記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月25日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月25日の太宰治

  1940年(昭和15年)1月25日。
 太宰治 30歳。

 一月二十五日付発行の「三田新聞」に「心の王者」を発表した。

『心の王者』

 「三田新聞」は、1917年(大正6年)に慶應義塾大学で創刊された、日本で最初の学生新聞です。創刊号の一面中央には、創設者・福沢諭吉の「慶應義塾は一所の学塾として…」を掲げ、創刊の言葉には「三田輿論(よろん)を喚起し、慶應義塾の一報道機関たるべし」と述べられています。これから50余年にわたり、「東洋創始」のスローガンを常に紙面に掲げ、三田新聞会によって継続・発行されました。
 エッセイ『心の王者』は、学生の依頼に応じる形で執筆され、1月上旬頃に脱稿。「三田新聞」第四百二十八号の第五面に発表されました。

心の王者

 先日、三田の、小さい学生さんが二人、私の家に参りました。私は生憎(あいにく)加減が悪くて寝ていたのですが、ちょっとで済む御話でしたら、と断って床から抜け出し、どれたの上に羽織を羽織って、面会いたしました。お二人とも、なかなかに行儀がよろしく、しかもさっさと要談をすまし、たちどころに引上げました。
 つまり、この新聞に随筆を書けという要談であったわけです。私から見ると、いずれも十六七くらいにしか見えない温厚な少年でありましたが、それでもやはり廿(にじゅう)を過ぎて居られるのでしょうね。どうも、此頃(このごろ)、人の年齢のほどが(わか)らなくなってしまいました。十五の人も三十の人も四十の人も、また(ある)いは五十の人も、同じことに怒り、同じことに笑い興じ、また同様に少しずるく、また同様に弱く卑屈で、実際、人の心理ばかりを見ていると、人の年齢の差別など、こんぐらかって来てわからなくなり、どうでもいいようになってしまうのであります。先日の二人の学生さんだって、十六七には見えながら、その話振りには、ちょいとした駆引などもあり、なかなか老成していた箇所がありました。いわば、新聞編集者として既に一家を成していました。お二人が帰られてから私は羽織を脱ぎ、そのまま又布団の中にもぐりこみ、それから(しばら)く考えました。今の学生諸君の身の上が、なんだか不憫(ふびん)に思われて来たのであります。
 学生とは、社会のどの部分にも属しているものではありません。また、属してはならないものであると考えます。学生とは本来、青いマントを羽織ったチャイルド・ハロルドでなければならぬと、私は頑迷にも信じている者であります。学生は思索の散歩者であります。青空の雲であります。編集者に成りきってはいけない。役人に成りきってはいけない。学者にさえなりきってさえいけない。老成の社会人になりきることは学生にとって、恐ろしい堕落(だらく)であります。学生自らの罪ではないのでしょう。きっと誰かに、そう仕向けられているのでしょう。だから私は不憫だと言うのであります。
 それでは学生本来の姿は、どのようなものであるか。それに対する答案として、私はシルレルの物語詩を一篇、諸君に語りましょう。シルレルはもっと読まなければいけない。
 今のこの時局に(おい)ては尚更、大いに読まなければいけない。おおらかな、強い意志と、努めて明るい高い希望を持ち続ける為にも、諸君は今こそシルレルを思い出し、これを愛読するがよい。シルレルの詩に、「地球の分配」という面白い一篇がありますが、その大意は、(およ)そ次のようなものであります。
「受取れよ、この世界を!」と神の父ゼウスは天上から人間に号令した。
「受取れ、これはお前たちのものだ。お前たちにおれは、これを遺産として、永遠の領地として、贈ってやる。さあ、仲良く分け合うのだ。」その声を聞き、(たちま)ち先を争って、手のある限りの者は右往左往、おのれの分前(わけまえ)を奪い合った。農民は原野に境界の(くい)を打ち、其処(そこ)を耕して田畑となした時、地主がふところ手して出て来て、さて(うそぶ)いた。「その七割は俺のものだ。」また、商人は倉庫に満す物貨を集め、長老は貴重な古い葡萄酒(ぶどうしゅ)を漁り、公達(きんだち)は緑したたる森のぐるりに早速(なわ)を張り(めぐ)らし、そこを己れの楽しい狩猟と逢引の場所とした。市長は巷を分捕り、漁人は水辺におのが居を定めた。総ての分割の、とっくにすんだ後で、詩人がのっそりやって来た。彼は(はる)か遠方からやって来た。ああ、その時は何処(どこ)にも何も無く、すべての土地に持主の名札が貼られてしまっていた。「ええ情ない!なんで私一人だけが皆から、かまって貰えないのだ。この私が、あなたの一番忠実な息子が?」と大声に苦情を叫びながら、彼はゼウスの玉座の前に身を投げた。「勝手に夢の国で、ぐずぐずしていて、」と神はさえぎった。「何も俺を(うら)むわけがない。お前は一体何処にいたのだ。皆が地球を分け合っているとき。」詩人は答えた。「私は、あなたのお傍に。目はあなたのお顔にそそがれて、耳は天上の音楽に聞きほれていました。この心をお許し下さい。あなたの光に陶然(とうぜん)と酔って、地上の事を忘れていたのを。」ゼウスは其の時やさしく言った。「どうすればいい?地球はみな呉れてしまった。秋も、狩猟も、市場も、もう俺のものでない。お前が此の天上に、俺といたいなら時々やって来い。此所はお前の為に空けて置く!」
 いかがです。学生本来の姿とは、即ち此の神の寵児(ちょうじ)、此の詩人の姿に違いないのであります。地上の営みに於ては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさえ住めるのです。
 此の特権を自覚し給え。この特権を誇り給え。何時迄も君に具有している特権ではないのだぞ。ああ、それはほんの短い期間だ。その期間をこそ大事になさい。必ず自身を汚してはならぬ。地上の分割に(あずか)るのは、それは学校を卒業したら、いやでも分割に与るのだ。商人にもなれます。編集者にもなれます。役人にもなれます。けれども、神の玉座に神と並んで座ることの出来るのは、それは学生時代以後には決してあり得ないことなのです。二度と帰らぬことなのです。
 三田の学生諸君。諸君は常に「陸の王者」を歌うと共に、又ひそかに「心の王者」を以て自任しなければなりません。神と共にある時期は君の生涯に、ただ此の一度であるのです。

