記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】私信

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今週のエッセイ

◆『私信』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1941年(昭和16年)11月26日から30日までに脱稿。
 『私信』は、1941年(昭和16年)12月2日発行の「都新聞」第一九四三七号の第一面「文芸」欄の「大波小波」欄に発表された。この「文芸」欄には、ほかに「精神に就て」(三木清)、「活字の話(三)」(徳永直)、「虎彦龍彦(77)」(坪田譲治)が掲載された。

「私信

 叔母さん。けさほどは、長いお手紙をいただきました。私の健康状態やら、また、将来の暮しに就いて、いろいろ御心配して下さってありがとうございます。けれども、私はこのごろ、私の将来の生活に就いて、少しも計画しなくなりました。虚無ではありません。あきらめでも、ありません。へたな見透しなどをつけて、右すべきか左すべきか、(はかり)にかけて慎重に調べていたんでは、かえって悲惨な(つまづ)きをするでしょう。
 明日の事を思うな、とあの人も言って居られます。朝めざめて、きょう一日を、充分に生きる事、それだけを私はこのごろ心掛けて居ります。私は、嘘を言わなくなりました。虚栄や打算で無い勉強が、少しずつ出来るようになりました。明日をたのんで、その場をごまかして置くような事も今は、なくなりました。一日一日だけが、とても大切になりました。決して虚無では、ありません。
 いまの私にとって、一日一日の努力が、全生涯の努力であります。戦地の人々も、おそらくは同じ気持ちだと思います。叔母さんも、これからは買い溜などは、およしなさい。疑って失敗する事ほど醜い生きかたは、ありません。私たちは、信じているのです。一寸の蟲にも、五分の赤心(せきしん)がありました。苦笑なさっては、いけません。無邪気に信じている者だけが、のんきであります。私は文学をやめません。私は信じて成功するのです。御安心下さい。

 

太宰と叔母とタケ

 エッセイ『私信』が執筆された1941年(昭和16年)11月26日から30日の直前にあたる11月17日、文士徴用令書を受け取った太宰は、本郷区役所二階の講堂で、文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。結果は「肺浸潤」のため、徴用免除。「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症が、だんだん広がっていくことで、肺結核の初期病状のことを意味していました。
 その4日後の11月21日午前9時、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられて、特急(つばめ)で東京駅を出発する小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎らを、太宰は見送りに行っています。この時の心境が、多少なりとも今回のエッセイの内容に反映されているように思われます。

 エッセイ『私信』は、「叔母さん」に宛てた「私信」の体裁をとっていますが、この「叔母さん」とは、太宰の母親・津島夕子(たね)の妹で、太宰の叔母にあたる津島キヱ(きえ)のことです。
 今回は、太宰に大きな影響を与えた叔母・津島キヱ)と女中・越野タケ、2人の女性について紹介します。

 津島キヱは、津島惣五郎・イシの次女で、1879年(明治12年)2月18日生まれです。長女・津島夕子は15歳の時、西津軽郡木造村(現在のつがる市)の名門・松木七右衛門の四男・松木永三郎(のちの太宰の父・津島源右衛門)を婿養子に迎え、次女・キヱは同松木家の五男・松木友三郎を婿養子に迎えます。
 松木家は、藩政時代には苗字帯刀を許された郷士で、8代目にあたる七右衛門の時代に薬種問屋に転業するまで、作り酒屋を営んでいました。津島家の姉妹が松木家の兄弟を養子に迎えたことには、津島家繁栄の地盤を固めたいという意図がありました。
 しかし、キヱの夫・友三郎は酒乱の悪癖があったため、2人の娘がいたにもかかわらず、津島家から離婚を申し渡されてしまいます。

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■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ(きえ)、太宰、母・夕子たね。後ろは、三上やゑ(やえ)やゑ(やえ)は、金木第一尋常小学校の訓導で、太宰の5つ上の姉・あいの担任で、母と弟と一緒に津島家が経営する銀行の奥の一室に間借りしていた。

 友三郎との離婚後、2人目の夫として、青森市から豊田常吉を婿養子に迎えますが、2人の娘をもうけた後に病没してしまいます。
 キヱはその後、4人の娘たちと共に津島家に同居し、結核症のために病弱な姉・夕子に代わって、祖母・イシのもとで主婦の役割を果たしました。太宰は、この叔母に2歳の時から面倒を見てもらうようになります。
 日中は叔母の娘たちと過ごし、夜になると叔母と添寝する太宰は、自身の幼児体験の中で、叔母のことを自分の「実母」であるという認識を深めていきます。

