記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】音に就いて

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今週のエッセイ

◆『音に就いて』
 1937年(昭和12年)、太宰治 28歳。
 1937年(昭和12年)1月中旬頃に脱稿。
 『音に就いて』は、1937年(昭和12年)1月20日発行の「早稲田大学新聞」第六十号の「学芸」に発表された。この欄には、ほかに「世界観の相剋 日本文芸学の問題」(睴峻康隆)、「ひとりのときには」(北山雅子)、「春拾遺(一) 新春白髪」(児玉希望)が掲載された。

「音に就いて

 文学を読みながら、そこに表現されてある音響が、いつまでも耳にこびりついて、離れないことがあるだろう。高等学校の頃に、次のような事を教えられた。マクベスであったか、ほかの芝居であったか、しらべてみれば、すぐ判るが、いまは、もの憂く、とにかくシェイクスピア劇のひとつであることは間違いない、とだけ言って置いて、その芝居の人殺しのシイン、寝室でひそかにしめ殺して、ヒロオも、われも、瞬時、ほっと重くるしい溜息。額の油汗(ぬぐ)わんと、ぴくとわが硬直の指うごかした折、とん、とん、部屋の外から誰やら、ドアをノックする。ヒロオは、恐怖のあまり飛びあがった。ノックは、無心に、つづけられる。とん、とん、とん。ヒロオは、その場で気が狂ったか、どうか、私はその後の筋書を忘れてしまった。
 油地獄にも、ならずものの与兵衛とかいう若い男が、ふとしたはずみで女を、むごたらしく殺してしまって、その場に茫然(ぼうぜん)立ちつくしていると、季節は、ちょうど五月、まちは端午の節句で、その家の軒端の(のぼり)が、ばたばたばたばたと、烈風にはためている音が聞えて淋しいとも侘しいとも与兵衛が可愛そうでならなかった。五人女にも、於七(おしち)が吉三のところへ夜決心してしのんで行って、突如、からからと鈴の音、たちまち小僧に、あれ、おじょうさんは、よいことを、と叫ばれ、ひたと両手合せて小僧にたのみいる、ところがあったと覚えているが、あの思わざる鈴の音には読むものすべて、はっと魂消したにちがいない。
 まだ誰も邦訳していないようだが、プロフェッサアという小説、作者は女のひと、別なもう一つの長篇小説で、なにかの文庫で日本にその名を紹介せられた(はず)であるが、その作者の名も、その長篇小説の名も、その文庫の名もすべて、いますぐ思い出せない。これとて、しらべてみれば、判るのだが、いま、その必要を認めない。プロフェッサアという小説は、さる田舎の女学校の出来事を叙したものであって、放課後、余人ひとりいないガランとした校舎、たそがれ、薄暗い音楽教室で、男の教師と、それから主人公のかなしく美しい女のひとと、ふたりきりひそひそ世の中の話を語っているのであるが、秋風が無人の廊下をささと吹き過ぎて、いずこか遠い扉が、ぱたん、と音たてる。いよいよ森閑として、読者は、思わずこの世のくらしの侘しさに身ぶるいをする、という様な仕組みになっていた。
 同じ扉の音でも、まるっきり違った効果を出す場合がある。これも作者の名は、忘れた。イギリスのプルウストッキングであるということだけは、間違いないようだ。ランタアンという短篇小説である。たいへん難渋の文章で、私は、おしまいまで読めなかった。神魂かたむけて書き綴った文章なのであろう。細民街のぼろアパアト、黄塵白日、子らの喧噪(けんそう)、バケツの水もたちまちぬるむ炎熱、そのアパアトに、気の毒なヘロインが、堪えがたい焦燥(しょうそう)に、身も世もあらず、もだえ、のたうちまわっているのである。隣りの部屋からキンキン早すぎる回転の安蓄音機が、きしりわめく。私は、そこまで読んで、息もたえだえの思いであった。
 ヘロインは、ふらふら立って鎧扉を押しあける。かっと烈日、どっと黄塵。からっ風が、ばたん、と入口のドアを開け放つ。つづいて、ちかくの扉が、ばたんばたん、ばたんばたん、十も二十も、際限なく開閉。私は、ごみっぽい雑巾で顔をさかさに撫でられたような思いがした。みな寝しずまったころ、三十歳くらいのヘロインは、ランタアンさげて腐りかけた廊下の板をぱたぱた歩きまわるのであるが、私は、いまに、また、どこか思わざる重い扉が、ばたあん、と一つ、とてつもない大きい音をたてて閉じるのではなかろうかと、ひやひやしながら、読んでいった。
 ユリシイズにも、色様々の音が、一杯に盛られてあった様に覚えている。
 音の効果的な適用は、市井文学、いわば世話物に多い様である。もともと下品なことにちがいない。それ故にこそ、いっそう、恥かしくかなしいものなのであろう。聖書や源氏物語には音はない。全くのサイレントである。

