記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】自身の無さ

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今週のエッセイ

◆『自身の無さ』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)5月31日か6月1日に脱稿。
 『自身の無さ』は、1940年(昭和15年)6月2日発行の「東京朝日新聞」第一九四五七号の第六面「槍騎兵」欄に発表された。

「自身の無さ

 本紙(朝日新聞)の文芸時評で、長與先生が、私の下手な作品を例に挙げて、現代新人の通性を指摘して居られました。他の新人諸君に対して、責任を感じましたので、一言申し開きを致します。古来一流の作家のものは作因が判然(はっきり)していて、その実感が強く、従ってそこに或る動かし難い自信を持っている。その反対に今の新人はその基本作因に自身がなく、ぐらついている、というお言葉は、まさに頂門の一針にて、的確なものと思いました。自信を持ちたいと思います。
 けれども私たちは、自信を持つことが出来ません。どうしたのでしょう。私たちは、決して怠けてなど居りません。無頼の生活もして居りません。ひそかに読書もしている筈であります。けれども、努力と共に、いよいよ自信がなくなります。
 私たちは、その原因をあれこれと指摘し、罪を社会に転嫁するような事も致しません。私たちは、この世紀の姿を、この世紀のままで素直に肯定したいのであります。みんな卑屈であります。みんな日和見(ひよりみ)主義であります。みんな「臆病な苦労」をしています。けれども、私たちは、それを決定的な汚点だとは、ちっとも思いません。
 いまは、大過渡期だと思います。私たちは、当分、自信の無さから、のがれる事は出来ません。誰の顔を見ても、みんな卑屈です。私たちは、この「自身の無さ」を大事にしたいと思います。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から、前例の無い(、、、、、)見事な花の咲くことを、私は祈念しています。

 

太宰の読書事情

 太宰は、今回のエッセイの中で「ひそかに読書もしている筈であります」と書いていますが、太宰の読書事情は、どのようなものだったのでしょうか。太宰の親友・檀一雄が、回想記太宰と安吾に収録の「太宰と読書」で回想しているので、引用して紹介します。

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檀一雄(1912~1976) 山梨県生まれ。太宰の3歳下の親友。東京帝国大学経済学部在学中に処女作『此家の性格』を発表。1950年、『真説石川五右衛門』で直木賞を受賞。最後の無頼派とも言われる。『檀流クッキング』など、文壇きっての料理通としても有名。

