記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(四)

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今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(四)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)6月5日に脱稿。
 『如是我聞(四)』は、1948年(昭和23年)7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号に掲載された。

「如是我聞(四)

 或る雑誌の座談会の速記録を読んでいたら、志賀直哉というのが、妙に私の悪口を言っていたので、さすがにむっとなり、この雑誌の先月号の小論に、附記みたいにして、こちらも大いに口汚なく言い返してやったが、あれだけではまだ自分も言い足りないような気がしていた。いったい、あれは、何だってあんなにえばったものの言い方をしているのか。普通の小説というものが、将棋だとするならば、あいつの書くものなどは、詰将棋である。王手、王手で、そうして詰むにきまっている将棋である。旦那芸の典型である。勝つか負けるかのおののきなどは微塵(みじん)もない。そうして、そののっぺら棒がご自慢らしいのだからおそれ入る。
 どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから失笑せざるを得ない。
 今月は、この男のことについて、手加減もせずに、暴露してみるつもりである。
 孤高とか、節操とか、潔癖とか、そういう讃辞を得ている作家には注意しなければならない。それは、(ほと)んど狐狸(こり)性を所有しているものたちである。潔癖などということは、ただ我儘(わがまま)で、頑固で、おまけに、抜け目無くて、まことにいい気なものである卑怯でも何でもいいから勝ちたいのである。人間を家来にしたいという、ファッショ的精神とでもいうべきか。
 こういう作家は、いわゆる軍人精神みたいなものに満されているようである。手加減しないとさっき言ったが、さすがに、この作家の「シンガポール陥落」の全文章をここに掲げるにしのびない。阿呆の文章である。東条でさえ、こんな無神経なことは書くまい。甚だ、奇怪なることを書いてある。もうこの辺から、この作家は、駄目になっているらしい。
 言うことはいくらでもある。
 この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。「小僧の神様」という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。 またある座談会で(おまえはまた、どうして僕をそんなに気にするのかね。みっともない。)太宰君の「斜陽」なんていうのも読んだけど、閉口したな。なんて言っているようだが、「閉口したな」などという卑屈な言葉遣いには、こっちのほうであきれた。
 どうもあれには閉口、まいったよ、そういう言い方は、ヒステリックで無学な、そうして意味なく(たか)ぶっている道楽者の言う口調である。ある座談会の速記を読んだら、その頭の悪い作家が、私のことを、もう少し真面目にやったらよかろうという気がするね、と言っていたが、唖然(あぜん)とした。おまえこそ、もう少しどうにかならぬものか。
 さらにその座談会に於て、貴族の娘が山出しの女中のような言葉を使う、とあったけれども、おまえの「うさぎ」には、「お父さまは、うさぎなどお殺せ(、、、)なさいますの?」とかいう言葉があった(はず)で、まことに奇異なる思いをしたことがある。「お殺せ」いい言葉だねえ。恥しくないか。
 おまえはいったい、貴族だと思っているのか。ブルジョアでさえないじゃないか。おまえの弟に対して、おまえがどんな態度をとったか、よかれあしかれ、てんで書けないじゃないか。家内中が、流行性感冒にかかったことなど一大事の如く書いて、それが作家の本道だと信じて疑わないおまえの馬面(うまづら)がみっともない。
 強いということ、自信のあるということ、それは何も作家たるものの重要な条件ではないのだ。
 かつて私は、その作家の高等学校時代だかに、桜の幹のそばで、いやに構えている写真を見たことがあるが、何という嫌な学生だろうと思った。芸術家の弱さが、少しもそこになかった。ただ無神経に、構えているのである。薄化粧したスポーツマン。弱いものいじめ。エゴイスト。腕力は強そうである。年とってからの写真を見たら、何のことはない植木屋のおやじだ。腹掛(どんぶり)がよく似合うだろう。
