記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月15日

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7月15日の太宰治

  1939年(昭和14年)7月15日。
 太宰治 30歳。

 鰭崎潤が見つけてくれた家を見るために上京し、三鷹に新築中の三軒の貸家の一番奥の家を契約して、家主からの完成の連絡を待つことになった。一番奥を選択したのは、「表通りに沿った家は人通りがうるさく、まん中はおちつかない、奥が一番住心地がよかろう」という理由からであったという。家賃一か月二十四円。

太宰、三鷹の借家を契約

 1939年(昭和14年)1月8日、太宰は妻・津島美知子と結婚し、家賃6円50銭の、甲府市御崎町56番地の借家に住んでいました。しかし、友人たちや出版社は東京にあり、東京から少し離れた甲府での執筆作業は不便なところもあったようで、同年5月頃、東京への転居を決意します。
 太宰が、東京への移転を切望している様子や、難航する住居捜しの様子については、5月26日と6月4日の記事でも紹介しました。

 難航した住居捜しでしたが、いよいよ同年7月15日、契約に至ります。

 まずは、太宰が東京への転居を考えるにあたり、物件捜しする際に頼りにしていた鰭崎潤に宛てて、同年7月8日付で書かれたハガキを引用します。

  甲府市御崎町五六より
  東京府下小金井町新田四六四
   鰭崎潤宛

 拝啓
 暑さがひどくなりました。お元気の御様子で何よりと存じます。おハガキは有難く拝誦いたしました。わざわざ三鷹まで見にいらっしゃった由にて、恐縮です。私どもも、十日すぎごろ、また捜しに上京するつもりで、そのときは、家が未完成でもなんでも、きめてしまおうと存じて居ります。甲府は、もの凄く熱く、このごろは、ぐったりして、仕事もあまりすすみませぬ。貴方も暑気あたり、御用心下さいまし。   不一。

 甲府の暑さに、嫌気が差してきたのでしょうか。次回の上京で、「家が未完成でもなんでも、きめてしまおうと存じて居ります」と太宰は言います。

 太宰は鰭崎宛のハガキで、「十日すぎごろ、また捜しに上京するつもり」と書いていますが、実際に上京したのは、7月15日。
 太宰は上京前日の7月14日付で、親友の山岸外史に宛ててハガキを書いています。

  甲府市御崎町五六より
  東京市本郷区駒込坂下町一二 椿荘
   山岸外史宛

 拝啓
 昨日おハガキ申しましたが、明日(十五日)三鷹方面に家を捜しにまいることになり、そのほか二、三、用事もたまって居りますので、その日は親戚の家へ一泊し、十六日午後六時半から、高田馬場「たこ福」で(高田馬場駅下車左へ半丁、活動館並び)会費一円五十銭にて、酒井松男氏の出版記念会がある由にて、招待もらいましたが、貴兄も御出席することと思いましたから、私なるべく都合つけて、出るつもりです。そのとき、久しぶりにてお逢いできたら、うれしく思います。

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■山岸外史

 太宰は、山岸宛のハガキに書いた通り、7月15日に三鷹で新築中の借家を契約。翌7月16日に高田馬場「たこ福」で開催された、酒井松男の出版記念会に出席した後、甲府に帰りました。

 甲府へ戻って数日後。7月19日付で、太宰は再び鰭崎に宛てて手紙を書きます。

  甲府市御崎町五六より
  東京府下小金井町新田四六四
   鰭崎潤宛

 拝啓
 家のことで、種々御心配おかけいたし、相すみませんでした。
 三鷹に家を見つけ、八月はじめに移住することになりました。移住したらすぐお知らせいたします。小さい家ですよ。東京へ移住したら、また遊びに来て下さい。
 まずは取急ぎお知らせ迄。   草々。

 契約した三鷹の借家は、まだ建築途中だったため、家主から完成の連絡を待つことになりました。8月初めには完成の予定とのこと。「移住したらすぐお知らせいたします。小さい家ですよ。東京へ移住したら、また遊びに来て下さい」と、嬉々としてこの手紙を認める太宰の様子が目に浮かびます。
 入居後、甲府・金木への疎開期間を除き、7年半の歳月を過ごすことになる、三鷹の借家。契約後の出来事については、また別の記事で紹介します。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月14日

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7月14日の太宰治

  1947年(昭和22年)7月14日。
 太宰治 38歳。

 午前十一時ごろ、菊田義孝(きくたよしたか)が太宰宅を訪問する。

菊田義孝「愛情うすし」

 今日は、太宰の弟子・菊田義孝(きくたよしたか)(1916~2002)が、1947年(昭和22年)7月14日に、三鷹の太宰宅を訪問した時のエピソードを、菊田の回想『往時を想う』から引用して紹介します。
 菊田については、6月26日の記事でも紹介しています。

 太宰さんが亡くなった年の前年のことだから、昭和二二年。その年の七月一四日に、ぼくは三鷹の御自宅で太宰さんとお会いしている。日にちまではっきり憶えているのは、その日太宰さんの口から出た巴里祭という言葉が、いまだに耳の底に残っているからである。
 たぶん午前一一時ごろだったと思うが、いつものとおり狭い玄関の三和土(たたき)に立って、御免くださいと云うと、すぐさま顔を出された奥様が、ちょっとお待ちをと云われてひっこまれ、また顔をお出しになると、庭の方へ回るように云われた。
 これはその時より六年もまえから、少ない月でも一、二度は欠かさずこの家を訪問しつづけてきたぼくにとって、まったく初めての、それだけに思いがけない経験であった。

