記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その三)②

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その三)』②
 1936年(昭和11年)、太宰治 27歳。
 1935年(昭和10年)11月上旬後半から中旬前半の頃に脱稿。
 『もの思う葦(その三)』②は、1936年(昭和11年)1月1日発行の「文藝通信」第四巻第一号の「作家の感想」欄に、「もの思う葦」の題で、「健康」「K君」「ポオズ」「絵はがき」「いつわりなき申告」「乱麻を焼き切る」「最後のスタンドプレイ」の7篇が発表された。
 なお、標題に付している「(その三)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「健康

 なんにもしたくないという無意志の状態は、そのひとが健康だからである。少くとも、ペエンレツスの状態である。それでは、上は、ナポレオン、ミケランジェロ、下は、伊藤博文尾崎紅葉にいたるまで、そのすべての仕事は、みんな物狂いの状態から発したものなのか。然り。間違いなし。健康とは、満足せる豚。眠たげなポチ。


「K君」

 おそるおそる、たいへんな秘密をさぐるが如き、ものものしき仕草で私に尋ねた。「あなたは、文学をお好きなのですか。」私はだまって答えなかった。面貌だけは凛乎(りんこ)たるところがあったけれど、なんの知識もない、十八歳の少年なのである。私のとって、唯一無二の苦手であった。


「ポオズ」

 はじめから、空虚なくせに、にやにや笑う。「空虚のふり。」


「絵はがき」

 この点では、私と山岸外史とは異るところがある。私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫瀧、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命開拓の手段を、あれこれと考えて歩いている。私には、この千に余る人々、誰ひとりを笑うことが許されぬ。それぞれ、努めて居るにちがいないのだ。かれら一人一人の家屋。ちち、はは。妻と子供ら。私は一人一人の表情と骨格とをしらべて、二時間くらいの時を忘却する。


「いつわりなき申告」

 黙然たる被告は、突如立ちあがって言った。
「私は、よく、ものごとを()ろうと思っています。私は率直であります。率直に述べようと思っています。」
 裁判長、傍聴人、弁護士たちでさえ、すこぶる陽気に笑いさざめいた。被告は座ったまま、ついにその日一日おのれの顔を両手もて覆っていた。夜、舌を噛み切り、冷くなった。


「乱麻を焼き切る」

 小説論が、いまのように、こんぐらかって来ると、一言、以て之を覆いたくなって来るのである。フランスは、詩人の国。十九世紀の露西亜は、小説家の国なりき。日本は、古事記日本書紀。万葉の国なり。長編小説などの国には非ず。小説家たる君、まず異国人になりたまえ。あれも、これも、と()き工合いには、断じていかぬよう也。君の兄たり友たり得るもの、プウシキン、レエルモントフ、ゴオゴリ、トルストイドストエフスキイアンドレエフ、チェホフ、たちまち十指にあまる勢いではないか。


「最後のスタンドプレイ」

 ダヴィンチの評伝を走り読みしていたら、はたと一枚の挿絵に行き当った。最後の晩餐の図である。私は目を見はった。これはさながら地獄の絵掛地。ごったがえしの、天地震動の大騒ぎ。否。人の世の最も切なき阿修羅の姿だ。
 十九世紀のヨオロッパの文豪たちも、幼くしてこの絵を見せられ、こわき説明をされたにちがいない。
「われを売る者、この中にひとりあり。」キリストはそう呟いて、かれの一切の希望をさらっと捨て去った、刹那の姿を巧みにとらえた。ダヴィンチは、キリストの底しれぬ深い憂愁と、われとわが身を静粛に投げ出したるのちの無限のいつくしみの念とを知っていた。そうしてまた、十二の使徒のそれぞれの利己的なる崇敬の念をも悉知(しっち)していた。よし。これを一つ、日本浪漫派(にほんろうまんは)の同人諸兄にたのんで、芝居をしてもらおう。精悍無比の表情を装い、斬人斬馬の身ぶりを示して居るペテロは誰。おのれの潔白を証明することにのみ急なる態のフィリッポスは誰。ただひたすらに、あわてふためいて居るヤコブは誰。キリストの胸のおん前に眠るが如くうなだれて居るこの小鳩のように優美なるヨハネは誰。そうして、最後に、かなしみ極りてかえって、ほのかに明るき(かお)の、キリストは誰。
 山岸、あるいは、自らすすんでキリストの役を買って出そうであるが、果して、どういうものであるか。中谷孝雄なる()き青年の存在をもゆめ忘れてはならないし、そのうえ、「日本浪漫派(にほんろうまんは)」という目なき耳なき混沌の怪物までひかえて居る。ユダ。左もて何やらんおそろしきものを防ぎ、右手もて、しっかと金嚢(きんのう)を掴んで居る。君、その役をどうか私にゆずってもらいたい。私、「日本浪漫派(にほんろうまんは)」を愛すること最も深く、また之を憎悪するの念もっとも高きものがあります故。

 

太宰と山岸外史

 今回のエッセイ「絵はがき」に登場した太宰の親友、山岸外史について紹介します。

 山岸外史(1904~1977)は、東京都生まれの詩人・評論家。鹿児島七高を経て東京帝国大学哲学科に学びました。卒業後は文筆家を志し、1931年(昭和6年)に同人雑誌「アカデモス」を主宰。1934年(昭和9年)には同人雑誌「散文」を創刊します。この創刊号に掲載した『「紋章」と「禽獣」の作家達』川端康成に認められ、同じく佐藤春夫論』佐藤春夫の知遇を得ました。同年、太宰と意気投合し、同人雑誌青い花を創刊しますが、創刊号の刊行をもって休刊となってしまいました。

