記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月21日

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8月21日の太宰治

  1933年(昭和10年)8月21日。
 太宰治 26歳。

 八月二十一日付で、小舘善四郎(こだてぜんしろう)に葉書を送る。

第一回芥川龍之介賞、落選直後

 今日は、太宰が義弟・小舘善四郎(こだてぜんしろう)に宛てて書いた2通のハガキを紹介します。

 善四郎は、小舘家の三男。太宰の四姉・津島きやうが、1928年(昭和3年)6月に、善四郎の長兄・小舘貞一に嫁いだことをきっかけに、次兄・小舘保とともに、太宰、太宰の弟・津島礼治、太宰の従弟・津島逸郎との交友を深めました。
 3歳年下で、太宰を慕っていた弟・礼治1929年(昭和4年)1月5日に亡くなった影響もあるのでしょうか、太宰は、5歳年下の善四郎を、弟のように可愛がったそうです。

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■太宰と小舘善四郎

 それでは、最初に1933年(昭和10年)8月13日付で書かれた、善四郎宛の太宰の手紙を紹介します。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  青森市浪打六二〇
   小舘善四郎宛

 芥川賞はずれたのは残念であった。「全然無名」という方針らしい。「文藝春秋」から十月号の注文来た。「文藝」からも十月号に採用する由手紙来た。ぼくは有名だから芥川賞などこれからも全然ダメ。へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ。
 二十日すぎに佐藤春夫のところへ行く。いささかたのしみ。
 今月号の「行動」買って京ちゃやその他に思い切って読ませるがよし。地平の小説。これは必ず実行せよ。

 芥川賞はずれたのは残念」とあるのは、このハガキの3日前、1933年(昭和10年)8月10日に受賞者が決定された、第一回芥川龍之介賞のこと。太宰の逆行も最終候補に挙がっていましたが、受賞したのは、石川達三蒼氓(そうぼう)でした。
 芥川賞最終候補に挙がっていた、太宰、外村繁、高見順衣巻省三の4名には「文藝春秋」から原稿依頼があり、「文藝春秋」十月号にダス・ゲマイネが掲載されました。
 太宰と芥川賞というと、選考委員・川端康成「文藝春秋」九月号に発表した「芥川龍之介賞経緯」で、太宰の落選理由を私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる(うら)みがあった」と書いたことに激昂し、強く反駁。芥川賞受賞に固執したというエピソードが有名ですが、落選直後に書かれたハガキは、意外にも穏やかな内容でした。

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川端康成

 続いて、同年8月21日付で書かれた、善四郎宛の太宰の手紙を紹介します。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  青森市浪打六二〇
   小舘善四郎宛

 明日、佐藤春夫と逢う。東京のまちを半年ぶりで歩くわけだ。
(こんなハガキで失敬。)
 こんどの君の手紙は、たいへんよかった。この調子、この調子とひとりで喜ぶ。
 われわれのあいだでは、もはや自意識過剰が凝然と冷えかたまり、厳粛の形態をとりつつあるようだ。自らの厳粛(立派さ)に一夜声をたてて泣いた。君はいま、愛の告白をなさんとしている。思いのたけを言うがよい。また逢った日には、お互いに知らぬ顔をしていてもよいわけだ。思いのたけを言うがよい。
 山のあなたの空とおく幸いすむと人のいう……カアルブッセ。
 ムヅカシイ本を骨折って読むこと。

 太宰は、善四郎に温かい言葉を綴り、「ムヅカシイ本を骨折って読むこと。」と励ましのアドバイスを贈っています。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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