 

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■太宰と妻・津島美知子

 

 玄関を出て右へ行くと、太宰家の角と隣家の角とに挟まれてポンプ式の井戸がある。井戸の横を通って庭先へ回った。
 それまで太宰さんの書斎兼応接間に通されたつど、その部屋から見慣れてきた庭である。
 玄関から上にあがると、そこがただちに六畳敷きの、書斎兼応接間なのだ。左手奥に床の間があり、床の間を左にして仕事用の粗末な座卓がある。その横に黒塗りの来客用テーブルが置いてあった。その前にすわって、太宰さんと話し合いながら、というよりいつもほとんど一方的に太宰さんの話を聞いて楽しませてもらいながら、ときどき眼を転じて眺めるともなしに眺めてきた庭であった。
 いい落ち着いた赤色のバラの花に、深い心のやすらぎを覚えて、しばらくのあいだ眼を離せずにいた時もあった。何かいかにもボウボウとした感じの植物に眼を留め、その名をきいたら、麻だと答えられて、珍しい思いをしたこともあった。
 今日は初めてその庭の方から、部屋のうちを見ることになったのである。

 

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「三鷹の住居」模型 太宰治文学サロンにて展示中。

 

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■庭側から見た「三鷹の住居」模型 この日、菊田が案内された庭側。

 

 太宰さんは、六畳間の真ん中に布団を敷いて、その上に長々と身をよこたえておられた。真夏のこととて掛け布団はかけられてなかったと思う。頭がどの方向に向いていたのか記憶が定かでないが、たぶん床の間の方に足が向けられ、頭は反対側にあったと思われる。
 「まあ、上がれ」
と云われて、縁側に上がり、太宰さんの枕元に行ってかしこまった。
 「ちょっと病気なので寝たまま失敬する。」
 太宰さんは、そんな言いをされたように思う。そのとき、何か用があって、布団の横に立っておられた奥様が、
 「病気だなんて、ただの二日酔いじゃありませんか」
となかばからかうような言い方をされた。
 「二日酔いだって、りっぱな病気じゃないか。」
 太宰さんが軽い抗議の口調で云われた。つづいて、
 「今日は七月一四日、巴里祭だったな。ほんとうならみんなを引きつれて、街をぞろぞろ歩かなければいけないんだが、こう疲れていては、どうにもならない。孫文は、革命未だ成らずと云って死んだ。われわれが孫文の志を継いで、革命を完成しなければならないんだよ。」
 いつものとおり本気とも冗談ともつかない口調で、ものすごく重いことが云われていた。周知の通り、戦後の太宰さんは、「道徳革命」を身をもって実践しなければならぬ、という戒律をきびしく自分に科し、大変な無理をしてその道を突っ走っていった。現在は「革命」という事そのことの価値が、根本的に問い直されている時と思うが、太宰さんは、革命があたかも歴史の神の至上命令ででもあるかのような重みを持っていた二〇世紀の、一時期を、何はともあれ最も誠実に、多感に、生きぬいた人であった。そのために、比類を絶して深く大きい苦悩を背負った。その意味で、まさしく「二十世紀旗手」であった。
 「ちょっと出掛けてきますから、里子をお願いします。」
 奥様がそんなふうに云って出て行かれた。近所に買物に行かれたらしい。その年の三月に生れたばかりの次女里子さんが、ぼくの背後にあたる隣室に、寝かしつけられていたのである。
 奥様が出掛けられて暫くたったとき、太宰さんはとつぜん布団のうえにむっくり起き上がると、ぼくの顔と太宰さんの顔とが間近に向きあう位置にすわり直された。そしてやや早口に、然しいつも通りの淡々とした口調で、ぼくとしては意外とも何とも言いようがないほど意外だったことを、云われた。
 「菊田、ぼくはネ、あと一年ぐらい経ったら、ある女と一緒に死ななければならないことになっているんだよ。」
 鮮明な、正確な記憶とは、云い切れない。けれども、大体のところはこの通りだったと云える。
 この時よりもっとまえ、太宰さんが疎開先の金木から三鷹に戻られてまもない頃から、と云ったらいいだろうか、ぼくは自分の家に居ながらも、いつも三鷹の上空に不吉な暗雲が立ち籠めているような感じがしてならなかった。太宰さんの身に、何か取り返しのつかない事が、今日は起るか明日は起るか、という不安が常住絶えなかったのである。
 いま太宰さんの云われたことは、ぼくのその不安を、ずばり現実化したようなものである。その意味では、けっして意外でも予想外でもなかった。だが、そういう言葉が、太宰さんから自分にむかって発しられるとは、夢にも思わぬことだった。
 (そんなことが、なぜいま自分に向って云われたのか。そんなことを云われたって、おれにはどうしようもない。太宰さんのような大天才、しかも人一倍巨大な苦悩を背負って生きてきた天才から、今更そんなことを云われたって、どうしようがあるものか。天才の苦悩は天才ご自身と、神との間で決着を付けていただくしかない。おれにはただ黙って、すべてのなりゆきを凝視していることができるだけだ。)
 ぼくは深く眼を伏せたまま、そんなことを思いつづけて、一言も発せずに押し黙っていた。ぼくの顔は、さぞかし冷酷そのものの鬼面だったにちがいない。すごく重かったわりには、短い時間だったのだろうが、そのあいだ太宰さんも沈黙していた。