 エッセイの中に登場する陸の王者とは、堀内敬三作の慶應義塾大学応援歌。
 ちなみに、同年に発表された『善蔵を思う』(1940年4月)の中にも「この薔薇(ばら)の生きて在る限り、私は心の王者だと、一瞬思った」と、「心の王者」というフレーズが登場しています。

 【了】

********************
【参考文献】
・東郷克美 編『別冊国文学№47 太宰治辞典』(學燈社、1994年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月24日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月24日の太宰治

  1935年(昭和10年)1月24日。
 太宰治 25歳。

 井伏鱒二の紹介で、当時東京帝国大学仏蘭西文学科講師をしていた中島健蔵を、檀一雄とともに研究室に訪ね、「鉢の木」で逢って九時頃まで会談した。

東京帝大を卒業するために

 この日、太宰が檀と一緒に訪ねたのは、中島健蔵(なかじまけんぞう)(1903~1979)。
 中島はフランス文学者・文芸評論家で、当時はまだ無名だった宮沢賢治の作品に光を当て、戦後は進歩的知識人の1人として反戦平和運動に貢献すると共に、日本文芸家協会日本ペンクラブの再建や著作権保護、日中の文化交流に尽力しました。中国切手の世界的なコレクターとしても有名です。
f:id:shige97:20200112110914j:image
 中島は、1年前の1934年(昭和9年)に東京帝大仏文科の講師になったばかりで、この時32歳。

 太宰が中島に会いに行ったのは、大学の卒業が目的でした。
 この時、太宰は東京帝大5年目(取得単位ゼロ!)で、卒業できなければ長兄・津島文治との仕送り契約が切れてしまうという状況だったため、講師の中島に大学卒業の世話を頼みに行きます。
 太宰は、前年の「帝大新聞」に、師匠・井伏鱒二の代作で、中島の評論集『懐疑と象徴』の批評を書いていました。井伏と中島は同人雑誌『作品』の同人仲間で、井伏は仲間を褒める批評を用意する立場にありました。書きあぐねている井伏を見た太宰は批評を代作したのですが、この時のことをツテに、何とか卒業の交渉ができないか…と考えた太宰は、井伏に中島の紹介を依頼しました。

 この日、太宰と一緒に中島のもとを訪れたのが、太宰の3つ後輩・檀一雄です。
f:id:shige97:20200112115905j:image
■1935年(昭和10年)秋、湯河原にて。左から太宰、小舘善四郎、山岸外史、檀。太宰・檀・山岸外史は「三馬鹿」といわれるほどの友人でした。

 ちなみに、檀は経済学部3年目で、この時点での取得単位は7でした。
 この時のエピソードを、檀は著書『小説 太宰治で次のように書いています。

 それにしても、いよいよ学生の終りが近づいて来ることは、耐えきれぬほどの焦燥(しょうそう)のようだった。私はそれとなく、仏文科の友人たちに頼み込んで、鈴木信太朗氏や中島健蔵氏達の意見をきいてみたが、ちょっと卒業は絶望のようだった。なにしろ単位は一単位もうけていない。
 が、太宰の卒業への憧れは人一倍激しかった。自分の嘘が一どきに暴露されるからである。津軽のお兄さんに対する、言いつくろい。飛島さんに対する言いつくろい。北さんに対する言いつくろい。いや、初代さんですら、今度は卒業だと(だま)し込んでいるに違いない。
 私も全く、同一の立場だった。一年の時に、七単位受けたものの、それ以後全然学校には通っていなかった。
「行こうか?」と、私達は猛然(もうぜん)と立ち上がって、医学部の横を抜け、下町の方に急いでいった。
 それから間もなくの事だった。井伏さんからの紹介があり、ひとつ泣き落しで、中島健蔵氏を、くどきおとそう、という事になった。
 私の家で、勢揃いして、
「寿美ちゃん、チョコレートの靴墨持っていない」
「ええ、持っています。あら、磨きましょうか?」と、妹が云うのに、
「いや、いいんだ」と、太宰は例の編上げ靴を手に取って、丁寧に磨きあげた事を覚えている。
 考えてみると、まだあの頃は、芳賀檀氏を知らなかった。赤門をくぐり、研究室の煉瓦(れんが)造りの中に這入りこんで、
檀君。こういうところ、こわくない。胸が(ふる)えるねえ」
 それでも、中島講師は、気さくに会ってくれた。
「ああ、太宰君と檀君。ちょっとこっちの用事がすむまで、鉢の木で待っていてくれ給え」
 意外の答えで、これは脈があるのかと、太宰も私も喜びながら、鉢の木の二階にあがっていった。間もなく中島健蔵氏が現われた。オードブルから始って、ビールが次々と泡を吹いた。
 酔が(まわ)るにつれて、はじめの意気込みは、消え失せるのである。卒業なぞ、どうでもよかった。ボードレール、ベルレーヌ、ランボー小林秀雄等々と、太宰と私の怪気焔(かいきえん)は、途方もない方向に逸脱して、「じゃ、またやってき給え」と云う、中島氏の声を、後ろの方でうわの空にきいた。太宰の卒業に関しては、それっきりだった。
 今思い直してみると、都新聞の入社試験があったのは、三月前だったような気持がする。しかし、いずれにせよ、私に卒業の準備にと母から百円の金が送られて、太宰の見立てで、六拾円の青色の背広を買った前後のことだった。
 かりに、東大の卒業が駄目になるような事があるにせよ、都新聞にさえ這入れれば、と、太宰のこれは可憐(かれん)なまでの悲願だった。

 【了】

********************
【参考文献】
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「麹町界隈わがまち人物館」(https://jinbutsukan.net/person/5a04.html?abc50
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月23日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月23日の太宰治