 1912年(明治45年)5月、太宰が3歳の時、キヱの専任女中として金木村の近村タケ(のちの越野タケ)が雇われ、太宰の子守をすることになりますが、そのタケですら、1年近くも太宰はキヱの長男だと思っていたといいます。
 タケは、1898年(明治31年)7月14日生まれ。五反歩の自作農だった近村永太郎トヨの四女です。近村家は、借金の返済ができないまま津島家の小作農となり、年貢米の一部として、当初はタケの姉・トセが女中として津島家に雇われていましたが、野良仕事が忙しくなったため、タケが交替することになりました。

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■越野タケ(1898~1983) 小泊小学校校庭にて。1973年(昭和48年)11月3日撮影。

 タケが子守になってからは、太宰は日中のほとんどの時間をタケと一緒に過ごしました。叔母・太宰・タケの関係は、太宰が小学校に入学する直前まで続きます。

 太宰は1923年(大正12年)、14歳の時(中学受験の直前)に『僕の幼児』と題した次のような綴り方を書いています。

 僕は母から生れ落ちると直ぐ乳母につけられたのだそうだ。けれども僕はおしいかな其の乳母を物心地がついてからは一度も見た時もないし便りもない。物心地がついてからというものは叔母にかゝったものだ。叔母はよく夏の夜など蚊帳の中で添((ママ))寝しながら昔話を知らせたものだ。僕はおとなしく叔母の出ない乳首をくわ((ママ))ながら聞いて居た。其の頃一番僕の面白かったお話は舌切雀と金太郎であった。こう言うと僕はなんだかおとなしい子の様だが、実は手もあてられない程のワンパク者であったのだ。一番僕にい((ママ)められたのは末の姉様で、或時は折れたものほし竿で姉を追って歩いたり、きたないわらじで姉のほゝをぶったり、頭髪をはさみでちょきんと一つかみ位切って見たりした。
 其の度毎に姉は母様に訴うるけれども母はなんともいわぬ。若しこのことが少しでも叔母の知る所となれば叔母はだまっては居ない。きびしくしかって其の上土蔵に入れられたことも往々ある。そんな時には必ず小間使のたけが僕のかわりにあやまって呉れる。たけは家の小間使でもあり、僕の家庭教師でもあるし、僕の家来でもあるのだ。五六才の時から僕は毎晩毎晩たけの所に行って本を教わったものだ。初めはハタ タコと一字々々覚えて行くのは僕にとっては又たまらなく面白かったのである。そして、一、二ヶ月の間にどうやら巻一は読める様になった。学校に入((ママ))るによくなった頃にはもう巻三にも手をのば((ママ))様になった。うれしくてたまらないから叔母様に読んで見せると必ず昔話一つ知らせて呉れるし、おばあ様に読んで知らせればお菓子を呉れる。母様の前で読んでも何も呉れない。たゞ僕の頭をなでゝ一番とれよと云って呉れる。姉様兄様に読んで見せてもたゞほめるばかりであった。僕は昔話は大そう好きであった。どんなに泣いて居る時でもどんなにおこって居た時でも、昔話を知らせて呉れゝばすぐににこにこするのであった。だから僕は叔母に一番多く読んで見せたものだ。
 僕の一番家でこわいものは父様であった。故に父様の前では常に行儀よくして居た。それ程こわい父様でもたまには又大そう好きになることもある。それはよくぴかぴか光ったおあしや、きれいな御本を呉れるからである。こうゆう風にして僕はずんずん成長して来たのだ。今でも叔母様やたけの事を思うと恋いしくてならない。 (二月四日)

 このようにして、太宰の中で叔母・津島キヱと女中・越野タケのイメージが、鮮明にクローズアップされていくようになっていきました。

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■中学時代の太宰、兄弟たちと 前列左から三兄・圭治、長兄・文治、次兄・英治。後列左から弟・礼治、太宰。太宰の左胸には、成績優秀者の銀バッジが。

 【了】

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【参考文献】
三好行雄 編『別冊国文学No.7 太宰治必携』(學燈社、1980年)
・『太宰治全集 1 初期作品』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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