記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月1日

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12月1日の太宰治

  1937年(昭和12年)12月1日。
 太宰治 28歳。

 十二月一日発行の「文藝」十二月号に「思案の敗北」を発表。

『思案の敗北』

 今日は、太宰のエッセイ『思案の敗北』を紹介します。
 『思案の敗北』は、1937年(昭和12年)10月27日頃までに脱稿。同年12月1日発行の「文藝」第五巻第十二号の「随筆」欄に発表されました。この号には、ほかに「夏草」(檀一雄)、「檀一雄の小説」(芳賀檀)、「檀一雄の出征を送る」(緑川貢)、「檀一雄への手紙」(高橋幸雄)が掲載されていました。

『思案の敗北』

 ほんとうのことは、あの世で言え、という言葉がある。まことの愛の実証は、この世の、人と人との仲に於いては、ついに、それと指定できないものなのかもしれない。人は、人を愛することなど、とても、できない相談なのではないのか。神のみ、よく愛し得る。まことか?
 みなよくわかる。君の、わびしさ、みなよくわかる。これも、私の傲慢の故であろうか? 何も言えない。

 中谷孝雄氏の「春の絵巻」出版紀念宴会の席上で、井伏氏が低い声で祝辞を述べる。「質実な作家が、質実な作家として認められることは、これは、大変なことで、」語尾が震えていた。

 たまに、すこし書くのであるから、充分、考えて考えて書かなければなるまい。ナンセンス。

 カントは、私に考えることのナンセンスを教えて呉れた。謂わば、純粋ナンセンスを。

 いま、ふと、ダンデズムという言葉を思い出し、そうしてこの言葉の語根は、ダンテというのではなかろうか、と多少のときめきを以て、机上の辞書を調べたが、私の貧しい英和中辞典は、なんにも教えて呉れなかった。ああ、ダンテのつよさを持ちたいものだ。否、持たなければならない。君も、私も。
 ダンテは、地獄の様々の谷に在る数知れぬ亡者たちを、ただ、見て、とおった。

 人は、人を救うことができない。まことか?

 何を書こうか。こんな言葉は、どうだ。「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。」

 泣き泣きX光線は申しました。「私には、あなたの胃袋や骨組だけが見えて、あなたの白い(はだ)が見えません。私は悲しいめくらです。」なぞと、これは、読者へのサーヴィス。作家たるもの、なかなか多忙である。

 ルソオの懺悔録のいやらしさは、その懺悔録の相手の、(誰か、まえに書いたか?)神ではなくて、隣人である、というところに在る。世間が相手である。オーガスチンのそれと思い合わせるならば、ルソオの汚さは、一層明瞭である。けれども、人間の行い得る最高至純の懺悔の形式は、かのゲッセマネの園に於ける神の子の無言の拝跪(はいき)の姿である、とするならば、オーガスチンの懺悔録もまた、俗臭ふんぷんということになるであろう。みな、だめである。ここに言葉の運命がある。
 安心するがいい。ルソオも、オーガスチンも、ともに、やさしい人である。人として、(あた)うかぎり、ぎりぎりの仕事を為した。

 私は、いま、ごまかそうとしている。なぜ、ルソオの懺悔録が、オーガスチンのそれより世人に広く読まれているか、また読まれて当然であるか。
 答えて曰く、言うだけ野暮さ。ほんとうだよ、君。

 宿題ひとつ。「私小説と、懺悔。」

 こう書きながら、私は、おかしくてならない。八百屋の小僧が、いま若旦那から聞いて来たばかりの、うろ覚えの新知識を、お得意さきのお鍋どんに、鹿爪らしく腕組して、こんこんと説き聞かせているふうの情景が、眼前に浮んで来たからである。けれども、とまた、考える。その情景、なかなかいいじゃないか。

 どうも、ねえ。いちど笑うと、なかなか、真面目な顔に帰れないもので、ねえ、てのひらを二つならべて一掬(いっきく)の水を貯え、その掌中の小池には、たくさんのおたまじゃくしが、ぴちゃぴちゃ泳いでいて、どうにも、くすぐったく、仁王立ちのまま、その感触にまいっている、そんな工合いの形である。

 いままで書いて来たところを読みかえそうと思ったのであるが、それは、やめて、(もう笑ってはいない。)私の一友人が四五日まえに急に死亡したのであるが、そのことに就いて、ほんの少し書いてみる。私は、この友人を大事に、大事にしていた。気がひけて、これは言い難い言葉であるが、「風にもあてず」いたわって育てた。それが、私への一言の言葉もなく、急死した。私は、恥ずかしく思う。私の愛情の貧しさを恥ずかしく思うのである。おのれの愛への自惚れを恥ずかしく思うのである。その友人は、その御両親にさえ、一ことも、言わなかった。私でさえこんなに恥ずかしいのだから、御両親の恥ずかしさは、くるしさは、どんなであろう。

 権威を以て命ずる。死ぬるばかり苦しき時には、汝の母に語れ。十たび語れ。千たび語れ。

 千たび語りても、なお、母は(いわお)の如く不動ならば、――ばかばかしい、そんなことないよ、何をそんなに気張っているのだ、親子は仲良くしなくちゃいけない、あたりまえの話じゃないか。人の力の限度を知れ。おのれの力の限度を語れ。

 私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。ああ、私の愛情は、私の盲目的な蟲けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。

 路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。いったい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」おかしくもない。

 ことしの春、妻とわかれて、私は、それから、いちど恋をした。その相手の女のひとは、私を拒否して、言うことは、「あなたは、私ひとりのものにするには、よすぎます。」私は、あわてて失恋の歌を書き綴った。以後、女は、よそうと思った。

 何もない。失うべき、何もない。まことの出発は、ここから? (苦笑。)

 笑い。これは、つよい。文化の果の、花火である。理智も、思索も、数学も、一切の教養の極致は、所詮、捧腹絶倒の大笑いに終る、としたなら、ああ、教養は、――なんて、やっぱりそれに、こだわっているのだから、大笑いである。

 もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。

 約束の枚数に達したので、ペンを置き、梨の皮をむきながら、にがり切って、思うことには、「こんなのじゃ、仕様がない。」

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月30日

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11月30日の太宰治

  1947年(昭和22年)11月30日。
 太宰治 38歳。

 十一月に書かれた、山崎富栄の日記。

太宰に付き添う富栄

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)11月24日から11月30日までに書いた日記を紹介します。
 今回紹介する日記の直前、同年11月17日から11月23日までに書いた日記については、11月19日の記事で紹介しています。

十一月二十四日

 

  主なる汝の神を試むべからず。
 わがために人汝らを(ののし)り、また責め、(いつわ)りて各様の悪しきことを言うときは汝ら幸福なり。

      義
 悪しき者に抵抗(さから)うな
 汝らの仇を愛し
 汝らを責むる者のために祈れ。
 汝らもし人の過失を(ゆる)さば
 汝らの天の父も汝らを(ゆる)し給わん。
 隠れたるに(まし)ます汝らの父
 隠れたるに見たまう汝の父
 われに(むか)いて主よ主よという者
 ことごとくは天国に入らず、ただ
 天にいます我が父の御意(みこころ)
 おこなう者のみ、これに入るべし。
 雨降り(みなぎ)り、風ふきて其の
 家をうてど倒れず
 これ(いわ)の上に建てられたる故なり。
 それは学者らの如くならず。
 権威ある者の如く教え給える故なり。

 11月24日付の日記に書かれているのは、新約聖書』ー「マタイ福音書」第5章から第7章の中からの抜粋です。
 太宰は、1936年(昭和11年)の東京武蔵野病院への入院体験をもとに書いた小説HUMAN LOSTで、次のように記しています。

 聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。

 太宰は、その作品の中で新約聖書をたびたび引用していますが、「マタイ福音書からの引用が最も多く、その中でも特に第6章の引用回数が群を抜いています。「マタイ福音書第5章から第7章は、山上(さんじょう)垂訓(すいくん)と呼ばれ、イエスが山の上で弟子たちと群衆に教えを語る場面です。
 同年3月27日、はじめて太宰と富栄が出逢ったとき、太宰は富栄に「聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか」と尋ねたといいます。YМCA(キリスト教女子青年会。日本では1905年に始まった。初代会長は津田梅子)に通い、聖書や英会話にも通じていた富栄ですが、太宰から山上(さんじょう)垂訓(すいくん)について話を聞く機会もあったのでしょうか。