  1926年(大正15年)1月23日。
 太宰治 16歳。

 一月二十三日付で「蜃気楼(しんきろう)」一月号を刊行。「負けぎらいト敗北ト」を津島修治の署名で発表したほか、他の同人と共に「巻頭言」を書き、「合評記」にも参加し、巻末に「編集後記」を(修治)の署名で掲げた。

蜃気楼(しんきろう)」と『負けぎらいト敗北ト』

 蜃気楼(しんきろう)は、太宰が青森中学校時代に、自ら主幹となって発行した同人雑誌です。
f:id:shige97:20200111190215j:image
 1925年(大正14年)10月号から1927年(昭和2年)2月号まで、全12冊が刊行されました。太宰は、作品の執筆だけでなく、編集や表紙のデザインまで手掛けるという熱中ぶりでした。
f:id:shige97:20200111190638j:image
■「蜃気楼」創刊一周年記念写真。後列右から平山四十三、太宰、中村貞次郎、葛原四津男。前列右から金沢成蔵、工藤亀久造、津島礼治、葛西信造、桜田雅美。

 それでは、今日付で刊行された「蜃気楼」一月号に津島修治の署名で発表、太宰の習作である『負けぎらいト敗北ト』を紹介します。

負けぎらいト敗北ト

  (一)子守唄(こもりうた)

 彼は又始まったナと思った。彼はチョッと耳をふさいで見たりした。(しか)し子守の唄はヤッパリいつもと同じ調子で聞えて居た。実際彼はこの家に来てからというものは一日だって、この家の子守の唄に攻めつけられない日はなかった。それは、いつもいつも同じ唄であった。同じ声であった。少しの変化もなかった。もう彼はその子守唄が飽きて来たのを通り越して今ではイヤでイヤでたまらなかった。あの娘はあれよりホカに唄を知らないのかしら。別なものを歌ったらどんなものなんだろう。彼はこれ(まで)、その子守を「ウルサイッ」と、どなりつけてやろうかと思ったことは何度あったか知れなかった。勉強なんか出来アしない。全く助らない。それも大声で歌いヤガって……
 も少し小声で歌って()れたって、いいじゃないか。面白くもない。ホントにうるさい。勉強どころか、あれを聞いてさえウンザリする。彼はこう思って調子をとり上げて友の家へ遊びに行ったのであった。町はずれの友の家から帰ったのはもう冬の短い日が暮れてしまった頃であった。彼は淋しい田圃(たんぼ)道を独りで歩いて居た。
 ホントウに静かであった。彼はいつからともなく口笛を吹き始めて居た。凍った、味気のない冬の夜の空気に、暖くそして柔く彼の口笛の音がしみ込んで行くような気がした。ボーッと汽車の警笛がかすかに聞えた。それは低かったけれどもこの沈みきった静けさの中では可成(かなり)サウンドにちがいなかった。彼は一寸(ちょっと)ハッとした。その瞬間彼の今迄の口笛はあの彼のいやがって居た子守唄であったことに彼は気がついた。彼はシッカリ敗北の苦笑を(もら)してしまった。彼はそれでもその口笛を止めなかった。快活に吹きつづけて居た。寒夜の空には星さえなかった。

  (二)人選

 私は雑誌を見て「クソッ」と叫んでしまいました。私がこの雑誌に投書した創作が又落選して居たんです。もうこれで三度目。彼のはどうかしらと恐る恐る雑誌の目次を見ました。アッ彼は(また)入選して居ます。
 息がつまるような気がしながら彼のを読んで見ました。感心するまい、するまいとは思いながらも、ソッと感心してしましました。彼の鋭い観察で、あの力強い筆で、グングン書いてあるのには感服しないでは居られません。
 私はその時私の力が彼のに(くら)べて劣って居ることをシミジミと感じました。彼には負かされてしまいました。私は完全に負けてしまったんです。小学校の時代から常に首席を争って居た彼に、たった今私は再び立つことが出来ない程ひどく打ちのめされてしまったのです。私はなんにも言われぬ淋しさを味って居ました。
 その時私は私の部屋にニコニコして入って来た彼の姿を見つけました。ハッと思って、アワててその雑誌を机の下に、おし隠し「ヤア」と力なく言いました。彼は「オイ僕ア又入選して居たんだヨ、本屋から雑誌を買って来た途中で一寸、君ンとこに寄って見たんだがネ」私は彼の顔を見上げました。勝利者の顔とはこんなのを言うのでしょう。その顔には少しの暗い影も見当りません。全く晴れ晴れして居ました。この時私は又例の負けぎらいな悪魔的な心をムクムク起してしまいました。自分ながら驚く程おちついた口調で「アアあの雑誌へか……それアよかったネ、だがそんなに嬉しいかい。あんな雑誌へ……大人気もない。それはそうと僕の『公論』に投書した創作はどうしたかしら」と冷やか見事に言い放って、ブルブル唇を変に動かして居る彼の顔を意地悪く長い間見上げて居ました。…………………………

  (三)ワルソーの市長

 フリドリックは今度こそは自分の番であると思った。彼は今迄現在のワルソーの市長であるジョーンジと市長の選挙の時に何度戦ったか知れなかった。
 そして、きまったようにフリドリックは落選するのであった。フリドリックは今ジョーンジの家運の傾いて来たのを知って居た。フリドリックはジョーンジが病気といつわって市長の辞表を出したのもその為だと思って居た。フリドリックはジョーンジの負けぎらいな性質をよく知って居た。そして(ジョーンジはこんどの改選期に彼の衰えた家運を背負ってフリドリックと戦うのは甚だ苦しいことであろう。あの負けぎらいなジョーンジとしてはフリドリックに負けるのは堪えられないことであるに、ちがいなかろう。)こうフリドリック考えて居た。併し負けぬウチにもう辞表を出してしまうなんて彼はナントまあ負けぎらいな男なのだろう。彼は部屋の中をぐるぐる歩き廻るのを止めて、シガーの煙が斜にゆるやかに上って行くのを見つめながら黙って立ったまま考えて居たのであった。「こんどこそは自分の番だ」彼は低くつぶやいた。雪消えの頃のアジアの大平原は又実に見事なものであった。百万の牧場の柵が一日一日と雪の消えて行くにつれてズーッと長く(なら)んだ頭を表わして来た。高いポプラの枝が黄ばんで来た。白いアジけのない雪の所々から黒い土がニュッと顔を出して居るなぞは、どんなに力強い光景であったろう。どこからか百舌鳥(もず)の鳴いて居るのがノンビリと聞えて来る。柔い日光がサッとスリ硝子(ガラス)越しにフリドリックの部屋一杯にさし込んで来る。
 フリドリックはマブしそうに二三度まばたきをした。シガーの煙が緑色に斜にユックリ上って行く。百舌鳥のホガらかな鳴き声がつい近くに聞えて居た。フリドリックは又部屋をアチコチと歩き廻った。そして「とうとう自分の番が来たんだ」と低くつぶやいた。

