【日めくり太宰治】6月13日
6月13日の太宰治。
1948年(昭和23年)6月13日。
太宰治 38歳。
午後十一時半から十四日午前四時頃までの間に、普段着の軽装で山崎富栄と家出、玉川上水に入水した死亡時刻は十四日午後一時頃と推定されている。
太宰と富栄、玉川上水に入水す
1948年(昭和23年)6月13日は、太宰が、愛人・山崎富栄と、玉川上水に入水した日です。
■玉川上水沿いに
実は、太宰が心中する直前まで、太宰と三鷹で飲んでいたという人物がいます。
それは、実業家の
その藤田に、外食ジャーナリストの中村
■
藤田は「作家の太宰治とも三鷹でよく飲んだ」という。軟弱という理由で藤田は、太宰の文学をきらった。経済を復興させるような元気な文章を書いて欲しいと願っていたという。
それでも藤田には良い飲み相手だったようで、三鷹駅前の屋台で飲んで、酔っぱらって太宰の三鷹の家にも行ったという。
(中略)
藤田は、たまたま太宰が自殺する直前まで、三鷹の酒場で飲んでいた。
「とにかく、あの日は雨がザンザン降りの上に、太宰はカストリ焼酎で酔っていた。そこへ女性が傘をさして迎えに来たんです。それで二人で帰っていったんですが、太宰は下駄履きで足元がフラフラでした。『危ないから気をつけなよ』といって別れたほどです。あの状況からいって、私は、太宰は自殺したのではなく、玉川上水の狭い道で足を滑らせて、あの災難に遭 ったんだろうと思っています」(藤田)
太宰と愛人の山崎の死体が玉川上水の下流で見つかったのは、同年6月19日のことだった。二人は赤い紐 で結ばれていたといわれる。その後も報道は過熱し、愛人の山崎の遺書なども出てきて、太宰の死は心中だったといわれるようになった。
筆者が藤田にインタビューした91(平成3)年には、太宰が心中してからすでに43年経っていた。
「当時、太宰はカストリ焼酎を飲むと、ゴホンゴホンと咳 をしてコップに半分くらいの血を吐いていました。結核は相当進んでいて、太宰にはいつ死んでもいいという絶望感があったんだと思います。今から思うとそういうストーリーの中で死んだのだと思いますね」
このときの太宰の服装は、おそらくグレーのズボンに白いワイシャツで下駄履きでしょう。迎えに来た女性は、富栄。既に太宰の足元はフラフラだったそうです。
■太宰と出会った頃の富栄 1947年(昭和22年)頃。
相馬正一『評伝 太宰治 第三部』によると、太宰と富栄が「千草」の仕事部屋から富栄の部屋に移ったのは午後4時頃だったそうなので、藤田の証言が事実であれば、太宰は一度富栄の部屋に戻ったあと、飲みに出掛けていたということになります。
さて、ここで、この辺の富栄の行動を見ていきます。
2日前の6月11日。富栄は、「千草」の女将・増田静江から借りた紺地に
■「お茶の水美容学校」鉄筋校舎落成記念写真 1927年(昭和2年)10月。前列中央に8歳の富江も写っている。
戦時中に供出した3階建ての鉄筋校舎は、政府から人手に渡り、病院になっていました。父から結髪と洋裁の教育を受けながら、8歳から21歳までを過ごした場所です。この鉄筋校舎を、富栄はどのような気持ちで見つめたのでしょうか。
そして、6月13日。
富栄は、下宿先の大家・野川アヤノに、
■野川アヤノ(写真中央) アヤノは、太宰が伝染すると思われていた肺結核だったこともあり、富栄の部屋に通う太宰を快く思っていませんでした。富栄の勤務先「ミタカ美容室」を経営する塚本さき(お茶の水美容学校卒業)はアヤノの旧友で、自らの母校の校長の令嬢ということで、便宜を図っていました。
アヤノが永泉寺に届けた手紙には、これまでのお礼と、これからもお世話になりますと、丁寧な筆遣いで書かれていたそうです。
■曹洞宗寺院 永泉寺 東京メトロ「江戸川橋駅」より徒歩5分。2012年、著者撮影。
こうして、アヤノは永泉寺へ外出、アヤノの娘たちも勤めに出ていたため、隣の八畳間は留守になりました。この時間に、富栄は窓を開け、部屋の片付けを行いました。
■黒柳夫人(後列右)
富栄は、階下に住む黒柳夫人に、ガラス製の小皿4枚を「よろしかったら、お使いください」と差し出したそうです。この小皿は5枚で1揃いでしたが、残る1枚は、太宰と富栄が心中時、身を投げた場所に残されていました。
1948年(昭和23年)6月13日の夜に話を戻します。
『斜陽』執筆の頃、新潮社で太宰の編集担当だった野原一夫の『生くることにも心せき 小説・太宰治』から、太宰が富栄の部屋に戻ってからの様子について、引用します。
夜になってから、小さな瓶にウイスキーをわけてもらいに、富栄が三度か四度、「千草」に来たという。ボトルをもってゆけば、カラになるまで
呻 り飲んで泥酔する。太宰はそれを恐れたのだろう。
(中略)
富栄が最後に姿を見せたのは十一時頃である。だから、太宰と富栄が入水したのが十一時過ぎであることはまちがいないのだが、十二時をまわって十四日に入っていたかどうかは明らかでない。
■玉川上水までの道程 1948年(昭和23年)撮影。
「永塚葬儀社」の看板がある建物の2階が富栄の下宿先。
道路を挟んで向かいが、小料理屋「千草」。
道の突き当りが、玉川上水。
富栄の部屋から「千草」は、歩幅にして約10歩の距離しかなく、富栄の部屋から玉川上水は、北に向かって約70歩の距離しかありませんでした。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『山崎富栄の生涯』(大光社、1967年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
・野原一夫『生くることにも心せき 小説・太宰治』(新潮社、1994年)
・相馬正一『評伝 太宰治 第三部』(筑摩書房、1995年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・松本侑子『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流」(https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10230/3/)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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