記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月22日

f:id:shige97:20191205224501j:image

8月22日の太宰治

  1935年(昭和10年)8月22日。
 太宰治 26歳。

 山岸外史に伴われて、芥川龍之介賞詮衡委員の一人であり、また支持者でもあった佐藤春夫を、小石川区関口町二百七番地の自宅に訪問、以後師事した。

太宰と佐藤春夫、初めての出逢い

 今日は、1935年(昭和10年)8月21日付で、太宰が義弟の小舘善四郎に宛てた手紙に書かれていた、「明日、佐藤春夫と逢う」日です。太宰が小舘に宛てて書いた手紙については、8月21日の記事で紹介しました。

 太宰と佐藤春夫が逢うきっかけを作ったのは、太宰の親友・山岸外史でした。この時の様子を、山岸の太宰治おぼえがき』から引用します。

太宰が、第一回芥川賞の次席になったとき、太宰はひどく失望して、しばらくの間はかなり憂悶していたようである。そういう失意の模様を他人にみせるような太宰ではなかったが、あるとき、ぼくが船橋の太宰の家を訪れたときのことである。二人で縁側に座布団など出して庭をみながら雑談している間に、太宰は意外なくらいくよくよ(、、、、)して、芥川賞次席の愚痴をこぼしはじめたのである。

 

f:id:shige97:20200628191809j:plain
船橋の太宰の家

 

「山岸君だって、もっと佐藤さんに売り込んでくれたらよかったのだ。これは、傑作で、芥川賞にはまことに恰好な作品であるとか、批評家として保証できるとかいってだね」
 太宰はよほど残念だったのだと思う。こんなことまでいった。
 しかし、ぼくは、佐藤さんの批評眼を信頼していたから、妙な仲間讃めなどしなくてもいいと考えていた。そのうえ川端康成氏が批評したように、太宰の作品にある種の濁り(、、)のあることをぼくも感じていた。川端さんの「この作家は、才あれども徳なし」という批評の観点がぼくにもわからないこともなかった。
(この点も、あとになって、「川端さんの批評はなかなかいい批評だ。ぼくも同感できる」と太宰にいって、なかなかの討論になったことがある。しかし、太宰は、「これでは批評が逆だ。徳あれども才なし、というべきだ。才ありて徳なし、では川端さんも眼がない」などといって、けんめいに反対した。ことに「徳なし」という言葉で、人間性を否定されることは、太宰にとっては、身にしみてつらいことらしかった。「才あり」と簡単にいわれることも、承服できなかったものらしい。しかし、ぼくは当時の太宰には、なかなかの思いあがりのあることも見ぬいていたから、やはり「才あれども徳なし」に賛意を表して、ぼくもゆずらなかった。)
 しかし、その芥川賞で議論がでたとき、ぼくは、
「とにかく、佐藤さんも努力してくれたのだ。君の作品を推したのは佐藤さんだけなのだからネ。それに、今日の一般の選者には君の<詩>はわからないのだと思う」といってあとは黙った。
 それでも太宰は、珍しく執拗をきわめた。石川達三の「蒼氓(そうぼう)」論になったりした。ぼくはこの受賞作品を高度のものとは思わなかったが、一部の選者にはかえって、社会主義的要素を含んでいるこうした作品が眼新しいのかも知れないと思ったりした。だから、そんな意味で選者論になったり、時代論になったりした。太宰はあくまでも自作の方がいいと信じているようであった。「<蒼氓>だって前むきの作品とはいえないからネ」「君が選者だったらどうしますか」「時代の(ポエジイ)はいったいどこにあるのだ」
 太宰は、いかにも次席が無念らしく、ますます、ぼくに食ってかかるような気配になった。
「イデオロギイか、芸術かの課題になりますよ」
 そんなことも太宰はいった。
「いったい、山岸君はイデオロギストの批評家なんじゃないのか」
 太宰は、そんな厭味までいった。太宰の執念はなかなかのものだった。(太宰は、この頃、そのために眠れない夜もあるらしかった)ぼくも太宰の愚痴に、さすがにあいそ(、、、)のつきる気がしてきて、
「なんだ。君。これがノーベル賞の落選だとでもいうのならば、話も解るが、君、芥川賞じゃないか。なにを、いつまでくよくよしているんだ」
 ぼくはこういって一喝してしまった。すると太宰もこれには返す言葉がなかったものだとみえて、それっきり沈黙した。
「君には、文壇への執念があっていけない。文学への執念じゃないのだ。ぼくは落選してよかったと思っているネ。芥川賞が問題じゃあない」
 しかし、それ以来、太宰はすくなくとも芥川賞の愚痴はいわなくなった。

