記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月29日

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2月29日の太宰治

  1948年(昭和23年)2月29日。
 太宰治 38歳。

 午後、平岡敏男と古谷綱正が「千草」に居る太宰治を訪れた。

酒だけが俺を生かしておいてくれる

 2020年の今年は、4年に一度の閏年(うるうどし)

 1909年(明治42年)6月19日に生まれ、1948年(昭和23年)6月13日に亡くなった太宰は、その39年間の生涯の中で、1912年(大正元年)・1916年(大正5年)・1920年(大正9年)・1924年(大正13年)・1928年(昭和3年)・1932年(昭和7年)・1936年(昭和11年)・1940年(昭和15年)・1944年(昭和19年)・1948年(昭和23年)と10回の閏年を経験しています。

 「日めくり太宰治をはじめた当初、「2月29日、ピンポイントで記録なんて残ってないよなぁ…」なんて思っていたのですが、いつもお世話になっている山内祥史太宰治の年譜』のページを繰っていたところ、見つけてしまいました。しかも、太宰が亡くなった1948年(昭和23年)の2月29日!
 この日、太宰が当時仕事場にしていた小料理屋「千草」を、弘前高校時代の1年先輩で、「弘高新聞」に習作『哀蚊』を発表することを勧めた平岡敏男(ひらおかとしお)(1909~1986)と、太宰の『』を掲載した同人雑誌「(ばん)」で知り合った古谷綱正(ふるやつなまさ)(1912~1989)の2人が訪れます。

●2月3日の記事では、この頃の太宰の三鷹の仕事場について紹介しています!

 でも、午後に「千草」を訪れたってことは、どうせ、その後に飲みに行ったんでしょ?ということで、今日はいつもと趣向を変えて、太宰治と酒」について書いてみたいと思います。

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とく、とく、とく、とく、とく………。。。
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ぐびり、ぐびり、ぐびり、ぐびり………。。。

 手酌で、美味しそうにビールを飲んでいます。
 ツマミは、何を食べているんでしょうか?

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"酒だけが俺を生かしておいてくれるんだよ。"

 1948年(昭和23年)7月1日付「八雲」第3巻第7号には、上の写真とこんな太宰の言葉が掲載されていました。
 午後3時になると仕事をスパッと切り上げ、晩酌を楽しんでいたという太宰の様子を、太宰の親友たちや奥さんが書いているので、紹介します。

  まずは、太宰が『東京八景』に「三馬鹿と言われた。けれども此の三人は生涯の友人であった。私には、二人に教えられたものが多く在る」と書いた、山岸外史檀一雄の文章から。

【山岸外史】
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 山岸外史太宰治おぼえがき』からの紹介です。

 太宰は、酒に強かった。これは、ほんとに強かったと思う。ぼくも多少は飲む方だから、その辺のことはわかるつもりだが、今日でもぼくは、太宰以上に酒の強い人間を知らないといいたい気持がある。それほど、太宰は、しっかりした酒飲みであった。意識の深さと酒の深さとは比例しているものだと思っているが、太宰はほんとに酒に強かったのである。言葉をかえていうと、太宰くらい、あたりまえな調子で酒の飲める人間は、きわめて少ないのではなかろうかと思われたくらい、太宰と酒との関係には特殊なものがなかった。量はむろん、いわゆる一升酒以上の部類だったが、それでいて、酒豪というようなことも感じさせなかった。酒仙というようなしゃれた風情もなかった。酔って、歌ひとつうたうでなく、激越するでなく、笑い上戸になるでなく、いつも、あたりまえで、まじめに飲んでいた。これはほんとに強い証拠である。東北人の酒飲みにはこの型が多いが、太宰はそのなかでも傑出した部類ではなかったかと思う。ぼくとは、ほんとによく飲んだものだが、太宰が乱れたのをみたことはほとんどなかった。顔色にもでなかった方である。気分的な飲み方でもなく、ただ平凡に日常的な飲み方であった。水を飲むようなものだったといってもいいかも知れない。いい酒、わるい酒など、とくに選り好みもしなかった。