「太宰と読書」

 太宰と読書について少しばかり述べておく。太宰は平常、机辺に書籍を置かないことを常とした。いや、どの時代にも蔵書というものは、(ほとん)ど皆無だったことを私は知っている。
 古びた辞書が一冊、それから明治頃の版によるのだろう。活字の大きい枕草子が一冊、多分、これは露店の十銭のものででもあったのだろう。しかし、一度読んで安心のゆける本は太宰は精読するたちだった。これも又、旅行と同断である。一度読み馴染んで安心のいった本でないと読まないわけだ。自分から書籍を読みあさることは決してなく、人にすすめられ、納得してから、おもむろに読んでいる。それが気に入れば、繰り返し繰り返し読んでみるというのが、太宰の読書の自然な流儀であった。
 私がすすめて読み(ふけったものに、花伝書があった。また、保田(やすだにすすめられてしばらく斎藤緑雨(さいとうりょくうに読み耽っていた時期がある。
 さて、太宰の座右の書を、もう一度あげるなら、(座右と言っても、繰りかえすが決して机辺には置かずほんの五、六冊を隅に隠してつみ重ねていただけであるが)大抵夜店あたりで買った、十銭古本のたぐいで、兼好の徒然草。まあ、日本の古典では枕草子徒然草を繰りかえし繰りかえし精読していただろう。但しこれは決して趣味的読書ではなく、至るところに応用、転化出来るぐらいの、全く血肉の読書であった。それから円朝(えんちょう全集。太宰の初期から最後に至る全文学に落語の決定的な影響を見逃したら、これは批評にならないから、後日の批評家諸君はよくよく注意してほしいことである。
 太宰の文章の根幹が、主として落語の転位法によって運営されている事を忘れてはならない。ただし落語は寄席にこる趣味というのでは決してなく、講談社の落語全集であれ、道端十銭の落語本であれ、それを拾い買って来て、読み耽っていただけのことである。
 それから、「柳樽」これも又太宰が各時代を通じて手離さなかった、愛読の書であった。
 上田秋成西鶴芭蕉。繰り返すが、決して全集を集めるとか、そんな事をやるわけではなく、たまたま買ってきた古本の一冊を絶えず読み耽るといった按配(あんばいだ。まあ、これだけが太宰の文学の殆ど全根幹を形づくっていただろう。それに金槐集なぞ、時に読んでいたかも知れない。云うまでもないことだが、太宰の文学が西洋につながるものだなぞと早合点してはならない。あれ程、日本文学の湿気の多い沼の中に深く根を下していた、文学は少ないことを、私ははっきりと知っている。言い忘れたが、お伽草子黄表紙のたぐい、それに伊曾保物語。これも又、太宰がひそかに押入の隅にかくし持っていた(わずかの蔵書の一つである。
 万葉勿論(もちろん)読んだかも知れないが、繰り返し読んだとはいえないだろう。源氏ははっきりとは断言出来ないが、読んでいなかったと私は考えたい。つまり、枕草子から始まる、唯今(ただいま列記した書籍類は、繰り返し開いては読んで、血となり肉となっていた。
 それから、近世では鏡花、泡鳴(ほうめい荷風、善蔵、あたりではなかったろうか。
 さて、西洋の部であるが、まあ聖書だろう。ただし私はあまり興味がなかったから、聖書について語りあったことは殆どない。大抵山岸(やまぎし怪気熖(かいきえんを挙げていた。つまり、愛とか、苦悩とか、信じるとか、そんな大それた言葉の濫用は私の郷家の封建の気風に、全くないので、口にするのが恥ずかしかった。
 太宰が、手紙の中で絶えずこれらの言葉を濫発するのを、いつも奇異な心持で眺めたばかりである。
 何といっても、西洋の文学で太宰の一番の愛読書はチェホフだ。短篇のすべての根幹にその激しい影響が見られるだろう。

 

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■アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904) ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。代表作に『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』がある。太宰は、「傑作を書きます。大傑作を書きます。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。」と言って、小説斜陽を執筆した。

 

