記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月19日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月19日の太宰治

  1936年(昭和11年)9月19日。
 太宰治 27歳。

 「二十世紀旗手」の掲載を、「文藝春秋」千葉静一に依頼するために、上京。

「小説かきたくて、うずうず」

 1936年(昭和11年)9月19日、太宰は、前日に60枚近い枚数を書き上げて完成させた二十世紀旗手の原稿を携え、船橋から上京します。この上京は、二十世紀旗手の掲載を、「文藝春秋」千葉静一に依頼するためでした。最終的に二十世紀旗手は、翌1937年(昭和12年)1月1日付発行の「改造」新年号に発表されることになりました。

 完成したばかりの二十世紀旗手の原稿を携えて上京した同日、太宰は師匠の井伏鱒二佐藤春夫に宛てて手紙を書いています。今日は、師匠2人に宛てて書かれた、2通の手紙を紹介します。

 まずは、井伏鱒二に宛てて書かれた手紙です。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 幸福は一夜おくれて来る。
 おそろしきはおだてに乗らぬ男。飾らぬ女。雨の巷。
 私の悪いとこは「現状よりも誇張して悲鳴あげる。」と或る人申しました。苦悩高いほど尊いなど間違いと存じます。私、着飾ることはございましたが、現状の悲惨誇張して、どうのこうの、そんなものじゃないと思います。プライドのために仕事したことございませぬ。誰かひとり幸福にしてあげたくて。
 私、世の中を、いや四五の仲間をにぎやかに派手にするために、しし食ったふりをして、そうして、しし食ったむくい、苛烈のむくい受けています。食わないししのために。
 こんな、紙を変えたりなど、こんなこと、必要から私行ったのに、「悲惨をてらう」などの実例にされるのでは ないかしら。
 五年、十年後、死後のことも思い、一言 意識しながらの いつわり申したことございませぬ。
 ドンキホーテ。ふまれても、蹴られても、どこかに、小さい、ささやかな痩せた「青い鳥」いると、信じて、どうしても、傷ついた理想、捨てられませぬ。
 小説かきたくて、うずうずしていながら、注文ない、およそ損じられぬ現実。「裏の裏」などの注文、まさしく慈雨の思い、かいて、幾度となく むだ足、そうして、原稿つきかえされた。
 ひと一人、みとめられることの大事業なることを思い、今宵、千万の思い、黙して、井伏様のお手紙抱いて、臥します。
 昨夜、私上京中に、わがや 泥棒はいりました。ぶどう酒一本 ぬすんだきりで、それも、その、ぶどう酒半分のこして帰ったとか、きょう、どろの足跡、親密の思いで 眺めています。
 十月入院、たいてい 確定して医師は二年なら、全快保証するとのこと。私、その医者の言を信じています。
 信じて下さい。
 自殺して、『それくらいのことだったら、なんとかちょっと耳打ちしてくれたら、』という、あの、残念、のこしたくなく、その、ちょっと耳打ちの言葉、
 このごろの私の言葉すべてそのつもりなのでございます。

f:id:shige97:20200917070330j:image
井伏鱒二

 続いて、佐藤春夫に宛てて書かれた手紙です。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市小石川区関口町二〇七
   佐藤春夫

 御返事キット御不要ニシテ下サイマシ
 今朝十八日 清冷ノ天、人ノ子ノ心モ 澄ミ 塵芥スベテ 洗イ流レテ雲散霧消 汚キモノ姿失イ
 今朝六時、露シゲキ草ムラムラ掻キワケテ、カノ白イ雀捜シ出サン念願ノ朝寝ノアルジ、意外 一掬(ひとすくい)ノ砂金 キラキラ流レノ底ニ沈ンデイテ、(あるじ)、見ルヨリ天ヲ拝シ 地を拝シ スグサマ帰宅、オモムロニ墨ヲスッタ
 以下、言葉ノママニ キット御信頼下サイ
 芥川賞ハ ウタカタ。衛士ノ焚ク火ノ一時ハ焔サカンニ見エテモ 苦シサ心ノ底カラノモノデナイ故、ノドモト過グレバ、イツシカ、ケロット忘レテ、昨日カラ、プルタアク英雄伝静カニ読ミ ブルウタスノ内省懊悩 小説ニ構成シ直シタク思イマシタ
(色々、私の心の フイルム一駒一駒、説明しようと思ったのです けれども、もう、いい。)
 私、汚イコトヲシナカッタ、誰ヨリモ立派デス、キット オ報イ申シマス、
出版記念会の夜から、きょうまで、一言の蔭口なし、特別これと指される私語、誰とでも交わしたことなし。
 それが、友人先輩に対する せめて操と 懸命に守って来ました。
 偉くないひと二、三人見せつけられ、やっぱり佐藤さんひとり 図抜けて偉いな、と思って、うれしく、自動車にゆられゆられ泣いたこと、うれし泣きした一夜ございます、
 私は このような 私の状態を、「母の心」とこっそり呼んでいる。)
 佐藤さん、私の失態を どんなに高き好意もて、善意に 御解釈なされても、善すぎること ございませぬ、
 私、ずいぶん 善かった。
 悪口 言うたら口がくさるぞ、とそう言って置いて下さい、卑近の一例 挙げようと思いましたけれど、一握の善行ゆえに挙げ得べし、時々刻々、歩一歩の善行 いちいち枚挙のすべございませぬ。
 私も、先生のこと、日本で一番よい人と思う。十万、百万の人が何と言おうと、てんから聞えぬ。
 お互い、言葉に くるんで 評価推讃すること
 おそければおそいほど 正確に 近き審判 できるのだ、と わが身の青天白日 うたがいませぬ、
 佐藤さんも それゆえ、どうぞ、太宰についての、これと定った 鋳型、つくること お待ち下さい、だんだん はっきりいたします、
 かの魔物の森、毛の生えた魔性怪性のもの打ちとって悠々かえる 朝霧の底の金鞍白馬の騎士は誰。
 ああ、よかった、おれの考え、ものの見事に 間違っていたわい、とわが誤り不体裁忘れて、ただただうれし涙、わが心の暗くして、よきもの見得ざりし小さな美しき失敗、気になかけそ 一も二もなく喜ぶ姿の尊さよ、これ「母の心」の 至高の姿、神の子 抱けるマリヤ様。
          治 九拝
 二伸、
 十月末までに、仕事一応整理して、それから医師の命にしたがい、場所、その他 医師の言いつけ守ります。
 最短二年(医師は三年のサナトリアム主張)きっと平和の顔 とりもどしてまいります。