 

「音に就いて思い出す。」

  今回はエッセイ「音に就いて」を紹介しましたが、太宰は処女短篇集晩年に収録されており、自身の幼少期・少年期について書いた自叙伝的な作品思い出の一章でも、「音に就いて」という書き出しで始まる部分があります。

 音に就いて思い出す。私の長兄は、そのころ東京の大学にいたが、暑中休暇になって帰郷する度毎に、音樂や文学などのあたらしい趣味を田舍へひろめた。長兄は劇を勉強していた。或る郷土の雜誌に発表した「奪い合い」という一幕物は、村の若い人たちの間で評判だった。それを仕上げたとき、長兄は数多くの弟や妹たちにも読んで聞かせた。皆、判らない判らない、と言って聞いていたが、私には判った。幕切の、くらい晩だなあ、という一言に含まれた詩をさえ理解できた。私はそれに「奪い合い」でなく「あざみ草」と言う題をつけるべきだと考えたので、あとで、兄の書き損じた原稿用紙の隅へ、その私の意見を小さく書いて置いた。兄は多分それに気が附かなかったのであろう、題名をかえることなくその儘発表して了った。レコオドもかなり集めていた。私の父は、うちで何か饗応があると必ず、遠い大きなまちからはるばる芸者を呼んで、私も五つ六つの頃から、そんな芸者たちに抱かれたりした記憶があって、「むかしむかしそのむかし」だの「あれは紀のくにみかんぶね」だのの唄や踊りを覚えているのである。そういうことから、私は兄のレコオドの洋楽よりも邦樂の方に早くなじんだ。ある夜、私が寝ていると、兄の部屋からいいが漏れて来たので、枕から頭をもたげて耳をすました。あくる日、私は朝早く起き兄の部屋へ行って手当り次第あれこれとレコオドを掛けて見た。そしてとうとう私は見つけた。前夜、私を眠らせぬほど興奮させたそのレコオドは、蘭蝶だった。

 引用した部分にも登場し、太宰の長兄・津島文治が「レコオド」を聴いていたという蓄音機が、太宰の故郷に現存しています。

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太宰治「思ひ出」の蔵」 青森県五所川原市大町501番地2。2020年、著者撮影。

 その蓄音機は、青森県五所川原市にある太宰治「思ひ出」の蔵に展示中です。
 この蔵は、2011年(平成23年)、五所川原市大町2丁目地区土地区画整理事業により解体された「太宰ゆかりの蔵」の解体部材を元に、2014年(平成26年)8月に再築し、公開されているものです。
 戦時中、太宰が金木の生家に疎開していた際にも、太宰はこの蔵を度々訪れ、酒を飲み、叔母・津島キヱやその家族、文学好きの若い人と朝まで語らっていたそうです。

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■太宰ゆかりの蓄音機 2020年、著者撮影。

 これが、展示されている太宰も聴いた、ゆかりの蓄音機。メーカーはビクターで、昭和初期に日本国内で製造されたとみられる、手回しゼンマイ式です。高さは約1メートルあります。
 この蓄音機は、五所川原在住の呉服商中畑慶吉が所蔵しており、津島家から譲り受けたといいます。中畑は、呉服店員として津島家に出入りして信頼され、後に津島家から勘当を言い渡された太宰の世話をしました。

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■中畑家 左から中畑慶吉、娘・けい、妻・ちゑ

 蓄音機は中畑の自宅に長く置かれていましたが、自宅改築時に置き場所に困っていたところ、五所川原市内在住のアンティーク好きの方の手を経て、太宰治「思ひ出」の蔵に展示されることになったそうです。

 太宰治「思ひ出」の蔵については、こちらの記事でも紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『太宰ゆかりの蓄音機か』(陸奥新報、2015年5月18日)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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