記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】如是我聞(一)

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今週のエッセイ

◆『如是我聞(にょぜがもん)(一)』
 1948年(昭和23年)、太宰治 39歳。
 1948年(昭和23年)2月27日に脱稿。
 『如是我聞(一)』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号に掲載された。

「如是我聞(一)

 他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
 これは、仏人ヴァレリイの(つぶや)きらしいが、自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来たようなので、様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設け、こんなことは大袈裟(おおげさ)とか、或いは気障(きざ)とか言われ、あの者たちに、顰蹙(ひんしゅく)せられるのは承知の上で、つまり、自分の抗議を書いてみるつもりなのである
 私は、最初にヴァレリイの呟きを持ち出したが、それは、毒を以って毒を制するという気持もない訳ではないのだ。私のこれから撃つべき相手の者たちの大半は、たとえばパリイに二十年前に留学し、或いは母ひとり子ひとり、家計のために、いまはフランス文学大受け、孝行息子、かせぐ夫、それだけのことで、やたらと仏人の名前を書き連ねて以て所謂(いわゆる)「文化人」の花形と、ご当人は、まさか、そう思ってもいないだろうが、世の馬鹿者が、それを昔の戦陣訓の作者みたいに迎えているらしい気配に、「便乗」している者たちである。また、もう一つ、私のどうしても嫌いなのは、古いものを古いままに肯定している者たちである。新らしい秩序というものも、ある筈である。それが、整然と見えるまでには、多少の混乱があるかも知れない。しかし、それは、金魚鉢に金魚()を投入したときの、多少の混濁の如きものではないかと思われる。
 それでは、私は今月は何を言うべきであろうか。ダンテの地獄篇の初めに出てくる(名前はいま、たしかな事は忘れた)あのエルギリウスとか何とかいう老詩人の如く、余りに久しくもの言わざりしにより声しわがれ、急に、諸君の眠りを覚ます程の水際立った響きのことは書けないかも知れないが、次第に諸君の共感を得る筈だと確信して、こうして書いているのだ。そうでもなければ、この紙不足の時代に、わざわざ書くてもないだろう、ではないか。
 一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
 家庭である。
 家庭のエゴイズムである。
 それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。 私は、或る「老大家」の小説を読んでみた。何のことはない、周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せているだけであった。軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである。
 世の中をあざむくとは、この者たちのことを言うのである。軽薄ならば、軽薄でかまわないじゃないか。何故、自分の本質のそんな軽薄を、他の質と置き換えて見せつけなければいけないのか。軽薄を非難しているのではない。私だって、この世の最も軽薄な男ではないかしらと考えている。何故、それを、他の質とまぎらわせなければいけないのか、私にはどうしても、不可解なのだ。
 所詮(しょせん)は、家庭生活の安楽だけが、最後の念願だからではあるまいか。女房の意見に圧倒せられていながら、何かしら、女房にみとめてもらいたい気持、ああ、いやらしい、そんな気持が、作品の何処(どこ)かに、たとえば、お便所の臭いのように私を、たよりなくさせるのだ。
 わびしさ。それは、貴重な心の糧だ。しかし、そのわびしさが、ただ自分の家庭とだけつながっている時には、はたから見て(すこぶ)るみにくいものである。
 そのみにくさを、自分で所謂「恐縮」して書いているのならば、面白い読物にでもなるであろう。しかし、それを自身が殉教者みたいに、いやに気取って書いていて、その苦しさに(えり)を正す読者もあるとか聞いて、その馬鹿らしさには、あきれはてるばかりである。
 人生とは、(私は確信を以て、それだけは言えるのであるが、苦しい場所である。生れて来たのが不幸の始まりである。)ただ、人と争うことであって、その暇々に、私たちは、何かおいしいものを食べなければいけないのである。