f:id:shige97:20200917070410j:image
佐藤春夫

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】9月18日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月18日の太宰治

  1938年(昭和13年)9月18日。
 太宰治 29歳。

 井伏鱒二の付添い、斎藤せいの案内で、甲府駅の北約五分位の距離にあった、甲府市水門町二十九番地の石原家を訪問。結婚話の相手石原美知子と見合いをした。

太宰、石原美知子とのお見合い

 1938年(昭和13年)9月18日、日曜日の午後。太宰は、師匠・井伏鱒二の付添い、斎藤せいの案内で、甲府駅から北に5分位の距離にあった、甲府市水門町29番地の石原家を訪問。結婚話の相手・石原美知子とお見合いをしました。

 太宰は、この5日前の9月13日から、井伏の勧めで、荒んだ20代を清算し、「思いを新たにする覚悟で」、山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に滞在していました。
 この天下茶屋滞在には、井伏たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から、太宰の結婚相手探しをはじめ、候補に浮上したのが「甲府の女性」だった、という背景もありました。

 太宰を石原家まで案内した斎藤せいは、井伏の依頼で太宰の結婚相手探しをした高田英之助の許嫁・斎藤須美子の母親で、夫・斎藤文二郎は、甲府の交通網を担っている御嶽自動車の社長でした。高田から話を聞いた須美子は、甲府高等女学校で2年後輩の石原愛子に、適齢の姉・美知子がいると紹介し、太宰の結婚話がはじまりました。

 この日のお見合いの様子を、太宰は富嶽百景で、次のように書いています。

 井伏氏は、御坂峠を引きあげることになって、私も甲府までおともした。甲府で私は、或る娘さんと見合することになっていた。井伏氏に連れられて甲府のまちはずれの、その娘さんのお家へお伺いした。井伏氏は、無雑作な登山服姿である。私は、角帯に、夏羽織を着ていた。娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植えられていた。母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士」と呟いて、私の背後の長押(なげし)を見あげた。私も、からだを()じ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。

 また、美知子は同じくこの日の様子について、回想の太宰治で、次のように書いています。

 井伏先生に太宰のための嫁探しを懇願したのは、北、中畑両氏である。
 井伏先生と同郷で愛弟子の高田英之助氏が新聞社の甲府支局に在勤中、斎藤家のご長女須美子さんと知り合い、婚約中の間柄で、北さんと中畑さんに懇願された井伏さんは高田氏を通じて近づきになった斎藤氏に書面を送って、一件を依頼された。斎藤家では、愛婿となるべき人の、敬愛してやまぬ先輩からの依頼とあって周囲を物色し、この書面を私の母のもとに持参し、紹介してくださったのである。
 斎藤夫人が井伏先生と太宰とを、水門町の私の実家に案内してくださった九月十八日午後、甲府盆地の残暑は大変きびしかった。井伏先生は登山服姿で、和服の太宰はハンカチで顔を拭いてばかりいた。黒っぽいひとえに夏羽織をはおり、白メリンスの長襦袢の袖が見えた。私はデシンのワンピースで、服装の点でまことにちぐはぐな会合であった。
 縁先に青葡萄の房が垂れ下がり、床の間には、放庵の西湖の富士と短歌数首の賛の軸が掛かっていた。太宰の背後の鴨居には富士山噴火口の大鳥瞰(ちょうかん)写真の額が掲げてあった。太宰は御坂の天下茶屋で毎日いやというほど富士と向かい合い、ここでまた富士の軸や写真に囲まれたわけである。

f:id:shige97:20200422215921j:plain
■石原美知子

 美知子は、石原初太郎石原くらの四女として、1912年(明治45年)1月31日に生まれました。石原初太郎は、第一高等中学校、東京帝国大学理科大学卒で、山口県立豊浦中学校、島根県立第一中学校、島根県立第二中学校、山形県立米沢中学校などの校長、広島高等師範学校地質学教室講師、山形県嘱託などを歴任。『自然地理学概論』(宝文館、1923年)をはじめ、多くの著書を残しています。太宰は、富嶽百景を執筆する際、冒頭の富士山に関する記述を、石原初太郎の著書『富士山の自然界』山梨県、1925年)を参考にしています。