 市長選挙の日の朝は和やかに晴れて居た。もうアチコチの牧場には羊が駆け廻って居る時であった。
 フリドリックはいそがしそうにシガーを二口三口スパスパ吸いながら今朝の新聞を見て居た。「アッ」彼は低く叫んだ。彼はその新聞を見つめたまま嘆息に似た息をシガーの煙と一しょにフーッと吐き出した。
 新聞の文句は極めて簡単であった。
  ジョーンジ氏病身なるにもかかわらず出馬す、世人の彼の辞表提出のことに対する誤解を恐れての結果なるべし。
  当選するや否やは断言せられざるも、ジョーンジ氏の元気、愛すべし。
 フリドリックはもうシッカリ悲観してしまった。ジョーンジの徹底した負けぎらいには彼は手出しが出来ないような気がした。彼はジョーンジを相手にして戦うことはなんだか恐しくてならないような気もした。ややあって彼は彼の家令を呼んだ。そして「あのナ、わしは市長になるのは止めたヨ」と案外平気でキッパリ言った。そして彼は驚いて居る家令をシリ目にかけてシガーの煙にやわらかい太陽の光が反射してるのを黙って見つめて居た。

  (四)日記帳

彼はムカムカ腹が立って来た。(しか)()る圧迫が彼の癇癪(かんしゃく)玉を辛うじて抑えて呉れた。彼はつとめて平静な態度を装うて低く、併し妙に力をこめて言った。「オイ君‼ チョット。幾何はどこからだっけ」併し利造はヤッパリ返事をしなかった。全く聞えないようにして黙って雑誌を読んで居た。彼は「チェッ」と舌打ちをした。その舌打ちは利造の陰険な、執念深いおまけに人並はずれて負け惜しみな性質にあきれたような響をもって居た。
 彼は利造がなぜ怒って居るのかハッキリは分からなかった。つい、さっきのことであった。彼が同じ家に下宿してる友達の利造に「君のような文学者は……」と冗談を言った。そしたら利造はムッとしたようにクルリとむきを変えて机に向ったまま読みかけて居た雑誌を読み始めたのだ。彼は少しも驚ろかなかった。「又始めたナ」と思った。利造は時々こんな風にして急に無言になるのが癖であったからだ。
 勿論(もちろん)彼はこの利造の癖には不愉快な感じを持って居たが…………
 利造がそんなことをしたので、彼も妙に二人の間が白けて来たのに気がついた。
 ややあって彼は次の日の幾何をしらべようとして教科書をとり出した。次の日の幾何はどこからであったかわからなかったので彼は利造にそれを聞いた。併し利造は聞えないふりをして、決して返事をして呉れなかったのである。そこで彼も腹を立ててしまったのである。………………
 彼は今一度「オイ‼ 君ッ」と利造を荒々しく呼びかけた。彼の口は妙に、ゆがんで見えた。顔もなんだか青ざめて居た。併し利造は答えなかった。彼はもう怒りの為にフラフラして居た。彼も亦妙に負け惜しみの心から利造が返事をする迄は自分は利造を何十回でも呼んでやれと思った。「オイッ君ッなぜ返事をしないんだ」この時には彼の口はもう喧嘩(けんか)腰になって居た。
「君ッどうしたというんだッ」彼は続けざまに叫んだ。利造はふりむきもしなかった。彼はスッと立った。利造の肩に荒々しく手を置いた。「オイッオイッ」二三度はげしくゆり動かした。
 利造はやっぱりだまって居た。
 そして、落ちつきを見せる為か、バラバラと(ページ)を繰って滑稽(こっけい)小説の所を開いて、読み始めた。彼が利造の背の方に居たから、見えなかったかもしれないがその時の利造の青黒い頬には、うす笑いさえも浮かべて居たかも知れなかった。彼はもうこらえきれなくなった。知らず知らずの中に、こぶしを固く握って居た。併しその時に彼はフト又或る圧迫を感じた。その圧迫さえ感じないならば彼は利造の頬が破れる迄、彼のコブシで打ったのかも知れない。その圧迫とは利造が彼の学校の柔道の選手であることだ。利造と取りくんだりして見ろ。彼が利造に床板のぶちこわれる程、なげつけられることを彼はよく知って居た。
 彼は利造を十分に怖れて居たのだ。
 利造の肩をゆすぶることでさえも、彼としては可成勇気をふるってやったのであった。
 こんな時に彼は何時(いつ)だったか、友のKが「中学校時代なんかでは、人格も、学問も、皆腕力の為には一も二もなく屈服させられてしまう。マア結局は腕力のある奴は一番勢力があるわけサ」と笑って言ったのを一寸思い出したりするのであった。
 とにかくこんな時には、彼はいつでも口先で利造をやりこめるのが常であった。
 彼は学校の弁論部の幹事をしてる、彼は口先の方では可成自信があったし、その上に利造は激すれば必らず(ども)ってろくに言えなくなるということを彼はよく知って居たからだ。今も彼は利造を口先で負かしてやろうと思ったのだ。
「君、なぜ返事をしないのだ、僕のさっきの、言葉が君の心にさわったのなら許して呉れ、併し君は、人が他人に話をしかけ他人がそれを聞いているのか、聞いていないのか、随分不真面目な態度をして、その話を全然取り合わなかった時程、人が侮辱を感ずることはないということを知らないのか? 君は確かに僕に挑戦したのだ。
 僕が君に好意を持って居たからこそ君に、幾何のことを聞いたんだ。誰が自分の敵に頭を下げてものを教えて(もら)ったりするもんか。
 併し君は僕の好意を無言の中にふみにじってしまったのだ。牛が、いかにも弱々しいあの牧場に咲いて居るスミレの花に糞をたれて、その下敷にしてしまうのよりもっとひどい…………一体君は…………」彼は長いことしゃべりつづけた。そしてそれは彼自身も驚く程スラスラと言った。それから又心も余程落ち付いて来た。彼は半ば勝利の(うるお)いを持った目をして利造を見下した。オオなんと利造がその時の彼の眼には小さく見えた事だろう。
