記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月28日

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3月28日の太宰治

  1948年(昭和23年)3月28日。
 太宰治 38歳。

 「展望」連載第一回分の「人間失格」百三枚、「第二の手記」までを脱稿し、三月三十一日、帰京。

太宰の近況 ー富栄の日記から

 3月8日、9日の記事でも紹介しましたが、太宰は、筑摩書房の創業者・古田晁(ふるたあきら)の計らいで、熱海の起雲閣別館に滞在し、人間失格を執筆していました。
 そして、今日3月28日は、人間失格が連載された雑誌「展望」に掲載予定のはしがき第一の手記第二の手記までを脱稿した日です。

 今日は、起雲閣に一緒に滞在していた山崎富栄の日記から、この日書かれた部分を引用してみます。
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三月二十八日

 上天気、海が()いでいて心地よい。
 人間失格、第二の手記までを脱稿。よい作品です。

 
 前文ごめん下さいませ。
 太宰さんの御留守中(展望の御仕事のため、カンヅメにされていらっしゃいました)に御便りを受けましたので、御返事がたいそうおくれました。とり敢えず太宰さんの御様子を"落丁集"によせておしらせ致します。
                      かしこ
               太宰代理
  太 田 様
  三月二十八日
  三月三十一日投函


   (落丁集)
○またまた喀血して重態だとか、いやぴんぴんしてカストリを飲んでいるとか。逢う人によってみな様子が違うので、「斜陽」完成以来、とに角容態が危ぶまれている太宰治氏。
○じつは、いずれも真説らしく、夫人も少しも目が離せないといった次第だが、小康を得るとすぐ仕事場へいくというのを止める訳にもいかず、さて仕事場へ行ってもアルコールが切れているときは、構想も浮かばないとあっては、止むなき原罪でもあろうか。
○先日も織田作之助の一周忌を記念して、ゆかりの銀座「鼓」に坂口安吾林芙美子などと共に、故人の生活者としての偉大をたたえるとあって、万難を排して出席、いずれ劣らぬ豪の者ばかりで、すさまじいばかりだったとか。
    ――落丁集(読売新聞)


 治「落ちつくから、小さいのを送ってやろうか――」
 私「ドキ、ドキ、ドキ、……」

 富栄は、太宰の秘書のような役割も果たし、太田静子とのやり取りも担っていました。静子からの手紙に対する返事が遅れたことを詫びながら、常に太宰の側に寄り添っているにもかかわらず、太宰の近況報告を、読売新聞に掲載された記事「落丁集」を引用して済ませているあたり、富栄の精一杯の抵抗だったのでしょうか。
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■起雲閣滞在中の3月11日付と12日付の間にスケッチされた、太宰の寝顔。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎 編集兼発行人『探求太宰治 太宰治の人と芸術 第4号』(太宰文学研究会、1976年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月27日

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3月27日の太宰治

  1947年(昭和22年)3月27日。
 太宰治 37歳。

 三鷹駅前の屋台で、今野貞子に紹介されて初めて山崎富栄と識り合った。

太宰と富栄の出逢い

 今日は、太宰と最期を共にした、山崎富栄との出逢いを紹介します。
 富栄は、太宰との1年半にわたる生活を克明に綴った6冊のノート(日記)を遺しています。今回はまず、そのノートから、太宰と出逢った日について書かれてある部分を引用して紹介します。

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■太宰と知り合った頃の山崎富栄

 この時、太宰37歳、富栄27歳でした。

三月二十七日

 今野さんの御紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にある人である――作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、"知らざるを知らずとせよ"の流法で御一緒に箸をとる。"貴族だ"と御自分で仰言(おっしゃ)るように上品な風采(ふうさい)

 初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じて来るようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。
 先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言(おっしゃ)る。また、キリストだとも仰言(おっしゃ)る。――「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あのときから続けて勉強し、努力していたら、先生のお話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうしてお話を伺っていても漠然としか理解できないことは、情けない。
 千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あのときあの言葉ではないけれども――「死すとも可なり」という心である。
 聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問いに答えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎(りんご)()めたるが如し」「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話したとき、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んでおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。
 戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。

 山崎富栄(1919~1948)は、父・山崎晴弘、母・信子の次女として、東京市本郷区東竹町に生まれました。
 山崎晴弘は、1913年(大正2年)4月に、全国で最初の美容学校である東京婦人美髪美容学校(のちに、お茶の水美容学校と改称。文部省認可第一号)を創立しました。富栄は、この美容学校の後継者となるため、錦秋実業学校を卒業した後も、日本大学付属第一外国語学校で学びながら、YMCA(キリスト教女子青年会。日本では1905年に始まり、初代会長は津田梅子)に通学し、聖書や英会話、演劇の勉強に勤しみました。