十一月二十五日

 いい反省になった。斜陽の検印(二万)を持って修治さんと御一緒に東京へ出掛ける。車中、吉祥寺で乗り換えて坐る。(修治さんの御体を思って、立ち通しではお疲れになるのもひどいのではないかしらと考えたので)
 文芸春秋をお読みになっておられた。私は拝借した苦楽の隅田川についてのところをよむ。読み切らぬうちにお茶の水へつく。区役所前まで歩いて、本郷区役所に御一緒に入る。
 私の戸籍(山崎入籍)の手続きが終わるまで待っていてくださる。私のような健康な者にも重く感じられるオーバーをお召しになっていられるので、心配なのだけれど、八雲まで歩くと仰言るので、ボツボツ出掛ける。
 帝大前あたりから、奥様の御弟様がいられるので、万一のことがあるといけないからと、いつものように左側と、右側の歩道にお別れしていく。それこそ堂々とした歩きようではなく、少しうつむき加減にして、大学の方を眺め廻しながら、コツコツと軍靴を運んでいらっしゃる。
 ニ、三間後ろの方から歩く心もちで、私は左側の舗道から修治さんをみつめていました。
 肺病。不治の病だと信じ切っていらっしゃる。でも、あんなに事件が重なってあったのに、生きていられる。
 神様があの方についていられるような気がしてしようがない。
 水菓子屋さんの横を左に折れて、二又道を右に進み、二つ目の横丁を左に曲がると、すぐ八雲書店が見つかった。
 亀島さんが二階から下りて来る。
「サッちゃんが表にいるよ」
「ああ、どうぞお入り下さい」
「先日は失礼いたしました。また御本を御心配下さいまして有難うございました」と”道鏡”を御送りくださった御礼を述べる。
 社長室兼応接室のようなところに通されて、一ぷくなさる。
 全集の御相談に時をすごしてから、編集部の皆さんと談話。
 ここの編集部の方々のチームワークはとても静かで美しいバランスがあって、うれしかった。
 一人ひとりの誠実なものが、私達の身に沁むような思いがした。
 みなさん、いい人達だ。
 三時に新潮と御約束があるので、急いで車を拾い、乗りつける。
 小雨の中を、あのダラダラ坂を歩くのはお病身の修治さんには大敵々々。
 野平さんが二階からおりてくる。社長さんだという若僧(悪いかな)とつまらないお話。
 林さんもチラリチラリ用事を持って出入りなさる。少し太ったような感じ。
 顔色の蒼い人だと思っていたけど、今日お目にかかったら、天然の頬紅が広くついているので、ガッカリした。太宰さんも私も、あまり赤ら顔の方ではないからかもしれないけど。すぐに席を千歳に移して飲みはじめる。ここのマダムは、はじめ十八、九位のひとかと思っていたら、どうも私位の年配の方らしい。何しろ断髪なのでね。
 夜分、眼鏡をかけないので、あまり周囲の人に注意をはらわなかったら、西田さんに御挨拶されて、失礼してしまった。
 修治さんがおきらいなので、よしているので時々これからも失礼することがあるのではないかしら。気をつけなければいけない。
 ビールにジンをおのみになって、珍しく先にちょっと横におなりになる。
 我が身に覚えのない病いを心配してはいるけれど、どうしたらよいやら分からない。
 病気について、創作上の苦悩について、家庭について、血のつながりのことや、もちろん芸術のことについてではあるけれど、黙って悩んでいらっしゃる御様子を拝していると、サッちゃんには何故一つでもお役に立つことがないのかしらと、いらいらして、修治さんが可哀想になってくる。
 修治さんは、わたしなどどんなに身も心もささげつくしておつかえしても、心の癒されることはないのでしょう。
 よく「天才だよ」と仰言るけれど、人間としたら、一番神に近い苦悩を負って生きていられるおかただと思う。
 母のように、乳母のように、妹のように、姉のように、子供のように、恋人のように、妻のように、愛して、愛して、愛していく。ほんの瞬間の憩いにでも、私がなることができれば、わたしはそれで、もういいの。
「貴女はお酒が強いですね」と言われながら、一行、新宿にいく。
三鷹まで野平さんが送ってきて下さる。お泊りになるものとばかり思っていたら、今日は帰りますと野平さんは、夜おそくお帰りになる。
 蒼い顔をなさっていたし、平常よりも深く飲んでいられた様子だったし、御気分でも悪くなって来られたのでしょう。
 注射をしてから、おやすみになる。

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三鷹の若松屋 左から太宰、女将、新潮社の担当編集者、野原一夫と野平健一。撮影:伊馬春部 

十一月二十七日

 お家へお帰りになっても、記者諸兄のために休養なされないからと、ずーっと横になったまま朝を迎える。
 私のジャンバーを「丁度いいね」などと仰言り(なが)ら、お召しになる。背広はあまり改まるし、第一、長時間着ていると、肩の凝ってくるものだ。
 背広というものは、あれができたばかりの昔は、商人が着用するものだったとか、何かの本に書いてあったけど、私はМだし、陽気も急に冬めいて寒いので、「着物がいいだろう」と和服にする。
 洋服だと、ガタビシ用事ができるけど、着物はあまり動くと、第一に衿もとが開いてきていやなものです。
 三時ごろ野原さんを先頭に、井出さんと、お友達の方が約束通りおみえになる。
 皆様御手持ちのお酒や、ハムや水菓子を広げて会は始まる。
 随分お飲みになった。
 いつも酒席の前には注射してから、
「お上手にお飲み下さいね」と申し上げるのだけれど、御気性の勝ったお方なので、御無理なされるのだ。
 人のよろこびを我がものと思い、人の苦しみを身のものと感じとる。
 汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ。
 神のみことばは悲しい。

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■山崎富栄

十一月二十八日

 昨夜、野原さんが、第一に腹痛。
 実は私も痛んでいたのだけれど、黙っていた。
 お薬のことで、あれこれ悲喜劇があってから、修治さんも痛いと言われて、とうとう本病人になってしまわれた。
 アスピリン、健胃固腸剤、スパスモヒンをやたらに飲まされて、おふとんを被る。汗が体中にじっとりと出てくる。お熱も八度五分位はおありになったかもしれない。肺の方へ来ないかと、随分気をもむ。
 野原さんがお帰りのあと、片付けも終わって、私も横になったけど、心配でたまらない。脈をとって、私のと合わせる。私のよりせいぜい数回多い位なので少し安心して、冷たいタオルを額におのせし、代わりをおいてやすむ。
 カルモチンをお飲みになったせいか、お熱のせいか、ぐっすりと深く眠っていらっしゃる。

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■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。

十一月二十九日

 朝、すっかりお元気になって、お目覚めになってくださる。うれしいと思う。
 早速おかゆに玉子を入れて召し上がる。
 どうしてもお酒をお放しにならない。何かこれに頼って生きているお気持がおありになるのでしょう。
 湯タンポを入れて、とっても長く、とっても深い眠りにはいられる。
 じーっとお顔を眺めていると、私が修ちゃんのお母様かなんかのような気持ちがしてきて、「この子のために、この子のためには、どんな苦しみでも――」と胸の中があつくなってくる。

 

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 そんな気持ちでいるときに、突然お目ざめになって、「サッちゃん」などと言われると、「ううん?」なんて、まるで病気の甘えっ子に答えるような返事が出てしまって、心の中で赤面している。
 御冗談ばかり、よく仰言られるので、ときおり、私も本気になってしまうと、寝ながら、掌の上で手紙の往復が始まる。
 今日は少しも理解できない、ややこしいお話のようなので、紙とエンピツをお渡ししたら「シンジテ」と「バカ」と書かれた。二人で笑う。
「バカ」ということばは、最も嫌いなひとと、最も愛しいひとに使うことができるのだと思う。
 夕方、寝ながら、私が再読している「斜陽」をとりあげて読んでいられたので、とりかえた湯タンポのお湯をもって、お洗濯にいく。
 ねまきと、ワンピースを洗って、お部屋へ戻ってみると、ワイシャツを着ていらっしゃるので、「どうかなすったの、怖かったの?」というと、
「いや、斜陽を読んだら、いきり立ってきたんだ。こうしちゃいられない。もっといいものを書かなくては。後から来る人達のために、僕はもっといいものを書かなくてはならないんだ」
 お召しになるお手伝いをしながら、
「本当におからださえ普通のひとのようであったなら、どれほど助かることか分からないのになあ、なんとかして()くなっていただきたい」

   ⁂  ⁂  ⁂

 上水の道を歩くお姿は、蒼白くて、軍靴が重そうで、オーバーも重そう。微風にさえも向かえないような、やるせない感じでした。可哀想で、情けなくて、男の友達のように、オイ君、大丈夫かい、と肩を叩いたら、泣き出してしまわれるような、心細い寂しさが私を(おお)ってしまいました。
 セハランチンの注射液がおありになるとかなので、太宰さんを愛している大勢の男のひとのために、大勢の女のひとのために、一日でも早く養生して、注射してみて下さるよう御願いする。
 決定的に自分の体はもう駄目だと思っていられるけど、そんなこと分かりませんわ。自らを愛してこそ、ひとも愛せるものではないでしょうか。
 滅私奉公なんて、第一自分がなくてはできませんもの。
 頑張って下さい。修ちゃんの命は私が預かっているのですけど、私の命は、修ちゃんに預かっていただいているのですもの。

