記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【太宰散歩】津軽、太宰ゆかりの地を歩く2018(前編)

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撰ばれてあることの

恍惚と不安と

二つわれにあり

                      ーヴェルレエヌ

太宰の処女作『晩年』の冒頭を飾る作品「葉」冒頭のエピグラフからはじめます。

この詩は、39年におよぶ人間・太宰治の心境を集約した言葉だと思います。

 

自己に対する、文学者として「撰ばれてあること」への自信と不安の入り乱れた「恍惚と不安」を感じつつ、加えて、青森県内で4番目という津軽屈指の大地主である津島家に六男坊として生まれ、幼い頃から総ヒバ造りの豪華な家に住み、30人もの使用人に囲まれ、農民に金を貸し、抵当にした田畑の搾取によって富や恵まれた暮らしが成り立つ環境を見、「撰ばれ」た環境を与えられながらも、その環境に対する罪の意識も持ち合わせ、「恍惚と不安」を感じるという複雑な心境が、太宰文学の根幹を成しています。

 

…と、小難しい話はここまでにしておいて、2018年、今年のGWに、久し振りに故郷・青森に帰省しまして、太宰のゆかりの地を巡ってきました。

父親が転勤族だったので、これまでは「自分の故郷=家族の住んでいるところ」だったのですが、父親が退職し、故郷が太宰の生まれ育った五所川原に落ち着きました(太宰の生まれた金木町は、2005年3月28日に五所川原市市浦村と合併し、新市政による五所川原市となった)。

太宰治はソウルフレンド」と公言している自分が、まさか太宰と故郷を同じにするとは…と驚いています。

そんなこんなで、太宰ゆかりの地すべてを回れた訳ではないのですが、帰省期間中に巡った太宰ゆかりの地『太宰・津軽散歩』と題して、まとめていきます。

 

太宰・津軽散歩のバイブル

津軽で太宰のゆかりの地を歩くとなると、バイブルになるのが1944年(昭和19年)11月に小山書店から刊行された紀行文津軽

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当時、小山書店は「新風土記叢書」というシリーズを組み、作家に自らの郷里を案内する紀行文を書かせていました。

津軽シリーズ7冊目の刊行。小山書店の加納正吉からの勧めで、津軽の執筆と、その取材という形で津軽旅行をすることが決定しました。

 

太宰はこの津軽』取材旅行3年前である1941年(昭和16年)8月に、太宰の世話人である北芳四郎の勧めで、10年振りに帰郷しています。

この時の滞在時間「ほんの三、四時間ほどのもの」だったそうですが、冒頭でも少し触れたように、太宰は自身の出身に対してコンプレックスを抱いており、また、過去の度重なる自殺未遂などの負い目もあったため、かなり決心のいる帰郷だったと想像できます。

 

そして、翌1942年(昭和17年)10月母・タ子(たね)重態の知らせを受け、再び帰郷をします。

前年の帰郷は、北さんに連れられての帰郷でしたが、今回は、実家・津島家の人々と初対面妻・美知子さんと娘・園子さんを連れての帰郷。

久し振りの実家に入る際には、周囲の目を憚って、裏口から入ったそう。

 

この2度の帰郷について、それぞれ『帰去来』『故郷』という短篇を記しています。

この2つの短篇を読むと、太宰の生家に対するわだかまりが氷解していく様が感じられます。

ようやくコンプレックスの源と和解することができたのです。

 

幼い頃のコンプレックスとの和解という経緯を経て、依頼を受けた紀行文津軽執筆。

この作品には、津軽の風景・人が愛情を持って描写されていて、太宰の故郷愛が最も感じられる作品です。

 

それでは、バイブル津軽を片手に、今回の私の帰郷で巡った、太宰ゆかりの地を振り返っていきます。

 

津軽の味覚

太宰は、津軽』執筆旅行の際、1944年(昭和19年)5月12日に、ジャンパーを着て、きちんとゲートルを巻いて、戦時型の軽装をして、リュックサックを背に、弁当と水筒持参という、自称「乞食のような姿」三鷹の自宅を出発し、午後5時30分上野発の青森行き急行列車に乗り、故郷の津軽を目指しました。

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   新潮文庫津軽』冒頭の口絵より)

翌5月13日の朝8時に青森へ到着、"T君"こと外崎勇三とそのお嬢さんの出迎えを受け、バスで蟹田へと向かいます。

午後、旅路を共にする、蟹田のN君"こと中村貞次郎と会い、N君宅へ四泊五日逗留します。

 

 そして、その晩。

松尾芭蕉行脚掟から「一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にて止むべし、乱に及ばずの禁あり」という一箇条を引用しながら、「酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞いをするな、という意味」「泥酔などして礼を失しない程度ならば、いい」という独自解釈から、津軽の饗応、盃の応酬がはじまります。

最後には、「私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思われる」である。太宰の言い訳、おそるべし(笑)

 

また、このシーンで「蟹の山」として登場するのが、これ

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太宰も愛した、津軽の味

津軽地方ではお花見のお供である、トゲクリガニです。

もぎたての果実のように新鮮な軽い味である。」と書かれたトゲクリガニは、小さいながらも、しっかりと甘みのある蟹の味がします。

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 私も実家で食べてきたのですが、やっぱり、美味。

カニ味噌も、しっかり、カニ味噌の味

津軽の春の風物詩津軽にお越しの際には、ぜひ一度、ご賞味あれ!