 私の「犯人」という小説について、「あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作家が知らないと思って、一生懸命書いている。」と言っているが、あれは、落ちもくそもない、初めから判っているのに、それを自分の慧眼(けいがん)だけがそれを見破っているように言っているのは、いかにももうろくに近い。あれは探偵小説ではないのだ。むしろ、おまえの「雨蛙(あまがえる)」のほうが幼い「落ち」じゃないのか。
 いったい何だってそんなに、自分でえらがっているのか。自分ももう駄目ではないかという反省を感じたことがないのか。強がることはやめなさい。人相が悪いじゃないか。
 さらにまた、この作家に就いて悪口を言うけれども、このひとの最近の佳作だかなんだかと言われている文章の一行を読んで実に不可解であった。
 すなわち、「東京駅の屋根のなくなった歩廊に立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套(がいとう)で丁度よかった。」馬鹿らしい。冷え冷えとし、だからふるえているのかと思うと、着て来た一重外套で丁度よかった、これはどういうことだろう。まるで滅茶苦茶である。いったいこの作品には、この少年工に対するシンパシーが少しも現われていない。つっぱなして、愛情を感ぜしめようという古くからの俗な手法を用いているらしいが、それは失敗である。しかも、最後の一行、昭和二十年十月十六日の事である、に到っては噴飯のほかはない。もう、ごまかしが、きかなくなった。
 私はいまもって滑稽(こっけい)でたまらぬのは、あの「シンガポール陥落」の筆者が、(遠慮はよそうね。おまえは一億一心は期せずして実現した。今の日本には親英米などという思想はあり得ない。吾々の気持は明るく、非常に落ちついて来た。などと言っていたね。)戦後には、まことに突如として、内村鑑三先生などという名前が飛び出し、ある雑誌のインターヴューに、自分が今日まで軍国主義にもならず、節操を保ち得たのは、ひとえに、恩師内村鑑三の教訓によるなどと言っているようで、インターヴューは、当てにならないものだけれど、話半分としても、そのおっちょこちょいは笑うに堪える。
 いったい、この作家は特別に尊敬せられているようだが、何故、そのように尊敬せられているのか、私には全然、理解出来ない。どんな仕事をして来たのだろう。ただ、大きい活字の本をこさえているようにだけしか思われない。「万暦赤絵」とかいうものも読んだけれど、阿呆らしいものであった。いい気なものだと思った。自分がおならひとつしたことを書いても、それが大きい活字で組まれて、読者はそれを読み、襟を正すというナンセンスと少しも違わない。作家もどうかしているけれども、読者もどうかしている。
 所詮は、ひさしを借りて母屋にあぐらをかいた狐である。何もない。ここに、あの作家の選集でもあると、いちいち指摘出来るのだろうが、へんなもので、いま、女房と二人で本箱の隅から隅まで探しても一冊もなかった。縁がないのだろうと私は言った。夜更(よふ)けていたけれども、それから知人の家に行き、何でもいいから志賀直哉のものを借してくれと言い、「早春」と「暗夜行路」と、それから「灰色の月」の掲載誌とを借りることが出来た。
 「暗夜行路」
 大袈裟な題をつけたものだ。彼は、よくひとの作品を、ハッタリだの何だのと言っているようだが、自分のハッタリを知るがよい。その作品が、殆んどハッタリである。詰将棋とはそれを言うのである。いったい、この作品の何処に暗夜があるのか。ただ、自己肯定のすさまじさだけである。
 何処がうまいのだろう。ただ自惚(うぬぼ)れているだけではないか。風邪をひいたり、中耳炎を起したり、それが暗夜か。実に不可解であった。まるでこれは、れいの綴方(つづりかた)教室、少年文学では無かろうか。それがいつのまにやら、ひさしを借りて、母屋に、無学のくせにてれもせず、でんとおさまってけろりとしている。