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■太宰と知り合った頃の山崎富栄

十一月三十日

 父から返事が来た。

   ⁂  ⁂  ⁂

  修治様
   私が狂気したら殺して下さい。
   薬は、青いトランクの中にあります。
    十一月三十日   富栄

 

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  「父から返事が来た。」とは、11月19日の記事で紹介した、富栄が11月20日付で両親に宛てて書いた手紙に対する返事のことです。太宰との愛人関係を認めて欲しいと両親に訴えた富栄ですが、父・山崎晴弘から届いた手紙には、富栄を戒める言葉が綴られていました。
 11月30日付の日記は、「修治様 私が狂気したら殺して下さい。薬は、青いトランクの中にあります。」という言葉で締めくくられました。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・佐古純一郎 編『太宰治と聖書』(教文館、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月29日

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11月29日の太宰治

  1930年(昭和5年)11月29日。
 太宰治 21歳。

 午前八時頃、出漁しようとしていた浜上(はまじょう)の漁夫の一人に、苦悶中を発見されたが、女はすでに絶命していた。

鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)での情死事件

 1930年(昭和5年)11月28日夜半、太宰と銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給・田部(たなべ)あつみは、神奈川県鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)の海岸東側突端の畳岩の上で、2人で睡眠剤カルモチンを嚥下(えんげ)しました。

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小動崎こゆるぎがさきの海岸東側突端の畳岩

 まずは、太宰とあつみ失踪後について、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中から、あつみと婚約し、同棲していた高面順三(こうめんじゅんぞう)の様子を引用します。
 同年11月25日の夜から、高面の元にあつみは戻っていませんでした。

 高面順三があつみの帰宅をまちわびていた。(中略)翌日、順三はホリウッドへあつみを迎えに出掛けた。朋輩の女給たちが帰ってゆくのに、あつみはなかなか姿を見せなかった。折よく表に出てきたドア・ボーイに訊ねたら、「きょうはお休みしたらしい」という。それを聞いて順三は愕然とした。こんなことは今までに一度も無いことであった。
 一睡もせず朝を迎えたが、とうとうあつみは帰って来ない。無断で外泊なんて考えられないことだったし、事故にでも遭ったのかと心配で、順三は居ても立ってもおられぬ思いであった。鈴村夫妻の思惑もあって、この日の午後になっても帰って来ないときは、やむを得ないから警察に家出人捜索願いを提出し、捜査を依頼することにした。二十七日、二十八日とも依然としてあつみの消息は掴めない。鈴村かよし子のどちらかが自宅に待機して警察からの連絡を待ち、順三は心当りの場所へ出向いて、それこそ必死であつみの行方を探しつづけた。

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■高面順三(22歳)

 同年11月29日の午前8時頃、畳岩の上にいた2人は、漁に出ようとしていた漁師に発見されます。

 警察から連絡がはいったのは、二十九日の午後であった。鎌倉の腰越で心中があったが、それが田部あつみらしいので至急確認のため、鎌倉署まで来てほしい、という意味の通報であった。鈴村から話を聞いた順三は、全身の血潮が音をたてて一度に退いてゆくのを感じた。
 鎌倉署へは、腰越の現場から遺留品が届けられていた。どうか他人の空似であってほしい、との順三の願いもむなしく、腕時計、櫛、財布など、あつみが日頃身につけていた持物に間違いなかった。帯だけは、鈴村の妻よし子から借りていたものなので、丁寧にたたんで風呂敷に包んであった。
 その日の朝、腰越の畳岩で発見されたとき、女性のほうは、着物の裾の上から脚と足頸(あしくび)のあたりを腰紐で結び、頭を崖下のほうに、足を海に向けて倒れていたが、両手を合掌するかたちに組み、まるで眠ってでもいるように安らかな死顔であったという。警察の係官から、あつみと心中を図った若い男は、帝大の学生で、七里ヶ浜の恵風園に収容されていて、まだ昏睡中だが、医師の診断では生命に別条ないことなどが告げられた。

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■田部あつみ(17歳)

 漁師に発見された太宰は昏睡状態、あつみは既に絶命していました。
 太宰は1人、七里ヶ浜にある「恵風園療養所」東第一病棟第二号室に収容され、所長・中村義雄の手当てを受けます。

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■「恵風園療養所」全景 1930年(昭和5年)秋頃に撮影。

 太宰の実家・津島家では、この出来事を、鎌倉材木座に一軒家を借り、週1回、サナトリウム「額田保養院」に通って結核療養していた夫・小舘貞一を訪れて滞在中だった、貞一の妻で太宰の四姉・小舘きやうからの電話で知って驚き、同11月29日、太宰の次兄・津島英治が、午後1時30分の青森発の急行で、鎌倉に急行しました。

 田部あつみの亡骸は、検死ののち、高面順三がひとり立ち会って荼毘(だび)に付された。それからの数日、順三は何度か恵風園へ足を運んだのだが、その都度、代理だという人が出て来て面会を拒絶された。

 同年11月30日、英治が鎌倉に到着した時、あつみは、既に荼毘(だび)に付されたあとでした。

 英治が鎌倉に急行するのと多少前後して、津島家に出入りする呉服商で「津島家の彦左」といわれた中畑慶吉(なかはたけいきち)が、太宰の長兄・津島文治の依頼で鎌倉に向かいました。この時のことを、太宰治に出会った日に収録されている中畑の回想『女と水で死ぬ運命を背負って』から引用します。

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■太宰と中畑慶吉

 昭和五年の十一月でしたか、私は文治さんに呼ばれました。
「修治の奴が、鎌倉で情死事件を起こした。中畑君、すまんがすぐに行って、君の好きなように処理をつけちゃくれないか」
 私は文治さんから三千円(著者注:現在の貨幣価値で、約5,800,000円~5,900,000円)を預かると夜行に飛び乗り、鎌倉に急ぎました。当時、私は仕入れのため、毎月一度は東京に出ており、いつも夜行寝台を利用していましたから、どの汽車が早くて便利だかを熟知しておったのです。
 鎌倉に着いてからすぐに、私はシメ子の内縁の夫田部某に会いました。この人は大分の在の男で、やせた小柄な人物でした。おまけに神経衰弱――今でいうところの強度のノイローゼだったのです。三十前のようでした。
 この人と鎌倉警察の人と私と三人で、仮埋葬してあったシメ子の死体を確認いたしました。警察では当初、田部某が本当にシメ子の身内かどうか疑いをもっておったようですが、死体が鼻血を出したので、はじめて信用したようです。昔から”変死体は近親者と会うと鼻血を流す”といいますから。それはおびただしい量の血でした。大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました。当時、アリタドラッグとかいう店の商標に使われていた蝋人形の美女にそっくりでした。
 丸裸の上に麻の葉の襦袢が掛けてありました。芝居では八百屋お七が着るやつです。
 鎌倉では、日没になってからでないと火葬にできないということで、私は夕方になってから焼場に向いました。田部某氏は同道せず、私一人だけで行きました。

 あつみの火葬の立ち会いに関して、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中と異なる記述もありますが、続けて引用します。

 私はひとまず宿の床の間に骨を安置しました。田部氏が正式にものごとの段取りを決めてから渡してやろうと考えておったのです。
 しかし、本人は次の日やってきて、とにかく遺骨をくれと言う――警察では、いま遺骨を渡すと自殺のおそれもあるといっていたのですが――私は遺族のたっての希望だからと考え、渡してやったのです。
 ところが、警察のいうとおり、さあ、大変、今度は田部君が行方不明になってしまったのです。すぐに消防団青年団を動員して山狩りをしてもらいました……発見したのは夕方のことです。田部君は、自分の女が心中をした海辺の現場に行き、遺骨を抱いて写真におさまろうとしていた寸前に発見されたのです。私は内心、あきれてしまったことを思い出します。

 また、中畑は、津島家に出入りする洋服仕立屋であり、東京における太宰のお目付役を担っていた北芳四郎(きたよししろう)から、鎌倉に向かう途中、ある連絡を受けていました。 

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井伏鱒二と北芳四郎 この事件以後、文治から太宰への仕送りは、北や井伏宛に送られることになったという。1939年(昭和14年)1月8日、太宰と美知子の結婚式の記念写真より。

 私が太宰の後始末をつけるため、東京へ向う車中にあったとき、この北さんから電報がきました。当時共産党の活動を太宰がやっていて、その秘密書類が下宿――戸塚の常盤館だったと思います――に置いてあって、見つかるとまずいから処分してきてくれ、というのです。
 私は上野から円タクを飛ばして下宿へ立ち寄り、小さな柳行李一杯くらいあった書類を焼いてくれるように女中頭さんにチップを渡して頼んでから鎌倉に向ったのです。太宰の年譜のほとんど全部が、私自身で秘密書類を焼き捨てたという記述をしているそうですがそれは誤りです。次の日、太宰の部屋に思想犯刑事が踏み込んだそうです。