 ためになる。
 それが何だ。おいしいものを、所謂「ために」ならなくても、味わなければ、何処に私たちの生きている証拠があるのだろう。おいしいものは、味わなければいけない。味うべきである。しかし、いままでの所謂「老大家」の差し出す料理に、何一つ私は、おいしいと感じなかった。
 ここで、いちいち、その「老大家」の名前を挙げるべきかとも思うけれども、私は、その者たちを、しんから軽蔑(けいべつ)しきっているので、名前を挙げようにも、名前を忘れていると言いたいくらいである。
 みな、無学である。暴力である。弱さの美しさを、知らぬ。それだけでも既に、私には、おいしくない。
 何がおいしくて、何がおいしくない、ということを知らぬ人種は悲惨である。私は、日本の(この日本という国号も、変えるべきだと思っているし、また、日の丸の旗も私は、すぐに変改すべきだと思っている。)この人たちは、ダメだと思う。
 芸術を享楽する能力がないように思われる。むしろ、読者は、それとちがう。文化の指導者みたいな顔をしている人たちのほうが、何もわからぬ。読者の支持におされて、しぶしぶ、所謂不健康とかいう私(太宰)の作品を、まあ、どうやら力作だろう、くらいに言うだけである。
 おいしさ。舌があれていると、味がわからなくて、ただ量、或いは、歯ごたえ、それだけが問題になるのだ。せっかく苦労して、悪い材料は捨て、本当においしいところだけ選んで、差し上げているのに、ペロリと一飲みにして、これは腹の足しにならぬ、もっとみになるものがないか、いわば食慾に於ける淫乱である。私には、つき合いきれない。
 何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。
 或る「老大家」は、私の作品をとぼけていていやだと言っているそうだが、その「老大家」の作品は、何だ。正直を誇っているのか。何を誇っているのか。その「老大家」は、たいへん男振りが自慢らしく、いつかその人の選集を開いてみたら、ものの見事に横顔のお写真、しかもいささかも照れていない。まるで無神経な人だと思った。
 あの人にとぼけるという印象をあたえたのは、それは、私のアンニュイかも知れないが、しかし、その人のはりきり方には私のほうも、辟易(へきえき)せざるを得ないのである。
 はりきって、ものをいうということは無神経の証拠であって、かつまた、人の神経をも全く問題にしていない状態をさしていうのである。
 デリカシィ(こういう言葉は、さすがに照れくさいけれども)そんなものを持っていない人が、どれだけ御自身お気がつかなくても、他人を深く痛み傷つけているかわからないものである。
 自分ひとりが偉くて、あれはダメ、これはダメ、何もかも気に入らぬという文豪は、恥かしいけれども、私たちの周囲にばかりいて、海を渡ったところには、あまりにいないようにも思われる。
 また、或る「文豪」は、太宰は、東京の言葉を知らぬ、と言っているようだが、その人は東京の生れで東京に育ったことを、いやそれだけを、自分の頼みの綱にして生きているのではあるまいかと、私は疑ぐった。
 あの野郎は鼻が低いから、いい文学が出来ぬ、と言うのと同断である。
 この頃、つくづくあきれているのであるが、所謂「老大家」たちが、国語の乱脈をなげいているらしい。キザである。いい気なものだ。国語の乱脈は、国の乱脈から始まっているのに目をふさいでいる。あの人たちは、大戦中でも、私たちの、何の頼りにもならなかった。私は、あの時、あの人たちの正体を見た、と思った。
 あやまればいいのに、すみませんとあやまればいいのに。もとの姿のままで死ぬまで同じところに居据ろうとしている。
 所謂「若い者たち」もだらしがないと思う。雛段(ひなだん)をくつがえす勇気がないのか。君たちにとって、おいしくもないものは、きっぱり拒否してもいいのではあるまいか。変らなければならないのだ。私は、新らしがりやではないけれども、けれども、この雛段のままでは、私たちには、自殺以外にないように実感として言えるように思う。
 これだけ言っても、やはり「若い者」の誇張、或いは気焔(きえん)としか感ぜられない「老大家」だったなら、私は、自分でこれまで一ばんいやなことをしなければならぬ。脅迫ではないのだ。私たちの苦しさが、そこまで来ているのだ。
 今月は、それこそ一般概論の、しかもただぷんぷん怒った八ツ当りみたいな文章になったけれども、これは、まず自分の心意気を示し、この次からの馬鹿学者、馬鹿文豪に、いちいち妙なことを申上げるその前奏曲と思っていただく。
 私の小説の読者に言う、私のこんな軽挙をとがめるな。

