記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#116「新ハムレット」七

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【冒頭】

ハム。「馬鹿だ!馬鹿だ、馬鹿だ。僕は、大馬鹿だ。いったい、なんの為に生きているのか。朝、起きて、食事をして、うろうろして、夜になれば、寝る。そうして、いつも遊ぶ事ばかり考えている。

【結句】

ポロ。「なに、事件は、これから急転直下です。まあ、見ていて下さい。」

 

「新ハムレット 七」について

新潮文庫『新ハムレット』所収。

・昭和16年5月末に脱稿。

・昭和16年7月2日、最初の書下し中篇小説『新ハムレット』を文藝春秋社から刊行。

新ハムレット (新潮文庫)

 

 全文掲載(「青空文庫」より)      

七 城内の一室

 ハムレットひとり。

 ハム。「馬鹿だ! 馬鹿だ、馬鹿だ。僕は、大馬鹿野郎だ。いったい、なんの為に生きているのか。朝、起きて、食事をして、うろうろして、夜になれば、寝る。そうして、いつも、遊ぶ事ばかり考えている。三種類の外国語に熟達したが、それも、ただ、外国の好色淫猥いんわいの詩を読みたい為であった。僕の空想の胃袋は、他のひとの五倍も広くて、十倍も貪慾どんよくだ。満腹という事を知らぬ。もっと、もっとと強い刺戟しげきを求めるのだ。けれども僕は臆病おくびょうで、なまけものだから、たいていは刺戟へのあこがれだけで終るのだ。形而上けいじじょうの山師。心の内だけの冒険家。書斎の中の航海者。つまり、僕は、とるにも足らぬ夢想家だ。あれこれと刺戟を求めて歩いて、結局は、オフィリヤなどにひっかかり、そうして、それっきりだ。どうやら僕はオフィリヤに、まいってしまっているらしい。だらしの無い話だ。ドンファンを気取って修行の旅に出かけて、まず手はじめにと、ひとりの小娘を、やっとの事で口説き落したが、その娘さんと別れるのが、くるしくて一生そこに住み込んで、身を固めたという笑い話。まず、小手しらべに田舎娘をだましてみて、女ごころというものを研究し、それからおもむろにドンファン修行に旅立とうという所存でいたのに、その田舎娘ひとりの研究に人生七十年を使ってしまったという笑い話。僕は、深刻な表情をしていながら、喜劇のヒロオだ。案外、道化役者の才能があるのかも知れぬ。このごろの僕の周囲は、笑い話で一ぱいだ。たわむれに邪推してみて、ふざけていたら、たしかな証拠があります等と興覚めの恐ろしい事を真顔で言われて、総毛立った。冗談からこまが出たとは、この事だ。入歯のおふくろが、横恋慕されたというのも相当の喜劇だ。ポローニヤスが、急に仔細しさいらしく正義の士に早変りしたというのも噴飯ものだ。僕が、やがてパパになるというのも奇想天外、いや、それよりも何よりも、今夜のの朗読劇こそ圧巻だ。ポローニヤスは、たしかに少し気が変になっているのだ。一挙に三十年も四十年も若返り、異様にはしゃぎ出して、朗読劇をやろうなんて言い出すのだからあきれる。イギリスの女流詩人のなんだか、ひどく甘ったるい大時代の作品を、ポローニヤスが見つけて来て、これを台本にして三人で朗読劇をやろうと言い出す始末なのだから恐れいる。しかもポローニヤスの役は、花嫁というのだから滅茶だ。なるほどその詩の内容は、いまの叔父上と母にとっては、ちょっと手痛いかも知れない。ポローニヤスは、此の朗読劇に、王と王妃を招待して、劇の進行中にお二人が、どんな顔をなさるか、ためしてみようという魂胆なのだが、馬鹿な事を考えたものだ。たとい真蒼まっさおな顔をなさったところで、それが、どんな証拠になるものか。また、平気で笑っていたとて、それが無罪の証拠になるとは限らぬ。お二人の感覚の、鋭敏遅鈍の判定は出来るだろうが、有罪、無罪の判定にはなりやしない。全く、ポローニヤスは、どうかしている。馬鹿らしいとは思っていながら、僕も又だらし無い。オフィリヤの親爺おやじのご機嫌をそこねたくないばかりに、それはいい考えだなんてお追従ついしょうを言って、ホレーショーにも賛成を強要し、三人で朗読の稽古けいこをはじめたのは、きょうの昼過ぎだ。