 太宰のこの情死事件を、太宰と婚約していた小山初代が青森で受けたのは、晴れて嫁ぐ準備に慌ただしい、上京予定の1週間前でした。
 初代は、一緒に三味線を稽古していた、阿部合成(あべごうせい)(太宰の青森中学時代の同級生)の中学時代からの恋人・小田原チヨ(のちの阿部なを)に、泣いて恨みを訴えたそうです。チヨによれば、初代は「堅気の娘とのつきあいをしたかったらしく、お稽古もいつも一緒にでかけ」ており、「「彼にプレゼントしたいから靴下の編み方を教えてくれ」といわれ、協力したこともあった」といいます。

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■小山初代


 同年11月30日付、「東京日日新聞」は、「東大生と女給が心中」の見出しで、また、「東奥日報」は、「津島県議の令弟修治氏鎌倉で心中を図る」の見出しで、写真を掲げて報道しました。

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■1930年(昭和5年)11月30日付「東奥日報

 折しも、県議会開会中で、青森での定宿である塩谷旅館にいた文治のもとに、新聞記者が駆け付けました。

 小田原チヨは、「今朝の新聞の大きな記事の人物」が、初代の「相手の人だとはじめて知らされ」た。その「人物」の「中学時代の下宿」は、チヨの生家・魚問屋に近く、チヨはその人物の「軟派ぶりもよく知って」いた。「泣きながら訴える初代」が哀れで「義憤を感じた」チヨは、「うらみを乞われるまま下書きなどして」津島修治宛に「手紙を書かせた」そうです。

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■阿部合成と妻・阿部千代(のちの、阿部なを)

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1980年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月28日

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11月28日の太宰治

  1930年(昭和5年)11月28日。
 太宰治 21歳。

 銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給通称田部(たなべ)あつみ(戸籍名田部シメ子、大正元年十二月二日生、十九歳)と識った。

太宰、田部(たなべ)あつみと小動崎(こゆるぎがさき)

 1930年(昭和5年)11月下旬、太宰は、「ホリウッド」の女給・田部(たなべ)あつみと出逢います。「ホリウッド」は、銀座の十字屋の裏手の向かい側にあったカフェーでした。
 カフェーとは、特殊喫茶や社交喫茶とも呼ばれ、女給は単なるウェイトレスというより、現在のバーやクラブのホステスのような存在でした。当時の女給は、客が支払うチップが収入源だったといいます。1933年(昭和8年)には、特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として、警察の管轄下に置かれることになりました。

 田部(たなべ)あつみ(戸籍名・田部(たなべ)シメ子)は、1912年(大正元年)12月2日、広島県安佐郡小河内に、田部島吉シナの七番目の子、四女三男の末娘として生まれました。シメ子とは、この子でおしまいにしたいとの願いからつけられたもので、この名を嫌い、三兄・田部武雄と相談の上、次第に「あつみ」と名乗るようになりました。「ホリウッド」では「田辺あつみ」の名前で通しており、店での源氏名「ツネ子」だったそうです。

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■田部あつみ(17歳) 高面が上京の決意を固めた頃。高面と郊外の加部あたりまでハイキングに行った際に撮影。あつみの一番お気に入りの写真で、いつも大切にしていたといいます。

 あつみは当初、広島の繁華街・新天地の喫茶店「平和ホーム」でアルバイトをしていました。「平和ホーム」のマダムが、その美貌で評判だったあつみに目をつけ、店の手伝いに来て欲しいと懇願し、両親を口説き落として、ウェイトレスとして雇うことに成功しました。あつみの容姿に魅かれ、平和ホームの客は倍増したそうです。あつみは小柄(身長152㎝、42㎏くらい)で、鼻の下(小鼻の脇)にホクロがあり、一度その容貌に接したら、決して忘れられないといわれるほど魅力的だったそうです。
 東新天地の喫茶店「チロル」のマスター・高面順三(こうめんじゅんぞう)も、あつみに魅せられた客の1人で、1日に2度も3度も訪れたこともあったそうです。また、ウェイトレスの女の子に辞められて困っていたこともって、熱心にあつみにアプローチします。あつみは、高面の熱意にほだされて婚約。「平和ホーム」から「チロル」に身を移し、2人は同棲をはじめました。高面は、あつみの5歳上でした。
 高面は、もともと演劇への関心が強く、将来は演劇方面で身を立てようという希望を抱いており、東京で働きながら新劇俳優の勉強をするため、1930年(昭和5年)春に、「チロル」をたたんで上京することを決意しました。

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■高面順三(22歳)

 東京に着いた2人は、知人・鈴村が借りている家の二階に落ち着くことになります。日比谷公園脇の内幸町で、高面が日比谷図書館に通って勉強するのにも都合が良かったそうです。しかし、上京して間もなく盗難に遭って所持金の大半を失ったり、不況が原因で、なかなか就職先が見つからない高面を見たあつみは、家計の一助にと、鈴村の妻・よし子の紹介で、「ホリウッド」で働くことになります。「ホリウッド」は、住まいから歩いて10分位の距離と、通勤には便利な距離で、着物や帯は、よし子から借りました。
 あつみが店に出て最初の夜、あつみは学生をまじえたグループを受け持つことになります。長篠康一郎は、あつみが初めて店に出た時期を「八月中旬と推測されるが、正確な日時はさだかでない」としています。このグループの中にいたのが、東京帝国大学1年生の太宰でした。
 この時の様子について、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中から引用します。

 その夜、あつみがはじめて受け持ったテーブルは、学生をまじえたグループの客であった。なかでも眼鏡をかけた長身の若い男が、この仲間の親分格とみえて、「若様!」なんて呼ばれているのが、あつみには可笑しくてならなかった。いまどき「若様」なんてないもんだ。だいたいが気障なうえにひどい(なま)りのある方言で、お互い同志だとなにを話しているのか皆目ききとれない。チロルなら、こんな感じの悪い泥臭い客は一人もいなかった、と心のうちにあつみはそう思いつつビールをついだ。
 閉店時になって、裏の出入口のところに順三が迎えに来ていた。銀座の表通りは軒並みネオンがまばゆく輝き、まるで不夜城の観を呈しているなかを、銀ぶらとしゃれて歩いて帰った。

 太宰と一緒にいた義兄・小舘保は、あつみのことを「理知的で健康そうで。応答が妙にあざやかな、誰でも好感がもてるような明るい気質の女性であった」と回想しています。

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東京帝国大学仏文科1年生のとき 1930年(昭和5年)、左から中村貞次郎、太宰、葛西信造。

 田部あつみが、新築地劇団の「ゴー・ストップ」を、津島修治と一緒に市村座へ観に行ったのは、ホリウッドに勤めに出てから約一ヵ月の後であった。修治と親しくなったきっかけは、彼が二度目に、ひとりでホリウッドへ現われたときである。初対面であったときのあつみは、取巻き連中の追従に、いい気になっている「田舎の莫迦(ばか)若様」と心の(うち)に思ったけれど、彼らの喋べる方言なんかには、さほど気にならなかった。なにしろ初めての客席にはべるのだから、緊張の連続でそれどころではなかったのだが、広島のチロルなら、こんな泥臭い客はいなかったと、ちょっと誇らしげに思ったことだけ覚えていた。それにあつみ自身が、広島弁の方言が出やしないかと、極度に警戒していたせいもある。「若様」が寡黙だったのは、それを気にしてのことだったらしいが、上京して日の浅い頃、どこかで手酷い目に遭ったことがあるようだ。
 ホリウッドへ二度目に顔を出したとき、修治は初対面のあつみの印象と、そのちょっとした親切に心惹かれたからだ、とそんなことを言っていた。けれども、客と相対しての二人きりの席というのは、あつみにとってはやりきれないほど気づまりであった。口かずのすくない客なので、ビールを注ぐのと煙草の火をつけるだけ、話題らしいものはなにもない。もういい加減に腰をあげてくれないかなあ、などと思いあぐんでいたとき、となりのテーブルについていたよし子が、「ちょっとツネ子さん、あそこの壁にかかっている裸体の絵、あれ、誰の絵なの? お客さんが訊いてるから教えてよ!」と声をかけた。 ”ツネ子”という名は、以前に客に人気があった女給の源氏名を、あつみが入店した翌日から踏襲していたのである。
「どれなの? あれね。右のほうのはルノアールの『水浴』。もちろん複製よ。左のほうは、スーラの『ポーズする女たち』だと思うわ」

 

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■「岩に座る浴女」(1892) 印象派を代表するフランスの画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールの作品。ルノワールが生涯の中で数多く手掛けた≪水浴の裸婦≫の1つ。

 

 その返事に、「田舎の若様」がオヤッというふうに、あらためてあつみの顔をまじまじと凝視した。ふたりの間に話題がほぐれたのは、それからである。「若様」は、東京帝国大学の学生で、津島修治だとはじめて名を明らかにした。おそらく夏休みに帰省していた修治が、帰京して間もなくの頃であったろう。
 その後の修治は、三日にあげずホリウッドのあつみの客になっていた。東西の絵画はもとより文学、演劇と話題には事欠かなかった。ことに文学の話になると、修治は人が変ったように能弁になった。あつみにとってなにより嬉しく思えたのは、修治の話しかたが決して女給(、、)を相手とする態度でなかったことだ。ひとりの人格を備えた女性として接してくれたことに、あつみが応じたのは、そうした事情があったからである。