 その後、富栄は、お茶の水美容学校の講師を勤めるかたわら、叶美容室(お茶の水美容学校の実習所)6ヵ所の指導をしながら、銀座松屋デパート前に義姉・山崎つたと一緒にオリンピア美容院を経営しました。

 1944年(昭和19年)、三井物産本社の飯田女史の紹介で、三井物産社員の奥名修一と交際。同年12月9日に九段軍人会館で結婚式を挙げ、お茶の水美容学校の一室に新居を構えました。しかし、挙式の12日後の12月21日、奥名はマニラに出張を命じられます。奥名は、マニラ着任後に現地召集され、モンタルパン付近の戦闘で行方不明となりました。
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■奥名修一(28歳)

 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲のために美容学校が全焼。富栄も両親が疎開していた滋賀県八日市町に避難しました。
 翌1946年(昭和21年)4月、義姉・山崎つたと共に、出資者・池上静子と美容院を共同経営するために、鎌倉長谷に赴き、美容院マ・ソアールを開業します。
 同年11月、富栄は三鷹の塚本さき(お茶の水美容学校出身)のミタカ美容院に転じ、三鷹市下連雀一丁目の野川方に寄宿。その後、進駐軍キャバレー・ニューキャッスル内に新設された美容室に主任として、見習いの今野貞子と一緒に派遣されることになりました。
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   ①「千草」の2階(太宰の仕事部屋)
   ②小料理屋「千草」
   ③野川家の2階(富栄の下宿先)
   ④玉川上水
    1948年(昭和23年)頃に撮影。

 この頃の太宰は、伊豆の三津浜で、『斜陽』一章二章の草案を書き上げ帰京したところで、妻の美知子が出産間近だったことや、自宅に届いた太田静子からの手紙を見た美知子に、太宰と静子との関係を疑われたりと、自宅では仕事が捗らなかったため、三鷹郵便局のはす向かいの中鉢家の2階や小料理屋「千草」の2階を借りたりして、『斜陽』を書いていました。
 太宰は15時で仕事を切り上げると、三鷹駅前通りの屋台うなぎ屋・若松屋へ、雑誌記者や訪問客を連れて、よく飲みに行っていました。
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三鷹の若松屋で。左から太宰、女将、野原一夫、野平健一。野原と野平は『斜陽』などを担当した新潮社の担当者。1947年(昭和22年)、伊馬春部が撮影。

 3月中旬のある夜、太宰はいつものように駅前に飲みに出かけ、最後の店で来合せた女性に話しかけ、自分の小説を知らないことを半ば本気で慨嘆しながら、その女性を途中まで送りました。この女性が、今野貞子でした。

 富栄は、駅前の屋台で知り合った太宰という作家の話を今野から聞きました。太宰が、富栄の敬愛する次兄・山崎年一(としかず)と同じ旧制弘前高等学校の卒業であると知り、次兄のことを見知ってはいないかと懐かしく思い、今野に太宰を紹介してくれるよう頼み、3月27日に初めて出逢います。
 実際には、太宰は次兄・年一の2年後輩でしたが、富栄の下宿が太宰が仕事場にもしている小料理屋「千草」の筋向いだったことから、太宰に親しみを持つようになります。このとき富栄は、太宰の小説を読んだ事はありませんでしたが、「戦闘、開始! 覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。」と、この日の日記を締めくくっています。この「戦闘、開始!」は、『斜陽』六章冒頭に引用されました。

 太宰は、「千草」の女将・増田ちとせに、富栄を呼びにやらせたりしていたそうですが、増田はその頃のことを、次のように回想しています。

 初め、店でお酒を呑んでいらした太宰さんの言いつけで、私の行きつけだった駅前の美容院まで、山崎さんをお迎えに行ったことがありました。山崎さんはそこで働いておられたわけで、私も山崎さんとは知らずに髪を結って貰っていたのです。姿のいい、綺麗な方だったので、ただ何となく心に留めていたのですが、お迎えに行って、ああ此の人だったのか、と本当に驚きました。

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■小料理屋「千草」の女将・増田ちとせ

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ―女性篇―』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『生誕105年 太宰治展―語りかける言葉―』(神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月26日

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3月26日の太宰治

  1940年(昭和15年)3月26日。
 太宰治 30歳。

 三月二十五日付発行の「都新聞」に「作家の像(上)」を、三月二十六日付発行の同紙に「作家の像(中)」を、三月二十七日付発行の同紙に「作家の像(下)」をと、連載発表。

