記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【太宰治】雨じゃない玉川心中

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 2022年は、太宰治 没後74年。
 今日6月19日は、74回目桜桃忌です。

 桜桃忌は、太宰が死の直前に執筆した短篇桜桃にちなみ、太宰と同郷で交流のあった作家・今官一(こんかんいち)によって名付けられました。

 今回は、1年の中で一番太宰治に関心が集まるであろうこの日に、桜桃忌ついて世間一般でよく誤解されている2つの事実について紹介します。

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太宰治と「桜桃忌」の名付け親・今官一 1947年(昭和22年)、撮影:伊馬春部。今は太宰の文才を早くから見抜いた一人。デビューの際、古谷綱武らの同人誌「海豹」に太宰の短篇魚服記を推薦するなど、一貫して太宰のよき理解者だった。

 

命日じゃない桜桃忌

 1つ目の事実は、命日じゃない桜桃忌です。

 太宰を(しの)ぶ日である桜桃忌は、俳句の夏の季語でもあり、多くの人に知られています。()という言葉には"命日"という意味があるため、桜桃忌太宰治の命日と勘違いされがちですが、実はそうではありません。

 では、「6月19日は何の日?」というと、玉川上水で愛人・山崎富栄と一緒に入水自殺を遂げた、太宰の遺体が発見された日です。
 6月19日は、太宰が入水してから5日間続けられた捜索の最終日。この日に遺体が発見されなければ捜索は打ち切られる予定でしたが、投身現場から1キロ半下流玉川上水新橋下で、午前6時50分頃に発見されました。

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■太宰の遺体が発見された新橋 新橋の先右側には、明星学園がある。2021年9月23日、著者撮影。

 現在の玉川上水からは想像できませんが、当時の玉川上水は水深が深く、流れも速かったため、上水に落ちると瞬く間に飲み込まれてしまうことから「人食い川」と呼ばれていました。
 玉川上水に投身する人も多く、当時の「朝日新聞」報道(1948年(昭和23年)6月17日付)によると、太宰心中の前年1947年(昭和22年)には33人、1948年(昭和23年)は太宰で16人目だったそうです。

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◾️1948年(昭和23年)6月16日付「朝日新聞」 太宰治氏情死」の見出しで取り上げられている。記事内容の詳細については、こちらの記事で紹介しています。

 また、遺体が発見された6月19日は、奇しくも太宰の誕生日でした。そこで、太宰の故郷・青森県五所川原市(旧金木町)では、太宰生誕90周年を迎えた1999年(平成11年)から、「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という理由で、桜桃忌から太宰治生誕祭と名称を改めています。

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■太宰の生家「斜陽館」 2011年、著者撮影。

 

 ここまで読んで、「じゃあ、太宰の命日はいつなの?」と思われた方もいると思います。

 津島修治(太宰の本名)の戸籍簿を見ると、「昭和23年6月14日午前零時死亡」と書かれてあるそうで、この6月14日太宰治の命日に当たります。太宰の妻・津島美知子も、太宰との日々の回想回想の太宰治の中で、「14日に死亡」と書いています。
 太宰の正確な死亡時刻は明らかではありませんが、1948年(昭和23年)6月13日の午後11時半から、翌6月14日の午前4時頃までの間に、玉川上水に入水したとされています。
 当時の太宰の出立ちは、グレーのズボンに白いワイシャツ、下駄履き。太宰が死の直前まで滞在していた、富栄の自宅から玉川上水までは、歩いて70歩ほどの距離しかありませんでした。

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◾️1948年(昭和23年)撮影 写真右「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が富栄の下宿先。道の突き当りが、玉川上水。富栄の部屋から玉川上水までは、約70歩ほどの距離しかなかった。

 