 次は、太宰と山岸が、神楽坂で飲んだ時のエピソード。

「屋台で、ちょっと、やらないか」と太宰がいった。
「うん、よかろう」ぼくが答えた。
 坂のうえに並んでいた屋台店のひとつの暖簾(のれん)をはねあげて首をさし入れた。ぼくは、そのとき、ふと、太宰をからかってみる気分をおこして、
「おいウエスケ二杯」と店の親爺に声をかけた。ウエスケは、ウィスキイの意味である。太宰の発音をまねて、津軽弁でいってみたのである。ところが、さっぱり、太宰に通じなかった。太宰には、ウィスキイといっているようにしか聞えないものらしく、「ウエスケだ。ウエスケだ」といった。ぼくの方が妙にそれに感心した。故郷の言葉っていいものだナと思ったものである。それは空気のように特徴のないものなのだと、しみじみ思った。(あとで、その話を太宰にして以来、太宰の方で、ことさら「ウエスケ」と片仮名で発音するような言い方をするようになった。なかなか愛嬌があってよかった。山岸君のおかげで、ぼくはズウズウ弁にこだわらなくなっていい、などといった。)
 その店で、ウエスケをなか細りのグラスで三杯ずつやったとで、新宿まで歩くことになった。三杯でも、こういう店のウィスキイは当時、バクダンといったか、ともかく酔いはでたのである。十銭の酔いといったものだが、十銭のグラスは大きい方なのである。小は五銭だったと思う。

  太宰と山岸の"酒"に関する最後のエピソードは、1943年(昭和18年)頃。太宰と山岸、井伏鱒二の3人で、東中野か高円寺の「ひそかな飲み屋」で飲み、さらに駅近くの「屋台のおでん屋」に立ち寄った時のこと。

 ぼくはそのときひどく喉が渇いて、そこで葡萄酒を一気に三杯ほど呑んだのである。いつでも、チャンポンをしないと酔ったような気分にならないぼくであったから、そういう程度のことは平気であったが、その美味いこと。まるで酔い覚めの水そっくりで、ぼくは、ごくりごくりと(あお)ったものである。
「まるで水だ。美味い。ひどく美味い」
 その夜それまでの時間、日本酒をどれくらいやったのか、ビールをどれくらいやったのかおぼえていないが、ほんとに水のように飲んだ。これほど美味く飲んだ葡萄酒はかつてなかったが、太宰が傍で井伏さんと日本酒をやりながら、
「山岸君。そいつは要慎しないといけないよ。その口あたり。その水を感じたときが危険なんですよ」
といって、しきりにとめた。ぼくの帰えりの電車を心配してくれたのである。ぼくはだいたい前後不覚になったことのない、むしろ始末のわるい男だったから、「まあ大丈夫だろう」などと答えたのだが、じつはひとりになって電車に乗ってから、ひどくいい気持になってきた。いっきょに利いてきたのである。こういうことは、ぼくには稀れなことである。お茶の水の駅という声で眼をさましたが、腰掛けから起きあがって扉のところまで歩いていったときには、すでに扉は閉っていた。次の駅は神田かと、仕方なく扉のまえに立って待っていると、眼前にあらわれた駅は水道橋であった。不思議な気がした。どう考えてもお茶の水の次は神田の筈なのである。ぼくも東京生れの人間だが、駅の順序を心のなかで数えた。傍にいた学生にそのことを聞いてからすぐわかったが、つまりぼくは、いったん終点の東京駅までいって引返してきていたのである。やはり、<水>にやられたのである。車中ではじつによく熟睡したのだから、なんの文句もなかったが、その<水>について、ぼく以上にはるかに認識のあったところが、やはり、太宰の酒だったと思う。
「その水が危いのだ」
 ぼくはその言葉で、太宰にその危険性を注意されたわけである。やはり、太宰の酒の方が一段上手(うわて)だった。
「そうだろう。そうだろう。神田駅のつもりが水道橋でよかったが、ぼくもその水にやられて、立川までいったことがある。酒も水になると、どうも危険性があるようだ」
 太宰は、あとでそういった。


檀一雄

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 檀一雄『小説 太宰治からの紹介です。
 まずは、1935年(昭和10年)3月、太宰が都新聞社の入社試験を受けて失敗した頃のエピソードです。