 

…と、太宰の津軽』執筆旅行では、翌5月13日に、青森市から朝一番のバスで駆けつけた、三鷹の家を訪ねたほどの太宰ファン・外崎勇三と、その知人・下山清次松尾清照などの小説愛好家が会いに来て、一緒に観瀾山(かんらんざん)へ花見に出かけます。

 

 そして、お花見の後、太宰一行は、場所を変えて、また飲むのですが、その時に登場するのが、私も大好きな、これ

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 干鱈(ひだら)です。

大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したものなんですが、絶妙の塩加減お酒がススム、ススム

寂しいことに、東京ではなかなかお目にかかりませんが、大好きな故郷の酒の肴です。

 

「ここは、本州の袋小路だ。」

観瀾山でのお花見の翌日、翌々日は執筆に充てたようです。

さすがは売れっ子作家・太宰治。旅の最中だって、忙しい!

 

そして、5月18日。中村貞次郎とともに蟹田を出発。観瀾山で杯を酌み交わした松尾清照の家に立ち寄った後、三厩(みんまや)丸山旅館で一泊。

そのまま徒歩で北上し、翌5月19日「午后五時」三厩村大字竜飛奥谷旅館に到着しました。

 

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私たちも奥谷旅館を目指して、車で日本海沿岸を走っていきます。

奥にぼんやりと写っているのは北海道

青森と北海道って、こんなに近いんです。

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そうこうしているうちに辿り着いたのが、ここ

太宰の文学碑です。

この文学碑には、

ここは、本州の袋小路だ。讀者も銘肌せよ。諸君が北に向かつて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ケ濱街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである。

という、津軽からの引用文が刻まれています。

 

太宰が宿泊した、奥谷旅館

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道路を挟んで、文学碑のすぐ近くにあるのが、太宰が津軽執筆のための取材旅行で宿泊した奥谷旅館です。

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郷愁を感じさせる、いい雰囲気が漂っています。

この奥谷旅館、現在は竜飛岬観光案内所となっていて、無料で観覧することができます。

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中に入ると、入口に、いわゆる宿帳が。

これは、太宰の筆ではないそうですが、太宰とN君こと中村貞次郎が泊まった痕跡が、しっかりと残っています。

太宰の住所が「東京都下三鷹下連雀一一三」と記されています。

 

 この奥谷旅館は二階のない小さな旅館で、風呂もなく、酒を飲み、歌をうたって就寝したそうです。

ここで津軽から、この時の様子を少し引用してみます。

露路をとおって私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、そうして普請も決して薄っぺらでない。まず、どてらに着換えて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やっと、どうやら、人心地を取りかえした。

「ええと、お酒はありますか」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答えは、案外であった。

「へえ、ございます」おもながの、上品な婆さんである。そう答えて、平然としている。N君は苦笑して、

「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ」

「どうぞナンボでも」と言って微笑んでいる。

私たちは顔を見合わせた。

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津軽「お婆さん」として登場する、奥谷旅館の初代女将・奥谷たんさん。

奥谷旅館は、明治35年頃から平成11年までの約100年間営業。二代目女将・ツカ(光江)母子二代で切り盛りした、歴史ある旅館だそうです。

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入口付近には、奥谷旅館の説明や当時の平面図等が展示されています。

赤く丸いシールが貼ってあるのが、太宰一行が宿泊した部屋だそうです。
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入口から手前右に曲がり、通路を奥まで進んだ右手の部屋が、太宰一行が宿泊した部屋です。

奥谷旅館自体は、当時から増改築されたそうですが、部屋は復元して残し、現在に至るとのこと。

ドキドキしながら、廊下を突き当りまで進んでいきます。

そこが、奥谷旅館の袋小路だ。

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ここが、太宰治中村貞次郎が宿泊した部屋です。

たんさんの「どうぞ、ナンボでも」という返答を聞いた二人は、半信半疑ながら、顔を見合わせて、「よしっ」と思ったことでしょう。

以下津軽から、続きをもう少し引用してみようと思います。

このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になっているという事実を、知らないのではなかろうかとさえ疑われた。

「きょう配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて」と言って、集めるような手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかえるように腕をひろげて、「さっき内の者が、こんなに一ぱい持ってまいりました」「それくらいあれば、たくさんだ」と私は、やっと安心して、「この鉄瓶でお燗をしますから、お銚子にお酒をいれて、四、五本、いや、めんどうくさい、六本、すぐに持って来て下さい」お婆さんの気の変らぬうちに、たくさん取寄せて置いたほうがいいと思った。「お膳は、あとでもいいから」

