記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】食通

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『食通』
 1942年(昭和17年)、太宰治 33歳。
 1941年(昭和16年)12月中旬に脱稿。
 『食通』は、1942年(昭和17年)1月5日発行の「博浪抄」第七巻第一号に発表された。

「食通

 食通というのは、大食いの事をいうのだと聞いている。私は、いまはそうでも無いけれども、かつて、非常な大食いであった。その時期には、私は自分を非常な食通とばかり思っていた。友人の檀一雄などに、食通というのは、大食いの事をいうのだと真面目な顔をして教えて、おでんや等で、豆腐、がんもどき、大根、また豆腐というような順序で際限も無く食べて見せると、檀君は眼を丸くして、君は余程の食通だねえ、と言って感服したものであった。伊馬鵜平君にも、私はその食通の定義を教えたのであるが、伊馬君は、みるみる喜色を満面に(たた)え、ことによると、僕も食通かも知れぬ、と言った。伊馬君とそれから五、六回、一緒に飲食したが、果して、まぎれもない大食通であった。
 安くておいしいものを、たくさん食べられたら、これに越した事はないじゃないか。当り前の話だ。すなわち食通の奥義である。
 いつか新橋のおでんやで、若い男が、海老の鬼がら焼きを、箸で器用に()いて、おかみに褒められ、てれるどころかいよいよ澄まして、またもや一つ、つるりとむいたが、実にみっともなかった。非常に馬鹿に見えた。手で剝いたって、いいじゃないか。ロシヤでは、ライスカレーでも、手で食べるそうだ。

 

”食通”の太宰

 「食通」「大食いの事」と定義し、自身も「かつて、非常な大食い」だったと言う太宰ですが、実際はどうだったのでしょうか。9年間、太宰のことを支え続けた妻・津島美知子回想の太宰治から引用して紹介します。

 まずは、太宰と結婚して甲府市御崎町56番地の借家に引越した頃のこと。

 引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお誂え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利がよかった。酒は一円五十銭也の地酒をおもにとり、月に酒屋への支払いが二十円くらい。酒の肴はもっぱら湯豆腐で、「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と近隣で噂されているということが、廻り廻って私の耳に入り、呆れたことがある。
 太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯がわるいのと、何丁平らげても高が知れているところから豆腐を好むのである。

 酒屋への支払いが月20円くらいというと、現在の貨幣価値に換算すると、約25,000~29,000円に相当します。

f:id:shige97:20211219162455j:plain
太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ 山梨県立文学館で2019年4月27日~6月23日の会期で開催された「特設展『太宰治 生誕110年ー作家をめぐる物語ー』」の配布資料。一部著者が編集。

 太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ」を見ると、「太宰の新居跡」の近くに「①酒屋(窪田酒店)」「②煙草屋(原田親平が営業)」「③豆腐屋分部(わけべ)豆腐店)」があるのが分かります。ちなみに、毎日午後3時頃まで机に向かった後に通ったという温泉「喜久之湯」もあります。結婚後の新居は、まさに太宰にとって「お誂え向き」の立地でした。

 続いて、太宰の食事風景や食の好みについても引用してみます。

 太宰は箸の使い方が大変上手な人だった。長い指で長い箸のさきだって使って、ことに魚の食べ方がきれいだった。箸をつけたらきれいに平らげ、箸をつけない皿はそのまま残した。あれほど箸づかいのすっきりした人は少ないと思う。

 太宰の食物についての言い分を聞いていると結局、うまいものはすべて津軽のもの、材料も料理法も津軽風に限るということになる。たまに郷里から好物が届くと、大の男が有頂天になって喜ぶ。甲府で所帯を持ってその春、陸奥湾に面する蟹田の旧友中村さん(著者注:小説『津軽』のN君)が手籠一ぱい毛蟹を送ってくださった。私が津軽の味を味わった最初で、食べ方、雌雄の見分けなどをこのとき彼に教えてもらった。蟹は第一の好物であった。

f:id:shige97:20211219164946j:image

 太宰にとっては鶏肉が、肉類では一ばん馴染のものだった。戦争中、三鷹の農家で鶏一羽、売ってくれることがあって、それが最高の御馳走であったが、農家も出征兵を出していて男手不足なので、おばあさんか、お嫁さんが庭さきに放し飼いされている鶏をつかまえ、バタバタするのをおさえつけて、そのまま渡してくれることもある。木綿ふろしきでくるんで乳母車に子供や野菜と一緒に積みこんで帰ると、主人自ら手をくだすほかないので、酒の勢を借りて、あの虫も殺さぬ優しい人が、えいッとばかりひねってしまう。そのあとの始末を私がやって、流しの(まないた)の上におくとこれからが本番、じつは、太宰には鶏の解剖という隠れた趣味がある。頼んでもやりそうもない人なのに、こればかりは自分の仕事にきめている。但し、いたって大ざっぱな自己流で、肉は骨つきのままぶつ切りに、内臓は捨てるべきものを取り去るだけで、このとき必ず「『トリは食ってもドリ食うな』と言ってね」というせりふが出る(ドリというのは臓物の一部分で食べてはいけないとされていた)。私のカッポウ着を着てその仕事を楽しんでいる最中、来客があって、私に目顔、手まねで合図して居留守をつかってお帰ししたことがある。流しの前と玄関の戸口とほんの僅かしか離れていないので声が出せなかったのだ。
 鶏は大てい水たきか鍋にした。鍋ものが好きで、小皿に少しずつ腹にたまらぬ酒の肴を並べてチビチビやるのでなく、書生流に大いに飲みかつ喰う方だった。

 「ドリ」とは、「ルリ」とも呼ばれる「肺」にあたる部位で、美味しく食べられる部分ではないそうです。

f:id:shige97:20190304161913j:plain
太宰治文学サロンに展示されている、三鷹の住居模型。 2019年3月、著者撮影。

 写真下方が玄関、右下隅の美知子の人形が立っているのが流し。確かに、この距離感で居留守を使うには、声が出せなさそうです。

 体質からか、頭を使う仕事のせいか肉、魚、内臓などを特別欲したので、私は三鷹では毎日食料集めに奔走した。マーケットの女主人に、毎日卵を買いにくるといって罵られたことがあった。

 最後に、今回のエッセイ『食通』が書かれた頃の食料事情について引用します。

 食料は、三鷹の奥の新川や大沢の方の農家を歩き廻って、野菜や卵、鶏などを入手し乳母車に子供と一緒に積んで帰り、時にはもっと遠くへ買い出しに出かけるなどして、私は食料あつめであけくれていた。郷里の人々の好意にもすがった。食料、燃料、調味料、この三つが揃っていることは稀で、ついに林に入ってヤブ萱草(かんぞう)を採ってきて食べて腹こわししたり、道に落ちている木ぎれを拾うまでになった。
 太宰は体質のせいか肉魚卵などの乏しいのがこたえるようだった。ほんの僅かの魚や肉の配給を取るために長い時間立って待たねばならなかった。配給制になってから今まで煙草をのまなかった人がのむようになった話をきいたが、太宰が甘味に手をのばして砂糖もアルコールも体内に入れば同じものだと言うのには驚いた。酒は苦心してたいてい毎日飲んではいたが、勿論不足だったと思う。

f:id:shige97:20200830190918j:image
■長女・園子、次女・里子と、三鷹の自宅にて この写真に写る鶏も、太宰が解体したのでしょうか。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
・HP「太宰治と甲府 2【御崎町の借家と煙草店】」(峡陽文庫
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】

太宰治の全エッセイ、
 バックナンバーの一覧はこちら!】