記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】6月16日

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6月16日の太宰治

  1920年(大正9年)6月16日。
 太宰治 10歳。

 金木町の火事で、級友の今多市が逝去。葬儀で級友を代表し、弔詞(ちょうし)を読んだ。

太宰が級友に読んだ弔詞(ちょうし)

 今日、紹介するのは、太宰が金木尋常小学校5年生の時の出来事。
 金木町で発生した火事で亡くなった、級友の今多市の葬儀で、級友代表で読んだ弔詞(ちょうし)についてです。
 青森中学校で太宰の後輩であり、太宰の5年下ぐらい、疎開中の太宰と親しかったという、友人・木立民五郎(こだちたみごろう)の回想『幼き日の太宰治から引用して紹介します。

『幼き日の太宰治

 級友の死

 一九二〇年六月、津軽の空は乾き、風は狂気を含み、ごおっといったかと思うと再びごおっと返し、風ばかりが生き物のように動いていた。桜も散り、祭とてないこの季に、あくびが丁度格好の、春とも夏ともいえぬ間の抜けた一日は去った。
 あの湿っぽい冬の日々がまるで嘘のように、からっと乾く北端の初夏であった。かやぶきのすき間すき間にも風は通り、木の柱、紙の障子は、手頃な(まき)ででもあるかのように、ただ火気さえあればめらめらと燃えようと待ちかまえていた。
 北端の町、金木町の一角から火の手は上り、夜半の町は昼以上に騒々しく、半鐘が狂ったように乱打された。

 今多市君が昨夜の火事で亡くなった、と担任の近藤先生が言った時、五年生、津島修治のクラスはしんと静まり、「死」という形のないものがクラスの中に浸入してくるのがわかった。
 クラスの者が死んだ、しかも昨夜の火事でである。今多市の名は、一人くっきりと重いもののように一人一人の胸に刻まれていった。舞台の主役にスポットライトが当たるように、今多市の名は、その時クラスの主役となって、スポットライトがその名を浮かび上がらせるのだった。五年生担任の近藤先生は、明日葬儀の行われることを生徒に伝えた。それは春の祭以上に現実めいて興奮させる出来事として生徒たちには映った。
 一方、金木第一尋常小学校の職員室では葬儀の時に読まれる弔詞をどうするかで意見がたちまちに分かれていた。やはり担任の近藤先生がよいのではないか、という意見が出たかと思うと、否、学校代表ということで、やはり校長の伊藤先生が読むべきでしょう、という意見が出る。どの意見もぴったりとなじむものがなかった。そうした前例のない不慮の事故の対処に苦慮することで、その日の金木第一尋常小学校の職員室には重い空気がたちこめていた。
 棟方千代先生が、思い当たるように、しかしどんなものだろう(うかが)うような調子で、こういった。
 「あのう、同級生の津島修治さんに読んでもらえばどうでしょうか」
 しんとするものが職員室の空気の中を走った。
 津島修治。
 ああ、これはいいかもしれない。
 弔詞を同級生が読む。これはなじめる人選である。
 津島修治、津島家の六男坊、それだけで学校の中では記憶されている名前である。しかし、修治は津島家の六男坊であることを除いても、成績秀抜で、先生方の記憶に深く刻印されていた。
 金木町のような、一人一人の人間の代々までお互いに知り抜いている人間社会の中では、どんなにつまらない生徒でも、先生の記憶からはずれる生徒というものはいない。しかし、その生徒が成績優秀な時は、特に記憶の度合いが重くなり、この子はどんな大人になるだろうかという期待が先生の職務の一部に入ってくる。津島修治は、そうした生徒として小学校生活を送っていた。学校は、彼の才能を認め注視してくれる、あたたかい社会、世界であった。彼の心は、すなおにこの社会、世界になじんで、才能がひそんでいるなら、その芽には心地よく水が注がれていた。
 職員室の先生方は、一様に納得したように、それがいい、それがいい、と賛意を示した。
 「修治さん」
 と近藤先生は津島修治を呼んだ。
 「はい」
 とすなおな返事。
 「ちょっと職員室まで来て下さい。」
 「はい」
 と又してもすなおな返事。校内で職員室に呼ばれるのは二つの場合しかない。悪いことと良いことと。少年津島修治の身辺には「悪いこと」などおこる余地が全くなかった。故郷金木町にいる限り、修治の身辺は「無菌」の保護室同様である。生きる苦しみや、中毒、入院、人間不信、自殺といった恐ろしい人生の破壊者が現れるのは、すべて故郷を遠く離れた時からである。

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■金木第一尋常小学校の校舎

 

 弔詞(ちょうし)

