記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】答案落第

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今週のエッセイ

◆『答案落第』
 1938年(昭和13年)、太宰治 29歳。
 1938年(昭和13年)5月下旬頃に脱稿。
 『答案落第』は、1938年(昭和13年)7月1日発行の「月刊文章」第四巻第七号の「私の小説修業」欄に発表された。

「答案落第

「小説修業に就いて語れ。」という出題は、私を困惑させた。就職試験を受けにいって、小学校の算術の問題を提出されて、大いに狼狽している姿と似ている。円の面積を算出する公式も、鶴亀算の応用問題の式も、甚だ心もとなくいっそ代数でやればできるのだが、などと青色吐息の(てい)とやや似ている。
 いろいろ複雑にくすぐったく、私は、恥ずかしい思いである。
 スタートラインに並んで、未だ出発の合図のピストルの鳴らされぬまえに飛び出し、審判の制止の声も耳にはいらず、懸命にはしってはしってついに百(メートル)、得意満面ゴールに飛び込み、さて写真班のフラッシュ待ちかまえ、にっと笑ってみるのだが、少し様子がちがって、一つの喝采もなし、満場の人、みな気の毒そうにその選手の顔を見ている。選手はじめて、はっとおのれの失敗に気づいて、恥ずかしいとも、くるしいとも、なんとも、どうも話にならない。
 ふたたび私は、すごすご出発点に引返して、全身くたくたに疲れ、ぜいぜい荒い息を吐きながら、スタートラインに並んだ。フライイング犯した罰として、他の選手よりは一(メートル)うしろの地点から走らなければならない。「用意!」審判の冷酷な声が、ふたたび発せられる。
 私は、思いちがいしていた。このレエスは百(メートル)競争では、なかったのだ。千(メートル)、五千(メートル)、いやいや、もっとながい大マラソンであった。
 勝ちたい。醜くあせって全精力つかいはたして、こんなに疲れてしまっているが、けれども、私は選手だ。勝たなければ生きていけない単純な選手だ。誰か、この見込みの少い選手のために、声援を与える高邁(こうまい)の士はいないか。
 おととしあたり、私は私の生涯にプンクトを打った。死ぬと思っていた。信じていた。そうなければかなわぬ宿命を信じていた。自分の生涯を自分で予言した。神を冒したのである。
 死ぬと思っていたのは、私だけではなかった。医者も、そう思っていた。家人も、そう思っていた。友人も、そう思っていた。
 けれども、私は、死ななかった。私は神のよほどの寵児(ちょうじ)にちがいない。望んだ死は与えられず、そのかわり現世の厳粛な苦しみを与えられた。私は、めきめき太った。愛嬌もそっけない、ただずんぐり大きい醜貌(しゅうぼう)の三十男にすぎなくなった。この男を神は、世の嘲笑と指弾と軽蔑と警戒と非難と蹂躙(じゅうりん)と黙殺の炎の中に投げ込んだ。男はその炎の中で、しばらくもそもそしていた。苦痛の叫びは、いよいよ嘲笑の声を大にするだけであろうから、男は、あらゆる表情と言葉を殺して、そうして、ただ、いも(むし)のように、もそもそしていた。おそろしいことには、男は、いよいよ丈夫になり、みじんも愛くるしさがなくなった。
 まじめ。へんに、まじめになってしまった。そうして、ふたたび出発点に立った。この選手には、見込みがある。競争は、マラソンである。百(メートル)、ニ百(メートル)の短距離レエスでは、もう、この選手、全然見込みがない。足が重すぎる。見よ、かの鈍重、牛の如き風貌を。
 変れば変るものである。五十(メートル)エスならば、まず今世紀、かれの記録を破るものはあるまい、とファン囁き、選手自身もひそかにそれを許していた、かの俊敏はやぶさの如き太宰治とやらいう若い作家の、これが再生の姿であろうか。頭はわるし、文章は下手、学問は無し、すべてに無器用、熊の手さながら、おまけに醜貌、たった一つの取り柄は、からだの丈夫なところだけであった。
 案外、長生きするのではないか。