 お婆さんは、言われたとおりに、お盆へ、お銚子を六本載せて持って来た。一、二本、飲んでいるうちにお膳も出た。

「どうぞ、まあ、ごゆっくり」

「ありがとう」

六本のお酒が、またたく間に無くなった。

「もう無くなった」私は驚いた。「ばかに早いね、早すぎるよ」

「そんなに飲んだかね」とN君も、いぶかしそうな顔をして、からのお銚子を一歩ずつ振って見て、「無い。何せ寒かったもので、無我夢中で飲んだらしいね」

「どのお銚子にも、こぼれるくらい一ぱいお酒がはいっていたんだぜ。こんなに早く飲んでしまって、もう六本なんて言ったら、お婆さんは僕たちを化物じゃないかと思って警戒するかも知れない。つまらぬ恐怖心を起させて、もうお酒はかんべんして下さいなどと言われてもいけないから、ここは、持参の酒をお燗して飲んで、少し間をもたせて、それから、もう六本ばかりと言ったほうがよい。今夜は、この本州の北端の宿で、一つ飲み明かそうじゃないか」と、へんな策略を案出したのが失敗の基であった。

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写真や、私の拙い文章などなくても、太宰の文章を読んでいるだけで、その時の様子が目の前に浮かんできます。

お酒を飲みながら、二人が暖をとった火鉢も残っています。

もう少しだけ津軽からの引用を続けます。

私たちは、水筒のお酒をお銚子に移して、こんどは出来るだけゆっくり飲んだ。そのうちにN君は、急に酔って来た。

「こりゃいかん。今夜は僕は酔うかも知れない」酔うかも知れないじゃない。既にひどく酔ってしまった様子である。「こりゃ、いかん。今夜は、僕は酔うぞ。いいか。酔ってもいいか」

「かまわないとも。僕も今夜は酔うつもりだ。ま、ゆっくりやろう」

「歌を一つやらかそうか。僕の歌は、君、聞いた事が無いだろう。めったにやらないんだ。でも、今夜は一つ歌いたい。ね、君、歌ってもいいだろう」

「仕方がない。拝聴しよう」私は覚悟をきめた。

 いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶって低く吟じはじめた。想像していたほどは、ひどくない。黙って聞いていると、身にしみるものがあった。

「どう? へんかね」

「いや、ちょっと、ほろりとした」

「それじゃ、もう一つ」

 こんどは、ひどかった。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になったのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。

 とうかいのう、小島のう、磯のう、と、啄木の歌をはじめたのだが、その声の荒々しく大きい事、外の風の音も、彼の声のために打消されてしまったほどであった。

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壁には、N君こと中村貞次郎の歌った、若山牧水の歌「幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終(は)てなむ国ぞ 今日も旅ゆく」が飾られています。

ちなみに、同じくN君がもう一つ歌った石川啄木の歌は「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

 

酔っ払い、気持ちよく歌までうたいはじめた太宰ご一行。

津軽から、この日の宴の顛末まで引用してみましょう。

「ひどいなあ」と言ったら、

「ひどいか。それじゃ、やり直し」大きく深呼吸を一つして、さらに蛮声を張り上げるのである。東海の磯の小島、と間違って歌ったり、また、どういうわけか突如として、今もまた昔を書けば増鏡、なんて増鏡の歌が出たり、呻くが如く、喚くが如く、おらぶが如く、実にまずい事になってしまった。私は、奥のお婆さんに聞えなければいいが、とはらはらしていたのだが、果せる哉、襖がすっとあいて、お婆さんが出て来て、

「さ、歌コも出たようだし、そろそろ、お休みになりせえ」と言って、お膳をさげ、さっさと蒲団をひいてしまった。さすがに、N君の気宇壮大の蛮声には、度肝を抜かれたものらしい。私はまだまだ、これから、大いに飲もうと思っていたのに、実に、馬鹿らしい事になってしまった。

「まずかった。歌は、まずかった。一つか二つでよせばよかったのだ。あれじゃあ、誰だっておどろくよ」と私は、ぶつぶつ不平を言いながら、泣寝入りの形であった。

酔っ払って、調子に乗ってしまって、宴は終演を迎えたのでした。

 

 

この後津軽は、生家を訪れ、小泊感動のクライマックスを迎えるのですが、長くなったので、続きは津軽、太宰ゆかりの地を歩く2018(後編)」に譲りたいと思います。

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 そして、最後に、冒頭の写真。

三鷹時代の太宰の代名詞ともいうべき、二重廻しのマント

けっこう、ずっしりと重たいのですが、奥谷旅館では、羽織って記念撮影ができます。

マントに袖を通して、太宰に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 【竜飛岬観光案内所(旧奥谷旅館)】

 青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜59‐12

 Tel:0174-31-8025

 会館時間:9:00~16:30

 休館日:無休(4月25日~11月30日)

 入館料:無料

 

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【参考文献】(順不同)

・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年12月20日、初版)

・小野才八郎『太宰治語録』(津軽書房、2011年9月30日、2刷)

松本侑子太宰治の愛と文学をたずねて』(潮出版社、2011年6月19日、初版)

木村綾子太宰治と歩く文学散歩』(角川書店、2010年2月27日、初版)

太宰治津軽』(新潮文庫、2009年2月5日、111刷)

太宰治走れメロス』(新潮文庫、2007年6月5日、81刷)

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