 

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菊田義孝(きくたよしたか)

 

 そのときちょうど隣室で、眼を醒ましたとみえる里子さんの泣き声がひびいてきた。太宰さんは、さっと身軽に立ち上がって、隣室へ行くと、生後四ヵ月の里子さんを両手に抱えて、「おおよし、おおよし。」とか云いながら戻ってこられた。そして布団のうえの、今まではぼくとの間にやや距離をおいた位置に、どっかりとあぐらをかかれた。
 「おおよし、おおよし。」
と太宰さんが懸命にあやしても、里子さんは一向に泣き止もうとはしない。いわゆる「火がついたように」泣き叫びつづける。
 「これじゃ、まるで、地獄だ。」
 太宰さんは、いかにも大仰に口を歪め、眉をしかめてそう云われた。実感をもって云われたというよりは、なかば照れ隠しに云われた言葉のように聞き取れた。
 里子さんの泣き声がやや鎮まってきた。その小さなからだを、太宰さんは自分の大きな膝のうえでなおも静かに揺すぶりながら、そのころ「近代文学」誌上で評論家荒正人が、戦犯として追放されるべきだと彼が考える文学者を名指しで論評し、文学界の話題となっていた、そのことを口にされた。そして、
 「ぼくに云わせれば荒正人自身、思想貧困という理由で、真っ先に追放されるべきだがね。」
と笑いを含んで云われた。そのあとでふと思いついたように、
 「ぼくの追放者名簿によれば、菊田も追放。理由は、愛情うすしだよ。」
 戦争中と変りのない、あたたかで丸味があってマイルドな声音で云われたのだが、その内容には、戦争中はけっして表面に出されなかった厳しさがあった。君子豹変というのか、疎開先金木から三鷹に帰ってこられてからの太宰さんの態度は、戦中のそれとはがらりと違っていた。ぼくはこれから傲慢になるのだ、とどこかに書いてもおられた通り、だらしないぼくらの心の隙を見つけては、容赦ない言葉でビシビシと打ち据えられた。
 いまの言葉が、太宰さんの打ち明け話に対して、たった一言の応答もできなかった(しなかった)ぼくに対する、最後通牒とでもいうか、痛烈きわまる非妥協的な裁決であることは、疑いを容れない。ぼくには、自分に絶望する以外、どう受け取りようもない言葉だった。絶望して、そのあと早々にその場を辞した結果か、ぼくのその日の記憶は、そこまででプツンととぎれている。
 あれからもう四八年経ったが、太宰さんのあの一言に対して、ぼくとしては、未だに一言もかえす言葉がない全く云われるとおりです。愛情薄し。まさしくそれが、わたしというものです。とあのとき思ったように、今でもそう思っているだけである。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月13日

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7月13日の太宰治

  1940年(昭和15年)7月13日。
 太宰治 32歳。

 美知子宛電報を打ち、滞在費を持って迎えに来させた。

太宰、「洪水に急襲」される

 太宰は、1940年(昭和15年)7月3日から、「大判の東京明細地図」を携えて、東京在住の10年間を回顧した小説東京八景を執筆するために、湯ケ野温泉「福田屋」に滞在していました。この時のエピソードは、7月3日の記事でも紹介しました。

 同月8日、太宰は、小山祐士伊馬春部井伏鱒二熱川温泉熱川館で落ち合い、小山の著書『魚族』(ぐろりあ・そさえて、1940年(昭和15年)6月26日付発行)の出版を祝って、熱川館に一泊しました。

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熱川温泉にて 小山(左)の『魚族』出版を祝い、太宰は井伏(右)らがいる熱川へ駆けつけた。撮影:伊馬。

 このときの様子を、鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂泊』から引用します。

 太宰が「福田屋」で東京八景を書き出して間もない七月八日、熱川の「熱川館」に井伏鱒二亀井勝一郎伊馬春部、小山祐士らがやってきた。劇作家、小山祐士の『魚族』出版祝いのためである。福田屋で奮闘中の太宰も呼び出されて「熱川館」に一泊。(中略)翌九日は河津に繰り出して鮎釣り、伊馬春部、小山祐士は帰京して、井伏、亀井、太宰が「南豆荘」泊。

 この後、太宰だけが再び福田屋に戻り、11日までに東京八景を脱稿。
 翌12日に妻・津島美知子宛に電報を打ち、滞在費を持って迎えに来させます。美知子によると、「川を渡って、左側の福田屋という宿に着いたのは、もうたそがれの頃で」「窓外は低い夏山、それも中腹までは野菜畑、うす汚い室で太宰は迎えてくれた」といいます。太宰と美知子は、福田屋への支払いを済ませると、そのまま、鮎釣りのために南豆荘に滞在中の井伏と亀井を訪ねます。
 ここで再び、『文士たちの伊豆漂泊』から引用します。