 こんな、ばかばなしをしていたのでは、きりがない。何かひとつ、()になる話でもしようかね。実になる、ならない、もへんなもので、むかし発電機の発明をして得々としていたところ、一貴婦人から、けれども博士、その電気というものが起ったからって、それがどうなるのですの? と質問され、博士大いに閉口して、奥さま、生れたばかりの赤ん坊に、おまえは何を建設するのだい? と質問してみて下さい、と答えて逃げ去ったとかいう話があるけれども、何千年まえの世界には、どんな動物がいたか、一億年のちにはこの世界はどんなになるか、そんな話は、いったい実になるものかどうか。私は実になる話だと思っているが。
 ヴァニティ。この強靭をあなどってはいけない。虚栄は、どこにでもいる。僧房の中にもいる。牢獄の中にもいる。墓地にさえ在る。これを、見て見ぬふりをしては、いけない。はっきり向き直って、おのれのヴァニティと対談してみるがいい。私は、人の虚栄を非難しようとは思っていない。ただ、おのれのヴァニティを鏡にうつしてよく見ろ、というのである。見た、結果はむりに人に語らずともよい。語る必要はない。しかし、いちどは、はっきり、合せ鏡して見とどけて置く必要は、ある。いちど見た人は、その人は、思案深くなるだろう。謙譲になるだろう。神の問題を考えるようになるだろう。
 重ねていう。実はヴァニティを悪いものだとは言っていない。それは或る場合、生活意欲と結びつく。高いリアリティとも結びつく。愛情とさえ結びつく。私は、多くの思想家たちが、信仰や宗教を説いても、その一歩手前の現世のヴァニティに莫迦(ばか)正直に触れていないことを不思議がっているだけである。パスカルは、少々。
 ヴァニティは、あわれなものである。なつかしいものである。それだけ、閉口なものである。
 ながいことである。大マラソンである。いますぐいちどに、すべて問題を解決しようと思うな。ゆっくりかまえて、一日一日を、せめて悔いなく送りたまえ。幸福は、三年おくれて来る、とか。

 

太宰、東京帝国大学の選抜試験

  エッセイのタイトル『答案落第』にちなんで、今回は、太宰の東京帝国大学受験について紹介します。

 1930年(昭和5年)3月13日、当時20歳の太宰は、東京帝国大学仏蘭西(フランス)文学科の入学者選抜試験を受けるために上京しました。
 仏蘭西(フランス)文学科を志望した理由について、太宰は小説東京八景へ、次のように書いています。

私は昭和五年に弘前ひろさきの高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかった。辰野隆たつのゆたか先生を、ぼんやり畏敬いけいしていた。

 辰野隆(たつのゆたか(1988~1964)は、フランス文学者で、東京帝国大学の教授として、多くの後進を育てました。はじめて本格的に、フランス文学を日本に紹介した人物でもあります。

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辰野隆 1955年(昭和30年)撮影。

 仏蘭西文学の講義を聞きたかった」と書く太宰ですが、弘前高等学校で太宰の1年先輩だった平岡敏男(ひらおかとしお)(1909~1986)は、山内祥史 編太宰治に出会った日―珠玉のエッセイ集所収「若き日の太宰治の中で、太宰が東京帝大の仏文科へ入学するまでの経緯について、次のように書いています。

(前略)太宰は高校を卒業すると東大文学部のフランス文学科に入った。フランス文学科に入るひとは、大体高校時代文化丙類に籍を置いていたひとである(著者注・太宰は高校時代、文化甲類に籍を置いていた)。そうでなければ、例えば故中島健蔵氏のように、在籍していた松本高校ではフランス語を教えていなかったが、教会のフランス人の牧師のもとに出入りして、みっちりフランス語を修習していたひとに限られるのである。
 フランス語を全然知らない太宰が、仏文科を志望するのははじめから無茶であった。私が太宰に、どうして仏文科などへ入るのかときいたときの彼の答は、東大仏文科という肩書が、今のことばで言えば、ひじょうに、かっこいいという単純なものであった。たとえ中退しても仏文科の方が、谷崎潤一郎の国文科中退よりもイキだというのである。それともう一つ大きな動機は、そのころ東大文学部の英文科や国文科などには入学試験があったが、仏文科は、志望者が定員不足で無試験であった。そういうことで弘前高校からは太宰のほかにもうひとり、あまり勉強家とはいえないスポーツマン(著者注・三戸斡夫(さんのへみきお)のこと)が仏文科をねらった。ただどういう風のふきまわしか、昭和五年というその年には仏文科でもフランス語の試験があった。

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弘前高等学校3年生の太宰と平岡敏男 弘前の喫茶店「みみづく」の前にて。

 目算がはずれた太宰らふたりは試験場で手を挙げて、正直に試験官に事情をはなした。その試験官は仏文科の主任教授故辰野隆博士であった。この一風変ったイキな教授は、苦笑したものの、格別の配慮で、ふたりの入学を認めてくれたのである。
 太宰はそれでも、はじめて、フランス語を勉強するつもりで、アテネ・フランセに通ったりしていた。しかし間もなく文学活動を続ける一方左翼活動にもかかわりをもつようになって、フランス語を初歩から習う根気を失ってしまった。

  東京帝大に、安田善次郎氏の寄附により、1925年(大正14年)に竣工した大講堂(安田講堂)。東大紛争で、全共闘の学生らがバリケードを築いて立て籠もり、警察側と激しく戦ったことで有名ですが、太宰が東京帝大に入学したのは、竣工の5年後。太宰もこの大講堂を見ていたのでしょう。

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■東京帝大の安田講堂 太宰が入学した1930年(昭和5年)に撮影。

 太宰が卒業できたかどうかについては、【日めくり太宰治】の記事で紹介していますので、ぜひ併せてご覧ください。

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日―珠玉のエッセイ集』(ゆまに書房、1998年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「東京大学
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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