 

如是我聞と太宰治

 太宰最後のエッセイとなる『如是我聞』は、1948年(昭和23年)3月1日発行の「新潮」第四十五年第三号から同年7月1日発行の「新潮」第四十五年第七号にかけて、4回にわたって連載されました(ただし、同年4月1日発行の「新潮」第四十五年第四号は休載)。

 今回は、『如是我聞』が連載された「新潮」を出版する新潮社の編集記者・野平健一(1923~2010)の回想『如是我聞と太宰治を紹介します。この回想は、1948年(昭和23年)6月1日発行の「新潮」第四十五年第六号の「追悼」欄に発表されました。

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「如是我聞」は、「新潮」が、板のように薄い太宰治の胸を金槌(かなづち)でなで、塩辛とんぼの尾の如く細い腕をヤットコでおびやかす態そのまま、無理無体、ねばねばしつこく喰いついて、宛然(えんぜん)「命ずる」が如き有様で書かせたのであるから、無茶も度が過ぎるぞ、屋形舟に大根積ませるようなことは止めろ、太宰治の才を殺し、いびる者は、かの「新潮」の貪婪(どんらん)強欲作家いじめ猫かぶり狐狸の知慧(ちえ)で、最下等のジャアナリズムである、太宰には、ただ小説を書かせれば、それが気品もった雑誌道だ、と、この巷間流説は、はっきり言います。巷間人の無感覚、無理解、乃至(ないし)嘘である。
「如是我聞」は太宰氏がいやいやではなく、みずから(えら)まれた一個の果実であった。だれの口添でもない、声援でもない、氏みずからの魂である。
 死人に口なし――俗言がかなしい。さればこそ私は、細心の注意を払って、情による事実の歪曲を防ぎ、我れと我が心に、落著(おちつ)けと一言、命じつつ書くつもりである。
「如是我聞」の第一回(本誌三月号)を書かれたとき、氏は、その数日前の約束あったにもかかわらず、一度はすねて、書くことを、ためらわれた。そのとき私は、僭越(せんえつ)ながら氏の、ためらいの理由はよくわかっているつもりであった。そうして、先生も、「そうだ、そうだおまえの想像通り。もう一寸(ちょっと)待て」と、軽く笑った目顔で、書きたくないのではない、書こうと思って最初の一句、喉まで出かかったその瞬間、出鼻をくじく見事な一言が、傍の女性(いま有名)の口をついて出たのである。
「ノヒラさん、先生が可哀そうだと思ったら、あきらめなさいよ、死んでしまうわよ」
 彼女の目は、先生を見ていたのではない、見ていたのは針の糸目であった。
 先生は、にわかに、はにかみ、ふっと口をつぐんだ。けれども直ちに気を取り直して、口元は、もう一度、枕の言葉でふるえかけたのを、彼女はさらに盲目の追い打ち。
「書きたくないものを、無理にせめては、だめよ」
 己が意に反して、ひとの心を迎えるにもとより敏な氏は、
「そうだ、そうだ、書きたくないものを書くのは不健康。いのち取り。いのち取り」
 ふるえた口元をついて出た句は、似ても似つかぬ意想外のものになってしまい、氏御自身酒をさっとあおらぬわけには行かぬ。
 先生の心は、フザケて(いわ)く「(おもて)には快楽(けらく)よそおい、心にはなやみわずらう」。先生は書きたいのだ。
 先生の知慧はひろく、機を見て、美味の食欲をふるい起し、傍のいまは名のある女性に用事言いつけ、買物に出し、留守中ねらって、そうして「如是我聞」は始まった。所詮、先生は書きたかったのであった。書かずには、いられなかったのである。

 

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■「傍の女性(いま有名)」と書かれた、太宰の愛人・山崎富栄

 

