記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月17日

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6月17日の太宰治

  1948年(昭和23年)6月17日。
 太宰治 38歳。

 六月十五日から六月二十日にかけて、太宰失踪について新聞報道される。

心中事件後の朝日新聞報道

 1948年(昭和23年)6月13日未明。太宰が愛人・山崎富栄とともに玉川心中に入水した後、2人の遺体は発見されず、捜索活動が行われました。
 今回は、太宰の失踪を報道した朝日新聞を引用しながら、当時の様子を追ってみます。

 太宰と富栄が失踪したことに、皆が気付いたのは、6月14日
 お昼近くなっても階下へ降りてこない富栄を不思議に思った大家の野川アヤノが、富栄の部屋の(ふすま)を開けると、太宰と富栄の写真の前に立てられた線香が、燃え尽きて白い灰に。室内は片付けられ、2人の遺書が残されていました。

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■入水直後の富栄の部屋 撮影:朝日新聞・石井周治。

 その光景に驚いたアヤノは、向かいの小料理屋「千草」へ駆け込み、女将の増田静江を連れて、富栄の部屋へ引き返します。階下に住み、前日に富栄からガラス製の4枚揃いの小皿を受取っていたパン屋の黒柳夫人も立ち合い、遺書の入った封筒を見つめながら、途方に暮れていました。

 そこへ、朝日新聞社の学芸部長・末常卓郎(すえつねたくろう)と挿絵画家・吉岡堅二が訪れます。朝日新聞に連載予定のグッド・バイの原稿を預かるためでした。机には10回分のゲラ刷りと、第11回から第13回までのグッド・バイの原稿が置かれていました。

 末常は、美知子に宛てて書かれた遺書、セルの着物を仕立て直した太宰の洋服を抱えて、太宰の自宅、妻の津島美知子のもとへ走りました。警察に捜索願が提出され、太宰の遺書に従い、筑摩書房、新潮社、八雲書店の出版3社に電報が打たれました。
 出かけていた「千草」主人・鶴巻幸之助も帰って来て、富栄の遺書に従って、父・山崎晴弘と義姉・山崎つたにも電報が打たれます。

 その日の夜、太宰行きつけのうなぎ屋「若松屋」の主人・小川隆は、夜通し、三鷹界隈を自転車で駆け回り、新潮社の野平健一林聖子桜井浜江に太宰の失踪を知らせに行きました。

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■太宰と「若松屋」主人・小川隆

 太宰失踪の第一報を報じたのは、小説グッド・バイを連載予定だった朝日新聞の6月15日付朝刊のみ。「太宰治氏家出か」の小さな見出しのベタ記事で、あまり大きな記事ではありませんでした(以下、新聞記事の引用で判読不明箇所は、〓で表しています)。

太宰治氏家出か

北多摩郡三鷹下連雀作家太宰治氏(本名津島修治)(40)は十三日夜同町内の山崎晴子さん(30)方に美知子夫人と友人にあてた遺書らしいものを残して晴子さんと二人で行方をくらませていることが十四日わかり、同日夫人が三鷹署へ捜索願を出した
 夫人あての遺書には「小説も書けなくなった。人に知られぬところに行ってしまいたい」という意味のことが書いてあると夫人は語った、晴子さんの部屋には二人の写真をならべ線香をたき荷物は片づけてあった
(昭和23年6月15日)

 失踪の第一報では、「富栄」の名前が「晴子」と誤って報道されています。

 次は、続報。6月16日付の朝日新聞です。

太宰治氏情死
 玉川上水に投身、相手は戦争未亡人
 ”書けなくなった”と遺書

特異な作風をもって終戦後メキメキと売出した人気作家太宰治氏は昨報のごとく愛人と家出。所轄三鷹署では行方を探していたが前後の模様から付近の玉川上水に入水情死したものと認定。玉川上水を中心に二人の死体を捜索している
家出した北多摩郡三鷹下連雀太宰治氏(四〇)=本名津島修治=および〓人間町下連雀野川内山崎富栄さん=晴子は誤り=の行方につき三鷹署では十五日早朝から捜索を開始した

 

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十四日東京都水道局久我山〓〓に男もの〓コマゲタと女もの〓〓〆めじまの緒のゲタ、各片方が発見されており、十五日朝になって井の頭公園寄りの玉川上水土手で、富栄さんのものと見られる化粧袋を、太宰家出入りの同町三一三元新潮社員林聖子さん(〓)が発見、中には小さいハサミ、青酸カリの入っていたらしい小ビンと水を入れていたらしい大ビンのほか、〓〓とかすに用いたらしい小ザラ一枚が入っており、すぐ傍らの草を踏みしめて土手を下ったあともあり、〓〓のゲタは両名のものと判明したので、上水に投身したものと認定、下流一帯を探しているが、増水のため捜索は困難を極め、午後六時、一たん捜索を打切った

