5月16日の太宰治。
1948年(昭和23年)5月16日。
太宰治 38歳。
山崎富栄、五月十六日の日記。
太宰と3人の女性たち
まずは、1948年(昭和23年)5月16日付、太宰の愛人・山崎富栄の日記を引用して紹介します。
五月十六日
昨夕、アルバムをみせて頂く。奥様のや、お子様の……。よく覚えておいて、町でお逢いしたとき、そっと避けようと思って――。
二時頃おいでになる。どうもお玄関の戸の開けようが平常のように思われなかったと思ったら、昨夕帰りに御一緒のところを奥様に見つかってしまったとか、びっくりしてしまう。
「あれ誰?」
「女のひとと歩いてたでしょう? あなた方は気がつかなかったようですけど……」
ああ、神様!
「ブロバリンを二十錠のんでも寝られないんだ。どきっとして、歩かないよって言っちゃったんだよ。そのとき、死んじゃおうかと思ったね。二人とも近眼だしねえ」
と仰言 る。
「あら、ごめんなさい。どうしたらいいかしら……。お怒りになったでしょうねえ、悪いわ」
私の方でうまく避けようと思っていたのに、なんにもならなくなってしまった。スムースにいってくれればいいけど……。
「夕べ、気まづくてね、今朝もいけねえんだ」
今日は、もう、じっとして落ち着いてなどいられない。修治さんは、ウィスキーの残りと、鱈 を持って帰られる。いつもと違う道を通って御送りする。
神様、一体どうしたらよろしいのでしょう。私は太宰治という人を知らなかったんですもの。知っていたのは、津島修治であって、その頃は、御家族をもっていられることも、なんにも知らなかったんです。愛してしまったから、はじめて奥様や、お子様のおありになることを存じ上げたので、そのときはもう、私は自分の愛情を抑えられなかったのですもの。
苺 出盛る。
夏みかん。
■津島美知子と山崎富栄
太宰は、三鷹の市中で富栄と一緒に歩いているところを、妻・美知子に見られてしまいました。「二人とも近眼だしねえ」とありますが、太宰も富栄も近眼で、富栄はメガネをしていましたが、太宰はメガネをかけた女性が嫌いなので、太宰と一緒にいるときはメガネを外していました。
太宰と富栄がはじめて出逢ったのは、1年前の1947年(昭和22年)3月27日。同じ美容室で働く今野貞子にお願いし、三鷹駅前の屋台で紹介してもらったのが、きっかけでした。
しかし、美知子が太宰の背後にある女性の影に気付いたのは、これが最初ではありませんでした。
次に引用して紹介するのは、1947年(昭和22年)3月23日頃に、太宰が太田静子に宛てて書いたハガキです。静子は、太宰の入れ知恵で、変名を使って手紙のやり取りをしていました。
東京都下三鷹町下連雀一一三 太宰治より
神奈川県足柄下郡下曽我村原 大雄山荘 太田静子宛
昨日はありがとうございました。昨日帰宅したら、ミチは、へんな勘で、全部を知っていて、(手紙のことも、静子の本名も)泣いてせめるので、まいってしまいました。ゆうべは眠らなかった様子で、きょう朝ごはんをすましてから、また部屋の隅に寝ています。お産ちかくではあり、カンガ立っているのでしょう。しばらく、このまま、静かにしていましょう。手紙も電報も、しばらく、よこさない方がいいようです。どうもこんなに騒ぐとは意外でした。では、そちらは、お大事に……
■太田静子 1947年(昭和22年)夏、大雄山荘の庭で。
太宰が、静子にハガキを出したのは、3月23日。
太宰が、富栄とはじめて出逢ったのは、3月27日。
太宰に、次女・里子が生まれたのは、3月30日でした。
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・山崎富栄『雨の玉川心中 太宰治との愛と死のノート』(真善美研究所、1977年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人神奈川文学振興会 編『生誕105年 太宰治展 ―語りかける言葉―』(県立神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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