 しかし、見事に落第した。
 太宰の悄気(しょげ)かたはひどかった。連日のように高砂館と云う、荻窪の汚い活動小屋に出掛けていって、
 「泣けるねえ」
 と、いいながら大きなハンカチで、新派悲劇や股旅ものに大粒の涙をこぼしていた。これをまた、自分で「高砂ボケ」と称して、
 「おい、檀君高砂ボケにつき合わないか?」などといいながら、初代さんを伴って、出掛けていったものだった。よく飲んだ。
 私は栄寿司で、太宰が鶏の丸焼きを指でむしり裂きながら、ムシャムシャと、喰っては飲んだ狂乱の姿を覚えている。笑うと、大きく開く口の中から、例の金歯が 隠見して、髪をふり被りながら、鶏をむしり裂く姿は悪鬼のようだった。

 続いて、1934年(昭和9年)頃でしょうか。太宰と中原中也というと、酔った中原と太宰がケンカしたエピソードが有名ですが、太宰は中原に一目置いており、同人誌「青い花」創刊にあたり、「この男はものになるんだ」と同人仲間に中原を推薦したのも太宰だったようです。さて、そんな頃のエピソードです。

 私は何度も中原の花園アパートには出掛けていったが、太宰はたった一度だけ私について来た。太宰を階下に待たせ、私は外からめぐって上る非常用の鉄梯子を登っていった。けれども中原は留守だった。無意味な擾乱(じょうらん)が起らずに済んだという、その時のホッとした気持の事を覚えている。
 私達は例の通り新宿の「松風」で十三銭の酒をあおり、金がつきるとあてもなく夜店の通りを見て歩いた。そこへ積み上げられていた、露店の蟹を太宰が買った。たしか十銭だったろう。九州の海には全く見馴れない、北国の毛むくじゃらの蟹だった。太宰は薄暗い、歩道のところに立ち止って、蟹をむしりながら、やたらムシャムシャとたべていた。私に馴染みのない蟹の姿だと、私は臆したが、食べてみると予想外に美味かった。髪を振り被った狂暴の太宰の食べざまが、今でもはっきりと目に(うか)ぶ。

  檀が見た「太宰と酒」に関する最後のエピソードは、1935年(昭和10年)7月~1936年(昭和11年)11月の船橋時代」のもの。

 それまではまだ学生であり、徒弟であり、間借りの書生風情に過ぎなかった太宰が、兎にも角にも、作家として自分の一戸を構えたのは、この船橋時代が初めてのことだった。
 嬉しく、また身に添わず、また落着かぬふうだった。僅かではあったが、稀に、原稿料の収入も這入って来るし、何よりも一戸を構え、近所の人々にも作家だ、とはっきり宣言して、その反応をはかっているような時期だった。
 しかし、身体は衰弱の極に達していた。何よりも、もう例のモヒ中毒が、始っていたわけだ。
 私が、はじめて船橋に太宰を訪ねていった時は、南の縁側に(とう)の長椅子を出して腰をおろし、ボンヤリと薄目を開きながら、太宰はビールを飲んでいた。
 ビールの合間々々に、同じコップへ、また時折鶏卵を割りこんで、小指でその卵のカラザを取りだしてから、生のままクルクルと飲んでいた。


 最後に、太宰の中期~後期の作家時代を献身的に支え続けた、妻・美知子の回想記から紹介します。

【津島美知子】

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 津島美知子『回想の太宰治からの紹介です。
 まずは、1939年(昭和14年)、新婚の頃のエピソードです。