 

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同氏は自宅のほかに鶴巻幸之助方に仕事部屋をもっていたが十日ほど前からはどちらへも姿を見せず、ずうっと愛人の家にいた、同女の部屋はきちんとして整理され、本ダナの上に太宰氏と同女の写真をかざり、線香一束、小さい茶わんに水がそなえてあり、友人伊馬春部にあてた太宰氏自筆「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」(伊藤佐千夫の歌)の色紙がおいてあった

 

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太宰氏と行を共にした山崎富栄さんは滋賀郡八日市八日市市山崎靖弘氏(七〇)の長女で父の経営していた神田の某美容〓〓で修業後しばらく美容師をしていたが、戦争中三井物産社員奥名修一氏と結婚、間もなく夫はマニラで現地徴用となり、同地で戦死した、その後三鷹美容院に勤める傍ら未亡人のさびしさを好きな文学書でなぐさめているうち昨年二月ごろ三鷹駅の屋台店で太宰氏と知合ったもので、最近は太宰氏の原稿の仕事を手伝っていた、同店先の話によると富栄さんは平素おとなしく太宰氏との間に特別の関係があるとは見られなかったという

 

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太宰氏には美知子夫人との間に園子(〓)正樹(〓)里子(〓)の三児があるが昭和八年以来四五回自殺を企てたことがあるといわれる、夫人は気分が悪いと面会をさけているが、同家には朝から豊島輿志雄(とよしまよしお)林芙美子伊馬春部氏ら知人がつめかけている

 

略歴 情死者の太宰治氏は現青森県知事津島文治氏の実弟青森県金木町の農家に生れ、青森中学、弘前高校から東大にすゝみ仏文中退、文筆生活に入り「虚構の彷徨」で文壇にデビュー、戦後は第一線に活躍、昨年発表した「斜陽」はとくに好評だった

 

■絶筆「グッド・バイ

同氏は本紙に掲載予定の長編小説「グッド・バイ」を執筆中だったが第十三回で筆を絶っており夫人あての遺書には「小説がかけなくなった 人の知らぬところへ行ってしまいたい」という意味を記し友人あての一筆には「永居するだけ皆をくるしめこちらもくるしく、かんにんして被下度(くだされたし)、子供は凡人にてもお叱りなさるまじく」とあり 仕事先の鶴巻夫妻にあてた富栄さんと連名のものには「いろいろ迷惑をかけてすまぬ、永い間親切にして下さいました、忘れません」とあった

 

■「悩んでいた」

豊島輿志雄氏談 太宰君は終戦後とくに親しくつき合っていた、富栄さんとも連立ってときどき遊びに来ていた、無口だが飲むとよう話すたちだった、〓〓的になにか事情のあることが直感できたが深くは立入らなかった、最近の心境をよく現している作品は「展望」に一回分だけ発表した「人間失格」だと思う、近ごろは収入は多かったが入れば入るだけ使うので奥さんには迷惑をかけたと思う、とに角、おしい作家をなくして残念だ

 

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■豊島輿志雄(1890~1955) 小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。晩年の太宰は、豊島を最も尊敬し、富栄を伴って、度々、本郷の豊島の自宅で酒を酌み交わした。太宰の葬儀で、豊島が葬儀委員長を務めている。

 

「富栄の兄がお友達」
母親のぶさんは語る

【大津発】山崎富栄さんの八日市町の実家を訪えば父親は電報をみて上京、留守居の母のぶさん(六八)は語る
 太宰さんとは富栄の兄が学生時代に友達だったというのでとくに親しくなったと聞いています最近は熱海や埼玉県大宮からたびたび便りをよこし、病身の太宰さんの面倒を見てあげたいから師弟の関係を許してくれといって来ましたが父は許していませんでした
(昭和23=1948年6月16日)

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  太宰が失踪して2日後の記事ですが、ここに「青酸カリの入っていたらしい小ビン」という記述が出てきます。
 玉川上水は、東京都民の水道用水だったため、「毒物を飲んで飛び込むとは非常識だ」との非難の声が挙がり、不安視する見方もあったため、水道局は水質検査を実施。後日、水からも遺体からも毒物反応は見られなかったため、服毒の事実はなかった、と発表されています。
 新聞記者に、「この事実」を証言したのは、いったい誰だったのでしょうか。
 このような事実無根の「噂」が、「太宰は富栄に殺された」という無理心中説の論拠とされていきます。

 

 続いて、翌日の6月17日付の朝日新聞記事です。

ことし十六人目 いわくつきの上水

玉川上水路での投身者数は昨年は三十三名、本年は太宰氏で十六人目である。死体は流れの所々に設けられている鉄格子で大てい二、三日発見されるが、なにしろ四代将軍家綱以来三百五十年来の流れのため岸がえぐられて「魔のホラ穴」がいたるところにあり、これにひっかゝると死体はなかなか見つからない