f:id:shige97:20200916072913j:image
■美知子の父・石原初太郎

 美知子は、1929年(昭和4年)3月、山梨県甲府高等女学校を卒業し、同年、東京女子高等師範学校文科に進学。1933年(昭和8年)3月に同行を卒業。同年8月に山梨県立都留高等女学校の教諭に就任し、大月町にある学校の官舎に住んで勤務しました。地理、歴史の科目を担当して教壇に立ちながら、1934年(昭和9年)9月から、寄宿舎の舎監に就任。もう一人の教諭と1週間置きに交代で、校舎の西側にあった寄宿舎の二階に泊まりました。
 美知子によると、「国語の授業を持ちたかった」が、「地・歴の教員が少なかったため、地・歴の担当となった」そうです。
 当時の在校生・倉田ふさ子は、美知子のことを「つつましく、しとやかな方でした。しかし、しんは強く情熱的な方だったと思います」と回想しています。

f:id:shige97:20200916074232j:image
■教師時代の石原美知子 後列左が美知子。

 お見合いの後、井伏は折り返し御坂峠の天下茶屋へ戻り、翌朝、妻・井伏節代とともに帰郷しました。太宰はその日の夜、甲府の宿に一泊して、翌朝、天下茶屋に戻りました。
 太宰は、砂子屋書房に宛てて、処女短篇集晩年を石原家に届けることを依頼する手紙を書きました。その手紙には、「その本が自分の運命を決定する、その婦人には、拙著を読んで貰って、それで、彼女が自分と結婚するかどうか決まるのだから、何分よろしくたのむ」と書かれてあったそうです。石原家には、晩年に加え、同年9月1日付で発行されたばかりの満願が掲載された「文筆」も届けられました。

 【了】

********************
【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】9月17日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月17日の太宰治

  1930年(昭和5年)9月17日。
 太宰治 21歳。

 小山初代へ、修治から、詳細な指示のもとに、「上京せよ」という便りがあった。

太宰、小山初代に「上京せよ」

 1930年(昭和9年)9月、太宰(本名:津島修治)が、東京帝国大学文学部仏文科へ進学するために上京したあと、小山初代の身辺では、前年1929年(昭和8年)9月に続いて再び、土地の有力者・菊池某による、落籍問題が再燃したため、初代との結婚を願う太宰は、切羽詰まった状況に追い込まれていったといいます。
 しかし、「津島家以外からの落籍の話など」全く無かったともいわれ、「菊池某による落籍問題」は、作り話である可能性も高いようです。

 太宰と初代は、1928年(昭和3年)8月、太宰が青森県弘前高等学校2年生の時に識り合い(太宰19歳、初代16歳)、次第に親しい仲になっていました。

 困った初代は、小舘保小舘善四郎の次兄)に依頼して手紙を書いてもらい(手紙を書いたのは、葛西信造との説も)、太宰に連絡します。これに対し、太宰から、詳細な指示のもとに、「上京せよ」という便りが届きました。

f:id:shige97:20200901070141j:plain
東京帝国大学仏文科1年生のとき 左より中村貞次郎、太宰、葛西信造。

・初代の箪笥の中の着物を少しずつ持ち出し、減った分量だけ、底に新聞紙を入れて、厚く見せること。
・持ち出した着物は、「おもたか」の豆女中に預けること。
・すべての着物を持ち出したら、時を移さず出奔、上京すること。
・普段着のまま、買い物にでも出掛けるようにして、「玉家」を出ること。
・「玉家」では、すぐに気付き、東京に電報を打って、上野駅で待ち受けさせるに違いないから、一つ手前の赤羽駅で下車すること。
・決行は、9月30日。当日、青森発の夜行列車に乗ること。

 「おもたか」とは、青森市浜町の小さな料理屋で、太宰が初代と逢っていた場所です。この「おもたか」は、太宰の父・津島源右衛門や、長兄・津島文治が愛用していた料亭置屋「玉家」から角を曲がったところにありました。「おもたか」を選んだのは、文治の目を避けるためだと思われます。初代は、料亭置屋「玉家」のお抱えの芸妓でした。

f:id:shige97:20200915064527j:image
■芸者時代の初代(芸者名:紅子)

 上記の指示は、着々と実行に移され、持ち出された衣類は、「おもたか」で葛西信造が荷造りし、四谷区坂町の葛西信造、小舘保の借家に、数度にわたって送られたといいます。

 同年9月30日、「決行の日」
 箪笥の中は新聞紙ばかりで、上に風呂敷1枚を被せただけになっていました。
 初代は「玉家」に電話をして、野沢なみに足袋やハンカチなどを駅まで持って来させ、太宰の待つ東京を目指して、夜行列車に乗って青森駅を発ちました。

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
長部日出雄『辻音楽史の唄』(文春文庫、2003年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】9月16日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月16日の太宰治

  1944年(昭和19年)9月16日。
 太宰治 35歳。

 菊田義孝(きくたよしたか)とともに甲府に行き、山梨県巨摩(こま)郡増穂村青柳に熊王徳平を訪ねたが行商に出ていて不在であった。

太宰と菊田義孝(きくたよしたか)甲府

 菊田義孝(きくたよしたか)は、宮城県仙台市生まれの小説家、詩人です。1941年(昭和16年)8月3日、高山書院に勤めていた菊田は、はじめて太宰の住む三鷹の家を訪れ、以後、師事しました。

