記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】返事

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今週のエッセイ

◆『返事』
 1946年(昭和21年)、太宰治 37歳。
 1946年(昭和21年)2月9日に脱稿。
 『返事』は、1946年(昭和21年)5月1日発行の「東西」第一巻第二号の「文学的通信」欄に『返事の手紙』と題して発表された。ほかには、『太宰治君への手紙』(貴司山治)、『貴司への返事をかねて』(なかの・しげはる)、『中野重治へ』(貴司山治)が掲載された。

「返事

 拝復。長いお手紙をいただきました。
 縁というものは、妙なものですね。(なんて、こんな事を言うと、非科学的だといって叱られるかしら。うるさい時代が過ぎて、二三日、ほっとしたと思ったら、また、うるさい時代がやって来ました。縁などというのは迷信である。必然的と言わなければならぬ、なんて、一言一言とがめられる、あの右翼のやっかい以前の左翼のやっかい時代が、また来るのかしら。あれももう私は、ごめんです)あなたも作家、私も作家、けれども今まで一度も逢った事は無し、またお互いにその作品を一度も読んだ事のない者どうしが、ふっとした事で、こうして長い手紙を交換する。縁と言ったってかまやしません。
 このたび私の「惜別」が橋になって、あなたから長いお手紙をいただきましたが、私は、たいへんうれしかった。あなたのお手紙の文面が、やさしく正直なのも大きな悦びでありましたが、それよりも何よりも、私にはあのお手紙の長さが有難かったのです。本当にもうこのごろは、お互い腹のさぐり合いで、十年来の友人でも、あいまいな事をちょっとだけ書いて寄こして、あなたみたいに、長い手紙を書いてはくれません。何も用心しなくたっていいじゃないか。私がマ司令に密告するわけじゃあるまいし。
 きょうは、あなたのお手紙の長さに感奮し、その返礼の気持もあり、こんな馬鹿正直の無警戒の手紙を差上げる事になりました。
 私たちは程度の差はあっても、この戦争に於いて日本に味方をしました。馬鹿な親でも、とにかく血みどろになって喧嘩(けんか)をして敗色が濃くていまにも死にそうになっているのを、黙って見ている息子も異質的(エクセントリック)ではないでしょうか。「見ちゃ居られねえ」というのが、私の実感でした。
 実際あの頃の政府は、馬鹿な悪い親で、大ばくちの尻ぬぐいに女房子供の着物を持ち出し、箪笥(たんす)はからっぽ、それでもまだ、ばくちをよさずにヤケ酒なんか飲んで女房子供は飢えと寒さにひいひい泣けば、うるさい! 亭主を何と心得ている、馬鹿にするな! いまに大金持になるのに、わからんか! この親不孝者どもが! など叫喚(きょうかん)して手がつけられず、私なども、雑誌の小説が全文削除になったり、長篇の出版が不許可になったり、情報局の注意人物なのだそうで、本屋からの注文がぱったり無くなり、そのうちに二度も罹災(りさい)して、いやもう、ひどいめにばかり遭いましたが、しかし、私はその馬鹿親に孝行を尽そうと思いました。いや、妙な美談の主人公になろうとして、こんな事を言っているのではありません。他の人も、たいていそんな気持で、日本のために力を尽したのだと思います。
 はっきり言ったっていいんじゃないかしら。私たちはこの大戦争に於いて、日本に味方した。私たちは日本を愛している、と。
 そうして、日本は大敗北を喫しました。まったく、あんな有様でしかもなお日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国でしょう。あれでもし勝ったら、私は今ほど日本を愛する事が出来なかったかも知れません。
 私はいまこの負けた日本の国を愛しています。(つて無かったほど愛しています。早くあの「ポツダム宣言」の約束を全部果して、そうして小さくても美しい平和の独立国になるように、ああ、私は命でも何でもみんな捨てて祈っています。