  あつみは次第に、太宰に心惹かれていきます。「田舎からの送金が遅れているのだ」という太宰のために、多額の立替もしました。

 しかし太宰は、長兄・津島文治との仮証文の「覚書」に署名をし、同年11月24日には、文治の手引きで小山初代と結納を交わします。

 修治の話を聴きながらあつみは泣いた。語る修治も何度か嗚咽していた。聴き終えて、こんどはあつみが順三との生活のことをはじめて話した。いつのまにか辺りはとっぷり暮れて、銀座の店に出るにはもはや時間が経ち過ぎていた。どう考えてもこれから先、とても一緒になれそうなふたりでない。暫く無言で暗い川面を眺めているうち、どちらともなく”死”とい言葉が、不意と口をついて出た。その夜ふたりは、初めて結ばれた。

 ここからは、太宰とあつみの2人の足取りを、時系列で追っていきます。

【11月25日】

 太宰は、小舘保を含む友人4人と「ホリウッド」で看板まで騒いで痛飲。冷たい雨の夜の帰途、田部あつみも交えてタクシーに乗り、太宰は、あつみと2人、本所で下車しました。

【11月26日】

 本所から浅草に行って、見物しました。


【11月27日】

 太宰は、あつみを伴って、築地小劇場で照明係をしていた中村貞次郎津軽N君)と会います。
 その夜、神田区旅籠町1丁目10番地の「萬世(まんせ)ホテル」に宿泊。太宰は、「萬世(まんせ)ホテル」の便箋を使って、婚約者「初代どの」宛の遺書を記しました。

 「初代どの」宛の遺書には、次のように書かれていました。

お前の意地も立った筈だ。自由の身になったのだ。万時は葛西、平岡に相談せよ。

遺作集は作らぬこと

 また、あつみの身元を明らかにするため、同棲相手・高面の本籍「山口県玖珂郡米川村」を記したメモも添えられていました。

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■「萬世(まんせ)ホテル」の便箋に書かれた初代宛の遺書と、あつみの身元を明らかにするためのメモ 遺書が入った茶封筒には「鎌倉情死ノ場合」と書かれており、遺書を書いた段階では、心中の意志が固まっていないことが伺える。


【11月28日】

 午後、太宰とあつみは、「萬世(まんせ)ホテル」を後にし、鎌倉に向かい、同日夜半、神奈川県鎌倉腰越町小動崎(こゆるぎがさき)の海岸東側突端の畳岩の上で、2人で睡眠剤カルモチンを嚥下(えんげ)しました。

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小動崎こゆるぎがさきの海岸東側突端の畳岩

 新婚の死出の旅路。行き先に鎌倉を選んだのは修治であった。クスリは東京を発つまえに整えた。(中略)すっかり覚悟を定めたものか、晴ればれとした様子のあつみに較べて、修治のほうにはまだ一抹の不安が残されているように感じられた。彼は、最後の最後まで、自分たちの運命の転換に苦慮し続けていたのかも知れない。
 二十八日の夜、津島修治と田部あつみのふたりは、七里ヶ浜に連なる小動崎(こゆるぎがさき)畳岩の巖頭にあった。眼前に江の島が黒々と手が届くほど近くに見え、稲村ヶ崎の海の彼方に鎌倉の町の灯が漁火(いさりび)と交錯してキラキラ輝いて、この世のものとは思われないほど綺麗で、素晴らしい夜景を醸し出していた。

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■腰越町小動崎(こゆるぎがさき)全景

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年) 
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月27日

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11月27日の太宰治

  1935年(昭和10年)11月27日。
 太宰治 26歳。

 随想「人物に就いて」で言及される、小舘保治郎没。

『人物に就いて』

 1935年(昭和10年)11月27日、太宰のエッセイ『人物に就いて』の中に登場する小舘保治郎が亡くなりました。保治郎は、太宰の義弟・小舘善四郎の父。善四郎は、保治郎の三男です。
 太宰と善四郎は、太宰の四姉・きやうが保治郎の長兄・小舘貞一に嫁いだことがきっかけで、次兄・小舘保とともに親交を深めました。太宰は、善四郎のことを、弟のように可愛がったそうです。

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■太宰と小舘善四郎

 太宰のエッセイ『人物に就いて』は、1935年(昭和10年)11月23日に脱稿され、翌1936(昭和11年)1月1日発行の「東奥日報」第一五五八七号の第二十二面に発表されました。
 初出の際、文末尾に「(十一月二十三日しるす)」とあり、さらに「附言」として、「十一月二十五日小舘保治郎氏の訃報あり、この欄はその前にしるされたものである(編集者)」と記されています。

『人物に就いて』

 ちかごろ、歴史的人物で興ふかきは、やはり、乃木大将である。私、さきごろまでは、大塩平八郎を読んでいた。かれが、ひとりの門弟と論争して、お膳のかながしらの頭をがりがり噛んで食べた、ことなど、かれの人となりを知るに最もよきエピソオドであろう。けれども、いままた、乃木将軍が、よみがえって来て居る。一望千里の満州の赤土の原、あかあかと夕焼にてらされ、ひとり馬で歩いて居る猫背の乃木将軍のすがたが、この眼に見えるのだ。がいせんの折、陛下の御前に立ち、「なんの! これが、がいせんでございましょうや。私は、万人の部下を殺した男でございます。御処刑をこそ、おねがい申します」と言い、男泣きに泣いた。泣いた片眼は義眼であった。かれは、それを、ひたかくしにかくしていた。つい、先日、それが、はじめて、新聞に出て、世人を一驚させたことである。かれの生前、二三の人が、それを知って居るのみであった。かれ、常日ごろ、わが家に禁断の一部屋を設け、そこには誰も、いれなかった。かれは、しばしばそこに閉じこもるのである。家人、さだめし、御勉強のことであろうと緊張した。いずくんぞ知らん。その部屋は、かれの昼寝の部屋であった。またいう、東郷大将とふたり外遊の折、乃木、かならずその国一のホテルに宿り、手袋、煙草、すべて一流のもののみを用いた。あれほどの倹約家がと部下ひとしく眼を見はったが、かれ、思えらく、おれは日本を代表する将軍である。おれの一挙手一投足に依り、外国人、かならず、日本の評価をこそするにちがいない、と。(その余は、他日また)

 

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乃木希典(左)と東郷平八郎(右)



 私の兄はこの県で県会議員をして居る。太宰という県会議員はない、と頬ふくらますひともあろうが、私は、いつわりを言わぬ。毎朝いただいて居る東奥日報に拠れば、私の兄は、いま県会に於いてたいへん割のわるい役をして居るようである、私、いま、兄上に叱咤されるのを覚悟のうえで申しているのであるが、勘平役者が黒衣にまわったようで気持がよくない。けれども、また、葉落ちる秋あれば花咲く春あり。菅公のむかしからきまって居る。話は飛ぶが私の兄は、この地方に於いて最も注目されてよい人物の一人かもしれぬ。ソロモン王の底知れぬ憂愁をうかがい知り得る唯ひとりの人である。百万円きずきあげるよりも、百万円守るのが、むずかしいのだ。守るちからは、はたからは、絶対に見えぬ。やくざな私を、無言のうちに叩きあげて下さるのも、すべて兄上のちからである。兄上の峻厳と竹内俊吉氏のなごやかさは、県会に於いて、よいコントラストをなしたであろうに。惜しいことをした。

 

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■「私の兄」津島文治



 青森三通。ひとりは小舘保治郎氏であり、ひとりは、寺町の豊田太左衛門氏であり、いまひとりは、書のたくみな齋藤常次郎氏であろう。
 小舘氏は、孤芳と号し、俳句をつくられる。七八年前、相州鎌倉の御別宅にて、「正月や酒の肴もくにのもの」の一句を私に示された。まことに長者らしき、なごやかな、人柄そのままの自然の風ありて、われらの及ぶところでないと思った。
 豊田太左衛門氏は、ゆいしょある老舗の主人にして、これまた、長者のふうあり、もののわかりのよきこと無類、三四年前、私と一緒に銀座うらを漫歩せしことありしが、私をしてまるで、鏡花、荷風などの老文士とともに在るが如き思いを懐かしめた。

 

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■青森中学時代の太宰 前列左端が豊田太左衛門、右端が太宰、後列左が太宰の弟・津島礼治。太宰は青森中学時代、津島家の縁戚だった豊田家に下宿していた。

 