 
 担任の近藤先生は、津島修治に今多市の弔詞のことを頼んだ。修治は演劇の役割でも当てがわれたようにすんなりと受け入れた。
 弔詞とは何なのか、この子は理解しているのだろうか。先生方の間には一抹の不安がよぎった。
 翌日、その日は又晴れていた。寺には大人の顔、多市の級友の顔が交錯していた。大人は、学校の職員と今多市の親せきの者とである。読経が重々しく初夏の風に乗ってきた。普段の日と違う葬儀の儀に、大人も子供も、改った気持と「死」というものの持つ重苦しい空気とが取り巻いているのを感じた。
 弔詞の儀、級友代表、津島修治君。
 式次第が読み上げられる。
 幼い修治が臆する風もなく立ち上がり、つかつかと舞台中央に進み、居並ぶ観客の中、ふところより取り出した弔詞に抑揚をつけて、発することばはことごとく観衆の心をとらえることに相成った、というところであろうか。その日の葬儀では、まるで舞台で演じられる役者以上のものがありましたと、その日から七〇年経た今、その日の葬儀に参列した元教員の大橋カツ先生は語るのである。

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■自宅の庭で 右より、太宰、弟・礼治、甥・逸郎。

 

 少年の感受性

 (前略)飛白(かすり)の着物に(はかま)をはいた、幼き修治の姿が目に浮かぶ。優等生といわれ、主席をつとめる少年の顔はきりっと引きしまり、声は自身に満ちていたことだろう。
 彼は、「死」を主題として死者に語り、「死」をきっかけにして死者の親族に語り、「死」を通して死者の死と友とに語った。葬儀という現実は、最高の舞台効果を演出し、「死」を語る者をも恍惚(こうこつ)の状態に(いざな)ったかもすれない。発することばは、ことごとく参列者の胸を打ち、ついには涙を誘って止まなかったようだ。現に大橋カツ先生は、その日の記憶を語る時、うち並ぶ者を皆泣いて……と語っている。
 人を泣かせることの喜び、というものがあるとすれば、津島修治はその喜びを小学五年生にして味わってしまった。
 彼がもし、感受性の乏しい、否、乏しくなくても普通の少年であったなら、この日の体験は一つの体験として通り抜けるだけで、次の体験へと移行していっただろう。
 彼は、我々が言う「もしも」に当てはまることなく、充分に感受性の豊かな、むしろ豊かすぎる少年であった。(中略)彼の感受性のフィルターは、生れながらにして細やかで、ある部分においては感度が強く、鋭敏に反応するものを持ち合わせていた。彼がどんな人生体験と差し向った時でも、その部分にふれるなら、ただちに急な曲線が上を向いて描かれるだろう。その「部分」とは、いうまでもなく「死」の記憶ではなかったのか。
 「死」の記憶は、太宰治の作品にも、彼自身の人生にもついて廻る。この点で、彼の作品と彼の人生とは重複し、彼は自分の「死」をもって作品を完成させるかのような錯覚を覚える。否、はたして錯覚だろうか。彼にとって、作品とは一体何だったのだろうか、人生とは一体何だったんだろうか。
 彼の人生は作品であり、決して錯覚なのではないだろう。人間の奥深くにひそむものをとらえようとして、切実な思いにかられて生きる姿は、時代を越えて、彼の死後にも強く語りかけてくる。そこでは太宰は永遠に生きる人である。彼の肉体はこの世にないが、彼が生きる過程で感知した心の揺れ動きを示す感度計である彼の作品は、彼の人生が裏がえしにしたものとして残されている。
 彼は、自分でもどうしようもない感度の高い感性を持つ人間として生まれてきた。その感性は、荒い人の世と荒廃した時勢とに耐えがたい程反応したのだ。我々は、彼の死後も、人間の心の動きの不変な点で彼の作品にひかれる。それは太宰治の持って生まれた感度の高いものさしで正直に記されているからだろう。
 感度の高い太宰のものさしは、あまりに細部を見通してしまうので、彼自身が疲れきってしまうという弊害を持ち合わせている。彼は、自分の持っている感度に打ちのめされた、自分自身の犠牲者であるのかもしれない。

  この後も続く、太宰に思索を巡らせている部分は省略しますが、木立の回想は、以下のように締めくくられています。

 津島修治の弔詞の一件を聞きながら、私の心に反映したのは、故人太宰治の死への憧憬は、少年修治が級友の死に捧げた「鎮魂歌」にはじまるという思いである。死を語る時、思わぬ恍惚が少年を(とりこ)にし、少年の日に味わったエクスタシーにもう一度到達するために、生涯人生の「鎮魂歌」を書き続けた作家、それが太宰であるという思いである。

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■小学校時代の級友と 左から2人目が、太宰。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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