 しかし、どうも、このごろのジャーナリズムは、いけませんね。私は大戦中にも、その頃の新聞、雑誌のたぐいを一さい読むまいと決意した事がありましたが、いまもまた、それに似た気持が起って来ました。
 あなたの大好きな魯迅(ろじん)先生は、所謂(いわゆる)「革命」に依る民衆の幸福の可能性を懐疑し、まず民衆の啓蒙(けいもう)に着眼しました。またかつて私たちの敬愛の的であった田舎親爺(おやじ)の大政治家レニンも、常に後輩に対し、「勉強せよ、勉強せよ、そして勉強せよ」と教えていた(はず)であります。教養の無いところに、真の幸福は絶対に無いと私は信じています。
 私はいまジャーナリズムのヒステリックな叫びの全部に反対であります。戦争中に、あんなにグロテスクな嘘をさかんに書き並べて、こんどはくるりと裏がえしの同様の嘘をまた書き並べています。講談社がキングという雑誌を復活させたという新聞広告を見て、私は列国の教養人に対し、冷汗をかきました。恥ずかしくてならないのです。
 どうして、こんなに厚顔無恥なのでしょう。カルチベートされた人間は、てれる事を知っています。レニンは、とても、てれやだったそうではありませんか。(こと)に外国からやって来た素見(ひやかし)の客(たとえば、松岡とか大島とかいう人たち)に対しては、まるでもう処女の如くはにかみ、顔を真赤にしたという話を聞きました。松岡などに逢ったら、多少でも良心のあるひとなら誰でも、へどもどしますよ。それを当の松岡は(これは譬噺(たとえばなし)で、事実談ではありません)レニンに(あき)れられているという事にも気づかず、「なんだ、レニンってのは、噂ほどにも無い男だ、我輩の眼光におされてしどろもどろではないか、意気地が無い!」と断じて、悠然と引上げ、「ああ、やっぱり、ヒットラーに限る! あの颯爽(さっそう)たる雄姿、動作の俊敏、天才的の予言!」などという馬鹿な事になるようですが、私はそのヒットラーの写真を拝見しても、全くの無教養、ほとんどまるで床屋の看板の如く、仁丹(じんたん)の広告の如く、われとわが足音を高くする目的のために長靴(ちょうか)(かかと)にこっそり鉛をつめて歩くたぐいの伍長あがりの山師としか思われず、私は、この事は、大戦中にも友人たちに言いふらして、そんな事からも、私は情報局の注意人物というわけになったのかも知れません。
 はにかみを忘れた国は、文明国で無い。今のソ(れん)は、どうでしょうか。いまの日本の共産党は、どうでしょうか。
 私たちの魯迅先生が、いま生きていたら、何と言われるでしょう。また、プウシキンの読者だったあのレニンが、いま生きていたら、何と言うでしょう。
 またまた、イデオロギイ小説が、はやるのでしょうか。あれは大戦中の右翼小説ほどひどくは無いが、しかし小うるさい点に於いては、どっちもどっちというところです。私は無頼派(リベルタン)です。束縛に反抗します。時を得顔のものを嘲笑(ちょうしょう)します。だから、いつまで経っても、出世できない様子です。
 私はいまは保守党に加盟しようと思っています。こんな事を思いつくのは私の宿命です。私はいささかでも便乗みたいな事は、てれくさくて、とても、ダメなのです。
 宿命と言い、縁と言い、こんな言葉を使うと、またあのヒステリックな科学派、または「必然組」が、とがめ立てするでしょうが、もうこんどは私もおびえない事にしています。私は私の流儀でやって行きます。
 汝等(なんじら)おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。
 これが私の最初のモットーであり、最後のモットーです。
 さようなら。またおひまの折には、おたよりを下さい。しかし、妙な縁でしたね。お大事に。敬具。

 

全文削除となった花火

 エッセイ中で、太宰は「雑誌の小説が全文削除になったり」と書いています。
 この全文削除になった小説とは、花火(のちに日の出前と改題)です。花火は、戦時中の1942年(昭和17年)8月11日頃から、箱根に行き、箱根ホテルに滞在しながら執筆されました。