 齋藤常次郎氏は、いま、たわむれに書画骨董をあきなって居られる由であるが、そのひとがら、その前半生、明治初年に没したる大通中の大通細木香以(ほそきこうい)を思わせる態の洒脱(しゃだつ)の趣があるのである。細木香以に就いては、森鷗外くわしくこれを述べて居る故、われら小倉袴のぶんを以てかれこれ言うべきではないが、通人とは、世人が考えて居られる如き、芸者末社をひきつれ、自らを何のや主人と称して長唄の稽古にいそしみ、その巷に於いて兄さん兄さんと呼ばれて居る様の、そんなふざけたものではないようである。そこに人間の本然のすがたを見せ、はたまた厳酷なるダンディズムを感じさせるものをのみ指して言うのであろう。その点では、天下の大野暮乃木将軍も亦、ものの見事に通人の資格あらん乎。さもあればあれ、御三人、ちかごろの寒さにつけても、おからだお大切のこと、第一におねがいいたします。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月26日

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11月26日の太宰治

  1940年(昭和15年)11月26日。
 太宰治 31歳。

 十一月二十五日付発行の「帝国大学新聞」に「独語いつ時」(のち「かすかな声」と改題)を発表した。

『かすかな声』

 今日は、太宰のエッセイ『かすかな声』を紹介します。
 『かすかな声』は、1940年(昭和15年)11月上旬頃に脱稿。同年11月25日発行の「帝国大学新聞」第八百三十三号の第七面に『独語いつ時』の題で発表されました。

『かすかな声』

 信じるより他は無いと思う。私は、馬鹿正直に信じる。ロマンチシズムに拠って、夢の力に拠って、難関を突破しようと気構えている時、よせ、よせ、帯がほどけているじゃないか等と人の悪い忠告は、言うもので無い。信頼して、ついて行くのが一等正しい。運命を共にするのだ。一家庭に於いても、また友と友との間に於いても、同じ事が言えると思う。

 信じる能力の無い国民は、敗北すると思う。だまって信じて、だまって生活をすすめて行くのが一等正しい。人の事をとやかく言うよりは、自分のていたらくに就いて考えてみるがよい。私は、この機会に、なお深く自分を調べてみたいと思っている。絶好の機会だ。

 信じて敗北する事に於いて、悔いは無い。むしろ永遠の勝利だ。それゆえに人に笑われても恥辱とは思わぬ。けれども、ああ、信じて成功したいものだ。この歓喜

 だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。

 不平を言うな。だまって信じて、行け。オアシスありと、人の言う。ロマンを信じ給え。「共栄」を支持せよ。信ずべき道、他に無し。

 甘さを軽蔑する事くらい容易な業は無い。そうして人は、案外、甘さの中に生きている。他人の甘さを嘲笑しながら、自分の甘さを美徳のように考えたがる。

「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」

 自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。

「敗北とは何ですか。」
「悪に媚笑(びしょう)する事です。」
「悪とは何ですか。」
「無意識の殴打です。無意識の殴打は、悪ではありません。」
 議論とは、往々にして妥協したい(、、、)情熱である。

「自身とは何ですか。」
「将来の燭光を見た時の心の姿です。」
「現在の?」
「それは使いものになりません。ばかです。」

「あなたには自信がありますか。」
「あります。」

「芸術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」

「芸術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」

「きょうは、少し調子づいているようですね。」
「そうです。芸術は、その時の調子で出来ます。」

 

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【今日は何の日?
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【日めくり太宰治】11月25日

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11月25日の太宰治

  1946年(昭和21年)11月25日。
 太宰治 37歳。

 坂口安吾織田作之助と、改造社主催の座談会に出席した。この記録は、「改造」には未掲載のまま、昭和二十四年一月一日付発行の「読物春秋」新年増大号に「歓楽極りて哀情多し」と題して掲載された。帰途、坂口安吾織田作之助改造社の西田義郎などと銀座裏の「葵」で喫茶し、徳田一穂らと出逢った。さらに同日、坂口安吾織田作之助などと、銀座の並木通りを入った酒場「ルパン」に行った。写真家の林忠彦が現れ、皆の写真を撮った。

『歓楽極まりて哀情多し』

 1946年(昭和21年)11月25日、3日前に行われた実業之日本社主催の座談会に引き続き、銀座にある出版社・改造社の主催で、無頼派(ぶらいは)を代表する作家である太宰治坂口安吾織田作之助の3人による座談会が開催されました。
 座談会のテーマ歓楽(かんらく)(きわ)まりて哀情(あいじょう)(おお)し』とは、中国、前漢武帝の詩秋風辞(しゅうふうのじ)から取られた言葉で、「喜び楽しむことが極まると、かえって悲しみの情が生じる」という意味です。
 さて、座談会の行方や、如何に……。

『歓楽極りて哀情多し』

 坂  口    安  吾
 太    宰     治
 織 田 作 之 助

 

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■左から坂口安吾太宰治織田作之助

 

編集部 偶然にも今度、織田さんが大阪から来られて、また太宰さんは疎開先から帰って来られましたので、本当にいい機会ですから、今日の座談会は型破りというところで、ご自由に充分お話していただきたいと思います。

 小股のきれあがった女とは――

坂口 自然に語るんだね。
太宰 座談会をやることはぼくたちの生命ではない。政治家とか評論家とか、これが座談会を喜んでやる、生命なんです。ぼくは安吾さんにも織田君にも会って、飲むというだけの気持で出て来たのだよ。……傑作意識はいかん。
坂口 四方山話をしよう。
太宰 もっと傾向がウンと違った、仕様のない馬鹿がここにもう一人いると、また話が弾むことがあるかも知れない。
坂口 ぼくが最初に発言することにしよう。この間、織田君がちょっと言ったんで聞いたんだけれど、小股のきれあがった女というのは何ものであるか、そのきれあがっているとは如何なることであるか、具体的なことが判らぬのだよ。それはいったい、小股のきれあがっているというのは(そもそ)も何んですか!
太宰 それは井伏さんの随筆にもあったね。ある人に聞いたら、そいつはこれだ、アキレス腱だ。(脚を(たた)いて)アキレス腱だ。それがきれあがったんだね。
織田 だから走れないのだね。
坂口 ハイ・ヒールを穿いた……。
織田 ぼくは、背の低い女には小股というものはない、背の高い女は小股というものを有っていると思うのだ。
坂口 しかし、小股というのはどこにあるのだ?
太宰 アキレス腱さ。
坂口 どうも文士が小股を知らんというのはちょっと恥しいな。われわれ三人が揃っておって……。
織田 小股がきれあがったというけれども、小股がきれあがったというのは名詞でないのだ。形容詞なんだ。
太宰 だけどね。まア普通に考えれば、小股というのは、つまりぐっと脚が長くて……。
坂口 やはり、この間織田がそう言ったのだよ。そうすると、脚が長いとイヤなものですかね、女というものは? しかし、脚が長いだけでは……。
太宰 そういうものでもないのだよ。
坂口 和服との関係だね。脚が長ければ裾が割れてヒラヒラするね。歩き方と露出する部分との関係、そういうものではないかなア……。
織田 非常に中年的なものだ。だから中学生が小股のきれあがった女に恋したというのはあまりない。
坂口 だけど、まだ小股のきれあがった女というものは判らない、どんなものか?
織田 判らないけれども、知っているんじゃないか。ぼくは眉毛が濃いということも一つの条件だとするね。
太宰 何かエロチックなものを感じさせるのに、大根脚というものがあるでしょう、こっちの足首まで同じ太さのがあるね、ああいうのが案外小股のきれあがったのかも知れんよ……。
織田 しかし、それは小股のたれさがったというのだよ。あれが日本人の……。
坂口 脚が長いという感じが伴わないといかんね。
太宰 安井曾太郎(やすいそうたろう)やなんかの裸体は、お湯へ入って太く短くなって見えるでしょう。画家が好んでああいうものを描くでしょう。
織田 洋画家は(よろこ)ぶね。
太宰 エロチシズムはやはり若いような気がするね。風呂へ入ってバアッと拡がった脚がボッサリしていて、それこそ内股の深く(えぐ)られている感じの女は、裸にするとインワイではなくて、却って清潔な感じがする。
坂口 しかし、日本の昔の女にたいする感覚というのは、非常に肉体的でインワイなものだね。だいたいにおいて、精神美というものは何もないね。
太宰 ウン、芸者だとか娼婦だとかのいろいろな春画なんか、まるでいかんね。
坂口 ウン、まるでイカンね(傍らの女将に)あなた方は、小股のきれあがった女というのは、どういう風に考える、どういうことですか? 小股というのはどこにあるの?
女将 どこを言うんでございましょうね、判りませんわ。
太宰 アキレス腱だという説があるのだが。
女将 ハッキリしたひとを言うんじゃないでしょうか。
織田 ハッキリというのはどういうことですか?
女将 グジャついていない。
太宰 キッパリ。黙阿弥(もくあみ)ト書(とがき)にあるキッパリ。そうすると今の〇子なんぞ、だが、小股がきれあがってるのかね。
女将 そうなんでしょうね……。
太宰 今の女形で小股のきれあがっているのは誰だろう……。
織田 花柳(はなやぎ)なんかではないでしょうか。章太郎、――そうだろうね、あれはガラガラとした声で……。ぼくはいつか花柳章太郎(はなやぎしょうたろう)の楽屋へ行ったのだよ。「蛍草」という鷗外さんの芝居で出を待っている。腰巻を出して寝床を敷いてるんでね。辟易(へきえき)したよ。僕はやはり小股のきれあがった感じを受けたね。ガラガラした声でね。
坂口 鐵火(てっか)とも違うね。もっと色っぽいところがあるようだね。
太宰 鐵火(てっか)は大股だよ。
女将 河合さんがやった女形の方が小股のきれあがった感じが出ますね。
織田 大股、小股という奴があるわけだね。