『作家の像』

 今日は、太宰が「都新聞」に3日続けて連載発表したエッセイ『作家の像』を紹介します。

作家の像

 なんの随筆の十枚くらい書けないわけは無いのであるが、この作家は、もう、きょうで三日も沈吟をつづけ、書いてはしばらくして破り、また書いては暫くして破り、日本は今、紙類に不足している時ではあるし、こんなに破っては、もったいないと自分でも、はらはらしながらそれでも、つい破ってしまう。
 言えないのだ。言いたいことが言えないのだ。言っていい事と言ってはならぬ事との区別が、この作家によくわからないのである。「道徳の適性」とでもいうべきものが、未だに呑み込めて居ない様子なのである。言いたい事は、山ほど在るのだ。実に、言いたい。その時ふと、誰かの声が聞える。
「何を言ったって、君、結局は君の自己弁護じゃないか。」
 ちがう! 自己弁護なんかじゃ無いと、急いで否定し去っても、心の隅では、まあそんな事に成るのかも知れないな、と気弱く肯定しているものもあって、私は、書きかけの原稿用紙を二つに裂いて、更にまた、四つに裂く。
「私は、こういう随筆は、下手なのでは無いかと思う。」と書きはじめて、それからまた少し書きすすめていって、破る。「私には未だ随筆が書けないのかも知れない。」と書いて、また破る。「随筆には虚構は、許されないのであって、」と書きかけて、あわてて破る。どうしても、言いたい事が一つ在るのだが、何気なく書けない。
 目的の当の相手にだけ、あやまたず命中して、他の佳い人には、塵ひとつお掛けしたくないのだ。私は不器用で、何か積極的な言動に及ぶと、必ず、無益に人を傷つける。友人の間では、私の名前は、「熊の手」ということになっている。いたわり撫でるつもりで、ひっ掻いている。塚本虎二氏の、「内村鑑三の思い出」を読んでいたら、その中に、
「或夏、信州の沓掛の温泉で、先生がいたずらに私の子供にお湯をぶっかけられた所、子供が泣き出した。先生は悲し相な顔をして、『俺のすることは皆こんなもんだ、親切に仇にとられる。』と言われた。」
 という一章が在ったけれど、私はそれを読んで、暫時、たまらなかった。川の向う岸に石を投げようとして、大きくモオションすると、すぐ隣に立っている佳人に肘が当って、佳人は、あいたた、と悲鳴を挙げる。私は冷汗流して、いかに陳弁しても、佳人は不機嫌な顔をしている。私の腕は、人一倍長いのかも知れない。
 随筆は小説と違って、作者の言葉も「なま」であるから、よっぽど気を付けて書かない事には、あらぬ隣人をさえ傷つける。決してその人の事を言っているのでは無いのだ。大袈裟な言いかたをすれば、私はいつでも、「人間歴史の実相」を、天に報告しているのだ。私怨では無いのだ。けれども、そう言うとまた、人は笑って私を信じない。
 私は、よっぽど、甘い男ではないかと思う。謂わば、「観念野郎」である。言動を為すに当って、まず観念が先に立つ。一夜、酒を呑むに当っても、何かと理屈をつけて呑んでいる。きのうも私は、阿佐ヶ谷へ出て酒を呑んだが、それには、こんな経緯が在るのだ。
 私は、この新聞(都新聞)に送る随筆を書いていた。言いたい事が在ったのだけれど、それが、どうしても言えず、これが随筆でなく、小説だったら、いくらでも闊達に書けるのだが、と一箇月まえから腹案中の短篇小説を反芻してみて何やら楽しく、書くんだったら小説として、この現在の鬱屈の心情を吐露したい。それまでは大事に、しまって置きたい。その一端を、いま随筆として発表しても、言葉が足らず、人に誤解されて、あげ足とられ、喧嘩をふっかけられては、つまらない。私は、自重していたいのである。ここは何とかして、愚色を装い、
 「本日は晴天なり、れいの散歩など試みしに、紅梅、早も咲きたり、天地有情、春あやまたず再来す」
 の調子で、とぼけ切らなければならぬ、とも思うのだが、私は甚だ不器用で、うまく感情を覆い隠すことが出来ないたちなのである。うれしい事が在ると、つい、にこにこしてしまう。つまらない失敗をすると、どうしても、浮かぬ顔つきになってしまう。とぼける事が、至難なのである。こう書いた。
 「誰もそれを認めてくれなくても、自分ひとりでは、一流の道を歩こうと努めているわけである。だから毎日、要らない苦労を、たいへんしなければならぬわけである。自分でも、ばかばかしいと思うことがある。ひとりで赤面していることもある。