 翌1935年(昭和10年)には、旧青い花同人と一緒に日本浪漫派(にほんろうまんは)に加わり、この間に太宰や檀一雄と交友を結びました。太宰、山岸、檀の三人は「三馬鹿」と呼ばれていたそうです。
 1999年(平成11年)に筑摩書房から刊行された太宰治全集 12 書簡に収録されている個人別書簡数の中で、山岸宛の書簡が106通と最も多く、2人の親交の深さがうかがえます。1939年(昭和14年)3月8日付の絵はがきには、次のように書かれています。

(前略)二年、三年、君と私と音信不通の場合があっても、やはり、君と、私と、同じ文学の道を理解しながら歩いてゆくのではないかと思う。君に啓発されたところ、暗示をうけたところ、今日まででも、たくさんあるのです。

 山岸は太宰の死後、太宰との交友関係を人間太宰治』『太宰治おぼえがきにまとめています。

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■山岸外史

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その三)①

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その三)』①
 1936年(昭和11年)、太宰治 27歳。
 1935年(昭和10年)11月上旬後半から中旬前半の頃に脱稿。
 『もの思う葦(その三)』①は、1936年(昭和11年)1月1日発行の「作品」第七巻第一号(第六十九号)に、「葦の自戒」「感想について」「すらだにも」「慈眼」「重大のこと」「敵」の6篇が発表された。
 なお、標題に付している「(その三)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「葦の自戒

 その一。ただ、世の中にのみ眼をむけよ。自然の風景に惑溺(わくでき)して居る我の姿を、自覚したるときには、「われ老憊(ろうばい)したり。」と素直に、敗北の告白をこそせよ。
 そのニ。おなじ言葉を、必ず、二度むしかえして口の端に出さぬこと。
 その三。「未だし。」


「感想について」

 感想なんて! まるい卵もきり(よう)ひとつで立派な四角形になるじゃないか。伏目がちの、おちょぼ口を装うこともできるし、たったいまたかまが原からやって来た原始人そのままの素朴の真似もできるのだ。私にとって、ただ一つ確実なるものは、私自身の肉体である。こうして寝ていて、十指を観る。うごく。右手の人差指。うごく。左手の小指。これも、うごく。これを、しばらく、見つめて居ると、「ああ、私は、ほんとうだ。」と思う。他は皆、なんでも一切、千々(ちぢ)にちぎれて飛ぶ雲の思いで、生きて居るのか死んで居るのか、それさえ分明しないのだ。よくも、よくも! 感想だなぞと。
 遠くからこの状態を眺めている男ひとり在りて曰く、「たいへん簡単である。自尊心。これ一つである。」


「すらだにも」

 金槐集(きんかいしゅう)をお読みのひとは知って居られるだろうが、実朝のうたの中に「すらだにも。」なる一句があった。前後はしかと覚えて居らぬが、あはれ、けだものすらだにも、云々というような歌であった。
 二十代の心情としては、どうしても、「すらだにも。」といわなければならぬところである。ここまで努めて、すらだにも、と口に出したくなって来るではないか。実朝を知ること最も深かった真淵(まぶち)、国語をまもる意味にて、この句を、とらず。いまになりては、いずれも佳きことをしたと思うだけで、格別、真淵をうらまない。


「慈眼」

「慈眼。」というのは亡兄の遺作(へんな仏像)に亡兄みずから附したる名前であって、その青色の二尺くらいの高さの仏像は、いま私の部屋の隅に置いて在るが、亡兄、二十七歳、最後の作品である。二十八歳の夏に死んだのだから。
 そういえば、私、いま、二十七歳。しかも亡兄のかたみの(ねずみ)(しま)の着物を着て寝て居る。二三年まえ、罪なきものを殴り、蹴ちらかして、馬の如く(ちまた)を走り狂い、いまもなお、ときたま、余燼(よじん)ばくはつして、とりかえしのつかぬことをしてしまうのである。どうにでもなれと、一日一ぱいふんぞりかえって寝て居ると、わが身に、慈眼の波ただよい、言葉もなく、にこやかに、所謂(いわゆる)えびす顔になって居る場合が多い。われながら、まるでたわいがないのだ。
 この項、これだけのことで、読者、不要の理屈を附さぬがよい。


「重大のこと」

 知ることは、最上のものにあらず。人智には限りありて、上は――氏より、下は――氏にいたるまで、すべて似たりよったりのものと知るべし。
 重大のことは、ちからであろう。ミケランジェロは、そんなことをせずともよい豊かな身分であったのに、人手は一切借りず何もかもおのれひとりで、大理石塊を、山から町の仕事場までひきずり運び、そうして、からだをめちゃめちゃにしてしまった。
 附言する。ミケランジェロは、人を嫌ったから、あんなに人に嫌われたそうである。


「敵」

 私をしんに否定し得るものは、(私は十一月の海を眺めながら思う。)百姓である。重大まえからの水呑百姓、だけである。
 丹羽文雄川端康成、市村羽佐衛門、そのほか。私には、かぜ一つひいてさえ気にかかる。

 追記。本誌連載中、同郷の友たる今官一(こんかんいち)君の「海鷗の章。」を読み、その快文章、私の胸でさえ躍らされた。このみごとなる文章の行く先々を見つめ居る者、けっして、私のみに非ざることを確信して居る。

 