 1944年(昭和19年)9月16日、太宰は菊田とともに、甲府へ行きました。この時の様子を、菊田の太宰治の弱さの気品』から引用して紹介します。

 あれは昭和二十年の早春のことであったか、それとも十九年の初秋のことであったか、そこらの記憶がはっきりしない。とにかくもう戦争も終りに近い頃だったことは、事実である。あの人は、その当時、三鷹の家にひとりだけ起き臥しして気ままなというよりはむしろちょっとばかりいたいたしいような自炊生活をしていた。奥さんと長女の園子さんは、甲府の奥さんの実家に、あの頃の言葉でいえば、疎開しておられた。奥さんはたぶん長男の、(十五歳で肺炎のために亡くなられた)正樹君を産むために実家に帰っておられたときではなかったかと思う。 とすれば、それから推して、わたしがあの人と、甲府に遊んだその時期も明らかになるわけなんだが……。あの人の独居生活が、いささかいたいたしい感じだったと書いたが、それはあるときあの人が煮物のナベを七輪からおろそうとしてひっくり返したとかいうことで、向こう脛のあたりに火傷をし、それをなんだかあまり清潔ともいえない色をした端きれで無雑作にぐるぐると巻いていたことなどもあったので、そんなところからきた感じであった。しかし、概してあのころのあの人の雰囲気は明るかった。あの人の言動は、ほとんど粗野にちかいほど、のびのびしていた。あの人の「津軽」がその当時におけるあの人の融通無礙(ゆうづうむげ)なありかたを、最もよく表現している。
 あるときわたしが、あの人から書いてもらった書を経師屋に頼んで掛け軸にして、それと、配給の酒やショウチュウを何回分か貯めておいたのを、持って訪ねて行ったら、ちょうど学生風の先客があった。わたしが上ってあいさつをするや否や、間髪を入れず、「きょうはばかに、かれんな声を出すじゃないか」とあの人が言った。そんな軸物などを持って、気がはずんでいたので、わたしは思わず玄関で、ごめんくださいという声にも、はずみがついていたらしいのである。
 「いや、きょうは、ちょっと珍しいものが手にはいったので、お目にかけたいと思いまして」
と何食わぬ顔で風呂敷から軸物をとり出すと、
 「ふうん、なんだい」あの人は無雑作に手にとって、クルクルとひらきかけた。と、
 「あ、こりゃいけねえ」
 そう言って、またクルクルともとに戻してしまった。わたしが持っていった酒にも、一こうに手をつけようとはしない。そのうちにようやく学生が帰っていったら、あの人はさっそくそのビンを取り上げて、
 「さて、これから二人でのもう」と言ったのである。どうせ少しばかりの酒だ。それを菊田にとっては初対面の学生にまでのませたのでは、いよいよもってあっけないものになってしまう。それではせっかく持参した菊田の好意が無になってしまう。そういう気を使ってくれたことが、すぐわかった。ひとが持ってきてくれた酒で自分の客をもてなす、そういうことをいさぎよしとしない、潔癖というか律儀というか、一種ガンコに近いほどの折目正しさを、持っている人だったのである。それからあの人は押入の中から、恐らくあるくらいの軸物をみな取り出して、壁に並べてぶらさげ、自分の書もそれと並べて、眺め、わたしと二人勝手なことを言い合いながら、のんびりと愉快にのんだのであった。わたしが中原中也の「汚れっちまった悲しみに」の詩に、勝手なフシをつけたのを、胴間声張り上げてうたったら、あの人はじっと聞いていて、終ると、「きみ、それは行進曲だよ」と言って、笑った。中原中也の絶望の暗さ、深さが、それでは全然わからない、という意味であったと思う。

 

f:id:shige97:20200728234521j:plain
■菊田義孝 神田すずらん通りで。

 

 二人の間で、甲府行の相談がまとまったのは、たしかその日のことであった。甲府郊外の青柳に、熊王徳平(くまおうとくへい)という人があり、その人からあの人に宛てて、遊びにいらっしゃい、酒がのめます、というハガキが届いていたのである。なにしろ酒が、極度に珍しかった時代のことだから、そういう吉報は何よりの誘いだったのである。よし、のみに行ってみるか、ついては菊田もこのところ大分物欲しそうにしているようだからついでに彼も連れて行って甲府の地酒をたっぷりのませてやるとしようか、とでも思ったのかもしれない。どうだ、行ってみないか、と言われて、わたしはもちろん二つ返事、さっそく話はまとまった訳だ。
 ところで熊王平氏(言うまでもなくその「甲府商人」と題する作が「狐と狸」というれいの映画になった、あの熊王平氏である)とあの人とは、たしかまだ無対面の間柄だったようである。熊王氏が一種の「ファン・レター」をあの人に宛てて出し、それがあの人の心を動かした、といった次第ではなかったかと、失礼ながらわたしは推測しているのである。なにしろ国内で、作家らしい仕事をしている作家があの人以外にほとんど一人もいなくなってしまったような時代であったから、熊王氏もその寂しさに堪えかねて、あの人に呼びかけるこころを起こされたのではなかったろうか。甲府に向かう汽車の中で、あの人がポケットから一枚のハガキをとり出した。熊王氏からのそのハガキである。あの人はそれを、いま一度読み返していた。あの人と並んで通路に立っていたわたしの目にも、その文面はほとんど自然に映ってきた。その中に、日本一の桃太郎、という言葉があった。熊王氏が、あの人に向かってデジケートした、無邪気な、そして、真実味のある賞賛の言葉であった。首を長くして日本一のお出を待っています。とたしかにそんな文句もあった。あの人が熊王氏の招きに応ずる気を起こしたのは、もちろん酒がのみたいばかりではない。その文面に溢れていた熊王氏の無邪気な好意に満ちた微笑に、こころを動かされたからであったと思う。
 「日本一の桃太郎か」とわたしが、わざと小声で、しかしあの人の耳にははっきりと聞こえるようにつぶやいてみせたら、あの人はわたしの顔を見て、いくらかはてれくさそうに、しかしいかにも心からうれしそうに、ふふ、と破顔したのであった。
 車室の隅の方に、従軍看護婦といったか、その黒い服を着た、若い看護婦が乗っていた。わたしはそれほど気にとめていなかったが、あの人はそのこぢんまりした、色白で、ちょっと愛くるしい感じの看護婦さんに、大分気を惹かれていたらしい。与瀬の駅でその女がおりていったら、いまおりていった看護婦ネ、あれはなかなかめんこい女だったな。あれは傷病兵たちを、きっと相当泣かせているぞ、と言った。そんなことを話し合っているうちに、いつか甲府についていた。