 彼は「オオ僕は利造を負かしたゾ」と思った。
 しかし利造はだまってその滑稽小説に読みふけって居るのを見て、彼は又不安になった。
「喧嘩をするのは同等の人間だ」と誰だか言って居た。今の場合、利造の態度は彼自身も驚いた程の彼の雄弁をも馬の耳に念仏と聞き流して居るようにも見える。()しや利造は腹の中で「アア又あの(はえ)が何んだかうなって居る、うるさいナ」と思って居るのではあるまいか。若しそうであったならば…………彼はいよいよ不安が増して来た。
 併し彼はフト利造の顔をチョットのぞき見た瞬間、彼はハッと驚いてしまったのだ。
 あの陰険な、負け惜しみな利造の細い「いもり」のような眼に涙が光って居たではないか。
 涙だ。確かに涙だ。あの利造が泣いて居たのだ。彼はシバラクの間はただボンヤリと立って居た。だが次の暫時(ざんじ)(おい)て彼は勝利の喜びというものをシミジミと味ったのは無論である。併しその喜びの片隅に黒い影のようなものがあった。それは言う迄もなく利造のただ一語も()わないことである。
 友のSがこの間「一番気味の悪いものは確かに(おし)である」と云ったことばを彼はハッキリとわかったような気がした。
 これが若し利造も思うままに言うし、そして僕は僕で又うんとしゃべる。そしておしまいに、とうとう利造が僕に云いまくられたなら、どんなに嬉しいんだろうと思った。
 利造が今僕が躍起となって云ったのを滑稽小説でも読むような気で聞いて居て、そして利造は又利造で僕の躍起となっているのを見て無言の中に勝利の喜びを味ってるのではなかろうかと思った。僕は又々不安になったのである。併し彼は利造の涙を思出したのである。そうだそうだ利造は泣いたんだ、勝って泣くものがあるもんか、あれは負けたんだ。
 彼はやや満足をして彼の机の前に(すわ)った。
 その時今迄だまって居た利造は急に雑誌を閉じた、彼はビクッとした。一寸、利造の方を盗み見た、利造の眼には涙もなかった。
 平生通りの陰険な眼であった。態度も常とは少しも変って居なかった。彼は少からず失望した。利造は本箱の中から「学生日記」と金文字で赤い表紙に小さく印刷された中型の日記帳を取り出した。
 彼はオヤッと思った。利造が日記をつけて居るということは彼が今が今迄気づかなかったことであったのだ。彼の心は異様に興奮した。キット利造は今のことについて書くのだナと思ったからだ。
 利造は万年筆で何やら書き始めた。
 そして彼の方にチョッと眼をくばった。彼と視線が当然あわねばならなかった。
 彼は軽く狼狽(ろうばい)をして眼を自分の机の上の幾何の本にうつした。勿論単に眼のやり場をそこにきめただけで、それを読もうともしない。
 彼は視線を幾何の本に注いだまま、色々のことを考えた。……今の争い……僕が確かに勝ったのだ……彼が泣いたもの…………若しや……まさか………………
 ホントウに色々のことを考えた。
 長い間ボンヤリしたように机に向って居た。
 フト気付いて利造の方を見た、利造はもう日記をつけてしまったのか、もうそこらに日記帳らしいものもなかった。利造はツト立ち上がって部屋から出た。
 彼は黙ってそれを見送って居た。
 (しばら)くは異様な重苦しい静けさが続いた。
 ややあって彼はスーと立ち上がった。
 いう迄もなく利造の本箱の前に行ったのである。案外たやしく日記帳を見つけた。すぐページを開いた。彼の興奮はその極に達して居た、ホントウに夢中であった。バラバラと頁を繰った。十月二日‼ ハッとページを繰る手を止めた。息がつまるような感じがした。彼は失望した。それもその(はず)、今日の日記はホンの少し、そうだ、たった三行しか書いてなかった。もう読みたい気も起らなかった。
 利造がどんな心で自分の云ったことを聞いて居たか、どう考えてもこの三行位で書き表すことが出来そうもないと考えた。
 全く落胆して力なくその三行を読んだ。
「……十月二日、晴。昨夜活動に行きたるせいか眠し。あくび連発す。今日新らしい英語の先生見ゆ、発音男性的なるに満足せり。」
 たったこれだけだ。彼は(きつね)にばかされたようでもあった。どこかで利造がこれをのぞいて見て彼を笑って居るような気もした。彼は又その日記帳に眼を落した。そして又その三行の文句を読んで見た。その時彼は大敗してしまった自分をシミジミと意識したことであったろう。若しこの時彼は今の日記帳の中にあった「アクビ連発す」という文句と、さっきの利造の涙とを聯想(れんそう)し、又日記帳のそのページの隅に利造が小さく書いてあった「気分大いによし」の七字を見つけたならば彼は一体どんな思いがするであろう。更に利造が部屋を出たのは全く彼にその日記帳を見せんが為であって、彼は完全に利造のかけた罠に陥ってしまったのである、ということを彼が知った時には………………

(後記)
 同じ「テーマ」を色々と形を変えて表現して行くのもあながち興味のないことでもなかろう。
 以上四種の創作の内で、どれが一番いいか自分にはわからない。皆同じ位の自信があるものばかりだから。

 【了】

********************
【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 太宰治』(新潮社、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月22日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月22日の太宰治