「亡兄」津島圭治について

 今回のエッセイ「慈眼」に登場した「亡兄」こと、津島圭治について紹介します。

 津島圭治(1903~1930)は、太宰の三兄です。私立東京中学校から東京美術学校(現在の東京藝術大学)塑像科へ進学しましたが、病弱のためあまり学校へは行かず、自宅で塑像制作をしながら、山小屋風の喫茶店を造って雇われママに経営させたり、前衛的な絵を描いたり、詩を創ったりして過ごしていました。その後、同人雑誌「十字街」に夢川利一のペンネームで参加し、表紙絵やカットを担当します。圭治は、東京の各種同人雑誌を度々金木の生家に送ったため、太宰は早くから新傾向の文学に接することができました。

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■津島圭治

 圭治は、1926年(大正15年)6月、川端康成の処女作品集『感情装飾』の出版記念会に参加し、川端から署名本を贈られています。
 同年夏、金木の生家に帰省した圭治は、中学4年生だった太宰と一緒に、同人雑誌青んぼを創刊しました。表紙とカットは圭治が担当し、出資者であった長兄・津島文治や太宰も執筆しましたが、同年10月に圭治が帰郷したため、青んぼは第二号で廃刊となりました。

 太宰が文学に関心を示し、中学時代から作家志望を思い立ったのは圭治の影響が大きくありました。太宰にとって圭治は憧れの人であり、1930年(昭和5年)4月に東京帝国大学の文学部仏蘭西文学科に進学した太宰は、圭治の住居の近くに下宿しました。しかしこの頃、圭治は結核性膀胱カタルに冒されており、床に臥せっていることが多くなっていました。
 同年6月下旬、圭治のまかない人から連絡を受けて駆け付けた太宰は、末期の圭治に二晩付き添って看病し、電報で呼び寄せた文治と共に、その臨終に立ち会いました。享年27歳という若さでした。

 三兄・圭治の早過ぎる死は、太宰の心に大きな穴を空けたであろうと思われます。太宰は、圭治の遺作の「慈眼。」と名付けられた小さな菩薩像を、兄の形見として永く愛蔵しました。

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■圭治作の仏像 2018年(平成30年)12月13日付「東奥日報

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】川端康成へ

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今週のエッセイ

◆『川端康成へ』
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)8月20日から27、28日までに脱稿。
 『川端康成へ』は、1935年(昭和10年)10月1日発行の「文藝通信」第三巻第十号の「芥川賞後日異聞二篇」の一篇として発表された。ほかの一篇は、「芥川賞で擲られそうな男の告白」(矢崎弾)が掲載された。

川端康成

 あなたは文藝春秋九月号に私への悪口を書いて居られる。「前略。――なるほど、道化の華の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる(うら)みあった。」
 おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう。私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。これは、あなたの文章ではない。きっと誰かに書かされた文章にちがいない。しかもあなたはそれをあらわに見せつけようと努力さえしている。「道化の華」は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。「海」という題であった。友人の今官一(こんかんいち)伊馬鵜平いまうへいに読んでもらったが、それは、現在のものにくらべて、たいへん素朴な形式で、作中の「僕」という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入れの紙袋の中にしまって置いた。今年の正月ごろ友人の檀一雄(だんかずお)がそれを読み、これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏になら、きっとこの作品が判るにちがいない、と言った。
 そのうちに私は小説に行きづまり、()わば野ざらしを心に、旅に出た。それがちいさい騒ぎになった。
 どんなに兄貴からののしられてもいいから、五百円だけ借りたい。そうしてもういちど、やってみよう、私は東京へかえった。友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円のお金をもらえることになった。私はさっそく貸家を捜しまわっているうちに、盲腸炎を起し阿佐ヶ谷の篠原病院に収容された。膿が腹膜にこぼれていて、少し手おくれであった。入院は今年の四月四日のことである。中谷孝雄が見舞いに来た。日本浪漫派にほんろうまんは)へはいろう、そのお土産として「道化の華」を発表しよう。そんな話をした。「道化の華」は檀一雄の手許にあった。檀一雄はなおも川端氏のところへ持って行ったらいいのだがなぞと主張していた。私は切開した腹部のいたみで、一寸もうごけなかった。そのうちに私は肺をわるくした。意識不明の日がつづいた。医者は責任を持てないと、言っていたと、あとで女房が教えて呉れた。まる一月その外科の病院に寝たきりで、頭をもたげることさえようようであった。私は五月に世田谷区経堂の内科の病院に移された。ここに二ヶ月いた。七月一日、病院の組織がかわり職員も全部交代するとかで、患者もみんな追い出されるような始末であった。私は兄貴と、それから兄貴の知人である北芳四郎(きたよししろう)という洋服屋と二人で相談して決めて呉れた、千葉県船橋の土地へ移された。終日籐椅子(とういす)に寝そべり、朝夕軽い散歩をする。一週間に一度ずつ東京から医者が来る。その生活が二ヶ月ほどつづいて、八月の末、文藝春秋を本屋の店頭で読んだところが、あなたの文章があった。「作者目下の生活に(いや)な雲ありて、云々。」事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。
 小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのような、ひねこびた熱い強烈な愛情をずっと奥底に感じた。ちがう。ちがうと首をふったが、その、冷たく装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた。そうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。
 私はいま、あなたと知恵くらべをしようとしているのではありません。私は、あなたの文章の中に「世間」を感じ、「金銭関係」のせつなさを嗅いだ。私はそれを二三のひたむきな読者に知らせたいだけなのです。それは知らせなければならないことです。私たちは、もうそろそろ、にんじゅうの徳の美しさは疑いはじめているのだ。
 菊池寛氏が、「まあ、それでもよかった。無難でよかった。」とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑む。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。
 ただ私は残念なのだ。川端康成の、さりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ。こんな筈ではなかった。たしかに、こんな筈ではなかったのだ。あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければいけない。

 