 

f:id:shige97:20200914065950j:image
熊王徳平(くまおうとくへい)(1906~1991) 山梨県巨摩(こま)郡増穂村(現在の富士川町)出身の作家(農民文学者)、歌人

 

 甲府から電車に乗って青柳にいった。さびれたいなか町というだけで、べつにこれという特徴もなさそうな青柳の町並みを少し歩くうちに、熊王さんの家はすぐ見つかった。小さな理髪店であった。理髪店といえば、どこか都会的で、明るく清潔な店のありさまを連想しそうだが、熊王さんの店は、それとはいささか趣きを異にしていた。どちらかといえば昔風に、床屋、と呼んだ方が似合うであろう。埃のためにひどく曇った、木の枠もすっかり古びて黒く汚れたガラス戸は、半分、薄黄色く陽焼けした白布のカーテンで(おお)われていた。そろそろと戸をあけて中をのぞき込んだあの人のそばから、わたしも中をのぞいてみた。正直な話、わたしは少しばかりぎょっとした。というのは、店の中には、ひとりの人の姿もなかったが、そのわずか一坪ばかり(でもまさかないだろうが)ほとんどそう思われるほど狭苦しい場所に、なにやらひどく荒廃した気配が漂っていたからである。ただ一つだけ投げ棄てられたように置かれてある椅子も、いつ人に使われたことがあるのかわからないほど、白っぽい埃にまみれていた。正面の壁を塞いだ鏡の面にも、もう大分しばらくの間、人の顔など映ったこともなさそうであった。床屋らしい道具といえば椅子と鏡くらいのもので、ほかにはこれといってなさそうなのに、それでいて何となく足の踏み場もないほど取り散らかされたかんじがするのが、妙であった。ごめんなさい、というあの人の声を聞いて、奥から中年の女の人が、手を拭き拭き出てきた。いかにもいなか風の気の弱いおかみさんらしく、質朴で従順な気分が丸っこい肩のあたりにも、溢れていた。
 「東京の太宰ですけど……」あの人がそんなふうに言うと、ご婦人はいかにも恐縮そうな笑いを浮べて、
 「うちの人はネ、あいにくニ、三日前からネ、旅に出ましてネ、いつ帰ってくるかわからないです」というようなことを、口の中で聞き取りにくく言った。
 「あ、そう」あの人は気軽に返事して、「それじゃあ、お帰りになったらよろしく。」そう言ってすばやく頭をさげ、すたすたと歩き始めた。あの人は熊王さんに何の連絡もしてなかったらしく、熊王さんは熊王さんであの人がこんなに早くやってくるとは思わなかったのであろう。とかく人生には行き違いが多いものだ。あの人は歩きながらもう一度だけちょっと振り向いて見てから、
 「あの店のたたずまいでみると、作家としての生活態度はなかなか一流のようだネ」と言った。どこやら冗談くさい匂いもしたが、まんざらの冗談ではなかったかもしれない。
 青柳のまちで日が暮れた。何々亭とバカに大きな看板が門柱に掲げてある家を見つけて中にはいった。はいってみると、中には普通の住宅となんの変わりもなく、ただ奥の方の一間だけが時に応じて客用にあてられるらしいのである。室の隅の小さな花ビンになんであったかちょっと目の醒めるような花が飾ってあるきりで、ほかにはなんの装飾もない。室の真中に殺風景なテーブルが一つだけ据えてあった。上る前にこの家の主人らしい和服を着流した男に聞いて、日本酒がないことはわかっていた。シュセキ酸を抜いたあとのブドウでつくったブドウ酒があるきりという。「ブドウ酒。いくらでも、出来るだけ持ってきていいですよ。それから肉は、ビフテキにしてネ」あの人はこの家の娘らしい十六、七の少女が出てきたのに向かってそう言った。珍しくも牛肉があるというのである。もちろん闇値にきまっているから、目の飛び出るほど高いことであろうが、もともと自分で金を払うつもりはさらになく、だいいち金など往復の汽車賃以外にほとんど持ってこなかったわたしは、高かろうとなんだろうとそんなことにはお構いなく、よし、今夜は徹底的にのむぞ、ともうあの人に大びらに負ぶさったつもりになって意地汚く張切っていた。
 田中英光の「わが西遊記」からは、なんだか赤ん坊の瞳が感じられますネ、赤ん坊の瞳にうつった世界というかんじ、……とわたしが言ったら、あの人はにこにこ笑って、そんなことを言ったら英光がよろこぶぞ、あいつあまりいい気になるといけないから、ぼくはそんなにほめないことにしているんだがネ、と言った。それ以外そこで話し合ったことはいまは全然憶えていない。よく語りよくのんだことは、たしかなんだが……。

