記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月28日

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2月28日の太宰治

  1942年(昭和17年)2月28日。
 太宰治 32歳。

 木村庄助(きむらしょうすけ)が亀島の健康道場を退院した。

ひばりのモデル・木村庄助

 木村庄助(きむらしょうすけ)(1921~1943)は、太宰の長篇小説『パンドラの匣』の題材となった『木村庄助日誌』の提供者で、『パンドラの匣』の主人公・小柴利助(ひばり)のモデルです。
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■木村庄助。1943年(昭和18年)、23歳。

 木村は、京都府綴喜青谷村(現在の、城陽市)の宇治茶問屋 丸京山城園製茶場の経営者の父・木村重太郎と母・トヨの長男として生まれました。
 1936年(昭和11年)春、京都実修商業学校卒業後、家業を継ぐべく名古屋で修行中に結核を発病し、入院。少し快復したため帰郷して、自宅療養をしながら文学に親しみ、作家を志して、短篇小説を書き、同人誌に発表していました。
 1940年(昭和15年)、たまたま雑誌「文藝」四月号に掲載された『善蔵を思う』を読んで、急激に傾倒心酔して、同年7月末に初めて太宰に手紙を書いたところから、文通がはじまりました。

 1941年(昭和16年)3月27日、鎮静催眠作用のあるモノウレイド系の化合物であるカルモチンで自殺を図ろうとするも、未遂。同年7月に喀血し、結核再燃。8月15日に大阪府中河内郡孔舎衙(くさか)村字日下(くさか)孔舎衙(くさか)健康道場に入院。白隠禅師の『夜船閑話(やせんかんわ)』に説かれた臍下丹田呼吸法にならった腹式呼吸と手足の運動を組み合わせた"屈伸鍛錬"と呼ばれる独特の両方に皮膚摩擦を併用、仏教思想に根差した精神修練を加味した養生を続けて軽快しました。
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●吉田式腹式呼吸(笠原義人氏ご教示による)

 年末になって愛知県浦郡沖の亀島健康道場へ転院。社会復帰のためのリハビリテーションに励んで、退院したのが、今日この日でした。
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■『パンドラの匣』のモデルになった、孔舎衙(くさか)健康道場を背景に池の畔にて。右端が「竹さん」のモデルになった井上千代茂さん。左から2人目が、「マア坊」のモデルになった木村マサ子さん。

 しかし、同年9月上旬に病気が悪化。孔舎衙(くさか)健康道場への再入院を希望するも、閉院のため叶わず、年末に京都市上加茂深泥(みどろ)ヶ池の京都保養院に入院。1943年(昭和18年)5月13日、病気を苦に、カルモチンを服毒して自殺しました。
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 木村の遺言によって、太宰に送られた日記12冊の日誌のうち、8、9冊目の孔舎衙(くさか)健康道場入院中の記録を元に、太宰は雲雀(ひばり)の声』(書下ろし200枚)を執筆したものの出版には至りませんでしたが、戦後、仙台の河北新報で、改題、一部改稿して連載したのが、太宰にとってはじめての新聞連載小説『パンドラの匣』でした。

 ちなみに、『パンドラの匣』。1947年(昭和22年)に、『看護婦の日記』という題名で大映東京から映画化されましたが、ヒロインのマア坊を演じた女優・関千恵子のインタビュー(太宰治先生訪問記』)で、太宰はちょっと辛辣なコメントをしています。これが、本心なのか、どうか。

 【了】

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【参考文献】
・浅田高明『太宰治 探査と論証』(文理閣、1991年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
木村重信 編『木村庄助日誌 太宰治パンドラの匣』の底本』(編集工房ノア、2005年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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