 その夜は井伏、亀井、太宰の三人は「南豆荘」の前にある「三日月」という飲み屋に繰り出した。夕刻から降り出した大雨は、夜中になっても止む気配もない。帰りのあまり遅い三人を、「南豆荘」のおかみさんが迎えに行ったのが二時ごろのこと。
 寝入りばなの三時すぎ、おかみさんは「お母さん、大変よ、水ですよ、水ですよ」よいう娘さんのけたたましい叫び声に飛び起きた。すでにまわりの畳が水びたしである。あわててメリンスの腰巻をたくし上げ、井伏をたたき起こし、離れに寝ていた太宰夫妻のところへ駆けつけた。
 昨夜の深酒でぐっすり寝込んでいた太宰も一ぺんに酔いが覚めた様子、床の間に置いてあったためまだ濡れていなかった美知子夫人の着物を抱え、三人で部屋を脱け出した。母屋への渡り廊下は既に(すね)までの水、台所から、おわんやら鍋やらがプカプカ流れ出してきていた。稲妻が光る中を、おかみさんは美知子夫人の紅い腰紐で自分の体をゆわえつけ、太宰夫妻にその腰紐をつかまらせて命からがら二階へ駆け上がった。

 

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■「南豆荘」の女将・池田芳子

 

 亀井は蒲団の上にきちんと正座していた。太宰はこわそうな顔ながら、
 「大丈夫、大丈夫。お母さん、そんなに心配しなくたって大丈夫ですよ。軒まで水につからなきゃ、家なんて流れないもんなんだから」
としきりにおかみさんをなぐさめてくれた。一番そわそわしていたのは井伏だった。
「あんた、もう十年もここにいるんだから逃げ道はわかるでしょう」と聞かれたが、周りが濁流ではそうしようもない。「死ぬ時は皆一緒ですから、先生あきらめて下さいまし」おかみさんは畳に手をついてそう言った。
それでも、とにかく助けを呼んでみよう、ということになった。井伏、太宰夫妻、同宿していた立大生、南豆荘の人々が二階の屋根に降り、稲光の光る以外明り一つない暗闇に向かって、井伏の「一、二、三!」という音頭で、一斉に「助けてくれーっ」と大合唱を試みた。しかし、豪雨と、雷鳴にかき消され、助けの気配はない。まんじりともせず世を明かした。
 明け方になって嘘のように水は引いていった。ともかく「南豆荘」の客は帰ることになったが、男性達は皆「南豆荘」の浴衣のまま帰らなければならなかった。帰りしな、井伏、太宰、亀井の三人が、揃ってがま口のふたを開け、自分たちの旅費分だけ取ると、後は「これで何かのたしにでも」と中身を勘定もせず、おかみさんの手のひらに置いていった。

  美知子が、太宰を福田屋に迎えに行ってからの様子を、美知子の『回想の太宰治からも引用してみます。

 十五年の七月初めに、太宰は大判の東京明細図を携えて執筆のために伊豆の湯ケ野へ出発した。
 出発のときの約束に従い十二日に私は滞在費を持って迎えに行った。その宿は、伊豆の今井浜から西へ入った、ほんとに温泉が湧いているというだけのとり所のない山の湯宿で、私が二階の座敷に通されたとき太宰は襖をさして、あの梅の枝に鶯が何羽止まっているか数えてごらんと言った。粗末な部屋であった。夕方散歩に出たが蝉が暑苦しく鳴き、宿の裏手は山腹まで畑で、南瓜(かぼちゃ)の蔓が道にのびていた。
 翌日ここを発って谷津温泉の南豆荘に寄った。ここは井伏先生のお馴染の宿で、井伏先生は広々した涼しそうな座敷に滞在中であった。(すだれ)越しに眺められる庭は、縁どりに小松や咲き残りのくちなしとあじさいが植えてあるだけの自然の芝庭であった。
 午後散歩に出ると、川沿いの道を釣師姿の亀井勝一郎氏が向こうからやって来た。
 この宿で三人落ち合って釣と酒の清遊を楽しむ約束になっていた。そのころはどんよりしてはいたが、降ってはいなかったのに、夜半、洪水に急襲されたのである。夕食後、三人の先生方がしめし合わせて、どこかへ出かけた頃から降り出し、夜ふけて帰ってきたときには土砂降りだった。当時まだ使われていない言葉だが「集中豪雨」に見舞われたのであろう。玄関わきの私どもの部屋に裾端折りで太宰が帰ってきて寝入ってしばらく経ってから私は、奥の調理場と思われる方角からはげしい雨音に交って女の人が何ごとか叫ぶ声で目を覚まし、電灯をつけて縁側に出た。するとほんの二間ほど先から縁側の板の上を音もなく、ねずみのようにするすると、水が這い寄ってくるのが見えた。それから太宰を叩き起こしたのだが、泥酔しての寝入りばななので手間どってやっと起こして、枕もとの乱れ籠の衣類をとり上げると、一番下に入れておいた(ひと)え帯に水がしみていた。もう畳の上まで浸水していたのである。井伏先生の部屋にまわり、先生とご一緒に二階の亀井さんの部屋に避難しようとしたときは、膝近くまで増水していて足もとが危いので、私の絞りの腰紐に順々に摑まって階段を上った。誰かが井伏先生はもう少しでおやすみになったまま蒲団ごとプカプカ流れ出すとこだったと言って、皆笑い出した。そのころはまだ余裕があったのだが、やがて電灯が消えて真の闇の中、篠つく雨の勢は一向衰えず、だんだん恐ろしくなってきた。周囲の状況が全くわからないので、私はこの家が海へ流れ出たらどうしようか、まさかと思っているうちに死ぬ場合もあるのだろうなどと考えていた。
 このとき、亀井さんは積み重ねた蒲団の上に端座して、観音経を()し、太宰は家内に向かって人間は死に際が大切だと説教していたとか、いろいろ伝説が伝わっている。井伏先生と亀井さんとが、こんな場合には子供のことを考えるね、と話し合って居られてまだ子供のなかった私は、親となればそういうものかと思って聞いていた。大体三氏とも、眼は覚めてはいたものの、酔が残っていて意識ははっきりしていなかったのではなかろうか。ほかの方はともかく、このときのことを、太宰はほとんど記憶していないことを後日知った。
 一夜明けて翌日は昨夜の騒ぎが嘘のような好天であるが、南豆荘では階下全部冠水しておかみさんは悲嘆にくれていた。
私たち一行は谷津から三キロほど川上の峯温泉まで歩いて一泊し、バスが復旧するのをまって帰京した。