 太宰が心中した理由について、その真相は明らかになっていません。

 長らく師事していた師匠・井伏鱒二の事を、なぜ遺書に井伏さんは悪人ですと書いたのか?といった謎も残されています。

 「富栄が太宰の首を絞めて殺した」という無理心中説も、文壇人や国文学者を中心に定説として捉えられ、世間一般に流布されました。
 私は、太宰が戦中から戦後にかけて多くの作品を発表し、新進作家として今後が期待されていたため、「出版の権利やその他の利害関係」「太宰の命を奪った富栄への嫉妬心」が入り混じって創られていったのではないかと考えています。

 太宰亡き今、その真相は闇の中ですが、その心中の理由について【考察】太宰治は、本当に首を絞められたのか?という考察記事を書いていますので、興味のある方は、ぜひご覧下さい。

 

雨じゃない玉川心中

 2つ目の事実は、雨じゃない玉川心中です。

 太宰は、1948年(昭和23年)6月13日の午後11時半から、翌6月14日の午前4時頃までの間に、玉川上水に入水したとされています。
 太宰が心中した際の天候は雨だったと言われ、これにより、いわゆる雨の玉川心中というイメージが世間一般では定着しているようです。
 また、この降雨が原因で、玉川上水が増水し、遺体の発見が遅れたとも言われています。

 太宰評伝の定番である、相馬正一評伝 太宰治 第三部でも、

(前略)二人の足どりを関係者の回想記や新聞記事などから辿ってみると、およそ次のようになる。六月十三日の深夜、太宰と富栄は降りしきる雨の中を野川家から出て、近くを流れる玉川上水に入水した、と推定される。

と書かれています。


相馬正一評伝 太宰治 第三部 筑摩書房、1985年)

 ここに書かれてある通り、関係者の回想記には、雨の中の心中だったと書かれているものが多くあります。

 

 しかし、本当に当日の天候は雨だったのでしょうか。

 ここで、太宰研究者・長篠康一郎(ながしのこういちろう)氏の「人間太宰治の空白」(東郷克美 編別冊國文学№47 太宰治事典所収)から引用してみたいと思います。
 長篠氏は、自ら標榜する「実証的研究」によって、世間一般に定着する太宰のマイナスイメージを全面的に否定しました。全国各地の太宰ゆかりの地を徹底的に取材。時には自ら人体実験を行い、麻薬中毒や左翼運動への関与、数度にわたって行われた自殺・心中未遂など、太宰の死の直後から伝えられてきた「虚像」をひっくり返しました。

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長篠康一郎(ながしのこういちろう)(1926~2007)

往年三鷹に住んでおられた山口秀雄氏より、当時の詳細な日記(コピー)を頂戴しているので、御了承を得て一部分をここに引用させていただくこととする。

昭和二十三年六月三日~二十一日
 ―東京地方(西部)天気状況―

昭和二十三年六月三日(木)
 起床 〇六、〇〇
 就床 二二、〇〇
 天候 晴のち霧雨(以下省略)

昭和二十三年六月四日(金)
 起床 〇五、四五
 就床 二二、〇〇
 天候 快晴(以下省略)

昭和二十三年六月五日(土)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、〇〇
 天候 晴のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月六日(日)
 起床 〇五、三〇
 就床 二一、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月七日(月)
 起床 一〇、〇〇
 就床 ―――――
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月八日(火)
 起床 ―――――
 就床 二一、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月九日(水)
 起床 〇五、四〇
 就床 二二、三〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十日(木)
 起床 〇五、五五
 就床 二一、四〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十一日(金)
 起床 〇五、二〇
 就床 二二、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十二日(土)
 起床 〇四、〇〇
 就床 二三、三〇
 天候 朝曇りのち晴(以下省略)

昭和二十三年六月十三日(日)
 起床 〇五、一五
 就床 二一、〇〇
 天候 晴(以下省略)

昭和二十三年六月十四日(月)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、三〇
 天候 曇り(以下省略)

昭和二十三年六月十五日(火)
 起床 〇五、二五
 就床 二一、五〇
 天候 朝雨のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月十六日(水)
 起床 〇五、一五
 就床 二二、〇〇
 天候 雨(以下省略)