ホレーショーは、最初あんなに気がすすまないような事を言っていながら、稽古がはじまると急に活気づいて来て、ウイッタンバーグの劇研究会仕込みとかいう奇妙な台詞せりふまわしで黄色い声を張りあげていた。あいつは、本当に正直な男だ。自分の感情を、ちっとも加工しないで言動にあらわす。どんな、へまを演じても何だか綺麗だ。いやらしいところが無い。しんから謙譲な、あきらめを知っている男だ。それにくらべて此の僕は、ああ、馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。僕は、あきらめる事を知らない。僕の慾には限りが無い。世界中の女を、ひとり残らず一度は自分のものにしてみたい等と途方も無い事を、のほほん顔で空想しているような馬鹿なのだ。世界中の人間に、しんから敬服されたいものだ、僕の俊敏の頭脳と、卓抜の手腕と、厳酷の人格を時折ちらと見せて、あらゆる人間に瞠目どうもくさせたい等と頬杖ほおづえついて、うっとり思案してもみるのだが、さて、僕には、何も出来ない。世界中の女どころか、お隣りの娘さんひとりを持てあまして死ぬほど苦しい思いをしている。卓抜の手腕どころか、僕には国の政治は、なんにもわからぬ。瞠目されるどころか、人に、だまされてばかりいる。人を、こわがってばかりいる。人を、畏敬いけいしてばかりいる。人が、僕にかたちばかりのお辞儀をしても、僕は、そのお辞儀を、まごころからのものだと思い込んで、たちまち有頂天、発狂気味にさえなって、その人の御期待にお報いせずんばあるべからずと、心にも無い英雄の身振りを示し、取りかえしのつかぬ事になったりして、みんなに嘲笑ちょうしょうせられるくらいが落ちさ。人に悪口を言われても、その人の敵意には気が附かず、みんな僕の為を思って、言いにくい悪口でも無理に言ってくれるのだ、ありがたい、この御厚情には、いつの日かお報いせずんばあるべからずと、心の中の手帳にその人の名を恩人として明記して置くという始末なのだ。人から軽蔑けいべつせられても、かえってそれを敬意か愛情と勘違い恐悦がったりして五、六年って一夜ふっとその軽蔑だった事に気附いて、畜生! と思うのだが、いや、実に、めでたい! かと思うとその反面に、打算の強いところもあって、友人達に優しくしてやって心のすみでは、かならずひそかに、なさけは人のためならず等と考えているんだから、やりきれない男さ。底の知れない馬鹿とは、僕の事だ。どだい僕には、どんな人が偉いんだか、どんな人が悪いんだかその区別さえ、はっきりしない。淋しい顔をしている人が、なんだか偉そうに見えて仕様が無い。ああ、可哀想かわいそうだ。人間が可哀想だ。僕も、ホレーショーも可哀想。ポローニヤスも、オフィリヤも、叔父さんもお母さんも、みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、軽蔑感も憎悪ぞうおも、怒りも嫉妬しっとも何も無かった。人の真似まねをして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういう気持のものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打なみうつほどによくわかる情緒じょうちょは、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。ほかには何もわからない。けれども、可哀想だと思っていながら、僕には何も出来ないんだ。ただ、そう思ってそれを言葉で上手に言いあらわす事さえ出来ず、まして行動においては、その胸の内の思いと逆な現象ばかりがあらわれる。なんの事は無い、僕は、なまけ者の大馬鹿なんだ。何の役にも立ちやしない。ああ、可哀想だ。まったく、笑い事じゃない。ホレーショーも、叔父さんも母も、ポローニヤスも、みんな可哀想だ。僕のいのちが役に立つなら、誰にでも差し上げます。このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様がないんだ。無い智慧ちえをしぼって懸命に努めても、みんな、悪くなる一方じゃないか。」