 

f:id:shige97:20200222095152j:plain
■太宰の弟子・田中英光

 

 その夜、わたしは、青柳駅の切符売場の前でしたたかにゲロを吐いた。甲府に帰る電車の中で、わたしはあの人にすすめられて座席の上で横になった。電車はがらあきという訳でなく、相当に混んでいたのである。横になったままそっと目をあけて見ると、あの人はわたしの真向いの座席に上体だけ横たえ、窮屈な恰好で、心配そうにわたしの方を見ていた、わたしはあの人がわたしのために、わざと自分も横になって見せてくれているような気がした。

  太宰はその後、単身で石原家に行き、9月21日、妻・津島美知子とともに三鷹へ戻りました。前月の8月10日、長男・津島正樹が生まれたばかりの頃でした。

f:id:shige97:20200529175559j:plain
■太宰と妻・津島美知子

 【了】

********************
【参考文献】
・菊田義孝『太宰治の弱さの気品』(旺国社、1976年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】9月15日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月15日の太宰治

  1942年(昭和17年)9月15日。
 太宰治 33歳。

 堤重久(つつみしげひさ)は、東京慈恵会医科大学出身の軍医の好意で、除隊となった。

堤重久の除隊

 堤重久(つつみしげひさ)は、日本の文芸評論家、京都産業大学名誉教授。太宰の一番弟子です。
 堤は、新宿の開業医の息子として1917年(大正6年)に生まれました。旧制東京府立高等学校(のちの東京都立大学)3年在学時、堤が18歳の時、処女短篇集晩年を読んで衝撃を受け、太宰に心酔します。
 1940年(昭和15年)12月、堤は太宰の弟子になります。1942年(昭和17年)に東京帝国大学文学部独文科を卒業したあとは、東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。戦時中は外交官の伯父の勧めで、外務省に勤務し、外交官試験の準備をしました。太宰の死後は京都市に住み、京都産業大学で教鞭をとりました。

f:id:shige97:20200913214635j:image
奥多摩御岳で、堤の出征壮行会 太宰と堤重久。1942年(昭和17年)4月9日、撮影:桂英澄。

 1942年(昭和17年)4月7日。太宰に召集の報告をした堤は、その2日後、太宰や友人達と一緒に奥多摩御岳へ壮行会の旅行をしています。このときの様子は、4月9日の記事で紹介しました。

 堤は、同年4月15日、上馬(かみうま)の東部第十七部隊に入営しましたが、風邪をこじらせることが多く、ほとんど演習には参加しませんでした。精神科出身の軍医は、誤診を怖れて、すぐ練兵休にしてくれたそうです。
 毎日、洗濯物の干場の番をしながら、聖書を読んでいると、堤と同じく練兵休を重ねて、干物の番をしながら、原書でプラトンを読み耽っている、東京帝国大学心理学科出身の曳沼と親しくなりました。2人は、お互いに兵隊の身を嘆きながら、カントの物自体について論争したりしたそうです。
 そして、入営からちょうど5ヶ月後の同年9月15日。堤は、入隊を免れました。この時の様子を、堤の太宰治との七年間』から引用して紹介します。

 九月一日に、私は軍医に呼ばれた。精神科の軍医ではなく、習志野にきてからの軍医である。私は、これまでも何度か呼ばれて、何事だろうと出かけてゆくと、マルクシズムをどう思うかとか、戦争は罪悪かとか、アメリカの個人主義とは、どういうものかなどと質問され、そのたびに私は、いい気になって弁じ立ててきたので、そのときも、今日はひとつやり込めてやろうか、などと軽く考えて出かけていったところ、まるでちがっていた。三十歳前後の、慈恵大学出の医者で、ドアをノックして入ると、その顔が暗く引締っていて、いきなり私にいった。
「貴様は、家に帰りたいか」
 事があまりに重大な質問なので、とっさに返事が出来ず、私は、直立不動のまま黙っていた。
「ここには、貴様とおれ以外には、誰もいない」
 軍医は、棚の上の薬瓶をかすかに鳴らして、板敷の粗末な個室のなかを歩き回っていた。
「正直にいうがいい。帰りたいか」
 緊迫したその声に押されて、私はかえってうつむいてしまった。不覚にも、涙が滲んできたのである。その様子を、軍医は歩きながら、横眼で見たのであろうか。不意に長靴がとまって、声が落ちてきた。
「よし、帰らせる。二週間以内に、帰らせる」
 霹靂(へきれき)に打たれたようなショックを受けて、私はいよいよ言葉に窮し、顔をこわばらせて立ちつくしていた。軍医は、ふたたび歩きだしながら、一種の感慨をこめて、
「巡回すると、いつも洗濯場で、貴様の外にもう一人、勉強しとる兵がいた。プラトンをよんでいた。知っとるか?」
「ハイ、知っています。曳沼であります」
「あの男も、帰らせる。外の除隊者は、重病人だけだが、貴様たちは、ちがう。軍隊にいるより、地方で勉強した方が、国家の役に立つと考えたからだ。ちがうか?」といって、私の顔を見て、やさしく微笑した。
 軍医は、その約束を履行した。九月十五日の午前十時半、私と曳沼君は、背広に着替え、それぞれ風呂敷包みぶらさげて、営門を出た。二人とも、狐につままれたような感じで、顔を見合せてわらった。それから歩きだして、見あげた九月の蒼空は、思っていたほど明るいものではなかった。