太宰と川端康成

  川端康成(1899~1972)は、大阪府大阪市生まれの小説家、文芸評論家。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人です。1968年(昭和43年)には、ノーベル文学賞を受賞しています。代表作に伊豆の踊子』『浅草紅団』『禽獣』『雪国』『眠れる美女』『古都』などがあります。

 太宰と川端との関係は、1935年(昭和10年)1月、第一回目の芥川龍之介賞に太宰の道化の華』『逆行が選考対象になったことからはじまります。太宰の逆行も最終選考まで残りますが、最終的に芥川賞石川達三蒼氓(そうぼう)が受賞しました。

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 受賞者の結果発表後、選考委員の一人だった川端は、選評を芥川龍之介賞選評第一回昭和十年上半期』「文藝春秋」1935年(昭和10年)9月)と題して発表しましたが、その選評の中の次の記述に太宰が反応しました。

 さて、滝井氏の本予選に通った五作のうち、例えば、佐藤春夫氏は、「逆行」よりも「道化の華」によって作者太宰氏を代表したき意見であった。
 この二作は一見別人の作の如く、そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる(うら)みあった。(太字は筆者。「滝井」は選考委員の1人だった滝井孝作のこと。)

 この選評に対して、太宰が「小鳥を飼い、舞踏を見るのが、そんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った」と反論したのが、今回紹介したエッセイ川端康成へ』です。

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川端康成

 道化の華を友人・檀一雄が「これは、君、傑作だ、どこかの雑誌社へ持ち込め、僕は川端康成氏のところへたのみに行ってみる。川端氏になら、きっとこの作品が判るにちがいない」と言ったことで、審査過程で不必要な力が働いたと考え、「おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう」といい、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなさそうに装って、装い切れなかった嘘が、残念でならないのだ」と川端を直接的に批判しているように見えますが、川端の背後にいる人々を批判しているようにも感じられます。
 この太宰の批判に対して、川端は太宰治氏へ 芥川賞に就いて』(「文藝通信」1935年(昭和10年)11月)で、「全く太宰治氏の妄想である」といい、「世間」や「金銭関係」のために選評で故意に太宰の悪口を言うような必要がないことを記し、「尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」とまとめています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その二)③

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その二)』③
  ―当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)11月17、18日頃に脱稿。
 『もの思う葦(そのニ)』③「Alles oder Nichts」は、1935年(昭和10年)11月、『文藝放談』のために執筆されたが、同誌の廃刊によって掲載されなかった。太宰の生前の刊本には収録されず、没後、1950年(昭和25年)8月10日発行の『葦』夏号に「もの思う葦ーAlles oder Nichts」として、新仮名遣いで発表された。
 なお、標題に付している「(そのニ)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「Alles oder Nichts

 イプセンの劇より発し少しずつヨオロッパ人の口の()に上りしこの言葉が、流れ流れて、今では、新聞当選のたよりげなき長編小説の中にまで、易々とはいりこんでいたのを、ちらと見て、私自身、嘲弄(ちょうろう)されたと思いこみむっとなった。私の思念の底の一すじのせんかんたる渓流もまた、この言葉であったのだから。
 私は小学校のときも、中学校のときも、クラスの首席であった。高等学校へはいったら、三番に落ちた。私はわざと手段を講じてクラスの最下位にまで落ちた。大学へはいり、フランス語が下手で、屈辱の予感からほとんど学校へ出なかった。文学に於いても、私は、誰のあなどりも許すことが出来なかった。完全に私の敗北を意識したなら、私は文学をさえ、止すことが出来る。
 けれども私は、或る文学賞の候補者として、私に一言の通知もなく、そうして私が蹴落されていることまで、付け加えて、世間に発表された。人おのおの、不抜の自尊心のほどを、思いたまえ。しかるに受賞者の作品を一読するに及び、告白すれば、私、ひそかに安堵した。私は敗北しなかった。私は書いてゆける。誰にも許さぬ私ひとりの路をあるいてゆける確信。
 私、幼くして、峻厳酷烈(しゅんげんこくれつ)なる亡父、ならびに長兄に叩きあげられ、私もまた、人間として少し頑迷なるところもあり、文学に於いては絶対に利己的なるダンディズムを奉じ、十年来の親友をも、みだりに許さず、死して、なお、旗を右手に歯ぎしりしつつ(ちまた)をよろばいあるくわが身の執拗なる(ごう)をも感じて居るのだ。一朝、生活にことやぶれ、万事窮したる揚句の果には、耳をつんざく音と共に、わが身は、酒井眞人と同じく、「文芸放談」。どころか、「文芸糞談」。という雑誌を身の生業(なりわい)として、石にかじりついても、生きのびて行くかも知れぬ。秀才、はざま貫一、勉学を廃止して、ゆたかな金貸し業をこころざしたというテエマは、これは今のかずかずの新聞小説よりも、いっそう切実なる世の中の断面を見せて呉れる。
 私、いま、自らすすんで、君がかなしき藁半紙(わらばんし)に、わが心臓つかみ出したる詩を、しるさん。私、めったの人には断じて見せなかった未発表の大事の詩一篇。
 附言する。われ藁半紙(わらばんし)のゆえにのみしるす也と思うな。原稿用紙二枚に走り書きしたる君のお手紙を読み、謂わば、屑籠(くずかご)の中の(はちす)を、確実に感じたからである。君もまたクライストのくるしみを苦しみ、凋落のボオドレエルの姿態に胸を焼き、焦がれ、たしかに私と甲乙なき一二の佳品かきたることあるべしと推量したからである。ただし私、書くこと、この度一回に限る。私どんなひとでも、馴れ合うことは、いやだ。
  因果
  射的を
  好む
  頭でっかちの
  弟。
  兄は、いつでも、生命を、あげる。