 しかし私は、こんな志賀直哉などのことを書き、かなりの鬱陶(うっとう)しさを感じている。何故だろうか。彼は所謂(いわゆる)よい家庭人であり、程よい財産もあるようだし、傍に良妻あり、子供は丈夫で父を尊敬しているにちがいないし、自身は風景よろしきところに住み、戦災に遭ったという話も聞かぬから、手織りのいい(つむぎ)なども着ているだろう、おまけに自身が肺病とか何とか不吉な病気も持っていないだろうし、訪問客はみな上品、先生、先生と言って、彼の一言隻句にも感服し、なごやかな空気が一杯で、近頃、太宰という思い上ったやつが、何やら先生に向って言っているようですが、あれはきたならしいやつですから、相手になさらぬように、(笑声)それなのに、その嫌らしい、(直哉の(いわ)く、僕にはどうもいい点が見つからないね)その四十歳の作家が、誇張でなしに、血を吐きながらでも、本流の小説を書こうと努め、その努力が(かえ)ってみなに嫌われ、三人の虚弱の幼児をかかえ、夫婦は心から笑い合ったことがなく、障子の骨も、(ふすま)のシンも、破れ果てている五十円の貸家に住み、戦災を二度も受けたおかげで、もともといい着物も着たい男が、短か過ぎるズボンに下駄ばきの姿で、子供の世話で一杯の女房の代りに、おかずの買物に出るのである。そうして、この志賀直哉などに抗議したおかげで、自分のこれまで附き合っていた先輩友人たちと、全部気まずくなっているのである。それでも、私は言わなければならない。(たぬき)(きつね)のにせものが、私の労作に対して「閉口」したなどと言っていい気持になっておさまっているからだ。
 いったい志賀直哉というひとの作品は、厳しいとか、何とか言われているようだが、それは嘘で、アマイ家庭生活、主人公の柄でもなく甘ったれた我儘、要するに、その容易で、楽しそうな生活が魅力になっているらしい。成金に過ぎないようだけれども、とにかく、お金があって、東京に生れて、東京に育ち、(東京に生れて、東京に育ったということの、そのプライドは、私たちからみると、まるでナンセンスで滑稽(こっけい)に見えるが、彼らが、田舎者(、、、)という時には、どれだけ深い軽蔑(けいべつ)感が含まれているか、おそらくそれは読者諸君の想像以上のものである。)道楽者、いや、少し不良じみて、骨組頑丈、顔が大きく眉が太く、自身で裸になって角力(すもう)をとり、その力の強さがまた自慢らしく、何でも勝ちゃいいんだとうそぶき、「不快に思った」の何のとオールマイティーの如く生意気な口をきいていると、田舎出の貧乏人は、とにかく一応は度胆をぬかれるであろう。彼がおならをするのと、田舎出の小者のおならをするのとは、全然意味がちがうらしいのである。「人による」と彼は、言っている。頭の悪く、感受性の鈍く、ただ、おれが、おれが、で明け暮れして、そうして一番になりたいだけで、(しかも、それは、ひさしを借りて母屋をとる式の卑劣な方法でもって)どだい、目的のためには手段を問わないのは、彼ら腕力家の特徴ではあるが、カンシャクみたいなものを起して、おしっこの出たいのを我慢し、中腰になって、彼は、くしゃくしゃと原稿を書き飛ばし、そうして、身辺のものに清書させる。それが、彼の文章のスタイルに歴然と現われている。残忍な作家である。何度でも繰返して言いたい。彼は、古くさく、乱暴な作家である。古くさい文学観をもって、彼は、一寸も身動きしようとしない。頑固。彼は、それを美徳だと思っているらしい。それは、狡猾(こうかつ)である。あわよくば、と思っているに過ぎない。いろいろ打算もあることだろう。それだから、嫌になるのだ。倒さなければならないと思うのだ。頑固とかいう親爺が、ひとりいると、その家族たちは、みな不幸の溜息(ためいき)をもらしているものだ。気取りを止めよ。私のことを「いやなポーズがあって、どうもいい点が見つからないね」とか言っていたが、それは、おまえの、もはや石膏(せっこう)のギブスみたいに固定している馬鹿なポーズのせいなのだ。
 も少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを(わか)るように努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまっていろ。むやみに座談会なんかに出て、恥をさらすな。無学のくせに、カンだの何だの頼りにもクソにもならないものだけに、すがって、十年一日(ごと)く、ひとの蔭口(かげぐち)をきいて、笑って、いい気になっているようなやつらは、私のほうでも「閉口」である。勝つために、実に卑劣な手段を用いる。そうして、俗世に(おい)て、「あれはいいひとだ、潔癖な立派なひとである」などと言われることに成功している。(ほと)んど、悪人である。
 君たちの得たものは、(所謂(いわゆる)文壇生活何年か知らぬが、)世間的信頼だけである。志賀直哉を愛読しています、と言えばそれは、おとなしく、よい趣味人の証拠ということになっているらしいが、恥しくないか。その作家の生前に於て、「良風俗」とマッチする作家とは、どんな種類の作家か知っているだろう。