  1934年(昭和9年)1月22日。
 太宰治 24歳。

  東京市杉並区天沼一ノ一三六 飛島方より
  東京市中野区上高田二六七 山之内努方 久保隆一郎宛

 前略
 十八日朝より発熱。十八日夜、四十度突破。十九日、二十日にいたるも熱さめず。今官一へ速達で二十日会出席できぬわけを諸兄に伝えてくれるようたのんだが、今官一、また、十八日より発熱、臥床の由。
 二十一日熱さがる。二十二日ぶらぶら部屋のなかを歩く。この日より女房また発熱。

太宰と久保隆一郎の交遊

 ハガキの宛先、久保隆一郎(くぼたかいちろう)(1906~1998)は、久保喬(くぼたかし)ペンネームで活躍した児童文学作家で、川端康成に師事していました。『ビルの山ねこ』(1964年、新星書房)で小学館文学賞、『赤い帆の舟』(1972年、偕成社)で日本児童文学者協会賞を受賞しています。

 久保と太宰との出会いは、1933年(昭和8年)4月初旬の少し曇った日の夕暮れで、久保と同郷(愛媛県宇和島市)の古谷綱武(ふるやつなたけ)(1908~1984)と新宿の喫茶店中村屋の前あたりを歩いていた時。太宰と古谷は、同人誌「海豹(かいひょう)」の同人であり、古谷が太宰に久保を紹介しました。3人はその後、横町の酒場で数時間酒を飲みました。
 太宰は久保に、「キミ、ぼくの所へ遊びに来たまえ」と言って、その時に住んでいた天沼三丁目の住所を教えます。
 2、3日後、久保が太宰の家を訪ね、それから度々会うことになりました。久保は、「酔うにつれて話の中に詩のような気分が出てくる」太宰の人柄に魅力を感じていました。ちなみに、この訪問時、太宰は風邪による発熱で寝ていたため、会わずに持参した本2冊と短い自作の詩5、6篇を置いて帰ったそうです。

 次に久保が太宰を訪ねた日は、森鴎外泉鏡花芥川龍之介、外国の作家と、いろいろな作家の話題が出ました。太宰は、ロシアの詩人・プーシキンの『オネーギン』の一節「生きることにも心せき、感ずることも急がるる」と繰り返し言ったそうです。
 「傑作一つ書いて死にたいねえ」という言葉も、太宰はよく久保に話していたそうですが、この言葉は久保以外には話していなかったようです。

 同年秋頃から、太宰は、久保、今官一、中村地平、伊馬春部北村謙次郎と「二十日会」という会合を始めます。ハガキに出て来る「二十日会出席できぬ」というのは、この会のことです。
 二十日会では、月に1回集まって自作を読み合い、文学を論じ合いました。この会合は、この後1年近く続き、同人雑誌「青い花」発行の母胎となります。

 太宰と久保の交遊は、終戦直前まで続きました。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月21日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月21日の太宰治

  1947年(昭和22年)1月21日。
 太宰治 37歳。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  奈良市北市町七三番地ノ二 横田俊一宛

  東京移住以来、何やらかやら用事に追われて、御ぶさた申し、相すみませんでした。
 御問い合せの件、伊豆には、二度行っているのでした。昭和七年(二十四歳)と昭和九年と、二度でした。「ロマネスク」を三島で書きましたのは、昭和九年(二十六歳)のようで、(発表は、昭和十年一月、「青い花」)、「ハイデルベルヒ」は、昭和十五年(三十二歳)に書きましたのですから、八年前は、私の勘定ちがいのようでございます。それから、昭和七年(二十四歳)の夏にも、伊豆静浦、沼津、三島をあそびまわり、そうしてその間に「思い出」を書き、静浦、三島の青年たちに読んで聞かせた記憶があります。それは、御推察の如く、非合法運動自首して、その運動から離れ、検事局出頭までの休養の時期でした。ではまたいずれ、新刊を、また他日お送りいたします。

生前に出版された『太宰治全集』

 横田俊一(よこたしゅんいち)(1911~1975)は、戦前、奈良女子高等師範学校に勤務し、のちに奈良女子大学教授も務めました。太宰の言葉と書誌的研究を織り交ぜた「太宰治論ー僕を信じないやつはばかである」(「リアル」第四号、1947年10月)を執筆しています。

 1946年(昭和21年)7月3日付、太宰が横田に宛てたハガキには、「お米とかえてまで雑誌御入手の御苦心、こちらも一生懸命で(いのちを短かくしても)いいものを書かなければならぬと思いました。」と、横田が米と引き換えに太宰作品を入手したエピソードが書かれています。
 また、同じハガキの最後に太宰は「この津軽を引き上げたら、東京を素通りして、奈良か京都に定住したいなど空想しています。」と書いています。当時、実家の津軽疎開中だった太宰ですが、奈良に住んでいた横田や、京都に住んでいた一番弟子の堤重久とのやり取りから、奈良か京都への移住に想いを馳せていたのかもしれません。

 今日取り上げたハガキは、横田から受けた、二度の伊豆行きや「ロマネスク」執筆時についての質問に答えたものです。

 1947年(昭和22年)10月頃、太宰に全集刊行の話が舞い込んできます。生前の作家が全集を刊行するのは、とても珍しいことでした。
 新潮社で編集者として太宰を担当していた野原一夫(のはらかずお)(1922~1999)は、太宰から初めて全集刊行について聞かされた時のことを、著書『回想 太宰治の中で、次のように書いています。