 

「Alles oder Nichts」とは

  「イプセンの劇より発し」たという、今回のエッセイのタイトル「Alles oder Nichts」イプセンとは、ヘンリック・イプセン(1823~1906)のこと。イプセンは、ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督で、近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」と呼ばれています。イングランドの劇作家、詩人であるウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)以後、世界で最も盛んに上演されている劇作家とも言われています。代表作に『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがあります。

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■ヘンリック・イプセン

 「Alles oder Nichts」は、イプセンの代表作のひとつであり、五幕から成る詩劇『ブラン』(1866)の主人公・牧師ブランの信条で、英訳すると「All or Nothing」、日本語だと「全か無か、妥協を許さない、全てを賭けた」という意味になります。

 「私は小学校のときも、中学校のときも、クラスの首席であった」という過去から、「或る文学賞の候補者として、私に一言の通知もなく、そうして私が蹴落されていることまで、付け加えて、世間に発表された」という現在までを回想する太宰。「或る文学賞」とは、創設されたばかりの芥川龍之介賞のことです。自身の逆行が候補5作品の中に選出され、浮足立っていた太宰ですが、結果は思い通りにはいきませんでした。

 太宰は「Alles oder Nichts」の言葉に何を想いながら、このエッセイを記したのでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その二)②

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その二)』②
  ―当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)12月9日か10日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(そのニ)』②は、1935年(昭和10年)12月15日発行の「東京日日新聞」第二一三二七号の第十一面に「新人の立場(四)」の総題のもと、「もの思う葦(下)」の標題で、「感謝の文学」「審判」「無間奈落」「余談」の4篇が発表された。
 なお、標題に付している「(そのニ)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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「感謝の文学

 日本には、ゆだん大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕まえにおいて、あるレヴェルにまで漕ぎついたなら、もう決して上りもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、志賀直哉佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。(藤村については、項をあらためて書くつもり。)ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても、ただ量で行く。マンネリズムの堆積である。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。藤村はヨーロッパ人なのかも知れない。
 けれども、感謝のために、私は、あるいは金のために、あるいは子供のために、あるいは遺書のために、苦労して書いておるにすぎない。人を(あざわら)えず、自分だけを、ときたま笑っておる。そのうちに、わるい文学は、はたと読まれなくなる。民衆という混沌の怪物は、その点、正確である。きわだってすぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。かつて祝福されたる人。ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウストメフィストだけを気取り、グレエトヘンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。私には、どちらとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。

「審判」

 人を審判する場合。それは自分に、しかばねを、神を、感じているときだ。


「無間奈落」


 押せども、ひけども、うごかぬ扉が、この世の中にはある。地獄の門をさえ冷然とくぐったダンテもこの扉については、語るを避けた。 


「余談」

 ここには、「鷗外と漱石」という題にて、鷗外の作品、なかなか正当に評価せられざるに反し、俗中の俗、夏目漱石の全集、いよいよ華やかなる世情、涙出づるほどくやしく思い、参考のノートや本を調べたけれども、「僕輩」の気折れしてものにならず。この夜、一睡もせず。朝になり、ようやく解決を得たり。解決に曰く、時間の問題さ。かれら二十七歳の冬は、云々。へんに考えつめると、いつも、こんな解決也。
 いっそ、いまは記者諸兄と炉をかこみ、ジャアナルということの悲しさについて語らん乎。
 私は毎朝、新聞紙上で諸兄の署名なき文章ならびに写真を見て、かなしい気がする。(ときたま不愉快なることもあり。)これこそ読み捨てられ、見捨てられ、それっきりのもののような気がして、はかなきものを見るもの哉と思うのである。けれども、「これが世の中だ」と囁かれたなら、私、なるほどとうなずくかもしれぬ気配をさえ感じている。ゆく水は二度とかえらぬそうだ。せいせいるてんという言葉もある。この世の中に生れて来たのがそもそも、間違いの発端と知るべし。

 

太宰と鷗外

  今回のエッセイにも登場した文豪・森鷗外。今回は、太宰と鷗外の繋がりについて紹介します。

 森鷗外(1862~1922)は、島根県津和野町生まれの小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医、官僚で、本名は林太郎(りんたろう)。代表作に舞姫』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟などがあります。

 鷗外に対する太宰の言及は、作品の中に散見されます。彼は昔の彼ならずでは、鷗外の『青年』に関して「あのかそけきロマンチスズム」と書かれ、誰も知らぬに登場する安井夫人は「鷗外の歴史小説が好きでした」と語っています。女の決闘では、ドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルク(1876~1949)の『女の決闘』を鷗外が翻訳したものを引用しながら、この作品から得た不思議な、おそろしい感銘について述べています。

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森鷗外

 また、太宰の花吹雪では、語り手が鷗外の勇ましさを讃え、鷗外の墓を訪ね、「ここの墓地は清潔で、鷗外の文章の片鱗がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と空想しています。1922年(大正11年)に61歳で病没した鷗外は、墨田区向島弘福寺に埋葬されましたが、関東大震災弘福寺が全焼してしまったため、1927年(昭和2年)に同じ宗派の三鷹禅林寺に移されました。

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三鷹禅林寺 2020年6月20日、著者撮影。

 墓碑には、中村不折の書による「森林太郎墓」と刻まれています。山門近くには、鷗外の遺言碑「一切の栄誉・称号を排す」も建立されています。

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森鷗外の墓 中央の墓碑に「森林太郎墓」と刻まれている。2020年6月20日、著者撮影。