 君は、代議士にでも出ればよかった。その厚顔、自己肯定、代議士などにうってつけである。君は、あの「シンガポール陥落」の駄文(あの駄文をさえ頬かむりして、ごまかそうとしているらしいのだから、おそるべき良心家である。)その中で、木に竹を継いだように、(すこぶ)る唐突に、「謙譲」なんていう言葉を用いていたが、それこそ君に一番欠けている徳である。君の恰好(かっこう)の悪い頭に充満しているものは、ただ、思い上りだけだ。この「文藝」という座談会の記事を一読するに、君は若いものたちの前で甚だいい気になり、やに下り、また若いものたちも、妙なことばかり言って()びているが、しかし私は若いものの悪口は言わぬつもりだ。私に何か言われるということは、そのひとたちの必死の行路を無益に困惑させるだけのことだという事を知っているからだ。「こっちは太宰の年上だからね」という君の言葉は、年上だから悪口を言う権利があるというような意味に聞きとれるけれども、私の場合、それは逆で、「こっちが年上だからね」若いひとの悪口は遠慮したいのである。なおまた、その座談会の記事の中に、「どうも、評判のいいひとの悪口を言うことになって困るんだけど」という箇所があって、何という(みにく)(いや)しいひとだろうと思った。このひとは、案外、「評判」というものに敏感なのではあるまいか。それならば、こうでも言ったほうがいいだろう。「この頃評判がいいそうだから、苦言を呈して、みたいんだけど」少くともこのほうに愛情がある。彼の言葉は、ただ、ひねこびた虚勢だけで、何の愛情もない。見たまえ、自分で自分の「邦子」やら「児を盗む話」やらを、少しも照れずに自慢し、その長所、美点を講釈している。そのもうろくぶりには、噴き出すほかはない。作家も、こうなっては、もうダメである。
「こしらえ物」「こしらえ物」とさかんに言っているようだが、それこそ二十年一日の如く、カビの生えている文学論である。こしらえ物のほうが、日常生活の日記みたいな小説よりも、どれくらい骨が折れるものか、そうしてその割に所謂批評家たちの気にいられぬということは、君も「クローディアスの日記」などで思い知っている筈だ。そうして、骨おしみの横着もので、つまり、自身の日常生活に自惚れているやつだけが、例の日記みたいなものを書くのである。それでは読者にすまぬと、所謂、虚構を案出する、そこにこそ作家の真の苦しみというものがあるのではなかろうか。所詮、君たちは、なまけもので、そうして狡猾にごまかしているだけなのである。だから、生命がけでものを書く作家の悪口を言い、それこそ、首くくりの足を引くようなことをやらかすのである。いつでもそうであるが、私を無意味に苦しめているのは、君たちだけなのである。
 君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
 日蔭者の苦悶(くもん)
 弱さ。
 聖書。
 生活の恐怖。
 敗者の祈り。
 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。()いた口がふさがらぬとはこのことである。ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである。君の文学には、どだい、何の伝統もない。チェホフ? 冗談はやめてくれ。何にも読んでやしないじゃないか。本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。隠者の装いをしていながら、周囲がつねに(にぎ)やかでなかったならば、さいわいである。その文学は、伝統を打ち破ったとも思われず、つまり、子供の読物を、いい年をして大えばりで書いて、調子に乗って来たひとのようにさえ思われる。しかし、アンデルセンの「あひるの子」ほどの「天才の作品」も、一つもないようだ。そうして、ただ、えばるのである。腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。
 貴族がどうのこうのと言っていたが、(貴族というと、いやにみなイキリ立つのが不可解)或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた。それで、いいじゃないか。おまえたち成金の(やっこ)の知るところでない。ヤキモチ。いいとしをして、恥かしいね。太宰などなさいますの? 売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。