 除隊となった堤は、早速、三鷹の太宰宅を訪問しました。

 奇蹟的にも除隊となって、先ず第一に三鷹のお宅を訪ねたとき、太宰さんは、よろこびながらも、私の説明に呆れた顔をして、
「軍隊を脱走したとか、病気や負傷で除隊になったとか、そこまでは知っているがね、軍隊を首になるなんて、聞いたこともないね」
「いや、首になったんじゃあないですよ。軍医の好意で、その方が役に立つと思って――」
「いや、やっぱり、首になったんだよ」
 例のやり方で、首になったことにされてしまって、
「どうにも、こうにも、役に立たないんで、国費のムダと判断したんだね。大体は想像してたがね、しかしそこまで、お前が役立たずとは、さすがのおれも知らんかったよ。それはともかく、おめでとう」
 勝手なことをいわれて、私は苦笑するほかなかった。

f:id:shige97:20200913191812j:image
■太宰と堤 奥多摩御嶽、堤の出征壮行会にて。1942年(昭和17年)4月9日、撮影:桂英澄。

 【了】

********************
【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】9月14日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月14日の太宰治

  1932年(昭和7年)9月14日。
 太宰治 23歳。

 第二章まで出来た「思い出」の原稿を井伏鱒二にとどけた。

太宰の朗読会

 1932年(昭和7年)9月、太宰は、第二章まで書き上げた思い出の原稿を、師匠・井伏鱒二に届けました。太宰は、9月15日付で、井伏から「『思い出』一篇は、甲上の出来であると信じます。」という賛辞をもらいました。この賛辞は、6月22日の記事で紹介した、処女短篇集晩年の帯に引用されました。

 太宰はこの頃、思い出と並行して、月に2篇か3篇かの割合で、短篇の習作を書いていましたが、出来上がると友人を呼んで、批評を聞くための朗読会を開いていました。飛島定城小舘保平岡敏男中村貞次郎菊谷栄白鳥貞次郎など、同郷の友人たちが集まっていた常連だったようですが、吉沢祐五郎(太宰の妻・小山初代の叔父)、小舘善四郎(小舘保の弟)、菅原敏夫高谷達海などもよく来訪して、朗読を聞いたといいます。
 太宰が白金三光町の家で作品を朗読した時の様子を、小舘善四郎は『片隅の追憶』の中で、次のように回想しています。

 太宰は、「列車」以後の仕事が始まっていた。静かな夜、太宰は仕上った作品を朗読してくれた。「列車」はその年の春、柏木の家で朗読を聞いていたが、芝へ来てから手を入れたのか、あの家でも聞いた記憶がある。
」の中の(ねこ)(花)だの「魚服記」。二、三人居合せたこともあり、私一人の時もあった。一人の場合は、太宰はしきりと感想を求めた。

 

f:id:shige97:20200726162621j:plain
■太宰と小舘善四郎

 

 津軽地方の日常の話し方は、あまり口を開かずにわりと早口の故か、方言でなくても、とかく言葉がはっきりしないのだが、朗読の際の太宰は、大きな声量を圧しつめたような声音で、言葉のはしはしをはっきりさせながら、ゆっくりと読み進めた。

 列車は、1932年(昭和7年)3月下旬頃に発表稿脱稿。発表稿が脱稿されたのは、翌1933年(昭和8年)1月下旬から2月上旬頃なので、その間、何度も手を加えられたものと思われます。ちなみに、この短篇は、処女短篇集晩年に収録された15篇のうちの1つであり、太宰治ペンネームで発表された最初の小説でもあります。

 ちなみに、太宰がはじめて太宰治ペンネームを使用したのは、1933年(昭和8年)2月15日付で発表されたエッセイ田舎者でした。

 作品を朗読をした太宰は、気に入らなかった作品を「倉庫」と呼んでいた柳行李に入れ、気に入った作品は、ハトロン紙の大袋に入れて、床の間に置いていたそうです。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治研究 6』(審美社、1964年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】9月13日

f:id:shige97:20191205224501j:image

9月13日の太宰治

  1938年(昭和13年)9月13日。
 太宰治 29歳。

 井伏鱒二の勧めにより鎌滝方を引き払い、質屋から「夏の和服一揃を出して着かざり」、「淡茶色の鞄」一つ提げて、「思いをあらたにする覚悟」で、井伏鱒二の滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行った。

太宰、御坂峠の天下茶屋

 1938年(昭和13年)9月13日。
 太宰は、師匠・井伏鱒二の勧めで、天沼一丁目の天沼一丁目の鎌滝方を引き払い、質屋から夏の和服一揃いを出して着飾り、淡い茶色の鞄を1つ提げて、「思いをあらたにする覚悟」で、井伏が約1ヶ月半前から滞在していた、山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋に行きました。

f:id:shige97:20200911065309j:image
■御坂峠の天下茶屋

 太宰は、4度の自殺未遂、パビナール中毒、最初の妻・小山初代との別れなど、荒んだ20代を過ごしていたため、太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である、と考えた井伏たちは、太宰の結婚相手探しをはじめ、そこで候補に浮上してきたのが、甲府の女性でした。