 

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太宰治(1909~1948) 青森県北津軽郡金木村生まれ。本名、津島修治。左翼運動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格などがある。右端に写っている背中は、坂口安吾。撮影:林忠彦

 


 いなせな男

太宰 男にないかしら、小股のきれあがった男というのはないかね。
織田 結局苦み走った、というのだろう。
女将 いなせなところのある……。
織田 苦みというのはどういうものかな。この男は苦いとか、甘いとかいうのは?
坂口 それは精神的なものだね。
織田 精神的だというけれども、女のひとは精神的な男が好きなようです。
坂口 やはり眉に来るな。額――、僕は額に来ると思うな。昔の江戸前で、何か額の狭いということを言うね。ああいう感じだね。狭い。
太宰 額の狭いというのは非常に魅力なんだよ。
坂口 江戸前の男を額の狭いという。あいつは苦み走った、額が狭くて眉の太い――……。
太宰 いい容貌。
織田 春画を見ても額の広い春画は出て来ないね。
太宰 春画が出ちゃ敵はねえ。
坂口 近ごろ皆額が広くなったからね、われわれ見当がつかなくなった。
太宰 しかし、一時日本の美学で額が広いのは色男だということがありましたね。ぼくの知っている文学青年で判ったんだね。判ったら月代(さかやき)のようになって、そいつを月代(さかやき)といって笑ったけれども……。
織田 しかし、額が狭いという江戸時代の日本的美学というものは面白いね。
太宰 いいね。額があがっちゃ敵はねえよ。「婦系図(おんなけいず)」の主税(ちから)なんかでも、飽くまでも額が狭い。(額に手をかざして)ここから……。
坂口 職人の感じだね。左官とか、大工とか、そういう……。
女将 め組の辰五郎とか。
織田 一番女にもてる人種だよ。
坂口 近頃はもてないよ。新円でもてるかも知れないが。

 どんな女がいいか

坂口 女の魅力は東京よりか大阪にあるような気がするね。女というものは、本質的なものはないからな、やはり付焼刃の方が多いんじゃないかなあ。
織田 ぼくは大阪によらず、東京によらずだね……。
太宰 女は駄目だね。
坂口 ぼくは徹頭徹尾女ばかり好きなんだがな。
織田 ぼくはどんな女がいいか、――と訊かれたって、明確に返答出来ないね。
坂口 君はいろいろなことを考えているからな。形を考えたり……、着物を考えたり……。
織田 いやいや。その都度好きなんだよ。いま混乱期なんだ。前はやはり飽くまで背が高くて、痩せてロマンチックだとか、いろいろ考えていたけれども、今はもう何でもいい。
太宰 おれは乞食女(こじきおんな)と恋愛したい。
坂口 ウン。そういうのも考えられるね。
織田 もう何でもいいということになるね。
坂口 ぼくは近ごろ八つくらいの女の児がいいと思うな。
太宰 そういうのは疲れ果てた好色の後の感じで、源氏物語の八つくらいの女の児を育てるとか、裏長屋のおかみとか、そういうのは疲れ果てた好色の後だな。
坂口 インワイでないね、源氏物語は……。
太宰 可哀想ですよ、あの光源氏というのは……。
坂口 インワイという感じがない。
太宰 何もする気がないのだよ。ただ子供にさわってみたり、あるいは継母の……。
坂口 醜女としてみたり……。
織田 自分の母親に似た女にほれるとか、自分の好みは、前の死んだ女房に似ているとか……。
太宰 却ってああいうのはインランだね。したいんだけれど、ただこじつけて死んだ女房に似ているという、あれはあわれだな、ああいうのは……。
坂口 それはね、調子とか、何か肉体的な健康というものはあるのだよ。それはちょっとわれわれ三人は駄目だと思うな。落第生だよ。
織田 しかし、われわれはあわれではないよ。お女郎屋へ行って、知っている限りの唄を歌ったり……。
太宰 ウン、唄を歌ってね……。
織田 しかし、ああいうのはやはりいじらしいよ。
太宰 歌うのは、酒を二杯飲めばもう歌っている。歌いたくて仕様がない。二杯飲めば……。

 歓楽極まりて哀情多し

坂口 「歓楽極まりて哀情多し」というのは芸術家でないとね。凡人にはちょっとないね。
太宰 歌が出るのは健康だね。
織田 新婚の悲哀。
坂口 哀情は出るね、ああいうやつは必ずあわれだよ。
太宰 料理屋から出てくるでしょう。それから暗い路へ出て、「今日は愉快だったね」というだろう。ぼくはあれを見ると、実は情けないのだ。「今日は愉快だったね」っていうのが……。
織田 何か、「おい頑張れ」なんかともいうだろう、あれはいったい、何を頑張るんだよ。
太宰 それをやったよ。
坂口 まだ頑張れの方がいい。哀情というのがなおいかんね。
太宰 ああいう人達は寂しいのだね。それだから、「今日は愉快だったね」というんだろうね。
織田 寂しいのだよ。
太宰 温泉なんかへ行くだろう。すぐ宿のハガキを取寄せて書いているのだ。
坂口 あれが実に名文なんだよ。宿屋のハガキで書くのが、ぼくらなんかよりずっと文章が巧いよ。そういう文章の巧さでいったら、ぼくら悪文だよ。
織田 大悪文だ!
太宰 殊にぼくなんか。
坂口 女房や子供を説得する力というものはぼくらの領分ではないよ。
織田 文章だけでなしに、何につけても……。「ここがよかったら、もう一度来い」なんていわれて、また想い出して行くなんというのは、実際あわれだね。(笑声)
太宰 絵はがきの裏に、「ここへまた来ました」なんて……。
織田 帰りに宿屋を立ち出る時に、女中の名前を訊いて、「また来るよ、来年必ず来る、覚えておいてくれ」とかいって……。
太宰 身の上話をしてね。
織田 名刺を出して……。
坂口 あれもなかなかいいところがあるものです。
太宰 ぼくは身の上話というのはイヤだね。
坂口 あれはいいものだよ。
織田 いいものといっても一種の技巧だよ。身の上話を聴いてやる男は、必ず成功するよね。

 

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織田作之助(1913~1947) 大阪府大阪市南区生まれ。「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。夫婦善哉で作家としての地位を確立。短編を得意とし、出身地である大阪にこだわりを持ち、その作品には大阪庶民(特に放浪者)の暮らしが描かれている。ほか主な作品に『青春の逆説』『土曜夫人』などがある。撮影:林忠彦



 振られて帰る果報者

坂口 ところが、太宰さんは関西を何も知らない。静岡までしか行かないからね。ぼくは関西好きだな……。
織田 関西か――。
坂口 しかし、実際ぼくはね、関西へ行った感じでいうと、祇園に誰かが言った可愛いい女の子というのはいなかった。三十何人か会ったうち、二十七人ぐらいは見た。しかし、一人もいい子はいなかったよ、あの時はね。
織田 ポント町の方が居ります。
坂口 そう……。
太宰 気品というものは却ってある。
坂口 二流に気品をもっていますね。
織田 木屋町なんかにはいますね。一番雇女(やとな)にいますね。まア不見転(みずてん)芸者みたいなものだけれども……。
坂口 月極(つきぎ)めという制度があるの?
織田 月極めはない。雇女(やとな)はその都度。それは芸者だよ。
坂口 雇女(やとな)は月極めで来るんじゃないか。
織田 あれはその都度。芸者が月極めなんですよ。東京の人はそれを知らないから……。
坂口 だからぼくは勘違いしておった。
織田 祇園なんかへ行くでしょう。お茶屋の女将が、「泊りなさい」とかいって、それから歌麿のような女が寝室へ案内に出て、何か紅い行燈の火が入ってるところで、長襦袢なんかパアパアさせて、そのまますぐ「サイナラ」といって帰って行く、あれはちょっと残酷な響だよ。
坂口 怖い響だね、「サイナラ」という響はね……。
織田 その時は薄情に聞える。
太宰 女郎は「お大事に」というね。
織田 「サイナラ」でも、惚れている男に言うのと惚れていない男に言うのと大分違うね。その都度違うね。蛇蝎(だかつ)のように女に嫌われていると……。
太宰 嫌われた方がいいな。
織田 嫌われる方が一番いいんじゃない。
太宰 振られて帰る果報者か……。
坂口 もてようという考えをもっては駄目だよ。ところで、これが人間のあさましさだな、やはりもてない方がいい。ところが、京都へ行くと、そういうことを感じなくなるね。ああいうところへ行くとおれみたいな馬鹿なやつでも、もてようとか、えらくなろうとか、という感じを持てなくなってしまって、なんかこう流水のような、自然にどうにでもなりやがれ、という感じになってしまう。
織田 いま、一銭銅貨というものはないけれども、ああいうものをチャラチャラずぼんに入れておいて、お女郎がそれを畳むときに、バラバラとこぼれたりするだろう、そうするともてる。
太宰 どうするの?
織田 こいつは秘訣だよ。
太宰 一銭銅貨を撒くの?
織田 ポケットに入れておいて、お女郎がそれを畳もうとすると、バラバラこぼれるだろう。それがもてるんですよ。
太宰 ウソ教えている。
織田 百円札なんか何枚もあるということを見せたら、絶対にもてないね。
太宰 ウソ教えている。
坂口 そういう気質はあるかも知れない。京都でびっくりしたのは、一皮剝くというやつがある。例えば祇園の女の子なんか一皮剝かないと美人になれないという。七ツ八ツのやつを十七八までに一皮むくんだね。ほんとにむけるそうだよ。むけるものだ。渋皮がむけるというのは、きっとそれだと思う。しかし、こすってるそうだよ。検番の板場の杉本老人というのに聞いたんだが、ほんとうにこすっているそうだよ。姉さん芸者が子供を垢摩りでゴシゴシこすってるそうだよ。しかしね。こういう話は、現実的な伝説が多いので、割合にぼくは信用出来ないと思うけれどね。ヒイヒイ泣いてるそうだよ。痛がってね……。そういうことを言っていたのだよ……。