 ポローニヤス。ハムレット

 ポロ。「ああ、いそがしい。おや、ハムレットさまは、もうこちらへおいでになっていたのですか。どうです、これは、ちょっとした舞台でしょう? わしが先刻さっき毛氈もうせんやら空箱あきばこやらを此の部屋に持ち込んで、こんな舞台を作ったのです。なあに、これくらいの舞台で充分に間に合いますよ。朗読劇でございますから、幕も、背景も要りません。そうでしょう? でも、何も無いというのも淋しいので、ここへ、蘇鉄そてつはちを一つ置いてみました。どうです、この植木鉢一つで舞台が、ぐんと引き立って見えるじゃありませんか。」
 ハム。「可哀想に。」
 ポロ。「なんですって? 何が可哀想なんです。蘇鉄の鉢を、ここへ置いちゃ、いけないとおっしゃるのですか? それじゃ、もっと、舞台の奥のほうに飾りましょうか。なるほど、そう言われてみると、この舞台の端に置かれたんじゃ、蘇鉄の鉢も可哀想だ。いまにも舞台から落っこちそうですものね。」
 ハム。「ポローニヤス、可哀想なのは、あなただよ。いや、あなただけでは無く、叔父さんも、母も、みんな可哀想だ。生きている人間みんなが可哀想だ。精一ぱいに堪えて、生きているのに、たのしく笑える一夜さえ無いじゃないか。」
 ポロ。「いまさら、また、何をおっしゃる。可哀想だなんて縁起でも無い。あなたは、ひとの折角の計画に水を差して、興覚めさせるような事ばかりおっしゃる。わしは、ただ、あなたのお為を思って、此の度のこんな子供だましのような事をも計画してみたのですよ。わしは、あなた達の正義潔癖の心に共鳴を感じ、真理探求の仲間に参加させてもらったのです。他には、なんの野心もないのです。此の度の、あのしからぬうわさが、いったいどこ迄、事実なのか、此の朗読劇を御覧にいれて、ためしてみようという、――」
 ハム。「わかった、わかった。ポローニヤス、あなたは、いかにも正義の士だよ。見上げたものです。けれども、自分ひとりの正義感が、他人の平穏な家庭生活を滅茶滅茶めちゃめちゃにぶちこわす事もあります。どちらが、どう悪いというのでは無い。はじめから、人間は、そんな具合にがわるく出来ているのだ。叔父さんが、何か悪い事をしているという証拠を得たとて、どうなろう。僕たちみんなが、以前より一そう可哀想になるだけじゃないか。」
 ポロ。「いや、ハムレットさま、失礼ながら、まだお若い。もし此のこころみにって、王さまに何のうしろ暗いところも無かったという事が、わかったら、わしたちは申す迄も無くデンマークの国民ひとしく、ほっと安堵あんどの吐息をもらし、幸福な笑顔が城中に満ちるでしょう。正義は必ずしも、人の非を挙げて責めるものではなく、ある時には、無実の罪を証明してその人を救ってやるものです。ポローニヤスは、その万一の幸福な結果をも期待しているのです。万一! 万一、そんな結果になったら、ああ、それは奇蹟きせきに近い、いや、しかし、まあ、とにかく、やってみましょう。その後の事は、ポローニヤスに任せて下さい。決して悪いようには致しません。」
 ハム。「ポローニヤス、一生懸命だね。可哀想に。僕には、みんなわかっているよ。ああ、いやだ。叔父さんが、たといどんな事をしていたって、かまわないじゃないか。叔父さんは、叔父さんの流儀で精一ぱいに生き伸びているだけなんだ。僕の気持は、どうやら、くるりと変ったようだ。けさまで、あんなに叔父さんを悪く言い、あの、いまわしい噂の根元を突きとめなければなんて騒ぎ立てていたのだが、ポローニヤス、あれは、あなたに見事ぐさりと突かれたように、醜聞の風向きを変えるためだったのかも知れぬ。やっぱりてれ隠しの道具に使っているだけの事だったのかも知れぬ。先刻、あなたから、たしかな証拠が、残念ながらありますと言われて、急に叔父さんを可哀想になってしまった。可哀想だ。叔父さんは精一ぱいなのだ。叔父さんは、そんな、馬鹿な、悪い事の出来る人じゃない。叔父さんは、僕以上に弱い人なんだ。一生懸命に努めているのだ。ああ、僕は馬鹿だ。叔父さんを冗談にも一時、疑っていたなんて、僕はおっちょこちょいの、恥知らずだ。ポローニヤス、もう正義ごっこは、やめにしようよ。この軽薄な遊戯が、どんな恐ろしい結果になるか、ああ、その恐ろしい結果を考えると、生きて居られない気持がする。」
 ポロ。「どうも、あなたは大袈裟おおげさでいけません。けさほどは、くるしいとい言葉の連続、ただいまは、可哀想の連発。どこで教えられて来たのか、ひとつ覚えみたいに、連発していらっしゃる。世の中は、情緒だけのものじゃありません。正義と、意志です。立派に生き果すためには、憐憫れんびんや反省は大の禁物。あなたは、オフィリヤの事だけを考えて居れば、それでいいのです。ハムレットさまに較べると、ホレーショーどのなんかは、淡泊で無邪気で、本当に青年らしい単純な夢の中で生きています。少しは見習いなさいよ。ホレーショーどのは、もう、此の朗読劇の底の魂胆を忘れてしまったかのように、ただただ、芝居をするという事のうれしさに浮かれ、あんなに熱心に稽古をしていたじゃありませんか。あれでいいのです。あなたは、台詞の稽古は充分ですか。間もなくお客さまたちが、ここへお見えになりますよ。ホレーショーどのが、いま皆さまをお誘い申しにあがったのです。あのひとは、たいへんな張りきりかたですね。内心は、花嫁の役のほうをやりたかったらしいんですけど、あの役は、わしでなければ、うまく出来ない。おや、もうお客さまたちが、やって来たようです。」

