記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月6日

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6月6日の太宰治

  1948年(昭和23年)6月6日。
 太宰治 38歳。

 朝、何時ものように「仕事部屋に行ってくるよ」といって、気軽に家を出たまま、自宅には帰らなかった。

最後の「行ってくるよ」

 前日の1948年(昭和23年)6月5日、太宰は、如是我聞(にょぜがもん)第四回を口述筆記によって完成させています。

 そして、翌日6月6日の朝。太宰は、いつものように「仕事部屋に行ってくるよ」と、妻・美知子に言って、気軽に出たまま、自宅には帰りませんでした。この日を最後に、太宰は自宅ではなく、仕事部屋としても使用していた愛人・山崎富栄の部屋で過ごします。

 美知子は、太宰の歩き方について、『回想の太宰治に、

外出のとき玄関に揃えた駒下駄をそそくさとつっかけて出てゆく前のめりのうしろ姿が目に残る。

と記しています。この日も、太宰は、前のめりになりながら、自宅をあとにしたのでしょうか。

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三鷹の自宅の玄関

 太宰の歩き方について、メリイクリスマスのモデルになった林聖子はやしせいこさんは、「下駄を履いて、つんのめるように歩いた」、「いつもそういう、せかせかしているわけではないんですよ。お酒を飲んでいるときは、ああいう歩き方はされなかった。飲まないときのほうが、落ち着きがないというか」と回想しています。

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■林聖子さん 2018年(平成30年)6月18日、文壇バー「風紋」にて、著者撮影。同年6月28日、惜しまれながら閉店した。

 この頃の太宰は、夜に自宅へ戻らず、富栄の部屋へ宿泊することも、ままありました。美知子は、下駄をつっかけ、前のめりになって玄関を出て行く太宰の背中を、どのような気持ちで見送ったのでしょうか。

 太宰は、この1週間後の6月13日、富栄とともに玉川上水に身を投じました。
 当時、太宰宅の近くに下宿していた、医師の雨宮寛彦(あめみやひろひこ)さんは、玉川上水の土手に並んだ二足の下駄を最初に発見したそうです。

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■雨宮寛彦さん

 雨宮さんは、1947年(昭和22年)4月、山梨県から上京し、医科大学に入学。太宰宅の近所で、いとこと下宿をはじめました。美知子とは、同郷ということもあって親しくなり、娘たちの家庭教師も務めたといいます。
 戦後の食糧難の時代、「主人の体調が悪いので、お米を少し貸して」と、美知子は雨宮さんに分けてもらった山梨の米で、おかゆを作ったこともありました。「いつも黒い鼻緒のげたを履き、茶色っぽい帽子を深めにかぶって前かがみに歩いていた」という太宰は、近所の飲み屋で雨宮さんに行き会うと、「学生さん、こないだはお米ごちそうさま」と挨拶をしたそうです。

 1948年(昭和23年)6月14日の午前4時頃、雨宮さんの下宿のガラス戸が激しく叩かれます。
「学生さん、早く起きて!」
 雨宮さんがガラス戸を開けると、
「主人が玉川上水に飛び込んだかもしれない。早く捜して」
と、息を切らした美知子が立っていました。

 雨宮さんが発見した下駄は、黒い鼻緒の下駄が右、赤茶色の鼻緒の下駄が左、寄り添うように水の方を向いていたそうです。「男性のげたが少し、左に傾いていました。奥さんを連れてくるとその場でしゃがみ込み、放心状態で太宰さんのげたを抱きかかえていました」と、当時を回想しています。

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 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『東京人 7月号 特集「今こそ読みたい太宰治」』(都市出版、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・「太宰治:きょう命日「桜桃忌」 64年経て、元隣人証言「奥さんは、げたを抱き放心」」(2012年6月19日付「東京新聞」朝刊)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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