「疲れた。仕事は矢っぱり疲れる。栄養をとらなくてはいけない」
 太宰さん(ここまでは、太宰氏とか、太宰先生とか書いてきたが氏、先生はどうもいけない、気持にそぐわぬ。「先生」は淋しく、「氏」は堅すぎる)は、てのひら大のカニをゆっくり開き始め、そうして手を休めると、
「ノヒラ、おまえも食えよ。うまいものを食って(ふと)らなくてはいけない。奥さんに負けるぞ。女房がそう言ってた。奥さんは体格がいいから、ノヒラは可哀そうだ。もっと栄養をとって、肥らなくてはいけません、そうだぞ」
 私はカニの器用な食べ方というものを、こういう時の用意に、はっきり研究して、食通の、せめてまがいものぐらいにでもなっていなかったことを、痛く口惜しがった。私はそろそろと手を動かし、大した食欲もなしという(にせ)の面持で、その実、顔をあげることが出来なかったのであるが、「カニ如何(いか)に食すべきや」という市販の図書を想像したりした。
 腹部の殻を破壊すると、すぐに表面に白い小刀のさや上のものが並んでいる。三本つまんで食してみた。内容空疏(くうそ)の味であった。私は意味もなく、吐き出した。
 カニは食っても、ガニは食うな。俗言を一句、それでも、カニを食するに当っての注意、それだけ聞き知っていた私は、そのガニ部(、、、)に何時行き当るかも知れぬと、ひそかに恐れた。ニガいものであろうと思った。黄色であるような気がした。白い小刀のさや(、、)は、内容空疏の味(ゆえ)に、敬遠して奥に進んだ。はたせる(かな)、黄色の発見。私は黄色いものをつまみ出し、皿の隅に、こわごわ除けた。
「それが、いちばんうまいから食べてみないか」
「ええ」
 私の返事は、まるで黄色こそ佳味(かみ)、さればこそ、ピック・アップと言わんばかりの軽ろやかさになったので、胸をなで下して、喜んだ。
カニは、ここのところがあぶないんだ」
 太宰さんのつまんでいるのは、正しく、たったいま、私が食して内容空疏を訴えた、そのところである。
「ええ」と、もう一度、嘘のようになめらかに――ふと、その様な願いが胸を満した。
 私は全身火になる思いで、生命(いのち)を惜しみ、愕然(がくぜん)の驚きを覆うてだてもなく、
「いけねェ、いま口に入れてしまったんですが、大丈夫でしょうか」
「入れただけか?」
「ええ、すぐ吐き出したんですが」
「ああ、それなら大丈夫だ」
 それから、太宰さんは、私のカニの手さばき、口さばきを逐一監視し、いちいち修正を加えて、終りに曰く、
「手すじはいいようだ」
「いや、もう苦しくていけないです。太宰さんの前でものを食べるのは、大苦行ですよ。何を食べたんだか判らなかった」
「生きた心地もしないだろう」
 大冗談であるべき、この句は、実に、私にとっては実感のこもったものであった。笑って聞ける句ではない。それまで、太宰さんの身辺にいて、一日、(おこない)を共にしたときの私は、必ず「生きた心地」を失った。太宰さんの言行が、事ほど左様に、といっていい、かなしい雰囲気と性癖を持っていたのだ。

 

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■太宰の好物・カニ 野平が敬遠した「黄色」は「蟹味噌」。「白い小刀のさや(、、)」はカニのエラ(ガニとも呼ばれる)。エラはカニが呼吸するための、つまり水中の酸素を取り入れるための器官であり、直接海水を取り込んでいる部分。海水には雑菌や人間にとって有害な生物もおり、それが付着しているエラは食べてはいけないと言われる。

 