 

志賀直哉、太宰の死について

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、如是我聞の中で言及されている作家・志賀直哉(1883~1971)が太宰について書いた太宰治の死を紹介します。太宰治の死は、太宰が亡くなって3ヶ月半後の、1948年(昭和23年)10月1日発行の「文藝」第五巻第十号の「評論」欄に発表されました。

 太宰君の小説は八年程前に一つ読んだが、今は題も内容も忘れて(しま)った。読後の印象はよくなかった。作家のとぼけたポーズが(いや)だった。それも図迂々々(ずうずう)しさから来る人を喰ったものだと一種の面白味を感じられる場合もあるが、弱さの意識から、その弱さを隠そうとするポーズなので、若い人として好ましい傾向ではないと思った。その後、もう一つ「伊太利亜館」というのを読んだ。伊太利亜館というのは昔、伊太利亜人が始めたという新潟の西洋料理屋で、私も前に一度行った事があるので、その興味から読んで見たが、これは前のもの程ポーズはないが、それでも、頼まれて講演に来た事を如何(いか)にも冷淡な調子で書きながら、内心得意でいるようなところが素直でない感じがした。こういう事は誰れにもある事で、その事は仕方がないとして、作品に書く場合、作家はもう少しその事に神経質であってもいいと思った。冷淡に書けば読者もその通りに受取ると思っているようなところが暢気(のんき)だと思った。
 それから私は最近まで、太宰君のものは一つも読まなかった。そして、去年の秋、「文學行動」の座談会で太宰君の小説をどう思うかと(たず)ねられ、とぼけたようなポーズが嫌いだと答えたのであるが、太宰君はそれを読んで、不快を感じたらしく、「新潮」の何月号かに、「ある老大家」という間接な()い方で、私に反感を示したという事だ。私はそれを見落し、今もその内容は知らない。
 今年になって私は本屋から「斜陽」を(もら)い、評判のものゆえ、読みかけたが、話している貴族の娘の言葉が如何(いか)にも変なので、読み続けられず、初めの方でやめて(しま)った。続いて「中央公論」に出た、「犯人」という短いものを読んだが、読んでいるうちに話のオチが分って(しま)ったので、中村眞一郎佐々木基一両君との「文藝」の座談会で、「斜陽」の言葉と、このオチの分った話とをした。(むし)ろオチは最初に書いて、其処(そこ)までの道程に力を入れた方がいいと話した。二度読んで、二度目に興味の薄らぐようなものは書かない方がいいとも()ったのである。この時の私の言葉の調子は必ずしも淡々としたものではなかった。何故なら、私は太宰君が私に反感を持っている事を知っていたから、自然、多少は悪意を持った言葉になった。

 

 