 王。王妃。侍者数名。ホレーショー。ポローニヤス。ハムレット

 王。「やあ、今夜はお招きを有難う。ホレーショーが、ウイッタンバーグ仕込みの名調子を聞かせてくれるというので、皆を連れて拝聴にまいりました。ほんの近親の者たちばかりで、こういう催しをするのは、実にたのしいものですね。一家団欒だんらんというものが、やっぱり人生の最高の幸福なのかも知れない。わしには、このごろ、たのしい事がなくなりました。人生は、どうも重苦しい事ばかりです。本当に、今夜は有難う。ハムレットも、きょうは元気のようですね。親友のホレーショーと遊んでいると機嫌きげんもなおるものと見える。これからは時々こんな催し事をするがよい。ハムレットの気も晴れるでしょう。」
 ポロ「はい、実は、わしもその積りで、としを忘れて青年の劇団に加入させてもらいました。まず、此のたびの御即位と御婚儀のお祝いのため、つぎには、ハムレットさまのお気晴し、最後に、ホレーショーどのの外国仕込みの発声法御披露ごひろうのため、この発声法は又、格別に見事なもので。」
 ホレ。「ひやかしちゃ困ります。発声法などと言われては、かえって声が出なくなります。さあ、王妃さま、どうぞ。観客席はそちらでございます。どうぞ、おすわり下さいまし。」
 王妃。「足もとから鳥が飛び立つように、朗読劇なんか、どうしてはじめる事にしたのでしょう。ハムレットの気まぐれか、ポローニヤスの悪智慧か、ホレーショーは、いい加減におだてられて使われているようですし、何にしても合点のゆかぬ事ですね。」
 王。「ガーツルード。芝居の通人つうじんは、そんなわかり切った事は言わぬものです。さあ、皆もお坐り。うむ、なかなか舞台もよく出来た。ポローニヤスの装置ですか。意外にも器用ですね。人は、それでも、どこかに取柄とりえがあるものだ。」
 ポロ。「たしかに。いまに、もっと器用なところを御覧にいれます。さて、それでは、ハムレットさま、舞台へあがりましょう。ホレーショーどのも、どうぞ。」
 ハム。「アルプスの山よりも、高いような気がする。断頭台に、のぼるか、よいしょ。」
 ホレ。「初演の時は、どなたでも舞台が高くて目まいがします。僕は、三度目だから大丈夫。あ! 足が滑った。」
 ポロ。「ホレーショーどの、気を附けて下さい。空箱あきばこを寄せ集めて作ったのですから、でこぼこがあるのです。では、皆さま。わたしたち三人、これこそは正義の劇団。こよいは、イギリスのる女流作家の傑作、『迎え火』という劇詩を演出して御覧にいれまする。不馴ふなれの老爺ろうやもまじっている劇団ゆえ、むさくるしいところもございましょうが御海容ごかいようのほど願い上げます。ホレーショーどのは、外国仕込みの人気俳優、まず、御挨拶ごあいさつは、そちらから。」
 ホレ。「え? 僕は、その、何も、いや、困ります。僕は、ただ、花聟はなむこの役を演じてみたいと思っているだけなのです。」
 ポロ。「かく申す拙者は、花嫁の役を演じ上げます。」
 王妃。「気味が悪い。ポローニヤスどのは、お酒に酔っているらしい。」
 王。「酒どころか。もっと、ひどい。あのつきを見なさい。」
 ハム。「僕は、亡霊の役だそうです。ポローニヤス、早くはじめたら、どうですか。観客が、酔っぱらい劇団だと言っていますよ。」
 ポロ。「なに、酔ってないのは、わしだけさ。ばかばかしいが、はじめましょう。では、皆さま。」