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箱根ホテル 富士屋ホテルチェーン直営で、1923年(大正12年)開業。創業者・山口仙之助は「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残しており、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」を目指したといいます。

 花火39枚は、もともと加納正吉が編集していた雑誌「八雲」(小山書店発行)のために執筆されたもので、当初は『名月』という題だったそうです。
 同年8月末頃に脱稿されたものと推定されますが、原稿を読んだ加納が「時局にふさわしくない内容」であることを憂慮して掲載が見合わされ、「八雲」には代わりに小説帰去来が掲載されました。帰去来は、1941年(昭和16年)8月17日、故郷の母が衰弱していると聞き、10年振りに故郷へ帰ったときのことを題材に書かれた小説です。

 「時局にふさわしくない」ことを理由に掲載が見送られた花火は、1935年(昭和10年)11月3日の深夜に、東京市本郷区弓町1丁目25番地で実際に起こった事件をモチーフに執筆されました。

 父親の医師・徳田寛(当時52歳)と母親・徳田はま(当時46歳)が共謀して保険金詐欺を企み、日本大学専門部歯科3年在籍の不良だった長男・徳田貢(当時23歳)を、母親と妹・徳田栄子(当時21歳)が惨殺したこの事件は、「日大生殺し」として世上に取り沙汰されました。長男には生命保険3社がかけられており、保険金は66,000円(現在の貨幣価値で1億3,000万円)にも及びました。当時、生命保険はそれほど普及しておらず、妻や他の子供には生命保険はかけられていなかったそうです。日本で最初の保険金殺人事件と言われています。

 太宰は、事件の翌年1936年(昭和11年)2月22日に刊行された『日大生殺し/徳田栄子の手記 ー肉親犯罪の謎を解けー』(第百書房)を入手して執筆したと思われます。同書は「序のことば」「徳田栄子の手記」の諸稿から成っています。

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■一審判決を伝える「東京朝日新聞」記事 1937年(昭和12年)7月20日発行。

 一度掲載が見送られた花火ですが、3ヶ月後の1942年(昭和17年)10月1日発行の総合雑誌「文藝」十月号に発表されました。しかし、「文藝」発売後に「風俗削除処分」が下され、全文削除を命じられます。

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内務省警保局の秘密文書「出版警察報」145号 1942年(昭和17年)10月8日削除処分。処分の理由について、「一般家庭人ニ対シ悪影響アルノミナラズ、不快極マルモノ」とある。

 戦時中の出版検閲は、「善良なる風俗を害する事項」に下される"風俗禁止"と、「共産主義の煽動」に対する"安寧禁止"の2つの基準で運用されていました。
 内務省警保局の秘密文書「出版警察報」には、花火「一般家庭人ニ対シ悪影響アルノミナラズ、不快極マルモノ」であることを理由に削除処分を下したと書かれています。つまり、"風俗禁止"に該当するという判断でした。また、主人公「勝治」が「マルキストヲ友トシ」とも言及されてることから、"安寧禁止"の要素も含まれてると判断されていたようです。

 特別高等警察特高警察)によってでっち上げられた、戦時下最大の思想・言論弾圧事件と言われる横浜事件のきっかけになった細川嘉六の論文『世界史の動向と日本』は、花火発表の前月、前々月の「文藝」八月号、九月号に掲載されており、花火もまた、当時の風潮の中で、格好の的にされたものと思われます。

 全文削除を命じられた花火ですが、4年後の1946年(昭和21年)11月20日に新紀元社から刊行された「薄明」日の出前と改題されて収録されました。

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■『花火』が収録された単行本「薄明」 1992年(平成4年)に日本近代文学館より刊行された『名著初版本復刻 太宰治文学館』。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「【公式】箱根ホテル
・HP「「母さん許して!」なぜ“我欲の鬼女”は叫ぶ我が子を出刃包丁でメッタ刺しにしたのか?」(文春オンライン
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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