今週のエッセイ
◆『青森』
1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
『青森』は、1941年(昭和16年)1月11日発行の「月刊東奥」第三巻第一号の「特集・初春に余す」欄に発表された。この欄には、ほかに「漁村の曙」(鳥谷幡山)、「早ぐ春ア来ればいゝぢゃなア」(今官一)、「コミセと正月のウマコ」(木山捨三)、「第一の春(短歌)」(和田山蘭)など19編が掲載された。
「青森」
青森には、四年いました。青森中学に通っていたのです。親戚の豊田様のお家に、ずっと世話になっていました。寺町の呉服屋の、豊田様であります。豊田の、なくなった「お父 さ」は、私にずいぶん力こぶを入れて、何とかはげまして下さいました。私も、「おどさ」に、ずいぶん甘えていました。「おどさ」は、いい人でした。私が馬鹿な事ばかりやらかして、ちっとも立派な仕事をせぬうちになくなって、残念でなりません。もう五年、十年生きていてもらって、私が多少でもいい仕事をして、お父 さに喜んでもらいたかった、とそればかり思います。いま考えると「おどさ」の有難いところばかり思い出され、残念でなりません。私が中学校で少しでも佳 い成績をとると、おどさは、世界中の誰よりも喜んで下さいました。
私が中学の二年生の頃、寺町の小さい花屋に洋画が五、六枚かざられていて、私は子供心にも、その画 に少し感心しました。そのうちの一枚を、二円で買いました。この画 はいまにきっと高くなります、と生意気な事を言って、豊田の「おどさ」にあげました。おどさは笑っていました。あの画 は、今も豊田家のお家に、あると思います。いまでは百円でも安すぎるでしょう。棟方志功氏の、初期の傑作でした。
棟方志功氏の姿は、東京で時折、見かけますが、あんまり颯爽と歩いているので、私はいつでも知らぬ振りをしています。けれども、あの頃の棟方氏の画 は、なかなか佳 かったと思っています。もう、二十年ちかく昔の話になりました。豊田様のお家の、あの画 が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。
太宰と豊田家
太宰が「お
豊田太左衛門は、青森市寺町14番地の呉服・布団の老舗の当主でした。豊田家は、太宰の叔母・津島
太宰は、青森中学校に入学してから卒業するまでの4年間を、叔母・
叔母・
太左衛門は通人でもあり、太宰をよく可愛がり、外出に連れ出しては、小料理屋「おもたか」などでもてなしました。これは、弘前高等学校に入学してからの「遊び」に繋がるきっかけだったのかもしれません。
■太宰の中学時代 前列左から、豊田太左衛門、津島逸郎、太宰、後列左から、津島礼治、太宰の次姉・津島トシ。
このような環境の中で、太宰は「津島家の秀才」として中学時代を過ごし、のちに師匠となる井伏鱒二の『幽閉』(のちに『山椒魚』と改題)と出会います。『幽閉』を読んだ太宰は、「埋もれたる無名不遇の天才を発見」「坐っておられないくらい興奮」と、この時のことを回想しています。
青森中学校を卒業して弘前高等学校へ進学、豊田家を出た太宰ですが、平日は弘前で義太夫を習い、週末は青森へ出かけ、豊田家から花柳界へ出入りする、という生活をはじめました。制服制帽で豊田家へ向かった太宰は、角帯に着替え、小料理屋「おもたか」へ繰り出し、芸者・
■芸者時代の小山初代
その後も、太宰の長兄・津島文治の命により、太左衛門を名代とする小山家との結納や、鎌倉での太宰と田部あつみとの心中未遂事件(あつみのみ死亡)後に、太宰と初代との仮祝言への立会いを命じられたりと、太宰と深く関わっていくことになりました。
■豊田家跡 太宰は中学時代、ここに下宿していた。2020年撮影。
【了】
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【参考文献】
・『写真集 太宰治の生涯』(毎日新聞社、1968年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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