 

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玉川上水 奥に鉄格子が見える。


昨秋の自殺男は発見までに二十日かゝり、昨夏の酔っぱらい男はまだ分からないという、水道局では水死体のあるたびに水を減らして捜索しており、水は浄水場の水こしと塩素殺菌で清めている

 

■発見手間どる 太宰氏の死体

【武蔵野発】公園わきの玉川上水に愛人山崎富栄さん(三〇)と入水した作家太宰治氏(四〇)の死体捜索は十六日も続けられ、三鷹下連雀の太宰氏宅には友人の亀井勝一郎伊馬春部、豊島輿志雄や出版社の人々が集り、人夫と一しょに雨の中を探したが、上水は水量が多く雨でにごっている上に流れが速くて困窮をきわめ、ついに同日は不成功のまゝに捜査を打ち切った

 なお富栄さんの父山崎晴弘(〓)は滋賀県八日市町から十六日上京、捜査に加わっている、彼女が父親にあてた遺書には「尊敬する先生とともに幸福な死に方をすることは申訳ない、許されたら墓は先生のおそばに、それもかなわねば先生の近くの無縁仏でも結構ですから(以下略)」と(したた)め、黒髪がそえてあった

 

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(昭和23=1948年6月17日)

  現在の玉川上水からは想像できませんが、この当時は水深が深く、流れも速かったため、上水に落ちると、瞬く間に流れに飲み込まれてしまうことから「人食い川」と呼ばれていました。

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 最後に、太宰と富栄の遺体が発見された翌日、6月20日付の朝日新聞です。
 この日は5日間続けられた捜索の最終日。この日に遺体が発見されなければ、捜索は打ち切られることになっていました。

 太宰氏の情死体発見

【武蔵野発】作家太宰治氏(四〇)と愛人山崎富栄さん(三〇)の二人の死体は投身したと推定される十三日夜から七日目、太宰氏の誕生日に当たる十九日午前六時〓十分ごろ三鷹〓〓〓四十六先玉川上水の新橋下(投身現場から一キロ半下流)の川底の棒クイに抱き合ったままでかゝっているのを通行人が発見、七時三鷹〓署に届けた

 この日早朝死体捜索班は玉川の上水〓を上流で断水、水かさも減じ深さ四尺ぐらいになったところで発見されたもので、互いの脇の下から女の腰紐で離れないように固く結び合い、家での日の姿そのままに太宰治はワイシャツにボタン、山崎さんは黒のツーピース姿だった

死体は十時半まず山崎さん、続いて太宰氏も引揚げられ直ちに火葬に付された

 

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■「太宰だけ熱心な雑誌社で用意された棺に入れられていたが、富栄さんは正午すぎまでムシロをかぶせたまま堤の上におかれ、実父山崎晴弘(七〇)さんが、変りはてたわが子の前にたった一人。忘れられた人のように立っていた」(当時の報道) 合羽を脱いで着せかけ、わが子に傘をさしかける父・晴弘。

 

■あす告別式

太宰治氏と愛人の心中死体は検視の結果入水による水死と断定された、太宰氏の方は二十日夜豊島氏井伏、山中、亀井、古田ら知人が集って通夜ののち二十一日午後一時から下連雀の自宅で告別式が行われるが、山崎さんの葬儀は別に父親晴弘さん、親類知人の手で通夜をしたのち郷里滋賀県八日市町に持ち帰って改めて葬儀が挙行されることになった

 

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■太宰を乗せた霊柩車

 

(昭和23=1948年6月20日)

  「千草」2階での検視後、太宰の遺体は自宅に寄らず、そのまま火葬場に送られました。
 太宰の死体が発見されると、「千草」の女将・増田静江は、雨の中をずぶ濡れになって、太宰の妻・美知子に報せに行きました。美知子は表情も変えず、次のように、落ち着いた声で低く言ったといいます。

ご苦労さまでした。死体はそのままの姿では、この家に受取ることは出来ません。骨にするまで一歩も入れないで下さい。

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 火葬の方法についても、葬儀委員長の豊島が、「焼場は一緒でもいいのではないかな、別の焼場となると、ひどく遠くなるから」と発言するも、太宰家側(特に、石原家)の強硬な反対に遭い、太宰は杉並の堀ノ内で、富栄は遠く離れた田無(たなし)の火葬場で父・晴弘ただ1人に付き添われて荼毘(だび)に付されたといいます。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『山崎富栄の生涯 太宰治・その死と真実』(1967年、大光社)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
松本侑子『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社文庫、2012年)
・『朝日新聞が報じた太宰治』(朝日新聞デジタルSELECT、2017年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「太宰治氏 情死か?」(NHK放送史
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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