 ちっとも流行しないが、自分では、相当のもののつもりで出処進退、つつしみつつしみ言動している。大事のまえの小事には、戒心の要がある。つまらぬ事で蹉跌(さてつ)してはならぬ。常住坐臥(じょうじゅうざが)に不愉快なことがあったとしても、腹をさすって、笑っていなければならぬ。いまに傑作を書く男ではないか、などと、もっともらしい口調で、間抜けた感慨を述べている。頭が、悪いのではないかと思う。
 たまに新聞社から、随筆の寄稿をたのまれ、勇奮して取りかかるのであるが、これも駄目、あれも駄目と破り捨て、たかだか十枚前後の原稿に、三日も四日も沈吟している。流石、と読者に膝を打たせるほどの光った随筆を書きたい様子なのである。あまり沈吟していたら、そのうちに、何がなんだか、わからなくなって来た。随筆というものが、どんなものだか、わからなくなってしまったのである。
 本箱を捜して本を二冊取り出した。『枕草子』と『伊勢物語』の二冊である。これに拠って日本古来の随筆の伝統を、さぐって見ようと思ったのである。何かにつけて愚鈍な男である。」
 と、そこまでは、まず大過なかったのであるが、「けれども」と続けて一枚くらい書きかけ、これあいけないと、あわてて破った。もう、その次に、うかと大事をもらすところであったのである。
 一つ、書きたい短篇小説があるのである。そいつを書き上げる迄は、私に就いて、どんな印象をも人に与えたくないのである。なかなか、それは骨の折れることである。また、贅沢な趣味である、という事も、私は知っている。けれども、なるべくなら、私はそれまで隠れていたい。とぼけ切っていたい。それが私のような単純な男には、至難の業なのである。私は、きのうも思い悩んだ。こう、何気ない随筆の材料が無いものか。死んだ友人のことを書こうか。旅行の事を書こうか。日記を書こうか。私は日記というものを、いままでつけた事がない。つけることが出来ないのである。
 一日中に起った事柄の、どれを省略すべきか、どれを記載すべきか、その取捨の限度が、わからないのである。勢い、なんでもかでも、全部を書くことになって、一日かいて、もうへとへとになるのである。正確に書きたいと思うから、なるべくは眠りに落ちる直前までの事を残さず書いてみたいし、実にめんどうな事になるのである。それに、日記というものは、あらかじめ人に見られる日のことを考慮に入れて書くべきものか、神と自分を二人きりの世界で書くべきものか、そこの心掛けも、むずかしいのである。結局、日記帳は買い求めても、漫画をかいたり、友人の住所などを書き入れるくらいのもので、日々の出来事をしるすことはできない。けれども、家の者は、何やら小さい手帖に日記をつけている様子であるから、これを借りて、それに私の注釈をつけようと決心したのである。
「おまえ、日記をつけているようだね。ちょっと貸しなさい。」と何気なさそうな口調で言ったのであるが、家の者は、どういうわけだか、がんとして応じない。
「貸さなくても、いいが、それでは僕は、酒を飲まなくてはならぬ。」(すこぶ)る唐突な結論のようであるが、そうでは無い。その他には、この随筆から逃れる路が無くなっているのである。ちゃんとした理由である。私は、理由が無ければ酒を飲まないことにしている。きのうは、そのような理由があったものだから私は、阿佐ヶ谷に鹿爪らしい顔をして、酒を飲みに出かけたのである。阿佐ヶ谷の酒の店で、私は非常に用心して酒を飲んだ。私は、いま、大事を胸に抱懐しているのであるから、うっかりした事は出来ない。老大家のような落ち着きを真似して、静かに酒を飲んでいたのであるが、酔って来たら、からきし駄目になった。
 与太者らしい二人の客を相手にして、「愛とは、何だ。わかるか? 愛とは、義務の遂行である。悲しいね。またいう、愛とは、道徳の固守である。更にいう、肉体の抱擁である。いずれも聞くべき言はある。そうかも知れない。正確かも知れない。けれども、もう一つ、もう一つ、何か在るのだ。いいか、愛とは、――おれにもわからない。そいつが、わかったら、な。」などと、大事もくそも無い。ふやけた事ばかり言って、やがて酔いつぶれた様子である。