 美知子は、「このときのことを、太宰はほとんど記憶していないことを後日知った」と書いていますが、太宰は同年7月15日付で、次の手紙を書いています。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  静岡県賀茂郡下河津村谷津温泉 南豆荘
   池田芳子宛

 謹啓
 このたびの御災難に就いては、、お見舞いの言葉も、ございませぬ。私たち無力にしてなんのお手伝いも出来ず深く恥じいるばかりであります。
 きょうまで泊めていただく度毎に何やかやとわがままばかり申し親身も及ばぬお世話になりました。
 どうか又、みなさま御元気をお出しなされ、先夜の思い出をみんなで笑いながら話合えるように一日も早く御恢復下さい。なんだか、いやなお天気がつづきます。どうか、皆様くれぐれもおからだにお気をつけなされて、一日一日、御幸福をお取り戻しなされるよう、心からお祈り申して居ります。   敬具
   七月十五日    太 宰 治
  南豆荘御内様

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 【了】

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【参考文献】
・鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂泊』(静岡新聞社、1998年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月12日

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7月12日の太宰治

  1933年(昭和8年)7月12日。
 太宰治 24歳。

 七月十二日付で、久保隆一郎(くぼたかいちろう)に手紙を送る。

久保隆一郎への手紙

 今日は、1933年(昭和8年)7月12日付で、太宰が友人・久保隆一郎(くぼたかいちろう)(1906~1998)に宛てて書いた手紙を紹介します。
 久保は、愛媛県生まれ。久保(たかし)ペンネームで活躍した児童文学作家で、川端康成に師事していました。
 太宰たちとともに、同人誌「青い花」に参加し、作品『白い時間』を発表しました。以後、児童図書出版社に勤め、児童文学の道に入ります。主な作品に『ビルの山ねこ』小学館文学賞受賞)、『赤い帆の舟』日本児童文学者協会賞受賞)、『海はいつも新しい』『少年の石』『少年の旅ギリシアの星』『小学生一番鳥』『火の海の貝』(サンケイ出版文化賞推薦)などがあります。
 1933年(昭和8年)4月初旬に太宰と出会い、終戦直前まで続いたという2人の交流のきっかけについては、1月22日の記事で紹介しました。

 それでは、手紙を見ていきます。

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■久保隆一郎

  東京市杉並区天沼一ノ一三六 飛島方より
  長野県下高井郡穂波村角間(かくま)温泉 越後屋
   久保隆一郎宛

 久保君
 お葉書二回ありがとう。お葉書に依りわずかに君の旅情をしのぶことを得た。なかなかいいところらしいね。
 プーシュキン短篇集をお読みになられた由、敬意を表する。山師トマを読みました。感想は後日。
 今日の短歌四首、まずまず。
 けものの塚の小さかりけりが少し好きです。「海豹(かいひょう)」はごたごたしています。私は、やめようと思っています。いやなこと(ばか)りであります。 旅に出たくてたまらない。

 小説を書いていますか。期待しています。力作を掲げて帰京しわれわれをあっと言わせて下さい。

 「思い出」は完結しました。別封でお送りいたします。乞高評。

 昨日も今官一と君の噂をいたしました。

  久保が滞在していた角間温泉越後屋は、宮本武蔵三国志で有名な作家・吉川英治(1892~1962)が、執筆のために1年以上もの長逗留をしていたという旅館です。明治期に建てられたという、切妻木造3階建ての建物です。

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越後屋旅館 長野県下高井郡山ノ内町佐野2436-1

 太宰が「やめようと思っています。いやなこと(ばか)りであります」と書く海豹(かいひょう)とは、参加していた同人誌のことです。
 1933年(昭和8年)3月に創刊。太宰は、「海豹(かいひょう)」に魚服記思い出を発表。最終的に同人誌「海豹(かいひょう)」は、無名の新人・太宰治を文壇へ送り出して、1933年(昭和8年)11月に発行の第九号で廃刊となりました。

