讒謗(ざんぼう)(たくま)しうする。そして人に接するのにも、わきの方からそっと寄って行って、じろりと横目で見て、「ああ、あれは変態だ!」とか、「あれは法螺(ほら)ふきだ!」とか一口に言って片づけてしまう。ところが、例えば私の額に、どういうレッテルを貼ればいいか分からないような時には、「あれは妙な奴だ、どうも妙な奴だ!」と言う。私が森がすきならこれも妙、私が肉を食わなければこれもやっぱり妙だと来る。まあ、こう言ったようなもので、自然や人間に対する素直な、清い、鷹揚な態度は既にないのです……ない、全くない!
 それからまた「桜の園」のトロフィーモフ氏の言の如く、
ーー僕の知っているインテリゲンチャの大部分は、何物も、求めていないし、そうして何一つ仕事もせず、労働に対しては今のところ無能です。彼らは自らインテリゲンチャと称しながら、召使に向っては「お前」と呼び捨てにするし、百姓などはまるで動物扱いにして、ろくすっぽ勉強はせず、本気に読書という事もしない。全く何一つしないで、科学もただ口先で云々(うんぬん)するだけだし、芸術の事だってろくろく分りやしないんです。その癖、みんな真面目で、みんな厳粛な顔をして、みんな高尚な事ばかり言って、哲学者気取りでいますが、それでいて我々の大多数は百人のうち九十九人まで、まるで野蛮人のような生活をして、ちょっとどうかすると、すぐ(いが)み合ったり、悪口をつき合ったりします。そんなわけで我々の口にする美しいみたいな話は、みんなただ自他の目を誤魔化すために過ぎないのです。それはもう見え透いています。現にこの頃やかましい労働者の小児預り所は、一体どこにあるんです? 国民図書館はどこにあるんです? 一つ教えて下さいませんか。そんなものは小説に書いてるだけで、本当にはまるでありやしない。あるものはただ(あか)と、凡俗と、アジア風の生活ばかりです……僕はあまり糞真面目な顔が、おそろしくもあれば嫌いでもあります。僕は糞真面目な話を恐れます。それよりいっそ黙っていた方がいい。
 さらにまた「三人姉妹」に於いては、トウゼンバッハ氏とマーシャさんが、次のような会話を交している。
 トウゼンバッハ__二百年三百年はおろか、たとえ百万年の後でも、生活はやはりこれまでの通りです。我々に何の関係もない--少くとも、我々の到底知ることの出来ないような、それ自身の法則に従いながら、生活は永久に変ることなく、常に一定の形を保って続いて行くでしょう。渡り鳥、まあ、例えば鶴などが飛んで行くとする。そして高級なものか低級なものか、とにかく、どんな考えがその鶴の頭に宿っているとしたところで、彼等は依然として飛んで行きます。そしてなぜ、どこへという事は知らないのです。たとえ、どんな哲学者が彼等の間に現れようと、彼等は現在も飛んでいるし、また未来も飛んで行くことでしょう。何とでも勝手に理屈をこね(まわ)すがいい、おれ達はただ飛べばいいんだってね……
 マーシャ__それにしても意味というものが__
 トウゼンバッハ__意味ですって……いま雪が降っている、それに何の意味があります?
 津軽地方のインテリゲンチャたちも、実にこの「意味」の追及に熱心である。月日は流れる水の如く、と言えば、それはどんな意味ですとすぐに反問する。
 所謂(いわゆる)サンボリズムの習練などは全く無い。

 

太宰とチェーホフ

 今回のエッセイのタイトルになっている「チェホフ」は、ロシアを代表する劇作家、小説家でもあるチェーホフ(1860~1904)のことです。代表作にワーニャ伯父さん(1899~1900)、三人姉妹(1901)、桜の園(1904)などがあります。チェーホフは、近代演劇の創始者であり、短篇小説の名手でもあります。

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■アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904) ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。