富栄さんの部屋に行くと先客があり、実業之日本社の人だと紹介された。その人が帰ったあと、太宰さんは、すこしまぶしそうな顔をして、
「実はね、全集を申し込まれているんだ。」
 と言った。全集? なんのことだろうと私は思った。
「俺の全集さ。いまの人もその話できたんだが、八雲書店からも申し込みがあってね。どちらにしたものかね。」
「全集ではなくて、選集ではないんですか。だって、先生はこれから大いに仕事をなさるんだし、全集というのはおかしくないですか。」
 生存中に"全集"が出ることは今でこそ珍しくなく、それは主として出版社の営業政策によるものだが、完結した全業績を集大成してこそ全集と呼べるので、生前の作家が"全集"を出すことは厳密にはあり得ないのである。その当時までの日本の出版界はその厳密さをかなり守ってきたはずで、生前に"全集"を出した作家は数が少ない。
「いや、全集ということになるのだ。出版社のほうでもそう希望している。」
 私は釈然としなかった。
「どちらがよさそうかね。実業之日本社と八雲では?」
 八雲書店は創業まもない新興出版社だが文芸出版の分野に派手に進出し、なかなか羽振りがよさそうに見えた。実業之日本社は老舗で、『東京八景』を戦前に刊行した縁もあるのだが、文芸部門に力を入れているようにも見えず、地味な感じが強かった。
「どちらかといえば、八雲のほうがいいのかもしれないけど。」
 しかし私は不満だった。

 太宰は、この全集刊行にかなり積極的に関与しています。A5判の大きめの判型で、白地の表紙に津島家の家紋である鶴の定紋を型押ししているのも、太宰の強い希望によるもの。題字も太宰自身が書いています。
f:id:shige97:20200111150603j:image
 また、太宰は横田から自らの書誌年表を借り、全集制作のための資料として八雲書店に渡しています。

 1948年(昭和23年)4月20日、『太宰治全集』は刊行が開始されました。太宰が死ぬ約2カ月前のことでした。
 太宰の死後、全16巻刊行の予定が全18巻に変更されましたが、1950年(昭和25年)4月、出版不況と労働争議が原因で八雲書店が倒産したため、14巻で刊行中絶となっています(第12巻「パンドラの匣」、第16巻「随想集」、第17巻「書簡集」、第18巻「未発表作品、補遺」が未刊行でした)。

 【了】

********************
【参考文献】
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮文庫、1983年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・滝口明祥『太宰治ブームの系譜』(ひつじ書房、2016年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月20日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月20日の太宰治

  1942年(昭和17年)1月20日頃。
 太宰治 32歳。

 三田循司に「招集令」が来て、葉書で知らされ、「生きる道が一すぢクツキリ印されて、あざやかな気が致しました。」と返信。
f:id:shige97:20200107005756j:image

『散華』のモデル・三田循司

 三田循司(みたじゅんじ)(1917~1943)は、岩手県花巻市の出身。太宰の弟子の一人で、『散華』の主人公「三田君」のモデルです。
f:id:shige97:20200107005800j:image
 三田は、東京帝国大学文学部国文学科で1つ年下の友人・戸石泰一(といしたいいち)(1919~1978)と、1940年(昭和15年)12月13日に三鷹の太宰宅へ文学の話を聞きに行ったのがはじまりで、戸石と共に同人誌「芥」を編みながら、月に一度は太宰宅を訪問するようになりました。最初の訪問は、満月の夜だったそうです。
 1941年(昭和16年)12月に東京帝国大学を繰り上げ卒業し、翌1942年(昭和17年)2月1日に盛岡の歩兵第百五連隊、盛岡北部第六十二部隊に入営しました。

 太宰は、三田から招集令が来たことをハガキで知らされ、以下のように返信しています。ちなみに、このハガキは2009年(平成21年)6月19日に太宰直筆の未発表ハガキ(三田循司宛)4通が発見されたと報道されたうちの1枚(1942年(昭和17年)1月23日付)で、現在『太宰治全集』の書簡集には未収録となっています。

  岩手県花巻町一日市 三田循司 様
  東京府三鷹下連雀一一三 太宰治

 拝復
 けさほどは、おハガキを いただきました。召集令がまいりましたそうで、生きる道が一すじクッキリ印されて、あざやかな気が致しました。おからだ お大事になさって、しっかりやって下さい。
 はるかに 御武運の長久を祈る。   不一

 それまで、三田の才能を手離しでは認めていなかった太宰ですが、戦地から届いたハガキに対して「一流の詩人の資質を得」たと記しています。三田は、太宰を介して山岸外史からの評価も得ています。

 その後、三田は1942年(昭和17年)10月26日に北海守備隊に転属を命じられ、翌1943年(昭和18年)1月23日に北海守備隊は崎戸丸と君川丸に分乗して幌筵島(ぱらむしるとう)へ向けて出港。1月31日にホルツ湾に入港します(兵員総計:26,114名)。5月6日、三田の最後の手紙が、岩手県花巻の両親の許に届きましたが、「元気」ただその二字だけだったそうです。
 5月12日、ついにアッツ島での戦闘が開始となり、5月29日の夜半、アッツ島の日本守備隊山崎部隊が全滅。三田は、26歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。
 同年5月30日に、大本営からアッツ島部隊の玉砕が発表され(敵兵力:20,000名)、8月29日にアッツ将兵の氏名が発表されました。いずれも2階級特進で、三田は2階級特進兵長となりました。
 太宰が三田の死を知ったのは、8月29日付の新聞でした。この時の様子を、太宰の一番弟子である堤重久は、著書太宰治との七年間』で以下のように記しています。

 訪ねてゆくと、太宰さんが打沈んだ表情で、いきなりいった。
「三田君、知ってるだろ? あの三田君が、死んだんだよ。アッツ島で、玉砕したんだ」
 三田さんとは、お宅で二、三度顔を合わせたことがあった。その二、三度とも、友人の戸石君のかげに隠れるようにして、広い額をうつむきかげんにして坐っていた、眼鏡をかけた学生服姿の青年が思い出されて、私はショックを受けた。
「戸石が、ああいった性格だろう?」と太宰さんがいった。
「それで、戸石とばかり話し合っていてね、ついおとなしい三田君を、冷たくあしらったわけではないが、いささか軽ろんじていたような傾向があったんだね。それが、苦しくてね」
「つまり、玉砕で、復讐されたってわけですね」
「復讐? 復讐だなんてーー」
 太宰さんが、いかにも不快げにしかめた顔をそむけたので、私はしまったと思った。四カ月ほど経って、太宰さんの「散華」をよんで、三田さんへの太宰さんの惻隠(そくいん)の情の深さを知るに及んで、いよいよその節の失言を恥じたのだったが。