 今日紹介したエッセイが連載された「都新聞」は、5年前に太宰が就職活動に失敗した新聞社・都新聞社の発刊する新聞でした。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随筆』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月25日

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3月25日の太宰治

  1930年(昭和5年)3月25日。
 太宰治 20歳。

 三月二十五日付発行の「帝国大学新聞」第三百三十三号に文学部の合格者氏名が発表される。

太宰、東京帝国大学に合格

 3月13日の記事で、太宰の東京帝国大学の入学者選抜試験について紹介しましたが、今日は、その合格発表について紹介します。

 東京帝国大学の合格者は、3月18日に理学部、20日に農学部、22日に工学部・経済学部・医学部、23日に文学部、24日に法学部と順番に発表されました。太宰が受験した文学部は、志願者447名、受験者412名、入学を許可された者407名でした。

 文学部の合格者が発表された2日後の3月25日付「帝国大学新聞」でも、文学部の合格者氏名が発表されました。
 同紙には、「仏文特別試験の際仏語がすこしもわからず青くなって嘆願書をだした連中も首尾よく合格している」と書かれているそうですが、「仏語がすこしもわからず青くなって嘆願書をだした連中」には、もちろん、太宰も含まれています。
 ちなみに、この新聞記事は、前年の1929年(昭和4年)に、太宰の出身校でもある弘前高校から東京帝国大学経済学部に進学し、当時「帝国大学新聞」の編集者だった平岡敏男(ひらおかとしお)が作成したようです。

 「国民新聞」も号外を発行して、入学許可者を報道しており、仏蘭西文学科は、収容数24名で、入学者は23名だったそうです。
 「国民新聞」は、1890年(明治23年)2月1日に、徳富蘇峰(とくとみそほう)が創刊した日刊新聞。戦時体制下に「都新聞」と合併することになり、1942年(昭和17年)9月30日を以て廃刊し、10月1日から「東京新聞」が誕生しました。

 太宰と同じ年の文学部合格者には、次の人たちも名前を連ねていました。

中島敦(一高、国文学科)
・中村治兵衛(台北高、美学美術史学科)
・小泉静治(弘前高、哲学科)
・三戸斡夫(弘前高、仏文科)
・大高勝次郎(弘前高、経済学部)
・菅原敏夫(弘前高、経済学部)
・南部農夫治(弘前高、経済学部)
・石原左源太(水戸高、医学部)
・津川武一(弘前高、医学部)

 山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』などの代表作がある中島敦(1909~1942)ですが、太宰と東京帝国大学の同級生なのでした。
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東京帝国大学仏文科1年生のとき。1930年(昭和5年)、左から中村貞次郎、太宰、葛西信造。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月24日

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3月24日の太宰治

  1925年(大正14年)3月24日。
 太宰治 15歳。

 三月二十四日付で、青森中学校「校友会誌」第三十四号が発行され、「最後の太閤」を津島修治の署名で発表。この頃から、作家になることを願望しはじめて、創作に熱中した。

最初の創作『最後の太閤』

 太宰が青森中学2年生の時、本名・津島修治の署名で「校友会誌」に発表した『最後の太閤』は、太宰最初の創作。臨終の床にある太閤・豊臣秀吉が、自身の人生を回顧する話です。
 今日は、太宰の最初の創作である『最後の太閤』を全文紹介します。
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最後の太閤