 私は不幸にして、太宰君の作品でも出来の悪いものばかりを読んだらしい。太宰君が死んでから、「展望」で「人間失格」の第二回目を読んだが、これは少しも(いや)だと思わなかった。それ故、この文書を書くにしても、私は太宰君の作品中、目ぼしいものを()ト通り読んでから書くのが本当かとも考えたが、前のような先入観を持っている私として、これは却々(なかなか)実行できそうもないので、作品は眼に触れたものだけで、別に太宰君の死に就いて、自分の思った事を少し書いて見ようと思う。
 私は織田作之助君に就いても、太宰君に就いても、自身ペンを執って、積極的に書くつもりはなかったが、座談会で、どう思うかと(たず)ねられると、思っている事をいって、それがそれらの人の心を傷つける結果になった。それも淡々とした気持でいったのでない事は、太宰君の場合は今いったようなわけだし、織田君の場合にも私には次のような気持があった。それは、戦後、永井荷風氏の「踊子」が発表された時、私はこれがきっかけとなって、屹度(きっと)この亜流が続々と出るだろうと思った事である。戦争中、荷風氏がそういうものを書いて、幾つかの写本にしているという噂を聞いていたから、「踊子」が出た時、これはいい事だと思ったが、若い作家がこの真似をして、こういうものを続々と書きだしては堪らないとも思った。荷風氏のものでは場面の描写にも節度があり、醜さも醜いと感じさせないだけに書いてあるが、その感覚を持たない悪流に節度なく、こういう事を書き出されては困ると思った。私は西鶴に感心し、モウパッサンの「メゾン・テリエ」なども愛読した方で、文学作品にそういう要素の入る事を悪いとは思っていないが、節度なく容易に、それが書かれる事は我慢出来ない方である。そこに織田君の「世相」が出た。私は一昨年の夏、奈良でした谷崎潤一郎君との対談の機り、朝日の吉村正一郎君から()かれるままに、「きたならしい」と()った。この対談は「朝日評論」に載ったものだが、その後東京朝日の人が来ての話に、私のこの言葉だけ、織田君の()め、抹殺して欲しいと大阪朝日から電話がかかったが、断ったと()っていた。私は(いず)れでもいいと思ったが、既に断った後でもあり、前に()ったような気持もあったから黙っていた。大体、世話焼きな性分で、若し織田君を個人的に知っていれば、同じ事も、もっと親切な言葉でいったかも知れないが、知らぬ人で、その親切が私にはなかった。「文藝」の座談会での太宰君の場合は、太宰君が心身共に、それ程衰えている人だという事を知っていれば、もう少し()いようがあったと、今は残念に思っている。

 

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織田作之助 1947年(昭和22年)1月10日、東京病院宿痾(しゅくあ)の肺結核のため激しく喀血して逝去。織田の死に接した太宰は、織田君の死を執筆した。

 

 太宰君の心中を知った時、私はイヤな気持になった。私の()った事が多少ともその原因に含まれているのではないかと考え、憂鬱になった。この憂鬱は四五日続いたが、一方ではこれはどうも仕方のない事だと思った。これを余り大きく感ずる事は自分に危険な事だとも思った。それ(ゆえ)、死後発表される「如是我聞」で、私に悪意を示しているという噂を聴いた時、イヤな気もしたが、それ位の事は私も()われた方がいいと()うような一種の気安さをも一緒に感じた。
 (しか)し、私は太宰君の心中という事にはどうしても同情は出来なかった。死ぬなら何故、一人で死ななかったろうと思った。私は廣津君に太宰君の死は「恋飛脚大和往来」の忠兵衛の死と同じではないかと()って、否定されたが、個人的に全く知らないから、主張は出来ないが、今でも私は太宰君には忠兵衛と似た所があるような気がしている。新聞の写真で見た「井伏さんは悪人です」という遺書の断片を見て、井伏君には気の毒だが、忠兵衛と八右衛門の関係を連想した。封印切りの幕で見ると、八右衛門は悪者のようになっているが、その前の忠兵衛の家の前では忠兵衛の事を本当に心配しているいい友達で、忠兵衛も感激し、(この感激が少し空々しいところもあるが)君は親兄弟以上の人だなど()っている。それが茶屋の大勢人のいる場ではまるで態度を変え、八右衛門を悪者にして(しま)って、結局、小判の封印を切り、滅茶苦茶になる。忠兵衛は忠兵衛、太宰君は太宰君で、滅多に同じ人間はいないが、研究する人があれば(この)二人の間には色々共通な点を見出せるのではないかと思っている。(あるい)は単なる私の連想かも知れぬ。

 

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井伏鱒二 太宰の遺書には「井伏さんは悪人です」と書かれていた。

 

 自殺という事は私は昔は認めない事にしていたが、近年はそれを認め、他の動物とちがい、人間にその能力のある事をありがたい事に思っている。最近の「リーダーズ・ダイジェスト」でユーサネジア(慈悲死)という言葉を知ったが、自殺は自分で行うユーサネジアだという意味で私は認めている。(しか)し、心中という事には私は今も嫌悪を感ずる。対手(たいしゅ)の女は女らしい感情で一緒に死にたがるかも知れないが、その時をはずせば案外あとは気楽に生きていけるかも知れないし、第一、残る家族にとって、自殺と心中ではその打撃に大変な差がある。細君にとって良人が他の女と心中したという事は一生拭い難い侮辱となるであろうし、子供にとっても母親が侮辱されたという事で、割切れぬ不快な印象が残るだろうと思う。
 (しか)し、この事でも廣津君はちがった考えを持っていて、太宰君の子供が大人になった時、太宰君の死の止むを得なかった事に同情する時が来るだろうと()っていたが、事実は(いず)れになるか分らないが、私は自身の気持から推してそうは思わない。(もっと)も、子供が両方の気持を持つ場合もあり得るから、(いず)れとも片づけられない事かも知れない。