 日を隔てて、稿料を届けに行った私の前に、黙ってぽいと、ひととじの原稿が投げられた。「桜桃」(「世界」五月号)である。読み終った私は、茫然(ぼうぜん)、涙ぐみ、じっと、太宰さんの顔を見上げるだけで、いつものことではあるが、このときは(こと)に当惑を極め、狼狽を感じた。
「どうだい」
「ええ」
「なにも言えねえのか。しようがねえなア」
 私は「桜桃」を(すべ)らすように、太宰さんの膝下に返したのであるが、そのとき一角に声あり。手を差し出して、
「どおれ、私にみせて」
「へっ、何にでも眼を通そうと思ってやがる。小説なんてわからねえくせに」と太宰さんは女に向って言い、さらに私に向い、
「なあノヒラ、見せたらいけないな。見せないほうがいいだろう」
「いけないですね」
 私は、太宰さんの前で、初めてはきはき答え、溜飲(りゅういん)をさげる思いであったが、いま有名の女性の手は傍若無人、ためらいなく「桜桃」をかすめ取った。暴力には無抵抗、べそかいて、唇をかむ。
 私は遺憾の意(あま)って、飛びかかりたい衝動を感じたが、実行するには、内外共々距離の遠さに身がふるえ、そうしてあきらめた。
 私は、太宰さんの将来のある作品の題名が、「桜桃」であろうなどと、大それた予言の才を持たぬ。けれども「ある作品」を予想することは、至難の業というわけではなかった。いつか、いつか、きっと現われる「ある作品」、太宰さんの机上の原稿用紙の空いた桝目(ますめ)をいつか埋める「ある作品」、余計なことかも知れぬが、私は「ある作品」の活字に現われる、「いつか」というものを、タブウの如くおそれていた。その周囲を低迷、(あご)をつまんでは退却していた。まぎれもなく、タブウである。私は太宰さんの自宅に伺うたびに、タブウタブウと思っていた。度を超えた親切、鄭重(ていちょう)すぎるお世辞、これがタブウに向けられるならば、つらい悲しいの段ではない、ヒサンであろう。タブウとは、善意といえど、近づいてはならぬの意。ひと知るや否や。
 もし仮に、ひと知れず、一家内にタブウがあれば、それに近づき得るのは、あるじ(、、、)だけ、それだけであろう。
 あるじ(、、、)家内(いえうち)故に、いっそ、声ひそめ、息をころしてタブウに歩みより、鍵落して扉を開く。「ただ山に向いて、眼を挙ぐ」の情。そうしてついに、「ある作品」の出現。
 すなわち「桜桃」。
 私は太宰さんを、自宅まで送りとどけねば、気が安まらなかった。
 ネーヴルをかかえた女も、お宅の附近までついてきた。
 (よい)を全身にのこしている太宰さんは、背をまるめ、ズボンのポケットに両手をつっこみ、川べりを、蹌踉(そうろう)、右に傾き、左へ寄り、無言で歩み、家路に向う。
 玄関を開くなり、
「ノヒラ君のところで、仕事をしてた」

 

 最後の長篇「人間失格」のため、太宰さんは熱海行。「桜桃」の風景は移らぬ。思い余って、
「ノヒラ君、だれか手伝いの、おばあさんでもないかしら。みつけてくれないか。……駄目かも知れないなア。誰が来たって、女房は直ぐに帰してしまうんだから」
 私は、言いたいことがあるのだけれども、度の過ぎた親切を見せることが、相手が太宰さんだからためらわずにはいられなかった。
「親切」と「迷惑」の境のことは、私は、偶然のことから、編集者稼業選んで、偶然、太宰さんに度々お目にかかるようになるまでは、はっきり知っている自信を持っていた。そうして、私は太宰さんをひそかに、生存している日本人の唯一の星かも知れぬと思いつめる日がきた。誰もが、そう思い込むような、つき合いをする太宰さんであるから、言うをはばかるのではあるが、そのひとに、何故か知らぬ、どうやら、私も愛されているらしい節々を見るような気がしだして、そうして(かえ)って「親切」と「迷惑」の境が、ぽっと煙って幕になった。太宰さんには何も言えない、何も出来なくなった。私は自信を失ったのである。日本一のひとを、ちらちらと憎む。何もかも、現世のありとあらゆる機微は知りつくした、という姿を見せた太宰さんには、私ごとき半端者的被教育者は、ただ自分の言行が恥じられ、おそろしく臆病になって、(ほとん)ど、がんじがらめの有様に化し、動けないのである。アクマではないかと疑い、殺したいと思う瞬間があった。
 けれども、思い返して、どうせ太宰さんが何もかも、人間の、あらゆる情念について知りつくしているなら、私のおそれも、恥じらいも、も(はや)ちりあくたにも等しかろう、「親切」も「迷惑」も、ええままよ。ためらいをなげうった。私は(かしら)を下げ、足先一間に目をやったまま、
「うちのやつを、どうでしょう。……どうせ、遊んでいるんですけど」
「うん、そうねがえると、一番いいんだが。退屈しのぎに遊びにでも来るつもりで。どうだい、あした、日曜だから一緒に遊びに来ないか。奥さんに、夫婦の道をといてやるよ。……君なら女房に信用(全身でお詫びを言いたい、いわば追いつめられて、裏切った姿、そうしています)があるから、いいだろう」