 太宰は、三田の死を受け、11月上旬頃に『散華』を脱稿。翌1944年(昭和19年)3月1日付の「新若人」に発表します。

 御元気ですか。
 遠い空から御伺いします。
 無事、任地に着きました。
 大いなる文学のために、
 死んで下さい。
 自分も死にます、
 この戦争のために。

 三田の親友・戸石は、『玉砕』(1952年)、『青い波がくずれる』(1972年)で三田について書いています。
f:id:shige97:20200109225838j:image
 太宰と山岸で三田の遺稿集刊行を企図していたが、実現はなりませんでした。

 また、今回の記事を執筆する上で、HP「石桜同窓会ー岩手中学高等学校同窓会」http://sekiou-ob.com/index.htm)に大変お世話になりました。同HP「温故知新」太宰治 生誕100周年 太宰治と親交のあった旧制岩手中学卒業三田循司 先輩を知っていますか」http://sekiou-ob.com/newmitajunji/top.html)の項に、三田について詳しく書かれています。太宰から三田へのハガキや、関連書籍の引用など、とても充実した内容となっています。

 【了】

********************
【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月19日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月19日の太宰治

  1933年(昭和8年)1月19日。
 太宰治 23歳。

 大鹿卓(おおしかたく)神戸雄一(かんべゆういち)古谷綱武(ふるやつなたけ)木山捷平(きやましょうへい)
新庄嘉章(しんじょうよしあきら)今官一(こんかんいち)藤原定(ふじわらさだむ)塩月赳(しおつきたけし)などが発刊を企画していた同人雑誌に、今官一が、津島修治を仲間に加えたいと推薦。

太宰と今官一

 今官一(こんかんいち)(1909〜1983)は、太宰と同い年で青森県津軽地方生まれの同郷作家で、「桜桃忌」の名付け親でもあります。
 太宰は金木町で生まれ、今は弘前市で生まれました。同窓で机を並べるような直接的な交流はありませんでしたが、1927年(昭和2年)に太宰と初対面し、翌年太宰が全額自費で出版した「細胞文藝」(当時の筆名・辻島衆二、編集人・津島修治)や、翌々年に弘前高校新聞」五号に発表された鈴打(りんうち)(当時の筆名・小菅銀吉)で太宰の偉才ぶりを認めています。
 今は、『善蔵を思う』に「甲野嘉一(こうのかいち)」という名前で、太平洋戦争開戦の日を妻の日記形式で綴った『十二月八日』には「今さん」と実名で登場します。戦争史において看過することが出来ない日「12月8日」は、今の誕生日で、セリフ1つない日常の情景描写の中に、太宰の今への想いが込められています。

夕方、久し振りで今さんも、ステッキを振りながらおいで下さったが、主人が不在なので、じつにお気の毒に思った。本当に三鷹のこんな奥まで、わざわざおいで下さるのに、主人が不在なので、またそのままお帰りにならなければならないのだ。お帰りの途々、どんなに、いやなお気持だろう。それを思えば、私まで暗い気持になるのだ。

f:id:shige97:20200105110309j:image
今官一と。1947年(昭和22年)。今は太宰の文才を早くから見抜いたひとり。デビューの折、古谷綱武らの同人誌「海豹」に「魚服記」を推薦するなど、一貫して太宰のよき理解者だった。撮影・伊馬春部

 今は、太宰の勧めで、1942年(昭和17年)12月8日に三鷹の「上連雀字山中南九七ノ二」に転居しました。今は著書『わが友 太宰治に、

同じ三鷹に住んでいたのですから、他の仲間たちにくらべたら、むしろ、ひんぱんといっていいほど、僕たちは顔をあわせていた

と記しています。 

 太宰と今の絆の深さを表したエピソードに次のようなものがあります。

 1944年(昭和19年)4月10日に召集を受けた今は、「直筆原稿を置いていけ」という太宰の一言で600枚もの原稿を託した。その重量は二貫(7㎏)を超える。太宰は疎開先までこの預り原稿を守り抜き、金木の生家ではなく五所川原の親戚宅に保管されていたという。

 今は太宰の死後、矢継ぎ早に太宰についての文章を執筆しており、太宰の死の直後に発表された『人間失格』をセンセーショナルな心中事件と関連付けて語る識者が多い中、著書『想い出す人々』の中で、

 太宰の文学を過大にでもなく過少にでもなく、正当に評価しようとする努力がなされなければ、日本の文学観は、一向に、進歩がない

と、太宰の「死」を文学の成立に直接的に結び付ける概念を否定しました。

 単純に同郷作家という以上に深い絆で結ばれていた太宰と今ですが、今日取り上げたエピソードは、太宰のデビューを大きく後押しすることになりました。
 今が太宰も同人誌仲間に加えたいと推薦したところ、「とにかく作品をひとつ見せてもらった上で決定しよう」ということになり、数日後、今が『魚服記』の原稿を古谷綱武に届けました。
 古谷によると『魚服記』の原稿は、「一枚()きの日本紙の半ペラの原稿用紙に、すこしかすれるような墨づかいで、きれいな筆の字」だったそうです。古谷は、一読して感嘆。「これは、すばらしい無名の新人があらわれてきたとおもった」といいます。
 『魚服記』は、同年3月1日付発行海豹(かいひょう)」創刊号の巻頭に掲載され、識者の注目を集め、「たちまち『海豹』といえば太宰治のいる雑誌」と言われるようになりました。太宰は「海豹」に『魚服記』と『思い出』を発表しています。
f:id:shige97:20200106235234j:image
 今が「ぜひ仲間に加えたい同郷の作家志望の友人」として太宰を推薦したことで、「海豹」は無名の新人・太宰治を文壇へ送り出す大きなきっかけになりました。

 【了】

********************
【参考文献】
今官一『想い出す人々』(津軽書房、1983年)
今官一『わが友 太宰治』(津軽書房、1992年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
太宰治文学サロン企画展示『太宰治今官一 ~郷里から三鷹へ~』展示解説資料(2019年2月14日~6月23日開催)
弘前市立郷土文学館 編『太宰治生誕110年記念展 ー太宰治弘前ー(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】