 1948年(昭和23年)6月14日 、愛人の山崎富栄玉川上水で入水した太宰は、花吹雪の場面が縁となり、1948年(昭和23年)7月18日に鷗外の墓の斜め前に埋葬されました。

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■太宰の墓 森鷗外の斜め前に建立。「太宰治」「津島家之墓」2つの墓石が並んでいる。2020年6月20日、著者撮影。

 太宰の妻・石原美知子によって、太宰自筆の墓碑「太宰治」が建てられました。隣には、並んで「津島家之墓」が建てられ、太宰の本名・津島修治、長男・津島正樹、妻・美知子、2020年4月20日に亡くなった長女・津島園子の名前が刻まれています。

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■津島家之墓 右から、津島修治、津島正樹、津島美知子、津島園子の名前が刻まれている。2020年6月20日、著者撮影。

 尊敬していた作家・森鷗外と同じ禅林寺に埋葬された太宰。地下でどんな会話を交わしているのか、気になります。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その二)①

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その二)』①
  ―当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)12月9日か10日頃までに脱稿。
 『もの思う葦(そのニ)』①は、1935年(昭和10年)12月14日発行の「東京日日新聞」第二一三二六号の第十三面に「新人の立場(三)」の総題のもと、「もの思う葦(上)」の標題で、「()(まま)という事」「百花繚乱主義」「ソロモン王と賤民(せんみん)」「文章」の4篇が発表された。
 なお、標題に付している「(そのニ)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

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()(まま)という事

 文学のためにわがままをするというのは、いいことだ。社会的には二十円三十円のわがまま、それをさえできず、いま更なんの文学ぞや。

「百花繚乱主義」

 福本和夫、大震災、首相暗殺、そのほか滅茶滅茶のこと、数千。私は、幼少期、青年期に、いわば「見るべからざるもの。」をのみ、この眼で見て、この耳で聞いてしまった。二十七八歳を限度として、それよりわかい青年、すべて、口にいわれぬ、人知れない苦しみをなめているのだ。この身をどこに置くべきか。それさえ自分にわかっておらぬ。
 ここに越ゆべからざる太い、まっ黒な線がある。ジェネレーションが、舞台が、少しずつ廻っている。彼我(ひが)相通ぜぬ厳粛な悲しみ、否、嗚咽さえ、私には感じられるのだ。われらは永い旅をした。せっぱつまり、旅の仮寝の枕元の一輪を、日本浪漫派と名づけてみた。この一すじ。竹林の七賢人も(やぶ)から出て来て、あやうく餓鬼をのがれん有様、佳き哉、自ら称していう。「われは花にして、花作り。われ未だころあいを知らず。Alles oder Nichts.」
 またいう。「策略の花、可也。沈黙の花、可也。理解の花、可也。物真似の花、可也。放火の花、可也。われら常におのれの発したる一語一語に不抜の責任を持つ。」
 あわれ、この花園の妖しさよ。
 この花園の奇しき美の秘訣を問わば、かの花作りにして花なるひとり、一陣の秋風を呼びて応えん。「私たちは、いつでも死にます。」一語。二語ならば汚し。
 花は、ちらばり乱れて、ひとつひとつ、咲き誇り、「生きて在るものを愛せよ」「おれは新しくない。けれども決して古くはならぬ」「いのちがけならば、すべて尊し」「終局において、人間は、これ語るに足らず」「不可解なのは藤村の表情」「いや、そのことについては、私が」「いや、僕だ。僕だ。」「人は人を(あざわら)うべきでない」云々。
 日本浪漫派(にほんろうまんは)団結せよ、には非ず。日本浪漫派、またその支持者各々の個性をこそ、ゆゆしきものと思い、いかなる侮蔑をもゆるさず、また、各々の生きかた、ならびに作品の特殊性にも、死ぬるともゆずらぬ(ほこり)を持ち、国々の隅々にいたるまで、繚乱せよ、である。


「ソロモン王と賤民(せんみん)


 私は生れたときに、一ばん出世していた。亡父貴族院議員であった。は牛乳で顔を洗っていた。遺児は、次第に落ちぶれた。文章を書いて金にする必要。
 私はソロモン王の底知れぬ憂愁も、賤民(せんみん)の汚さも、両方、知っている筈だ。


「文章」

 文章に善悪の区別、たしかにあり。面貌、姿態の如きものであろうか。宿命なり。いたしかたなし。

 

「文学のためにわがまま」

  太宰は冒頭のエッセイで「文学のためにわがままをするというのは、いいことだ」と書いていますが、このエッセイが書かれた1935年(昭和10年)の太宰について紹介します。

 1935年(昭和10年)、2月1日付発行の「文藝」二月号に、『逆光』のうちの蝶蝶」「決闘」「くろんぼの三篇を発表しました。これが、同人誌以外の商業誌に「太宰治」の名前で小説を発表した最初でした。このデビューは、「文藝」編集者に酒匂郁也という九州出身の酒豪がおり、同じく九州(福岡県)出身で太宰の友人・伊馬鵜平(のちの伊馬春部)が、太宰のことを極めて多弁していたために決まったものだそうです。

 同年3月、東京帝国大学在学5年目にして取得単位ゼロだった太宰は、ついに落第と決定(正式に除籍となったのは、同年9月30日付。除籍理由は授業料未納のためだった)。慌てて就職活動を開始します。太宰は知人・中村地平の伝手を頼って都新聞社(現在の東京新聞社)の入社試験を受けます。長兄・津島文治から、大学を卒業できなければ仕送りを止めると言われていた太宰は、「東大を卒業できなくても、都新聞社に入社できれば許してもらえるだろう」と最後の足掻きを見せますが、必死の就職活動は失敗に終わってしまいます。