昭和二十三年六月十七日(木)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、〇〇
 天候 雨のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月十八日(金)
 起床 〇五、五〇
 就床 二一、五〇
 天候 曇りのち雨(以下省略)

昭和二十三年六月十九日(土)
 起床 〇五、五〇
 就床 二二、〇〇
 天候 雨(以下省略)

昭和二十三年六月二十日(日)
 起床 〇八、〇〇
 就床 二〇、三〇
 天候 雨のち曇り(以下省略)

昭和二十三年六月二十一日(月)
 起床 〇五、五〇
 就床 二一、五〇
 天候 曇り(以下省略)

 三鷹在住の山口秀雄氏の日記によると、六月初旬から「晴」の日が続き、なかなか雨が降りません。ようやく「雨」が降るのは、「朝雨のち曇り」6月15日」。太宰の失踪が判明し、三鷹署による捜索活動が開始された日です。
 その後、太宰の遺体が発見される6月19日まで、連日「雨」が続いているため、捜索活動中はずっと雨だったという事が分かります。6月16日、三鷹署は捜査のために武蔵野市関町の境浄水場水門を閉め、減水してくれるよう水道局に依頼しています。

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 また、生前の富栄の事を知る梶原悌子氏の著書玉川上水情死行にも、次のように書かれています。

 整理がすんで部屋を出たのは十三日の午後十一時ごろと推定されている。雨は降っていなかった。
 太宰の入水は雨の中というのが通説だが、実際にはこの年の六月半ばまで雨は少なかった。一九四八(昭和二十三)年六月十三日付け朝日新聞には《工場に休電日・十四日から》という見出しで、「カラ梅雨で一向に雨が降らないため、電力事情がまた悪くなったので〔……〕」との記事が出ている。
 当日の天気予報は「南の風くもり時々雨・晩東の風時々雨」とあるが、雨はほとんど降らなかった。翌十四日の予報は「北西の風くもり時々晴れ」で、この日は風が非常に強く吹いた。雨が降りだしたのは、二人の行方不明が知れわたった十五日の午後になってからであった。
 十七日付け読売新聞には《電力五日分降る》の見出しで、「十五日来の雨は十六日夜明けごろから本降り、やがて土砂降りとなって〔……〕」の記事がある。


■梶原悌子『玉川上水情死行(作品社、2002年)

 当時の「読売新聞」を引用しながら、当時「雨は降っていなかった」とする玉川上水情死行の記述は、山口秀雄氏の日記の内容と合致しています。

 

 それでは、なぜ雨の玉川心中というイメージが定着してしまったのか。
 それは、から梅雨で電力事情も心配されていた中、久し振りに降った雨であり、太宰の遺体捜索中にもずっと降り続いていた事から、記憶の中に「雨」の印象が強く植え付けられ、そのままのイメージを関係者が回想記に綴った事で、いつの間にか定説化されてしまったのではないでしょうか。

 

 今回は桜桃忌という事で、太宰の心中事件に関連した、世間一般でよく誤解されている2つの事実について紹介しました。

 今日は、太宰13回目の生誕祭
 当ブログでは、【日めくり太宰治】【日刊 太宰治全小説】【週刊 太宰治のエッセイ】という連載を更新し続けてきました。ぜひ過去の記事にも目を通して頂きながら、太宰に想いを馳せる1日を過ごすきっかけとなれば幸いです。

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■芦野公園の太宰治像(青森県五所川原市金木町) 生家「斜陽館」の近くにある公園で、太宰が少年の頃、よく遊んだ場所として知られている。2022年4月24日、撮影。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治武蔵野心中』(広論社、1982年)
相馬正一評伝 太宰治 第三部 』(筑摩書房、1985年)
・東郷克美 編『別冊國文学№47 太宰治事典』(學燈社、1995年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・梶原悌子『玉川上水情死行』(作品社、2002年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用・加工しました。
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