花嫁。(ポローニヤス。)
 
恋人よ。やさしいおかた。しっかり抱いて下さいませ。
あの人が、あたしを連れて行こうとします。
ああ、寒い。
松かぜの音のおそろしさ。この冷たい北風は、あたしのからだを凍らせます。
遠い向うの、
遠い向うの、
森のかげから、ちらちら出て来た小さいともし火。
あれは、あたしの迎え火です。
 
花聟。(ホレーショー。)
 
おお、抱いてやるとも、私の小鳩こばと
向うの森のあたりには、星がまばたいているだけだ。
あやしい者は、どこにもいない。
朔風きたかぜつよい夜には、星の光も、するどいものです。
 
亡霊。(ハムレット。)
 
もし、
もし。
花嫁さん。
一緒においで。よもや、わしを、見忘れたはずはあるまい。
わしの声は、こがらし。わしの新居はどろの底。
わしと一緒に来ておくれ。
氷の寝床に来ておくれ。
呼んでいるのは、私だよ。忘れた筈は、よもや、あるまい。
おいで、と昔ひとこと言えば、はじらいながら寄り添った咲きかけの薔薇ばら
いまは、重く咲き誇るアネモネ
綺麗きれいうそつき。
おいで。
 
花嫁。(ポローニヤス。)
 
あなた。もっと強く抱いて!
あの人は、昔の影で、あたしを苦しめに来ています。
あの人は、冷たい指で、あたしの手頸てくびつかんでいます。
ああ、あなた。しっかり抱いて下さいませ。あたしのからだが、あなたの腕から、するりと抜けて、あの森の墓地までふわふわ飛んで行きそうです。
あの松籟まつかぜは、人の声。
ふとした迷いから、結んだ昔の約束を、絶えずささやく。ひそひそ語る。
あなたもっと強く抱いて!
ああ、おろかしい過去のあやまち。
あたしは、だめだわ。
 
花聟。(ホレーショー。)
 
私が、ついている。
なくなった人のことを今更おそれるのは、不要の良心。
私が、ついている。
あやしい者は、どこにもいない。
風の音がこわかったら、しばらく耳をふさいでいなさい。
 
亡霊。(ハムレット。)
 
おいで。
耳をふさいでも、目をつぶっても、わしの声は聞える筈、わしの姿も見える筈。
行こう。
さあ、行こう。
むかしの約束のとおりに、わしはお前を大事に守ってあげるつもりだ。
お前の寝床の用意もしてある。めることの無い、おいしい眠りを与えてくれるい寝床だ。
さあ、おいで。
わしの新居は泥の底。ともかくも、ひたむきに一心不乱に歩いて、行きついた道の終りだ。
さあ、行こう。わし達の昔の誓いを果すのだ。
 
花嫁。(ポローニヤス。)
 