 

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玉川上水沿いに(たたず)む太宰 死の4ヶ月前の1948年(昭和23年)2月23日、田村茂が撮影。

 

 私は太宰君の心中は太宰君が主動的な立場で行われたと思っていたから、一層そういう風に考えたが、先日、瀧井孝作が来ての話では女の方が主動的だったらしいとの事だった。それ(ゆえ)、人は太宰君の心中を心中として取扱わず、自殺として取扱っているわけが(わか)ったが、()(かく)同時代の所謂(いわゆる)知識人が心中するという事は()んだか腑に落ちぬ事である。太宰君は一時赤になった事もあるというし、恐らくそんな事はあるまいが、()し心中に多少ともイリュージョンを感じていたという事があれば、これは一層我慢ならぬ事である。「新潮」の「如是我聞」は七月号のは読んだが、八月号の分は読まなかった。私は前から、無名の端書(はしがき)や手紙で、悪意を示される場合、一寸(ちょっと)見れば分るので、直ぐ火中するか、破って棄てて(しま)う事にしている。批評でも明らかに悪意で書いていると感じた場合、先は読まない事にしている。私にとって無益有害な事だからであるが、太宰君の場合は死んだ人の事だし、読まないのは悪いような気もしたが、矢張り、読む気がせず、読まなかった。今年十七になる私の末の娘が「如是我聞」を読んで、私の「兎」という小品文の中で、この娘の()った「お父様、兎はお殺せになれない」という言葉の事が書いてあると()って(いや)な顔をしていた。私は「お殺せになれない」で少しも変でない、と慰めてやったが、「そのほか、どんな事が書いてある」と()いたら、「シンガポール陥落の事が書いてある」と答えた。「分った/\」と私はそれ以上聴かなかったが、書いてある事は読まなくても大概分った気がした。
 ()(かく)、私の()った事が心身共に弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。これは太宰君には(まこと)に気の毒な事で、太宰君にとっても、私にとっても不幸な事であった。瀧井の話で、井伏君が二行でもいいから()めて()らえばよかったと()っていたという事を聴き、私の心は痛んだ。その後に読んだ「人間失格」の第二回目で私は少しも悪いとは思わなかったのだから、もっと沢山読んでいれば太宰君のいいところも見出せたかも知れないと思った。

 

 

 廣津君と瀧井の来ていた時、太宰君が崖の上に立っている人だという事を知らず、一寸(ちょっと)指で突いたような感じで、(はなは)だ寝覚めが悪いと()ったら、廣津君は「そんな事はない、そんな事はない」と強く否定して、太宰君は()の道、生きてはいられない人だったと()って、私を慰めてくれた。瀧井も同じ事を()った。そして廣津君は太宰君の自殺の一番元の原因は共産主義からの没落意識だと思うと()っていた。心の面の不健康の原因には(あるい)はそういう事もあるかも知れぬと思った。(しか)し、結局は肉体の不健康が一番大きな原因だったと思う。
 太宰君でも織田君でも、初めの頃は私にある好意を持ってくれたような噂を聴くと、個人的に知り合う機会のなかった事は残念な気がする。知っていれば私は恐らく病気の徹底的な療養を二人に勧めたろうと思う。
 私は太宰君の死に就いては何も書かぬつもりでいたが、「文藝」八月号の中野好夫君の「志賀と太宰」という文章を見て、これを書く気になった。中野君の文章には非常な誇張がある。面白ずくで、この誇張がそのまま、伝説になられては困るのでこれを書く事にした。
   (八月十五日)

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志賀直哉太宰治

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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