 御坂トンネルのすぐ側、国道に面して天下茶屋が建てられたのは、1934年(昭和9年)の秋。木造2階建て、八畳が三間ある小さな茶屋で、峠を行き交う旅人に食事などをふるまったのが始まりでした。正面に臨む絶景から、「富士見茶屋」「天下一茶屋」などと呼ばれていましたが、徳富蘇峰が新聞に天下茶屋と紹介したことがきっかけで、その名称が定着しました。
 天下茶屋の1階には、テーブルや腰掛けを配置し、土産物の木彫り細工や絵ハガキやキャラメル、サイダーなどを並べ、2階は旅人宿の客室になっていて、宿泊できるようになっているという、掛茶屋兼旅人宿でした。

f:id:shige97:20200911071109j:image
天下茶屋と御坂トンネル

 太宰は、同年11月中旬までの約2ヶ月間、この天下茶屋の2階の端の部屋に滞在し、荒い棒縞の宿のどてらに角帯を締めて机に向かい、主に中篇火の鳥を書き進めました。

 御坂峠は、古くから甲府盆地富士五湖地方を結ぶ交通の要衝で、いわゆる鎌倉往還として、甲斐国最古の官道でもありました。1934年(昭和9年)からは、甲府市から峠上まで八里(約31.2km)間、御坂国道バス株式会社の木炭バスが毎日7往復していました。

 太宰滞在時の天下茶屋には、外川(とがわ)八重子(当時31歳)、八重子の妹・中村たかの(当時18歳)、長女・外川守江(当時9歳)、次女・外川澄江(当時7歳)、長男・外川元彦(当時5歳)、八重子の義父・外川㐂助(当時74歳)、八重子の義母・外川セツ(当時63歳)がいました。天下茶屋の主人・外川政雄(当時35歳)は出征中で、歩兵上等兵として戦場にいました。

f:id:shige97:20200912070807j:image
天下茶屋の人たち

 太宰が天下茶屋で書いた火の鳥の主人公「高野幸代」「須々木乙彦」は、それぞれ「中村たかの」「外川元彦」の名前から発想したのではないかと思われます。

 天下茶屋での太宰の生活は、夜遅くまで仕事をして、朝は遅く起きるというもので、昼間は来客の相手をしたり、郵便局へ行くなどの雑用をしていました。太宰にとって富士山が見えるこの場所は、津軽富士と呼ばれた故郷・津軽岩木山を見ているようで、安心できたのではないでしょうか。

f:id:shige97:20200521170112j:plain
津軽富士「岩木山 2018年、著者撮影。

 食事は2階にお膳を運んで太宰1人でするのではなく、客のいない合間に天下茶屋の人たちと一緒にとっていました。しかし、朝は8時前から、夕方は7時過ぎまで天下茶屋の前にバスが停まり、約10分ほどの休憩があったため、その度に天下茶屋は大勢の客で賑わいました。天下茶屋の人々はとても忙しい毎日を送っていたため、食事の時間は不定期になりがちだったそうです。

 八重子は、井伏から「太宰は身体が弱い人だから、できるだけ栄養のあるものを食べさせて欲しい」と言われていましたが、当時は満足に食べ物もなく、郷土料理「ほうとう」と麦ご飯の毎日でした。しかし、太宰も「ほうとう」が好きになり、いつしか催促するようになっていたといいます。太宰は「ほうとう」は、自分のこと(放蕩息子)を言っているのだと照れていたそうです。
 酒は1人でいる時はほとんど飲まず、文学仲間などが来た時、一緒に飲む程度でした。

f:id:shige97:20200912072605j:image
■外川八重子と子供たち

 太宰が天下茶屋に滞在して何日か経ったある日、1人の女性が、「津島修治さんいますか」と訪ねて来ました。八重子が「そんな方はいません」と言うと、2階から太宰が下りて来て、「津島修治は、私です」といったため、八重子は初めて太宰の本名を知ったといいます。
 太宰は女性と2階に上がり話をしていましたが、女性と2人では恥ずかしかったのか、5歳になる八重子の息子・元彦を連れて上がったそうです。元彦は、太宰のことを「オカク(お客)」と言ってなついていました。5歳の子供が大人の間で静かにしていることはなく、出された美味しいものを次々に食べてしまうので、女性に行儀が悪いと手を叩かれました。そのことを、元彦は泣いて八重子に訴えました。その女性とは、のちに太宰の妻になる石原美知子だったそうです。

f:id:shige97:20200422215921j:plain
■石原美知子

 太宰は、天下茶屋での生活を中心に富嶽百景に書いています。その中で、中村たかは、天下茶屋の人たちと同居しているように書かれていますが、実際は、毎日天下茶屋にいた訳ではなく、アルバイトのように、時々茶屋の手伝いをしていただけだったそうです。

f:id:shige97:20200912072620j:image
■中村たかの

 当初、太宰の滞在日数は決められていませんでしたが、1938年(昭和13年)11月に入ると、峠はだいぶ冷え込んできました。平地と違い、天下茶屋は大変寒かったそうで、その寒さが原因で、夜中にビールやサイダーの瓶が割れてしまうこともあったそうです。
 天下茶屋の暖房は火鉢だけで、太宰は天下茶屋への滞在に限界を感じていました。また、美知子との結婚の話が進んでいる中で、天下茶屋に留まる理由もありませんでした。

f:id:shige97:20200912075330j:image
■外川八重子と息子の元彦

 太宰になついていた元彦は、太宰の布団に潜り込んだり、トンネルの向こうまで散歩に行ったりして可愛がってもらっていたため、太宰が去る時は、「オカク行くな」といって、泣いてすがったといいます。太宰も「君、そんなことをいうなよ。僕だって泣けるじゃないか」と別れを惜しんだそうです。

 【了】

********************
【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・『太宰治研究 8』(和泉書院、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「御坂峠 天下茶屋
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】