 太宰は事あるごとに、好きなロシア作家として、チェーホフの名前を挙げています。
 太宰の友人・檀一雄も「何といっても、西洋の文学で太宰の一番の愛読書はチェホフだ。短編のすべての根幹にその激しい影響がみられるだろう」と指摘しています。

 走れメロス新ハムレットお伽草紙など、既存の物語を換骨奪胎して自身の小説に仕上げてしまうのは、太宰の創作手法のひとつですが、チェーホフの作品に影響を受けて執筆された小説もあります。
 太宰の小説彼は昔の彼ならずで、「真似しますのよ。あの人の意見なんかあるものか。みんな女からの影響よ(略)」「まさか。そんなチェホフみたいな。」と書いていますが、これはチェホフの『可愛い女』の換骨奪胎です。主人公・オーレニカは夫運が悪く、夫が変わる度に新しい夫の意見をそのまま自分の考えにして、借りものの人生を生きる女性でしたが、彼は昔の彼ならずの青扇は、女が変わる度に女に合わせるという人物でした。太宰の男女同権も、チェーホフ『煙草の害について』を換骨奪胎した作品です。

 また戦後、太宰は「傑作を書きます。大傑作を書きます。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。」と言って、小説斜陽を執筆しています。

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■『斜陽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 斜陽が執筆されたのは、1947年(昭和22年)。
 2年前の1945年(昭和20年)12月、GHQ(連合軍総司令部)は「農地改革に関する覚書」を発表。これを受けて日本政府は、翌1946年(昭和21年)2月に農地調整法を改正し、地主、小作人の協議による土地の売買を推し進めました。しかし、GHQはその内容が不徹底であることに強い不満を示し、第二次農地改革が始められました。同年10月に自作農創設特別措置法が公布され、国が地主から買収して、小作人に売却する形が取られ、これによって「寄生地主」が壊滅することになりました。
 また、農地改革と並行して1946年(昭和21年)11月、財産税法も公布されました。これは、極端な累進課税で、翌1947年(昭和22年)3月3日には、強制的に金融申告をすることが義務付けられました。年収10万円以上は25%、1,500万円以上は90%の税率を課すというもので、物納も可能だったため、大地主はこぞって所有していた土地を手放していきました。
 戦禍から逃れ、1945年(昭和20年)7月末から翌年11月まで故郷・津軽疎開していた太宰は、一連の農地改革による地主の土地所有制の解体を目の当たりにし、大きな衝撃を受けたものと思われます。
 津島家も斜陽を迎え、1948年(昭和23年)6月26日、津島家の長兄・津島文治は、当時の金木町長・角田唯五郎に約250万円で家屋敷を売却しています。

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■太宰の生家 1948年(昭和23年)6月に角田氏へ売却されたが、使い道がなかったため、2年後に旅館として開業。現在は、太宰治記念館「斜陽館」として五所川原市の施設となっている。また、近代和風住宅の代表例として2004年(平成16年)に国の重要文化財に指定されている。

 チェーホフ桜の園では、昔ながらの地主貴族だったヒロイン・ラネーフスカヤ夫人が、急変する現実を受け入れることができず、昔の夢におぼれたため、先祖代々の領地を手放さざるを得なくなってしまいます。土地を買い取る成金商人・ロパーヒンの登場や、過去の生活に未練を持たず新しい生活に飛び込んでいく娘・アーニャに未来が託される展開は、太宰の斜陽に通ずる部分です。
 夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁が描かれた桜の園を読みながら、太宰は無意識に自身の生家を重ねていたかもしれません。

 実際に斜陽が執筆されたのは、金木での疎開生活を終えて帰京してから約半年後でしたが、太宰の妻・津島美知子は、「作品の構想は既に金木にいる間に芽生えていて、斜陽という題名も定っていた」と回想しています。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
安藤宏太宰治論』(東京大学出版会、2021年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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