 この東大落第、就職活動の失敗の流れを受けて、太宰が次にとった行動は、街を見下ろす鎌倉八幡宮の裏山での縊死未遂事件でした。この縊死未遂は、長兄からの仕送り期間を何とか延長してもらうためにとった、苦肉のパフォーマンスだったとも考えられます。

 決して順風満帆とは言えない「太宰治」のデビューですが、この後、さらなる悲劇が太宰を襲います。
 同年4月4日、腹痛に襲われ、腹部を蒟蒻(こんにゃく)で温めたりしたが治らなかったため、阿佐ヶ谷の篠原病院に行って診察を受けた結果、急性虫様突起炎(盲腸炎)と判明し、すぐに入院。手術を受けましたが、少し手遅れで、汎発性の腹膜炎を併発。危篤の一夜を過ごしましたが、奇跡的に一命をとりとめました。入院中、患部の痛みを鎮めるために医師から注射されていたのがパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤)でした。この後、太宰はパビナール中毒になり、長く苦しむことになります。

 太宰は、篠原病院から世田谷区にある経堂病院に転院。経堂病院の医院長は、長兄の友人・沢田でした。経堂病院に約1ヶ月半入院した後、内縁の妻・小山初代と一緒に転居先を探し求め、同年7月1日、のちに「最も愛着が深かった」(十五年間)と語った千葉県船橋の借家に引越しました。門柱には「津島修治」の脇に小さく「太宰治」と書き加えられた表札が懸けられていたそうです。借家とはいえ、初めての一軒家での心機一転の生活。表札に「太宰治」と書き加えているところからも、作家として生きることの覚悟の片鱗が伺えます。

  さらに同年7月末、新たに創設されたばかりの第一回芥川龍之介賞の候補5作品の中に、自身の『逆光』が選出されたことを初代から聞きます。太宰は、師匠・佐藤春夫の婦人の兄で、太宰の支持者でもあった「倉さん」こと小林倉三郎に電話で確認をし、興奮の色を示していたそうです。太宰は、西郷隆盛によく似ていたという「倉さん」が届けてくれる原稿用紙をずっと使っていました。
 候補選出に浮足立つ太宰でしたが、約2週間後の8月10日、第一回芥川龍之介賞の受賞は石川達三蒼氓(そうぼう)に決定しました。蒼氓(そうぼう)は、「神戸の国立海外移民収容所ブラジル移民収容所の生活を描いた」「百五十枚の力作」(「読売新聞」報道)でした。

 エッセイもの思う葦は、このような怒涛の生活を送っている中で紡がれていきました。決して順風満帆とはいえない、波乱万丈な毎日を過ごしながら作家への道を志し、「文学のためにわがままをするというのは、いいことだ」と言い切ってしまう太宰、さすがです。

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船橋時代の太宰と最初の妻・小山初代

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その一)④

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今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その一)』④
  -当りまえのことを当りまえに語る。
 1935年(昭和10年)、太宰治 26歳。
 1935年(昭和10年)11月上旬前半頃に脱稿。
 『もの思う葦(その一)』は、1935年(昭和10年)8月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」八月号から4回にわたって発表された。
 なお、標題に付している「(その一)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。
 掲載の4回目である1935年(昭和10年)12月1日発行の「日本浪漫派(にほんろうまんは)」十ニ月号第九号には、「「衰運」におくる言葉」「ダス・ゲマイネに就いて」「金銭に就いて」「放心について」「世渡りの秘訣」「緑雨」「ふたたび書簡のこと」の7篇が掲載。初出誌の本文末尾には、「来月は、ボオドレエルについて二三枚書く。」と予告が記された。

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「「衰運」におくる言葉

  ひややかにみずをたたえて
  かくあればひとはしらじな
  ひをふきしやまのあととも

 右は、生田長江のうたである。「衰運」読者諸兄へのよき暗示ともなれば幸甚である。

 君、あとひとつき寝れば、二十五歳。深く自愛し、そろそろ路なき路にすすむがよい。そうして、不抜の高き塔を打ちたて、その塔をして旅人にむかい百年のまちで。「ここに男ありて、――」と必ず必ず物語らせるがよい。私の今宵のこの言葉を、君、このまま素直に受けたまえ。 

ダス・ゲマイネに就いて」

 いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の「シルレル論」を読み、否、読まされ、シルレルはその作品に於いて、人の性よりしてダス・ゲマイネ(卑俗)を駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた。そこにこそ、まことの自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。ケエベル先生は、かの、きよらなる顔をして、「私たち、なかなかにこのダス・ゲマイネという泥地から足を抜けないもので、――」と嘆じていた。私もまた、かるい溜息をもらした。「ダス・ゲマイネ」「ダス・ゲマイネ」この想念のかなしさが、私の頭の一隅にこびりついてはなれなかった。
 いま日本に於いて、多少ともウール・シュタンドに近き文士は、白樺派公達(きんだち)葛西善蔵佐藤春夫。佐藤、葛西、両氏に於いては、自由などというよりは、稀代のすねものとでも言ったほうが、よりよく自由という意味を言い得て妙なふうである。ダス・ゲマイネは、菊池寛である。しかも、ウール・シュタンドにせよ、ダス・ゲマイネにせよ、その優劣をいますぐここで審判するなど、もってのほかというべきであろう。人ありて、菊池寛氏のダス・ゲマイネのかなしさを真正面から見つめ、論ずる者なきを私はかなしく思っている。さもあればあれ、私の小説「ダス・ゲマイネ」発表数日後、つぎの如き全く差出人不明のはがきが一枚まい込んで来たのである。

