8月20日の太宰治。
1940年(昭和15年)8月20日。
太宰治 31歳。
八月頃から、京都府綴喜郡青谷村大字奈島字十六番地の文学青年
太宰と木村庄助 の書簡
今日は、1940年(昭和15年)から太宰との文通がはじまった文学青年・
木村は、太宰の小説『パンドラの匣』の原資料「木村庄助日誌」の提供者で、小説の主人公・小柴利助(ひばり)のモデル。京都府綴喜郡青谷村大字奈島字16(現在の、城陽市)にある宇治茶問屋「丸京山城園製茶場」の長男でした。
■木村庄助 23歳の頃。1943年(昭和18年)撮影。
1936年(昭和11年)春、京都実修商業学校を卒業後、家業を継ぐべく名古屋で修業中に結核を発病し、入院。少し快復したために帰郷して、自宅療養をしながら文学に親しみ、作家を志して短篇小説を書き、同人誌に作品を発表していました。
1940年(昭和15年)、たまたま雑誌「文藝」四月号に掲載された、太宰の『善蔵を思う』を読んで、急激に傾倒心酔し、同年7月末に初めて太宰に手紙を書いたところから、文通がはじまりました。
木村の生涯については、2月28日の記事で詳しく紹介しています。
それでは、1940年(昭和15年)8月に、太宰が木村に宛てて書いた3通のハガキを紹介します。
まずは、同年8月2日付で書かれたハガキです。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
京都市綴喜郡青谷村字一六
木村庄助宛
拝復 けさいただいた長いお手紙に対して、たいへん簡単な御返事を致します。おゆるし下さい。貴兄の文学が見込みがあるかどうかは、貴兄がこれから、もう五年、自重の御生活をなさってから、お答え致します。ちゃんとお約束いたします。私も、それまでは生きて居ります。
おからだが、おわるい由、御快復を祈って居ります。欺かざるの日記を、おからだに無理でない程度に、書いて居られるとよい。御母堂を、お大事になさい。私から、お願いします。
木村が太宰に宛てて書いた最初の手紙は、なかなか「長いお手紙」だったようです。木村の手紙には、「欺かざるの日記」を書き綴っていることも書かれていたようですが、この日記が『パンドラの匣』の原資料となる「木村庄助日誌」です。
続いて、同年8月20日付で書かれたハガキです。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
京都市綴喜郡青谷村字一六
木村庄助宛
拝復 御保養と御勉強に努めて居られますか。私の事など気になさらず、君自身健康になられるよう黙々御努力下さい。「二十世紀旗手」は、入手困難のようです。そのうち、新しい創作集の中に、その数篇の小説を、編入しようと思っていますが。「二十世紀旗手」という小説一つだけは、京都、人文書院の「思い出」の中にいれて置きました。それから、私のところへ、お品を送っては、いけません。なんだか、おちつかない気持ちになります。それから、お手紙の封筒に、差出人の名前を書いていませんでしたが、ちゃんと書くようにしなければいけません。
私は、読者の皆に、返事を書いているのではないのですから、君は、御自重下さい。
木村から太宰へ、なかなか入手が難しくなっていた『二十世紀旗手』についての問い合わせがあったようです。
「お品を送っては、いけません」や「お手紙の封筒に、差出人の名前を書いていませんでしたが、ちゃんと書くようにしなければいけません」と注意しながらも、ハガキの最後を「私は、読者の皆に、返事を書いているのではないのですから、君は、御自重下さい。」と結んでいるところに、太宰の優しさを感じます。
最後に、同年8月22日付で書かれたハガキです。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
京都市綴喜郡青谷村字一六
木村庄助宛
拝啓 今日は、お茶をいただきました。私は、お茶をのむと夜ねむれないので、朝、仕事をはじめる前に、一ぷく、いただく事に仕様と思います。いい、お茶ですね。ありがとう。こんどからは、お品をこちらへ送ることは、いけません。 不乙。
木村から太宰へ、お茶の贈り物。宇治茶問屋の長男ならではの贈り物です。
【了】
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【参考文献】
・浅田高明『太宰治 探査と論証』(文理閣、1991年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・木村重信 編『木村庄助日誌 太宰治『パンドラの匣』の底本』(編集工房ノア、2005年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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