 女を口説くにはどんな手が……

織田 何かぼくら関西の話で、そういう伝説的なあれを聞くけれども、実際に見ないのだね。関西の言葉でも、「こういう言葉があるか」と訊かれたって、ぼくは聞かないのだね。京都弁より大阪弁の方が奥行があるのですよ。誰が書いても京都弁は同じだけれども、大阪弁は誰が書いても違う。同じなのは、「サイナラ」だけだと思いますね。
坂口 ぼくが君たちに訊きたいと思うことはね、日本の小説を読むと、女の方が男を口説いている。これはどういう意味かな。たいがいの小説はね。昔から男の方が決して女を口説いておらぬのだね。
織田 あれは作者の憧れだね。現実では……。
坂口 どうも一理あるな、憧れがあるというのは……。
太宰 でも、近松秋江(ちかまつしゅうこう)がずいぶん追駆けているね。荷車に乗ったりなんかしてね……。
坂口 現代小説の場合もたいがいそうだよ。女が男を口説いている。こういう小説のタイプというものは変なものだね。
織田 そう。健康じゃないね。
太宰 兼好法師にあるね。女の方から、あな美しの男と間違うて変な子供を生んでしまった。
坂口 すべての事を考え、ぼくたちの現実を考えて、男の方が女を口説かなかったら駄目だろう。
織田 ぼくらがやはり失敗したのはね、女の前で喋りすぎた。
太宰 ちょっと横顔を見せたりなんかして、口唇をひきつけて……。
坂口 日本のような口説き方の幼稚な国ではね、ちょっと口説き方に自身のあるらしいようなポーズがあれば、必ず成功するね。ぼくはそう思うね。日本の女というものは、口説かれ方をなんにも知らんのだからね……。
太宰 だから口説かれるんじゃないの……。
坂口 口説く手のモデルがない。男の方がなにももっていない。
織田 ぼくは友達にいったのだけれど、ここでひとつ教えてやろう。「オイ」といえばいいんだ……。「オイ」といえばね。
太宰 言ってみよう。それで失敗したら織田の責任だぞ。「オイ」なんて反対に殴られたりしちゃって……。

 素人と玄人と

坂口 ところで、祇園あたりはあれかい、舞妓というのにも旦那様があるのかい?
織田 ない。舞妓の旦那になるということはね。舞妓の水揚げをするというのだよ。舞妓自身は、……一本になるというか、衿替(えりかえ)とかね。それは判るんだよ。あの児はもう三月もすれば衿替えをするとか言ってね。
坂口 そういう生活費はどうなるの、あとはお前は誰に惚れてもいい、ということになるの?
織田 ならない。
坂口 やはり旦那様が?
織田 そう。素人のよさが出ていると思うね。
太宰 素人も何もちっとも面白くないじゃねえか。
坂口 やはり素人のよさがあるのだよ。あれは大変なものだ。
太宰 筋が?
坂口 君は玄人過ぎるんだよ。そういう点でね……。ぼくは半玄人だけれど、君は一番玄人だ。
太宰 井伏さんというのは玄人でしょう。「お前は羽織を脱がないからいけない」羽織を脱げ、芸人のように羽織を脱げ脱げというのだよ。
坂口 もっと素人だよ。もっと純粋の素人だけれど……。
織田 ぼくは人知れず死んで仰向けになって寝ているというのは好きなんだよ。
坂口 物語というのは作れないのだね、日本人というものは……。
太宰 そうなんですね。
坂口 太宰君なんか、君みたいな才人でも、物語というものは話に捉われてしまう。飛躍が出来ない。物語というものは飛躍が大切なんだ。
太宰 こんどやろうと思っているのですがね。四十になったら……。
坂口 飛躍しないと……。
太宰 ぼくはね、今までひとの事を書けなかったんですよ。この頃すこうしね、他人を書けるようになったんですよ。ぼくと同じ位に慈しんで――慈しんでというのは口幅(くちはば)ったい。一生懸命やって書けるようになって、とても嬉しいんですよ。何か枠がすこうしね、また大きくなったなアなんと思って、すこうし他人を書けるようになったのですよ。
坂口 それはいいことだね。何か温たかくなればいいのですよ。
織田 ぼくはいっぺんね、もう吹き出したくなるような小説を書きたい。ぼくは将棋だって、必ず一手、相手が吹き出すような将棋を差す。
坂口 一番大切なことは戯作者ということだね。面倒臭いことでなしに、戯作者ということが大切だ。これがむずかしいのだ。ひとより偉くない気持ち……。

 

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坂口安吾(1906~1955) 新潟県新潟市西大畑通生まれ。本名、坂口炳五(へいご)アテネ・フランセでフランス語を習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。主な作品に堕落論』『白痴』『桜の森の満開の下などがある。撮影:林忠彦



 女が解らぬ、文学が解らぬ――

織田 ぼくは欠陥があって、()が解らない。
太宰 文学が解らぬ。女が解らぬ。
坂口 何もわからぬ。ぼくは今のインチキ絵師のものだけは解る。
太宰 三人はみなお人好しじゃないかと思うのだ。
織田 ウン、そうだ。
坂口 すべてひどい目にあって、――ひどい目にあいますよ。
織田 やがて都落ちだよ。一座を組んで……。
坂口 そんなことはないよ。おれが頑張ったら……。このおれが……。
太宰 あなた(坂口氏に)が一番お人好しだよ。好人物だ。
織田 今、東京で芝居しているけれども、やがてどっかの田舎町の……。
坂口 そうじゃないよ。太宰が一番馬鹿だよ。
織田 今に旅廻りをする。どっか千葉県か埼玉県の田舎の部落会で、芝居をしてみせる。色男になるよ。一生懸命に白粉を塗ってね。
編集部 大変お話しが面白くなってきましたが、今日はこのへんで、どうも。

  座談会終了後3人は、3日前に行われた日本実業出版社主催の座談会の時と同様に、再び銀座のバー「ルパン」へなだれ込みます。この時、写真家・林忠彦が3人の有名な写真を撮影しました。

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林忠彦(1918~1990) 山口県出身の写真家。太平洋戦争後の日本の風俗や文士、風景など多岐にわたる写真を撮影した。特に文士を撮影したものは有名で、銀座のバー「ルパン」で知り合った織田作之助太宰治坂口安吾の酒場での姿は、林忠彦の名を世に知らしめた。特に太宰のネクタイ姿の肖像写真が有名で、撮影の2年後、太宰が劇的な自殺を遂げたことで、使用注文が相次いだという。

 その後、太宰と安吾は、織田の宿泊する佐々木旅館へ立ち寄り、さらに飲み続けます。太宰は立て続けにタバコを吸い、織田はしきりにヒロポンを注射していたといいます。
 翌月の12月4日、織田は喀血。絶対安静状態となったために、この座談会の校正ができず、「改造」への座談会掲載は見送りとなりました。
 対談から3年後、時を経た1949年(昭和24年)1月1日付発行の「読物春秋」新年増大号に、歓楽(かんらく)(きわ)まりて哀情(あいじょう)(おお)し』と題して、はじめて掲載されました。

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■「銀座・ルパン 2017年、著者撮影。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・HP「坂口安吾デジタルミュージアム
・HP「平成の松下村塾
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】