  うつしみに
  きみのゑがきし
  をとめのゑ
  うらふりしけふ
  こころわびしき

 右、春の花と秋の紅葉といずれ美しきという題にて。
                   よみ人しらず。

 名を名乗れ! 私はこの一首のうたのために、確実に、七八日、ただ、胸を焦がさんほどにわくわくして歩きまわっていた。ウール・シュタンドも、ケエベル先生もあったものでなし。所詮、私は、一箇の感傷家にすぎないのではないか。


「金銭について」


 ついに金銭は最上のものでなかった。いま私、もし千円もらっても、君がほしければ、君に、あげる。のこっているものは、蒼空の如き太古のすがたとどめたる汚れなき愛情と、――それから、もっとも酷薄にして、もっとも気永なる復讐心。

「放心について」

 森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめきつつも、或る夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた! と思い込んで、はね起きる。走る。ひた走りに走る。一瞬間のできごとである。私はこの瞬間を、放心の美と呼称しよう。断じて、ダス・デモニッシュのせいではない。人のちからの極致である。私は神も鬼も信じていない。人間だけを信じている。華厳の滝が涸れたところで、私は格別、痛嘆しない。けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。
 附言する。かかる全き放心の後に来る、もの凄じきアンニュイを君知るや否や。


「世渡りの秘訣」

 節度を保つこと。節度を保つこと。


「緑雨」

 保田君曰く、「このごろ緑雨を読んでいます。」緑雨かつて自らを正直正太夫と称せしことあり。保田君。この果敢なる勇気にひかれたるか。


「ふたたび書簡のこと」

 友人にも逢わず、こうして田舎に居れば、恥多い手紙を書く度数もいよいよしげくなるわけだ。けれども、先日、私は、作家の書簡集、日記、断片をすべてくだらないと言ってしまった。いまでも、そう思っている。よし、とゆるした私の書簡は私の手で発表する。以下、二通。(文章のてにをはの記憶ちがいは許せ。)
 保田君。
 ぼくもまた、二十代なのだ。舌焼け、胸焦げ、空高き(がん)の声を聞いている。今宵、風寒く、身の置きどころなし。不一。
 さらに一通は、
(眠られぬままに、ある夜、年長の知人へ書きやる。)
 かなしいことには、あれでさえ、なおかつ、狂言にすぎなかった。われとわが額を壁に打ちつけ、この生命(いのち)絶たんとはかった。あわれ、これもまた、「文章」にすぎない。君、僕は覚悟している。僕の芸術は、おもちゃの持つ美しさと寸分異るところがないということを。あの、でんでん太鼓の美しさと。(一行あけて)ほととぎす、いまわのきわの一声は、「死ぬるときも、巧言令色であれ!」

 このほか三通、気にかかっている書簡があるのだけれど、それらに就いては後日、また機会もあろう。(ないかも知れぬ。)

 追記。文芸冊子「非望」第六号所載、出方名英光(でかたなひでみつ)の「空吹く風」は、見どころある作品なり。その文章駆使に当って、いま一そう、ひそかに厳酷なるところあったなら、さらに申し分なかったろうものを。

 

太宰の弟子・田中英光

  今回紹介した最後のエッセイ「ふたたび書簡のこと」に名前が登場する出方名英光(でかたなひでみつ)は、太宰の愛弟子の1人である田中英光(たなかひでみつ)のことです。
 田中は、東京都生まれの小説家で、早稲田大学第二高等学院を経て、早稲田大学政経学部を卒業しました。1932年(昭和7年)、ロサンゼルス・オリンピックのボート競技エイト種目に、早稲田大学クルーの一員として出場もしています。「出方名」というペンネームは、田中がボート部時代に「田中」姓が2人いて、体の小さい方が「コタナカ」、大きい方が「デカタナ」と呼ばれていたことに由来しています。
 1935年(昭和10年)2月、同人雑誌「非望」に『急行列車』を発表し、北川冬彦に認められました。大学卒業後は、横浜ゴム製造株式会社に入社、朝鮮京城の同社出張所への配属となりました。同年8月、「非望」に『空吹く風』を発表。太宰はこの短篇を「見どころある作品なり。その文章駆使に当って、いま一そう、ひそかに厳酷なるところあったなら、さらに申し分なかったろうものを」と評しました。田中は、この頃から太宰に師事するようになります。

 1938年(昭和13年)2月、田中は東京本社へ出張した際、杉並区天沼に住んでいた太宰を訪問しますが、不在のため会うことはできませんでした。

 田中が実際に太宰に会うことができたのは、天沼訪問の2年後、1940年(昭和15年)3月でした。この時、田中は小説『杏の実』を持参。太宰はこれをギリシャ神話に拠ってオリンポスの果実と改題させ、丁寧な批評をして2度にわたって書き改めさせたのち、「文学界」に斡旋しました。同年発行の「文学界」九月号に掲載されたオリンポスの果実は、同年12月に第七回池谷信三郎賞を受賞し、田中の出世作となりました。

 以後も小説を発表し続けた田中ですが、1948年(昭和23年)6月の太宰の死に強い衝撃を受け、アドルム、カルモチンなど睡眠薬の服用量が増え、薬物中毒となりました。
 1949年(昭和24年)11月3日午後5時頃、田中は、師・太宰の眠る三鷹禅林寺の墓前で、睡眠薬アドルム300錠と焼酎1升を飲んだ上で、安全カミソリで左手首を切って自殺を図ります。知らせを受けて駆け付けた新潮社の編集者・野平健一により、三鷹市上連雀の病院に運ばれ、処置を受けましたが、同日午後9時40分に息を引き取りました。享年36歳。

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■太宰と田中英光

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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太宰治39年の生涯を辿る。
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