 筑摩書房刊行の太宰治全集 12 書簡』には、太宰が久保に宛てた手紙が、1933年(昭和8年)4月26日付のものから、1945年(昭和20年)4月22日付のものまで、全部で28通も収録されています。28通の太宰からの返信を見てみると、久保側から太宰に、定期的にコンタクトを取っている様子が見て取れます。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月11日

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7月11日の太宰治

  1936年(昭和11年)7月11日。
 太宰治 27歳。

 午後五時から、山崎剛平浅見淵の尽力で、不忍池畔の上野精養軒において『晩年』の出版記念会が持たれた。

晩年』の出版記念会

 1935年(昭和11年)7月11日、午後5時から、上野精養軒にて、太宰の処女短篇集晩年の出版記念会が開かれました。処女短篇集晩年は、同年6月25日に砂子屋書房から刊行。太宰にとって、強い思い入れがあり、最も情熱を注いだ短篇集です。

 出版記念会の会場となった上野精養軒は、「新橋ー横浜」間で鉄道が開通し、文明開化が本格的に盛り上がりはじめた1872年(明治5年)、日本におけるフランス料理店の草分けとして、東京築地で創業しました。当時は、牛肉を食べたことがある日本人はほとんどおらず、西洋料理は極めて珍しい時代でしたが、精養軒が誕生して以降、フランス料理は、明治の人びとに広く愛されるようになりました。
 精養軒が、現在の不忍池畔に建てられたのは、1876年(明治9年)、上野公園の開設に伴ってでした。

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上野精養軒

 出版記念会は、晩年の出版社である砂子屋書房の書房主・山崎剛平や、共同創立者浅見淵の尽力で開催されました。会費は、2円50銭。
 当日の参加者は、来会順に、山崎剛平、外村繁、保田與重郎亀井勝一郎、芳賀檀、檀一雄、沢西健、北村謙次郎、斧稜、衣巻省三木山捷平、平岡敏男、大鹿卓、中村治平、今官一尾崎一雄、岡村政司、小山祐士、津村信夫、一条正、浅見淵、中谷孝雄、名久井良作、塩月赳、古谷綱武、中村貞次郎、丹羽文雄、山岸外史、那須辰造、永松定、緑川貢、飛島定城、鰭崎潤、小舘善四郎、若林つや、井伏鱒二佐藤春夫など、友人知己37名で、檀一雄が司会を務めました。

 当日の芳名録には、表紙に佐藤春夫の筆で、「千紫万紅」と記され、巻末見返しに太宰の筆で、「遠征一夜/懐家郷/為病床之姉君/七月十一日深夜識」と記され、晩年の口絵写真と同じ写真が「夜」と「郷」との二字の墨跡の一部分に重ねて貼付されています。

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■『晩年』上梓紀念「千紫万紅」(芳名録) 題字は、佐藤春夫

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■『晩年』上梓紀念「千紫万紅」(芳名録)

 当時、病床にあった太宰の四姉・きやうは、同年8月上旬に、太宰のお目付け役・中畑慶吉によって届けられたこの芳名録の写真を見て、ちらと顔を曇らせて、眼を閉じたそうです。

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 さて、ここで、当時の様子について、太宰と並んで「三馬鹿」と呼ばれた檀と山岸の回想から引用して紹介します。

 まず、最初に、檀の『小説 太宰治からの引用です。

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 さて「晩年」の出版記念会場を何処にするかということで随分考えた。太宰は、
芥川龍之介が何処。谷崎潤一郎が何処。佐藤春夫先生が何処だ」
 などと、しきりに数え上げていたが、最後に自分で、
「やっぱり、上野の精養軒にしてくれないか」
 そう云って、私が肯くと、安堵するようだった。
 たしか梅雨あけの頃だったろう。出版記念会は上野精養軒に決定した。当夜、公園の道に、庭たずみが出来ていたことを覚えている。会場に出向いてみると、もう佐藤春夫先生が見えていて、長椅子にゴロリと寝ころんでおられたが、
「もう、三十分も待っていたよ」
 と、先生は大儀そうにそう云われた。
 太宰が来た。白麻の(かすり)に、()の袴をつけていた。袴は、たしか誰かからの借衣だったろう。
 会場への入口の廊下のところで太宰は蒼白になりながら、ふところから白足袋を出して履いていたことを覚えている。益々ひどく、痩せているようだった。太宰の予想よりも出席者の少ないのが、不満のようだったが、それでも随分立派な、出版記念会だった。拍手が起り、太宰がテーブルに手をおいて前かがみにうなだれながら何のことか永々と喋っていたことだけの姿が、昨日の事のように眼に浮ぶ。たしか、浅見さんと、山崎さんに受附をやってもらい、砂子屋から、例の生粋の酒も届けられたようだった。