 それは太閤の命も(すで)に、あやうく見えた時であった。宏大(こうだい)伏見城の奥のうす暗い大広間である。広間には諸侯がうようよとうごめいて居る。陰気な暗い重い湿った空気がぐんぐんとささやく彼等の言葉さえなんとなく暗く思われた。裏山の杉の林からジージーージジーーと暑苦しい重たそうな(せみ)の声がはっきり聞えて来る。
 隣部屋に寝て居る太閤は今どんなことを考えて居るだろう。傍には秀頼も居る。淀方(よどのかた)も居る。しかし北政所(きたのまんどころ)方の居ないのは妙にさびしい。太閤は目を細く開いて秀頼の顔を見上げた。淀方の方に(ひとみ)をむけた。隣間の諸侯の話声に耳をかたむけた。そして彼は又満足気に目をつぶった。彼の頭には色々な考えが幻の如く、まわり燈籠(どうろう)の如く浮んで来た。父、彌右ェ門と山に薪をとりに行く彼の姿。父は彼の頬にキッスをした。父と子――飾りけのない貴い姿――あの時と今と――
 彼はウットリとなって居た。そして考えは次から次へと進んで行った。
 天正十年のことであった。山崎で逆臣光秀(みつひで)を討って主君の(あだ)を報いた時の嬉しさ。彼はたった今でもそれを味わうことが出来た。
 つづいて起った賤ケ嶽(しずがたけ)の戦。それらは皆眼前に幻となってはっきりと現われた。彼の口元には勝ほこった者のような微笑が浮び出た。
 同十二年!! 小牧山の戦!! 彼の微笑がもう顔のどこにも見あたらなくなって居た。どうしても徳川公を(ほろ)ぼすことが出来ず和睦を申し込んだ時の彼の心「わともあろうものが……」と彼は彼自身にも聞きとれそうもない程ひくいひくいひとりごとをもらした。隣間から徳川公の咳がゴホンゴホンとじめじめした空気を伝って彼の耳にとどいた。彼の顔色はだんだん暗くなって行った。
 関白―太政(だじょう)大臣、彼の栄達は実に古今に類がなかった。あの当時の彼の勢。彼は今それを思い出したのである。自分でさえ自分自身の勢が恐ろしくてたまらなかった位であった。彼はもうたまらなくなってウーとうなりだした。聚楽第の御幸! 文武百官を率いて諸侯と共に「天皇をうやまい申す」との誓いを立てた時の有様は……おお彼の目は涙でうるんで居る。太閤は心から泣いた。君恩は彼を泣かしめたのだ。四辺の空気は尚一層じめじめして来た。文禄元年の朝鮮征伐が目の先にちらついて来た。彼はどこを見るともなくまた目を開いた。彼の手はかたくかたくにぎられて居た。汗まで手の中にひそんで居た。
 彼は急にフーと長い長い歎息(たんそく)をもらした。
 慶長元年の明使をおっぱらった時の光景が目の前に浮び出たのである。
 しかし彼はすぐにはれやかな色を顔にただよわした。彼はあのはなやかであった彼の醍醐の花見を思い出したのだ。ほほえみが彼のやせこけた頬にうかんだ。もう彼の頭はボーとして来て何が何やらさっぱりわからなくなってしまった。……秀頼の顔が大きく大きく彼の目に幻となって現われた。
 そして秀頼はニッコリ笑った。太閤はもうたえられなくなってしまった。そして大声でウハッハッハッハッハッと笑いこけてしまった。
 枕もとに(はべ)って居た人々は驚異の目を見はった。隣間の諸侯が急にがやがやとさわぎ始めた。それをおし静めて居るのが前田公であった。
 ああ一世代の英雄太閤は遂に没した。
 その死顔に微笑を浮べて……。
 華かなりし彼の一生よ。
 広間の中からはすすり泣きの声が洩れて来た。
 諸侯は誰も面を上げ得なかった。
 夕日は血がにじむような毒々しい赤黒い光線を室になげつけた。諸侯の顔も衣服も皆血で洗われてしまったように見える。否彼等の心に迄も血がにじんで居るだろう。裏の林の蝉が又一しきり鳴き始めた。
 夕日はかくして次第に西山に沈んで行く……。
 太閤はかくしてあの世に沈んで行ったのである。

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■中学時代の太宰と、弟礼治、中村貞次郎。中村は太宰の親友で「津軽」に登場する「N君」のモデル。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『太宰治生誕110年記念展 ー太宰治弘前ー』(弘前市立郷土文学館、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月23日

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3月23日の太宰治

  1937年(昭和12年)3月23日。
 太宰治 23歳。

 夜十一時頃、井伏鱒二より北芳四郎に電話があり、北芳四郎が井伏鱒二宅を訪問。太宰治井伏鱒二北芳四郎(きたよししろう)とが面談した。

水上心中事件の顛末

 今日は、3月20日の記事で紹介した、太宰と内縁の妻・小山初代(おやまはつよ)群馬県水上の谷川温泉で起こした心中未遂事件のその後について紹介します。


【3月23日】
 夜11時頃、井伏鱒二から北芳四郎(きたよししろう)に電話があり、北が井伏宅を訪問。太宰と井伏、北の3人とが面談しました。

 北芳四郎(きたよししろう)(1891~1975)は、品川区上大崎で洋服仕立業を営む警視庁出入りの御用商人で、東京における太宰の実生活上の世話人でした。太宰の父・津島源右衛門が、衆議院議員在任中に、早稲田大学在学中の長兄・津島文治の学生服を北に新調させたことをきっかけに、津島家の知遇を得ました。
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井伏鱒二と北芳四郎。1939年(昭和14年)1月8日、太宰と美知子の結婚式の記念写真より。

 1930年(昭和5年)11月初旬、太宰が左翼運動に関係していることへの対策を文治から相談された北は、津島家に類が及ばない便法として「分家除籍」を提案し、文治と2人で「覚書」を作成。太宰は分家除籍(義絶)となります。この直後、太宰は銀座のカフェ・ホリウッドの女給・田辺あつみと鎌倉で心中事件を起こしますが、この時、文治の指示で津軽から駆けつけた津島家の代理人中畑慶吉(なかはたけいきち)と共に太宰の下宿に急行し、警察官の捜査に先立って、左翼関係の印刷物・書籍等を全て焼却処分しました。
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太宰治と中畑慶吉。1939年(昭和14年)1月8日、太宰と美知子の結婚式の記念写真より。