  芥川賞落選後、太宰と山岸にこのような会話があったそうですが、この会話がきっかけになったのでしょうか。1935年(昭和10年)8月22日、太宰は山岸に伴われて、佐藤春夫の自宅を訪問します。
 太宰は、1934年(昭和9年)に山岸、檀一雄木山捷平中原中也らと創刊した「青い花」が休刊になり、1935年(昭和10年)に、亀井勝一郎保田與重郎らが創刊した「日本浪漫派」へ合流します。佐藤も、この「日本浪漫派」に同人として参加していましたが、同年4月、太宰は盲腸炎の手術のために入院したため、同年8月22日まで、佐藤との面識を持つ機会がありませんでした。

 すでに名実ともに文壇の重鎮となっていた佐藤に会いたかった太宰は、すでに面識のある山岸に依頼し、面会の機会を設けてもらった、という訳です。

 佐藤との、念願の面会の機会を得た太宰は、多くの啓示を得たようで、以後、佐藤に師事するようになります。
 太宰は佐藤の自宅を訪問後、帰宅してすぐ、同日付で佐藤宛に手紙を認めています。

f:id:shige97:20200725161443j:plain
佐藤春夫

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市小石川区関口町二〇七
   佐藤春夫

 拝啓
 家へ帰って机にむかい ふと気づいてみると 私の身のまわりに 佐藤春夫のやわらかい natural な愛情がまんまんと氾濫していたのです。これは(かつ)てなきことです。深くお礼申しあげます。
 甲ノ上をもらった塾生ふたり嬉々として帰途についた感じでした。
 流石に 東京のまちを歩いたら目まいがして工合いがよくありませんでしたけれども 秋になったらまた しばしば お伺いいたします。
 山岸が反歌一首をもうしあげたのを真似て 私も と考えましたけれど あれこれと本棚をしらべるのも試験の答案みたいで本意でないことですし 二三日まえにつまらぬ雑誌で読んで いまふと口の端に出た それを かわりに申しあげます。
  染め得たり西湖柳色の衣
 私よりも先生のほうが青年だわいと思われるふしもございました。
 先生の言われた文人墨客 というたったそれだけの言葉が なぜか いま 心嬉しく思われます。
          治 拝
  佐藤春夫先生
 二伸
 山岸の紹介状 お願い申します。


 さて、冒頭に紹介した山岸の太宰治おぼえがき』ですが、実は続きがあるので、最後に引用して紹介します。

 こんなこともあったのだが、太宰はまもなく、「文芸春秋」十月号に、外村繁、高見順衣巻省三らの三氏といっしょに芥川賞次席者として載った自分の作品についての見解を、ぼく宛のハガキで書いてよこしている。これを読むと、当時の太宰の心境の一部がわかるのである。(昭和十年九月二十二日附)

 

 「ぼくのいまの言葉をそのまま信じておくれ。
 ぼくは客観的に冷静にさえ言うことができる。(文芸春秋十月号)
 衣巻、高見両氏には気の毒である。コンデションがわるかったらしい。外村氏のは面白く読める。このひとの作品には量感がある。けれども僕の作品をゆっくりゆっくり読んでみたまえ。歴史的にさえずば抜けた作品である。自分からこんなことを言うのは、生れてはじめてだ。僕はひとりで感激している。これだけは一歩もゆずらぬ。
 深夜ひとり起き出て、たよりする。ちかいうちに遊びに来て。ぜひとも。」

 

 これは、たしか作品<ダスゲマイネ>についての太宰の自評と信念なのだが、芥川賞の問題でくよくよして、ぼくと討論した日のあとで改めて、こんな意見をよせてきているのである。「歴史的にさえずばぬけた作品」というところで、ぼくが微笑したようにおぼえているが、懊悩していた当時の太宰の心境はよくわかるのである。「深夜、ひとり起き出て、たよりする」にそれが十分でている。
(しかし、じつをいうと、この「ダスゲマイネ」についても、ぼくには承服のできない印象がのこっていて、この作品でも、さらに新しい討論になったりしたものである。この作品は、太宰が巧妙に「私」からぬけだして「第三者」のなかに忍びこんで、別の「私」を設定しながら裏から材料を表現している作品だが、少々、作がひねりすぎになっていて、人物の描きわけ方にも混同している要素がみえ、それが「道化の華」同様の濁りになってみえた。演技に成功して、演出に失敗しているのである。ここで、それらについて書く必要はないが、こういうひねくれた(、、、、、)作風は、むしろやがて、太宰の世界から消え、太宰は次第に、まったく「新しい型」の私小説作家の時代を現出してゆくのである。しかし、芥川賞落選は、おそらく他のどんな作家よりも一段と深く、太宰に残念の思いをさせたのである。そして、ほんとはぼくも、太宰に芥川賞をとらせたかったのである。)

f:id:shige97:20200819070718j:image
■太宰と山岸

 【了】

********************
【参考文献】
・山岸外史『太宰治おぼえがき』(審美社、1963年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】