 続いて、山岸の『人間太宰治からの引用です。

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 太宰の出版記念会は、まもなく、上野の精養軒でおこなわれた。月日はまったく忘れているし、出席者のことも忘れているが、なかなか盛大だった記憶が残っている。太宰がその日、その席に出るまえに廊下のかげで「ぼくが宛てられたらどんなことを喋ったらいいのかネ」と演説の下手なことを怖れてそのコツを訊かれたこともおぼえている。「とにかく正直に喋ったらいいのじゃないか」とぼくがそう答えたこともおぼえている。
 しかし、主賓として太宰が話すことを指名されたとき、ひどく妙な調子があった。初めのうちはよかったのだが、途中から変調子になった。まったく言わでものことまでいいだしたのにはぼくも驚いたものである。自分がひどく貧しい生活者であって、借金に悩んでいる話までじつに真面目に、それでいて訴えるように太宰は話していた。ついには、左手の指さきをそろえて折って、着ている羽織の袖口をおさえ、それをそのまま差しだしたりしながら「この羽織、この着物にいたるまで、頭のさきまで、全部、借りものなのであります。下駄も借りたのであります」などといいはじめたことを思いだすのである。たしかに人々は動揺した。かなり異様で、悲劇的であった。まさか「正直に喋ればいい」といったぼくの言葉どおりに、すべてを正直に喋ったとは思わないが、ぼくまでも太宰の着物は借り着だったのかと思う始末で、これは妙なものであった。たしかに失笑した人たちもいたが、変にしいん(、、、)となった雰囲気をつくったものである。作曲家のシューベルトが、ある夜会に質屋の番号札のついている借着を、それとも知らずに背なかにぶらさげて歩いて、一座の失笑を買ったという話があるが、ぼくは、ふと、そんなことまで思いだしたものである。そういう感覚があった。太宰は懸命だったのにちがいないのである。そして、太宰は、ほんとに不幸な人間(、、、、、)だったのだと思う。

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■『晩年』出版記念会 窓側右より、外村繁、北村謙次郎、古谷綱武、緑川貢、佐藤春夫、太宰、木山捷平、1人おいて今官一、後ろ向き右より2人目、丹羽文雄、1人おいて山岸外史、中谷孝雄、2人おいて、大鹿卓、檀一雄、手前後ろ向き左より2人目、浅見淵山崎剛平井伏鱒二、奥窓側右、小野正文。

 【了】

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【参考文献】
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「上野精養軒
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月10日

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7月10日の太宰治

  1939年(昭和14年)7月10日。
 太宰治 30歳。

 七月十日付発行の「文筆」初夏随筆号に「『人間キリスト記』その他」を発表。「随筆」で言及されているのは、山岸外史著『人間キリスト記』(第一書房、昭和十三年十一月二十五日付発行)と山崎剛平著『水郷記』(砂子屋書房、昭和十三年十月五日付発行)である。

『「人間キリスト記」その他』

 今日は、1939年(昭和14年)7月10日発行の「文筆」初夏随筆号に発表されたエッセイ『「人間キリスト記」その他』を紹介します。
 この雑誌には、ほかに『泥棒』(井上友一郎)、『無関心』(橋本英吉)、『春』内木村治、『民家』(田畑修一郎)、『お母さん』(外村繁)、『因縁』(和田伝)などが掲載されていました。

『「人間キリスト記」その他』

 山岸外史氏の「人間キリスト記」を、もっと、たくさんの人に読んでもらいたい、と思っている。そうして、読後の、いつわらざる感想を、私は、たくさん、たくさん、聞いてみたい。それは山岸のため、というよりは、むしろ、私自身の開眼のために聞いてみたい。遠慮なさらず、思ったこと、たくさん教えてもらいたい。私も、そうであるが、山岸の表現に就いての努力は、たったいまのこの苦悩を、瞬時の距離に於いて切断し、一まず時間の流れのそとにピンセットで、つまみ出し、その断面図をありありと拡大し、鮮明に着色して壁に貼りつけ、定着せしめることにある。鏡を、ふたつ対立させると、鏡の中に、また鏡、そのまた奥に、また鏡、無限につらなり、ついにはその最深奥部於いて、青みどろ、深淵の底の如く、物影がゆらゆら動いている。あいつを、あの青みどろを、しかと掴んで計算し、その在りのまま姿を、克明に描写し、黒白確実に、表現し、それを、やさしい額縁にいれて呈出したい。私は山岸の永年の苦悩を、そのようなところに在ると解している。謂わば、錯乱への凝視であり、韋駄天に於ける軽量であり、激憤絶叫への物差であり、眩暈(めまい)の定着である。かれは、沈黙に於ける言葉、色彩をさえ、百発百中、美事に指定しようとする。純粋リアリズム。あるいは、絶対ヒュウマニズム。そのとき、山岸は、「人間キリスト記」を書いた。読んでもらいたいのである。そうして感想、忠告を、たくさんたくさん聞きたいのである。山岸は、虚傲でない。素直に読者の声を聞き、自身のまずしい仕事を、そんなにも懇切に読み、考えて呉れたことに就いては、どんなに感謝するかわからない。この本が、この山岸の仕事が、果して美しいものか、どうか、それさえ、未だ、きめられていないのである。全く、評価以前の状態に在る。それを、いま、決定するのは、あなたがた、読者である。出版元、第一書房主も、もっとこの本の宣伝をしなければならない。これは、問題の本である。たくさんの人に読んでもらいたいのである。まず、いまは私は、それをお願いする。