 その後、北は文治の依頼で太宰を一時自宅に預かり、翌1931年(昭和6年)、芸者・小山初代と結婚した太宰のために、自身の自宅近くに一軒家を借りてあげました。
 この他にも、太宰がパビナール中毒治療のために武蔵野病院へ入院する手助けをしたり、初代と離別後の太宰の再婚について井伏に協力を依頼したりと、太宰の身辺の世話をした北ですが、1941年(昭和16年)、17年間義絶状態が続いていた太宰を生家へ2度連れ帰り、義絶を解消させたのも北でした。この時の経緯を、太宰は帰去来故郷に書いています。

 さて、この日、井伏が北へ電話をし、太宰と井伏、北の3人で面談の機会を持ったのも、水上心中事件の後始末をどうするのか、相談をするためでした。


【3月24日】

 太宰は、井伏宅を訪問。「記/爾今 初代のことは/小館善四郎に一任致し 私/当分 郷里にて/静養いたします/右/津島修治㊞/井伏鱒二様/北芳四郎様」と記した覚書を、井伏鱒二に提出しました。
 覚書を受け取った井伏は、早速、北宛に「昨夜は御病中のところ御足労かけて相すみません 津島君只今御来訪 同封の覚書を提出されました 尚お築地にはこれから出かけて行くとのことにて談合の結果は 後ほど御様子仕ります 右とりあえず後略のまゝ」と記した添状と共に、覚書を送付しました。


【3月25日】

 井伏と太宰の「談合の結果」、初代は叔父の吉沢祐五郎に引き取られたとも、井伏家に滞在することになったとも言われていますが、

(著者注:初代が水上温泉から1人で戻って、井伏家を訪問した)その日から、初代は井伏家に滞在することになりました。井伏は一応そのことを太宰の耳に入れておきましたが、太宰からは初代に関して何の希望も条件も持ち出しませんでした。太宰はその後も時おり井伏家を訪れては、井伏と世間話をしたり将棋をさしたり、あるいは荻窪駅前で夜を徹して飲んだりしましたが、不思議と初代のことには一言も触れなかったそうです。井伏夫人も気づかって、太宰が見えている時には初代を自分の部屋から出しませんでした。しかし、便所へ立つ時など廊下でばったり出合いはせぬかと、双方とも随分気をつかっていたとのことです。こうして二人は、ほとんど語り合うこともないままに別々の生活を続けていました

このように、井伏夫妻の証言に基づいて書かれたという文章も残っています。

 水上温泉から戻った初代がどこに滞在していたのか、確証はありませんが、太宰と面談の機会を持つことは無かっただろうと思われます。

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■小山初代。1932年(昭和7年)夏に撮影。

 ちなみに、この年の6月、初代の叔父・吉沢を仲介役にして、太宰と初代の離別が決定しました。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治水上心中』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月22日

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3月22日の太宰治

  1940年(昭和15年)3月22日。
 太宰治 30歳。

 三月二十二、三日頃、田中英光(たなかひでみつ)三鷹に訪れ、初めて対面。

田中英光(たなかひでみつ)との出会い

 田中英光(たなかひでみつ)(1913~1949)は、太宰治の弟子です。
 田中は、東京府東京市赤坂区榎坂町(現在の東京都港区赤坂)に、高知県出身の歴史家・岩崎鏡川(英重)の息子として生まれました。その後、岩崎家から母の実家である田中家に入籍。鎌倉市で育ち、神奈川県立湘南中学(現在の神奈川県立湘南高等学校)、早稲田第二高等学院を卒業、早稲田大学政経学部に進学しました。

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 早稲田大学在学中の1932年(昭和7年)、ロサンゼルスオリンピック漕艇(そうてい)(ボート)選手として、エイト種目に出場しました(予選敗退)。

 1935年(昭和10年)3月に早稲田大学を卒業後、横浜護謨(ゴム)製造株式会社(現在の横浜ゴム)に就職、朝鮮にある京城出張所勤務となります。
 就職と同年、同人誌「非望」の同人になり、8月に『空吹く風』を発表しますが、この『空吹く風』が太宰の目に留まります。太宰は、京城に住む田中に宛てて

君の小説を読んで、泣いた男がある。(かつ)てなきことである。君の薄暗い荒れた竹藪(たけやぶ)の中には、かぐや姫がいる。君、その無精髭(ぶしょうひげ)()り給え。

 と書いたハガキを送ります。
 以後、田中の師事がはじまりました。

 太宰は、1937年(昭和12年)2月、小島喜代と結婚し、朝鮮神宮で式を挙げた田中に宛てて「はきだめの花/かぼちゃの花/わすれられぬなり/わがつつましき新郎の心を 治」と書いた色紙も送っています。