 引越す前、酒屋、煙草屋、豆腐屋、この三つの、彼に不可欠の店が近くに揃っていてお(あつら)え向きだと、私の実家の人たちにひやかされたが、ほんとにその点便利がよかった。酒は一円五十銭也の地酒をおもにとり、月に酒屋への支払いが二十円くらい。酒の肴はもっぱら湯豆腐で、「津島さんではふたりきりなのに、何丁も豆腐を買ってどうするんだろう」と近隣では噂されているということが、廻り廻って私の耳に入り、呆れたことがある。
 太宰の説によると「豆腐は酒の毒を消す。味噌汁は煙草の毒を消す」というのだが、じつは歯が悪いのと、何丁平げても高が知れているところから豆腐を好むのである。
 毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、ときには「お俊伝兵衛」や「朝顔日記」、「鮨やのお里」の一節を語ったり、歌舞伎の声色を使ったりした。「ブルタス、お前もか」などと言い出して手こずることもあった。ご当人は飲みたいだけ飲んで、ぶっ倒れて寝てしまうのであるが、兵営の消灯ラッパも空に消え、近隣みな寝しずまった井戸端で、汚れものの片附けなどしていると、太宰が始終口にする「侘しい」というのは、こういうことかと思った。

 太宰の好物は、バナナ・筋子納豆・湯豆腐・酒だったそうですが、どれも柔らかいものばかり。これは、奥さん言うところの「歯が悪い」のと、大きく関係がありそうです。また、筋子納豆は、筋子を日本一食べる県と言われている、青森県で食べられている郷土料理です。
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 ちなみに、「月に酒屋への支払いが二十円くらい」は、現在の貨幣価値に換算すると、だいたい24,000~29,000円相当になります。

 家に十分酒肴の用意があり、気のおけない酒友と飲むのが、一番くつろいで飲めたと思う。酒が飽和点に達すると、くしゃみを連発した。そろそろ始まる頃だなと思っていると、会話を吹きとばすような大きなくしゃみ、続いてあとからあとから発作のように出る。これは酒が五体の隅々まで十分いきわたり、緊張がすっかり解けた合図のようなもので、この時点を越して痛飲すると客人のことはかまわずその場に倒れて眠ってしまいます。顔の真上に電灯が煌々と輝いていても泥のような深い眠りに落ちている。その寝顔を見ると、このような、神経がすっかり麻痺した状態になりたいために飲む酒なのか――と思われた。太宰はいつも「酒がうまくて飲むのではない」と言う。酒飲みの心理は、わかるようなわからないような、味わうより酔うために飲むのだとの意味であろうか。
 太宰の酒は一言で言うと、よい酒で、酒癖のわるい人、酒で乱れることをきらった。
 とりつけの酒屋の主人は「奥さんがたいへんだ」と同情してくれたが、べつに米代を飲んでしまうわけではないし、勤め人の家庭と同じように考えて同情されるとかえって迷惑を感じた。けれども健康に障りはしないかと気遣われてそれを言うと、「酒を飲まなければ、クスリをのむことになるが、いいか」と言い、煙草が多過ぎることを言うと、「なに深くすいこまないから」と弁解した。弁解がたくみで、とうていかなわなかった。
 自由に煙草が買えるときで金鵄(きんし)という一番安い煙草が一日五、六箱必要で、現金が乏しくなった場合、煙草銭と切手代だけは気をつけて残しておかなくてはならなかった。細長い右手の中指と人差し指の先は黄色く染まって、煙草の煙のせいか、書斎の障子のガラスを拭くと、煙草色の汚れがとれた。声まで少し黄色くて煙草の感じがした。


 太宰の親友・伊馬春部「太宰の追憶には、どうしても酒が媒体となる。彼の作品にも、『酒の追憶』というのがあるほどだから、これもまあ仕方なかろう。」と書いている「太宰と酒」。ほかにも太宰には、禁酒の心や、酒ぎらいというエッセイもあります。
 今回は、切っても切り離せない「太宰と酒」について、出来る限りポリフォニック(多声的)に紹介したかったため、太宰と身近だった3人の文章から引用してみました。3人とも異なる観点で、異なる太宰を切り取っているので、面白い記事になったんじゃないかな、と思っています。

 今日は、4年に一度の2月29日。
 「太宰と酒」にまつわるエピソードに思いを馳せながら、太宰と乾杯してみてはいかがでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『太宰治おぼえがき』(審美社、1963年)
伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫、1981年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」(https://yaruzou.net/hprice/hprice-calc.html?amount=1000&cy1=1927&cy2=2017
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
  モノクロ画像のカラー加工は、ColouriseSGで行いました。
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