 太宰は長い小説は書くのも嫌いのようであったが、読むのも面倒のようだった。「スタフォロギン」と絶えず口走っていたが、もし読んだとすれば、「悪霊」と「カラマゾフの兄弟」が一番長い小説だったろう。
 チェホフの短篇は、しかし随時古本屋から買い改めて来ては、こそこそと読んでいた。
「決闘ぐらいの小説が書けたらねえ」太宰はよくそんなことを云っていた。
 それから、プーシュキン。これは太宰の西洋気質を刺戟し、導いた一番のものだったろう。オネーギンやスペードの女王は、太宰がこっそり開いて随時堪能した西洋憧憬の根源である。
「生くることに心せき、感ずることも急がるる」
 これ程鍾愛(しょうあいした太宰の言葉は、他にないだろう。
 レールモントフ。これはその生活の上から太宰に顕著な興味を与えたようだった。
 何処の版であったか、又、何という小説の訳本であったか、今、全く忘れたが、コーカサスの谷の多い大地の上を、飄々(ひょうひょうと歩いている、レールモントフの口絵を太宰が飽かず眺めて、嘆息していたことを覚えている。
 イギリスでは、何といってもシェークスピアだろう。取り分けハムレット。「左の目に憂愁。右の目に……」という言葉は又太宰の随分好きな言葉だった。それから、バイロン卿だ。太宰だって、ひそかにあのヘレスポント海峡は泳ぎ渡ってみたく思ったことだろう。
 また、サロメは愛読した。いや、「獄中記」はやっぱり太宰の愛読書であったろう。
 アメリカでは勿論ポーだ。
 大ゲーテはあまり太宰は読まなかった。が、多分「ヘルマンとドロテア」を開いて読んでいたことを、一度だけ覚えている。
 (むしろ鷗外の手引きで、シュニツラーの「みれん」や、クライストの「地震」なぞの方が好きだったろう。云うまでもないことだが、鷗外ぐらいの名訳でなければ、太宰は馬鹿々々しくて西洋のものは読まなかった。
 そうだ。登張竹風(とばりちくふうの「如是説法」、生田長江(いくたちょうこうの「ニーチェ全集」は、これは太宰の最大の蔵書であった。
 それから、時折買っては売っていた、鴎外全集の翻訳編。「女の決闘」の中に書かれてある通りに、これは繰りかえし読んで飽かなかった。
 東大の仏文科に在籍したといっても、フランス語は目に一丁字もなかったから、マラルメランボーなどと口ばしっても、なに、その解説に胸をときめかすだけで、納得のゆく読書にはなっていなかった。ただ、青い何処かの文庫本で読んでいた、フランソワ・ヴィヨンの「大盗伝」が、(もっとも納得のいった面白いものだったろう。それから、エドモン・ロスタンだ。
 ベルレーヌは、これは上田敏か、堀口大学の訳で読んだのであろうが、随分気質的に鍾愛したようだった。ラヂゲのドルジェル伯の舞踏会は、私がすすめた程の、面白い反応は示さなかった。ジイド。ヴァレリー。時々読んでいたのを覚えている。まあ太宰の読書は、これだけの通い馴れた道を、行きつ戻りつ、しかし、その都度思いがけぬ甘い不思議な花を見つけて来る、といったふうの読みかただった。
 しばしば、気に入った文句を、自分流の妄想で勝手に、改変した原文の章句を、これまた自分流に口調よく作りなおして、人に聞かせたり、引用したりしていたが、時に、原文の本旨と全くかけ違ったことすらある。
撰ばれたものの、恍惚と不安と二つながら我にあり
「罪なくて配所の月」
 それから先程も引用した、
「生くることにも心せき、感ずることも急がるる」
 などは、どうしてどうして、太宰の全生涯をゆすぶったあまりにも鍾愛の文字であった。
 それから北欧では、イプセンとストリンドベルヒ。
 中国の文献は「剪燈新話(せんとうしんわ」以外、何を読んだか全く知らない。
 トルストイ。こればかりは太宰が語ったのを、未だかつて聞いたためしがない。
 それから、思いだしたが、太宰はまた「三銃士」や「巌窟王」や「椿姫」などというのは、これは熟読したようだ。人生の「大活劇」や「大悲劇」ほど太宰が好きだったものはない。心が鎮まった日には、然し同じ気分で「サフオ」「サフオ」と云っていた。

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 太宰の妻・津島美知子は、著書回想の太宰治で、太宰の読書事情について、次のように回想しています。

 太宰が読書家で、何でも読んでいた、とは彼と親しかった方たちの間の定評である。
 私は、高校卒業くらいまでに東西の古典はほとんど読了したのだろうか、端座読書の姿を見ることはあまりないが、いつ読書するのだろう、早朝ひとり目覚めて、家族の起き出すまで床の中で読むのだろうか、などと本気で疑問に思っていた。結局、す早く本を選別し、選んだその一冊の精粋をつかんでしまうのではないか。手にとってパラパラ繰っている間に、もう何かを感得するたぐいの読書家ではなかったかと思う。

 また、美知子夫人は、次のようにも回想します。

 新聞は、朝日新聞だけを購読していたが、細かく読む方で、新聞記事はよく作品にとり入れていたと思う。常住坐臥(じょうじゅうざが、小説のことを考え、小説のタネはないかと考えていた様子である。

 今回、紹介したエッセイ『自身の無さ』が掲載されたのは「朝日新聞」。太宰の絶筆グッド・バイが掲載される予定だったのも「朝日新聞」。太宰と朝日新聞には、縁があったようです。

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 太宰に思いを馳せながら、太宰が読んでいたという本を手に取ってみても、面白いかもしれません。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
檀一雄太宰と安吾』(角川ソフィア文庫、2016年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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