 1938年(昭和13年)2月、田中は東京本社に出張した際、杉並区天沼に住んでいた太宰を訪ねるも、不在で会うことはできませんでした。

 1939年(昭和14年)2月頃、出征して中国山西省臨晋にいた田中は、野戦病院に入院していた間に『鍋鶴』を書き、検閲酌量で、太宰宛に原稿を送付。発表誌の紹介を依頼しました。この原稿は、太宰の妻・美知子が清書し、「若草」五月号に発表されました。「若草」は文学好きの若者を対象とする文芸誌で、娯楽の少なかった戦前、人気がある雑誌でした。
 美知子は、田中の原稿を清書した時のことを、『回想の太宰治の中で、

田中さんの米粒のような細字の原稿を太宰の言いつけで清書して「若草」編集部に送った

と書いています。
 その後、美知子が太宰と一緒に町の本屋に入った際、『鶴鍋』が掲載されている「若草」を見つけ、「思わず、はしゃいだ声を出して太宰に知らせ」ると、「喜ぶかと思いの外、太宰はニコリともせず、一言も口をきかず」、厳しい横顔をしていたそうです。
 美知子は、

未だにそのときの彼の気持ははっきりわからないのであるが、つまりは作家は太宰治しかいないと思っていなくてはいけないということだったのだろうか。

と、この回想を締めくくっています。

 1940年(昭和15年)1月に除隊。3月に臨時本社販売部勤務となり、単身上京し、三鷹の太宰を訪問。これが太宰との初対面となります。太宰との交流がはじまってから、5年目の対面でした。
 この時、田中は『われはうみの子』『杏の実』を持参します。太宰は、中島孤島訳の『ギリシャ神話』に拠って、『杏の実』をオリンポスの果実と改題させ、2度にわたって書き改めさせたのち、「文学界」に斡旋します。
 「文学界」九月号に掲載された『オリンポスの果実』は、同年12月に第七回池谷信三郎賞を受賞。田中の出世作となりました。
 同月、高山書院から刊行された『オリンポスの果実』に、太宰は序文として『田中君に就いて』と題した文章を寄せています。

田中君に就いて
 ―田中英光著『オリンポスの果実』序

 田中君の作品に就いてよりも、まず田中君の人間に就いてお知らせして置いたほうが、いまは、必要なように思いますから、そのほうだけを、少し書きます。
 この創作集の末尾に、田中君が跋文を書き添えているようですが、それに拠れば、「俺の過去は醜悪で複雑、まともに語れるものではない。この醜くさは、顔が赤くなって脇の下から冷汗ものだ、などという体裁の好いものではなかった筈だ。」と慚愧(ざんき)に転倒しているようでありますが、それは田中君の主観であって、何も君そんなに下品がらなくてもいいぢゃないか、と私は言いたくなりました。
 田中君は、私などに較べて、ずっと上品な、気の弱い、しかも誰よりも正直な人間であります。御母堂に、ずいぶん可愛がられて育ちました。
 四年ほどまえ、私がまだ、荻窪の下宿にいた頃の事でありましたが、田中君の御母堂が私の下宿に怒鳴り込んで来たそうであります。運よく私は、その時、外出していたので難をのがれましたが、私の代りに下宿のおばさんが、大いに叱られたそうであります。うちの英光に文学などをすすめて、だらくさせるつもりだろう、とおっしゃって、実に怒ってお帰りになりました、こわいお母さんですねえ、と下宿のおばさんも溜息をついて私に報告したのでした。堕落したか、どうか。文学ゆえに、田中君は、いまでもやはり、上品な、気の弱い、しかも誰よりも正直で、そうしてやっぱりお母さんの佳い子になっているではありませんか。文学は、人を堕落させるものではないのです、等といま、ここで御母堂に向って申し上げるような気持で書いていると、私も邪心無く、愉快になります。
 田中君が戦地から帰って、私の家に来た時も、戦争の手柄話は、一言も語りませんでした。縁側に坐って、ぼんやり武蔵野を眺め、戦地にもこんな景色がありますよ、と、それだけ言いました。そうかね、と私もぼんやり武蔵野を眺めました。その日、私に手渡した原稿は、戦争の小説ではありませんでした。オリンピック選手としての、十年前の思い出を書いた小説でありました。
 田中君の人間に就いて、読者にぜひともお知らせしたい事項は、もう他には無いようです。田中君は勇気ある人ですが、これからは、猪突の少勇をつつしむにちがいないと私は信じて居ります。生活は弱く、作品は強く、悠々君の文学を自ら経営し、次の時代の美しさを君自身の責任に於いて展開すべきだと思って居ります。
 田中君は、もはや三十歳であります。         以上

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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