あなた。
もう、抱いてくださるには及びませぬ。だめなの。
こがらしの声のあの人は、無理矢理あたしを連れて行きます。
左様なら。
あたしがいなくなっても気を落さず、お酒もたんと召し上れ。ひなたぼっこも、なさいませ。
ああ、もう少し。もう一言ひとこと
わかれの言葉も髪もキスも、なにも、あなたに残さずに、あたしは連れてゆかれます。
もう、だめなの。
あたしを忘れないで下さいませ。
 
亡霊。(ハムレット。)
 
むだな事だ。
そんな、いじらしい言葉は、むだです。
お前は、その花聟の心を知らぬ。
お前の愛するその騎士は、お前が去って三日目に、きっとお前を忘れます。
うつくしい、それゆえもろい罪のおんなよ。
お前は、やがてあの世で、わしがきょうまでくるしんだ同じ苦しみをめるのだ。
嫉妬しっと
それがお前の、愛されたいと念じた揚句の収穫だ。
実に、見事な収穫だ。
いまに、その花嫁の椅子いすには、お前よりもっと若く、もっと恥じらいの深い小さい女が、お前とそっくりの姿勢で腰かけて、花聟にさまざまの新しい誓いを立てさせ、やがて子供を産むだろう。
この世では、軽薄な者ほど、いつまでも皆に愛されて、仕合せだ。
さあ、行こう。
わしとお前だけは、
雨風にたたかれながら、
飛び廻り、泣き叫び、けめぐる!


 王妃。「よして下さい! ハムレット、いい加減に、およしなさい。これは一体、誰の智慧さるぢえなんです? ばかばかしくて、見て居られません。どうせ、いやがらせをなさる積りなら、も少し気のきいた事でやって下さい。あなたがたは卑怯ひきょうです。陋劣ろうれつです。私は、おさきに失礼します。なんだか、吐きそうになりました。」
 王。「ちっとも怒る事は、ありません。面白いじゃないか。まだ、のつづきもあるようです。ポローニヤスの花嫁は、お手柄てがらでした。もっと強く抱いて、といきをつめて哀願するところもよかったし、あたしは、だめだわと言って、がくりと項垂うなだれるところなど、実に乙女の感じが出ていました。うまいものですね。」
 ポロ。「おめにあずかって、おそれいります。」
 王。「ポローニヤス、あとで、わしの居間にちょっとおいでを願います。ハムレットは、台本に無い台詞せりふまで言っていましたね。でも、なんだか熱が無かった。表情が投げやりでした。」
 王妃。「私は、失礼いたします。こんな下手くその芝居は、ごめんです。ポローニヤスの花嫁には、海坊主の花聟でなければ釣合つりあいがとれません。では、おさきに。」
 王。「まあ、お待ちなさい。ハムレット、もう此の芝居は、すんだのですか?」
 ハム。「ああ、すみました。もっと、つづきもあるんですけど、どうだっていいんです。もうよしましょう。芝居を演ずるのが、真の目的ではなかったのですから。さあ、みなさん、お帰り下さい。どうも今夜は、お退屈さまでした。」
 王。「そんなところだろうと思っていました。さあ、ガーツルード、それでは、わしも一緒に失礼しましょう。いや、なかなか面白かった。ホレーショー、ウイッタンバーグ仕込みの名調子は、どもりどもり言うところに特色があるようですね。」
 ホレ。「いやしい声を、お耳にいれました。どうも、此の朗読劇においては、僕は少し役不足でありました。」
 王。「ポローニヤスは、あとでちょっと、わしの居間に。では、失礼。」

 ポローニヤス。ハムレット。ホレーショー。

 ポロ。「一筋縄ひとすじなわでは、行かぬわい。」
 ホレ。「なにほどの事も、無かったようですねえ。」
 ハム。「当り前さ。王妃は怒り、王は笑った。それだけの事がわかったとて、それが、何のかぎになるのだ。ポローニヤス、あなたは、馬鹿だよ。オフィリヤ可愛かわいさに、少し、やきがまわったようですね。わしとお前だけは、雨風にたたかれながら、飛び廻り、泣き叫び、駈けめぐる!」
 ポロ。「なに、事件は、これから急転直下です。まあ、見ていて下さい。」

 

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