 

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 翌日、女房は太宰さんの都々逸(どどいつ)を真似して喜び、さらに、いつか義太夫をお聞かせすると云われて、大期待していた。女房は笑いころげて、暑い暑いと言い、窓を開いたら、ばったり、人の姿を発見、珍しそうに、一間先のひとの顔を眺めていた。太宰さんも、ちらと目をやり、あわてたふりして、中腰になり、
「おい、おい、和英辞引はどこだ、どこだ」と、まわりを見廻し、棚に手をつっこんでさがしている。
「ないぞ、ないぞ、ヘドという英語はなんだ。ヘドって言うのは、英語でなんて言うんだ」
 太宰さんは、進駐軍の兵士が、真赤な顔で嘔吐しているのを、眺めたために、文句つけられはしないか、その時は、ヘドという英語を知らないばかりに、ピストルずどんを恐れたのだそうで、女房は、あやまりながら、また笑い転げた。

 

 太宰さんの熱海の仕事は、大へんはかどったらしかった。途中、何かの用事で上京され、大事な笑い話を置いて行った。
 以前から女を「看護婦」だ、とは言っていたのであるが、その真の意味を発揮させるために、女を熱海の街に使いに出し、ブロバリン錠を買いにやらせたら、何かブの字のつく下剤を買ってきて、それを飲んだから大へん、眠るどころか、五分に一ぺん、飛び起きて長い廊下をバタバタ、腰を折るようにして走らなくてはならなかった、というのである。
 熱海から手紙をいただいた。二回目の「如是我聞」の連絡に、帰京の日を知らせて下すったのである。そうして、「酒をつつしんで、大変元気になりました」と、嘘が書いてあった。「また二人だけでやりましょう」。私は、二日間、終日膝を屈している苦痛がよみがえってきた。追伸に、「この手紙は大切な手紙ですから、保存して置いて下さい」とあったが、どういう意味か、私には、いまでも判らぬ。
 二回目は、容易に始まったのであるが、たちまち千客万来、挫折も容易であった。
 その晩、太宰さんの仕事部屋で、自殺未遂さわぎがあった。初対面の青年である。
「どうしてこんなに、おればかり、いじめなくちゃならないんだろうなア」太宰さんは両手で顔を覆った。私と二人だけになったときである。
「そうしてまた、まるでおれに怨みがあるみたいに、おれの部屋で自殺なんかするんだろう。女にふられたばかりに、そいつの家の松の木にぶら下ったとか、軒下でつる、という話はよくあるけど、おれに何の怨みも無いじゃないか」
「いや、先生、どういったらいいんですか、ともかく、どういうものか、ここなら死んでもいい、という雰囲気のようなものが、先生とお酒をのんでいると、あるような気がするんじゃないかと思うんです」
 が私は、言いにくいのを、我慢して言った。去年、三月の初め、太宰さんと一緒に、「斜陽」の第一回分を、伊豆三津浜で書きあげて、東京へ帰って来たときのことを、まざまざと思い起したのである。
 私は、太宰さんの手紙に従い、奥さんから肌着、ワイシャツ、さるまた、金子(きんす)若干をあずかって三津浜へ届けた。作品は出来ていたので、着いた日に、太宰さんは田中英光氏と同道、長岡温泉で終日遊び、翌日、沼津で汽車に乗った。汽車は極めて空いていたのだが、何か、車掌の言葉を聞きかじって、この汽車は小田原からは非常にこむと主張し、旅をするのに、目的地へ、ただマッシグラに馳せつけるのは、不健康、不健康、いやになったら直ちに下車だ、と言いながらK駅で降りた。始めからその積りでいたのであろう。
「ノヒラ、おまえが『斜陽』を書かせているんだから、お前も『斜陽』のモデルを知って置く必要がある」
 御殿場線沿線の可愛い家は、留守だった。ちょうど、東京へ行かれたのだそうである。太宰さんは、そこへ一晩とまる積りであったらしかったが、仕方なく、駅前のべんとう仕出し屋で、リュックサックに入れてきた焼酎の瓶をあけながら、終列車を待ち、K駅まで引返した。