 世間の人の、あまり読んでいない本で、そうして、その著者の潔癖から、出版しても知らぬふりしてちっとも自己宣伝せず、また、本屋でもあまり広告していない、地味な本を、何かの機会に、ふと読んで、そうしてそれが、よかったら、読者として、これは最高のよろこびであろう。山岸外史氏の、すぐれた著書も、やや、それに似ているが、これは、後日、きっと読者に、ひろく頑強に支持されるにちがいない要素を持っていて、決して埋もれる本ではない。けれども、ここに一つ、ささやかな、ともすると埋もれるのではないかとさえ思わせる、あまりにも謙譲の良書が在る。山崎剛平氏の随筆集、「水郷記」である。これは、まさしく逸品である。私はこれを読了するまでに、なんど腹を抱えて笑いころげたかわからない。滑稽感ではない。たのしいのだ。私は、五郎劇を見て、いちどだって笑ったことがない。見ているうちに、まじめになって来るばかりである。憤怒に似たものをさえ、覚える。けれども、羽左衛門の気取った見得に、ときどき、しん底から哄笑することがある。俗悪のポンチ画には、笑いたくても笑えないが、小川芋銭の山水に噴き出すことがあるのと、同断である。あれを、読んで見給え。まず、「登別」それから、必ず「山陰風景」を読み給え。

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■『人間キリスト記』の著者・山岸外史(1904~1977) 

 太宰、山岸、檀一雄の3人は、「三馬鹿」と呼ばれていました。
 太宰は、10年間の東京生活を回顧した小説東京八景の中で、山岸と檀との友情を、次のように書いています。

 純文芸冊子『青い花』は、そのとしの十二月に出来た。たった一冊出て仲間は四散した。目的の無い異様な熱狂に呆れたのである。あとには、私たち三人だけが残った。三馬鹿といわれた。けれども此の三人は生涯の友人であった。私には、二人に教えられたものが多く在る。

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■「三馬鹿」 左から、太宰、山岸、檀。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】7月9日

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7月9日の太宰治

  1947年(昭和22年)7月9日。
 太宰治 38歳。

 七月九日付で、3通の手紙を送る。

太宰の3通の手紙

 今日は、1947年(昭和22年)7月9日付で、太宰が書いた手紙3通を紹介します。

 1通目は、養徳社編集部・庄野誠一に宛てたハガキです。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  奈良県丹波市町川原城 
   養徳社編集部 庄野誠一宛

 拝啓、御ぶさたして居ります、二、三日前から、こちら急に暑くなって、ただもう、汗ばかり拭いて居ります、さて、昨日、新潮社の人が来て、こんど新潮文庫を発刊するけど、その際「晩年」の決定版も出したいと言い、養徳社叢書の「晩年」は、名前は「晩年」ですけど、実は「晩年」の半分だけをとり、それから「晩年」以外の「女生徒」だの他二篇ばかりいれてありますので、「晩年」のホンモノの決定版をこの際、作って置くのも無意義でないと私も思いまして、でも一応養徳社の御了承を得るのも順序と存じまして、不取敢(とりあえず)、御快諾を得たく、お願い申し上げる次第です、どうかよろしく御了承のほどお願い申します、     敬具

  1936年(昭和11年)6月25日付で、砂子屋書房から刊行した処女短篇集晩年は、太宰にとって、かなり想い入れの強い短篇集で、その想いは後年になっても変わらなかったようです。


晩年 (新潮文庫)


 2通目は、太宰の無二の親友であり、よき理解者だった伊馬春部宛てたハガキです。

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■太宰と伊馬春部 三鷹の「ウナギ屋」若松屋の前で。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都目黒区緑ヶ丘二三二一 伊馬春部

 先日は、しっけい、しっけい、とは言っても、私が悪いんじゃない、伝言人のあやまりなんです。ウナギ屋で、よくそのあやまりの実相を聞いたでしょう、日がちがっているんです。こんどは電報にして下さい。三鷹では大いに飲めるんです。小切手はいただきました。女房のお小使いとして与え、女房大よろこび、ありがとうございました。こんどは、どうか電報。(こん)君の津軽ナマリが、ウナギ屋にうまく通じないらしいんだよ。  敬具。

 「(こん)君」とは、青森県弘前市生まれ、太宰と同年生まれの作家・今官一(こんかんいち)(1909~1983)のこと。今の津軽なまりが原因で、伊馬との約束が上手くつかず、それを弁明するハガキです。

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■太宰と今官一


 3通目は、太宰の弟子・田中英光に宛てたハガキです。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  静岡県田方郡内浦村三津
   田中英光
 拝復 御子さん御病気の由、大事にし給え。僕のところも中の男の子が、どうも工合いわるく、焼野のキギス夜のツルというところ。僕には親の資格が無いようだ。さて、「東北文學」の件、宮崎氏たゞいま関西出張中らしく今月六、七日頃、帰仙の途中に三鷹陋屋(ろうおく)を訪問したいという便りあり、もし彼がやって来たら、私からたのみます。それから「諷刺文學」で君に原稿をたのんだ筈だが、すぐ取りかゝるといいと思います。稿料も割にわがまゝがきく筈です。「展望」のほうは、こないだ編集者に聞いたらまだきまらないとの事でした。では御元気で。   敬具。

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 同日に書かれた、全く趣の異なる3通のハガキ。
 太宰は、一般的なイメージ以上に、周囲を取り巻く人々に、気を遣って生きていたのかもしれません。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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