 

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■『斜陽』のモデル・太田静子

 

 夜更けて、白鳥の定宿、と教えながら、K館にとまり、二人で風呂につかって、(とこ)についても寝られず、腹ばいで私には「斜陽」の第一回を読むように言い、自分では「クレーヴの奥方」を、しきりに読みふけっていた。
 私は原稿を読み終って、しばらくそのままの姿勢でいたら、太宰さんは、「どうだい、次号が待たれるだろう」と言われる。私は笑いながらただ小さく首を前後にふった。
 翌朝、一番の汽車に乗ろう、と言いながら寝すごして、通勤列車というやつのデッキに押しつけられるようにして、乗っていたが、横浜で、あまり冷えてしまったので、とうとう我慢しきれなくなり下車してしまった。横須賀線の空いたやつに乗ろうと言うのだが、待っても待ってもだめであった。
 太宰さんは、進駐軍の乗降所の黄色いてすり(、、、)によりかかって、外国人を長い間、じっと見ていた。その後姿(うしろすがた)は、風景を完成して居り、私は、天賦の名優だと思った。長身、猫背で、形のくずれた帽子、ダラリと下ったリュック、兵隊靴。私は胸に満ちるものがあった。
 待ちくたびれ、手先がこごえそうになって、飲酒を思い立ち、伊勢佐木町を目ざした。朝の十時、中華人の中華料理屋の、のれんの奥はうすぐらく、異様の雰囲気で、怪物が右往左往、うごめいている色合い、ぎょっとした。これはいけないところへ入った、と思ったのである。二人はリュックサックを背負った縦隊になって、しずかに進み、いちばん奥のテーブルについて、ビールを言いつける。落ちついて、部屋のひとをみると、どれもこれも挙動、風態に不審の点がある者ばかりである。ひとり、中華の文学青年が、離れたテーブルでコーヒーを飲みながら、本を読んでいたが、それが本をふせると、私たちを珍しげに眺めた。
「大丈夫でしょうか?」と私は言った。再び出られるのではないか、という気がしたのである。
「うん、すごいところだ。まるで舞台だ。おれたちは名優だよ」
 顔のすすけた十位の少年が寄って来て、
「おじさん、ビール飲ませておくれよ」と言う。太宰さんは、黙って、半分程残っていたビール瓶を、そのままやってしまった。

 

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 それでも私たちは、事なく支払いを済ませて、生きて帰れた。五分も歩かぬ(うち)に、
「ノヒラ、ふぐ(、、)はどうだい。死ぬ覚悟で」
 私たちはてっちり(、、、、)を始めたのであるが、鍋の中からは、ふぐ(、、)が少しもへらぬ。
「なんだい、ノヒラ、豆腐ばかり、食っているじゃないか」
「先生もなんだか、さっきから、青いものばかりです」
 太宰さんは、このふぐ料理屋のこまたのきれあがった、、、、、、、、、、)女将(おかみ)を、美人だ、どうしても手を握るまで帰らぬ、と言い、そのまま、客の少ないのを幸い、女将にことわって、私たちは座敷で夕方まで寝てしまった。

 

 太宰さんは、自殺未遂の青年の、自殺の原因について、私が言ったことを、黙って聞いて居られたが、もとより冗談を、私は期待していはしなかった。青年は井伏氏の知人で会った。
「井伏さんは、きっと、またおまえが何か変なことを言ったんだろう、と言うよ。それじゃあ、かなわないよ。まるで知らぬ男がとび込んできて、いきなり一言も言わずに死んだものを、いちいち、太宰のせいだ、と言われるんじゃあ。おれの小説がいけないんだと、きっと言うね。やりきれない」

 

「如是我聞」三回目は「人間失格」を 書き終って、「グッド・バイ」を始めるまで、その間、三日、その後は、待っている(はず)の原稿料をお届けに行っても会えなかった。ひとを避け始めた。女は(さし)も通じてくれなかった。お宅へ行き奥さんにお渡しして帰った。
 六月四日、都合で、私は帰宅が夜九時になった。太宰さんから電報である。
 スグ ジタクヘ オイデコウ ダザイ
 五時過ぎての発信である。私はぎくりとした。これは、なにかの変事、と思い、何かの御用にも、と考えて私は、女房同道、急いだ。或いは、太宰治の死?
 玄関を開けたら、鼻をつく、線香のにおい、これはいよいよ、と思ったら太宰さんが出てこられて、ほっとした。においは蚊取線香だったのである。私はどうかしている。
 太宰さんはいまから「如是我聞」を書こう、と言われる。最近の「新潮」にとって、この日、七月号の原稿が頂けるなら、破格の早さである。
 太宰さんは、しきりに、本箱をがたがたいわせ、あの本この本、ひっくりかえして、何かを探していたが、ないらしく、
「おい、志賀チョクサイの本はなかったかね。何かあるだろう」
 奥さんも一緒になって、かなり長い間、かきまわしておられたがとうとう見つからず、
「縁がないんだねえ。まあいい」。それから、夜更けて家を出、仕事部屋の前にくると、私の女房に向い、
「奥さん、今晩一晩だけ、ご主人をお借りしますよ」
 仕事は徹夜で、はかどった。
「きみが、句点の調子や、文章のくせをよくおぼえてくれたので、とても早く、進んだね」
 太宰さんは、疲れやすめの酒といって、私にもついでくれ、女もいない二人で、しずかに飲みながら、雑談をしていたのだが、
「この前、原稿料をとどけに、寄ってくれたらしいね。君だ、ということを言わないから、……あのときも、ここにいたんだよ」
 私は、いま有名の女を、妙な女だと思い、「女類」(「八雲」創刊号)という小説を、ちらと思い浮べて、笑いがこみあげてきた。
家の近くで、女房にみつかったよ。すぐ近くまで、こっちは二人とも近眼だから、気がつかなかったんだ。あとで女房に、そう言われた。あの女のひとはどなたですと言ってたけれど、あのとき二人の間は、一間位はなれていたから、おれは知らないと言った。女房の方で、気づいて、()ぐまがってくれたらしいね」
 そうして、女が買いものから帰ってくると、「おれの女房は、やっぱり気品があるね。このひととは、ちがうな」と私に言われるので私は誰の顔も見ずに、うなずいた。
 私は、この日、久し振りで、まだ日も中天、という時刻に、いつもの通り、お宅までお送りした。
 約束して、七日、稿料を届けに行った。
「今日は、あとで三鷹の街をあるこう。すみれだ」
 太宰さんと街を歩き回るのは、もう絶えて久し、の感である。太宰さんは、わずかに、はしゃぎ方が多いようだった。女を二人連れて歩き、出会った三人の女と冗談、ふざけ、女に装身具を買い、女の(くび)をしめ、女の肩をつかまえ、女を口説く真似をした。
 三鷹の駅で、お別れした。送って下さったのである。

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三鷹の若松屋で。左から太宰、若松屋の女将、野原一夫、野平健一。1947年(昭和22年)、伊馬春部の撮影。野原と野平は『斜陽』などを担当した新潮社の担当者。野平は、その頭脳の明晰さから「カミソリノヒラ」と呼ばれた。新宿の小料理屋「ちとせ」のマダム・房子と出会って結婚した野平だが、太宰の小説『女類』は、この恋愛をモデルに書かれた。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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