記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】4月21日

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4月21日の太宰治

  1916年(大正5年)4月21日。
 太宰治 6歳。

 四月、金木村大字金木字菅原十九番地にあった金木第一尋常小学校に入学。

太宰、金木第一尋常小学校に入学

 1916年(大正5年)4月、6歳の津島修治(太宰の本名)は、金木第一尋常小学校に入学します。金木第一尋常小学校は、1875年(明治8年)5月10日に金木小学校として創立。1903年(明治36年)6月1日に金木第一尋常小学校と改称されました。
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■金木第一尋常小学校の校舎

 修治が入学した頃の学級数は7クラス。1917年(大正6年)の在籍児童数は、男子児童が231名、女子児童が197名でした。

 入学当初から、周囲が目を見張るほどの秀才ぶりを発揮し、特に作文には独自の才能を示したといいます。
 5年になった時、担当訓導・川口豊三郎に、「将来の希望」という課題を与えられて、「文学」と回答したと伝えられています。この頃の綴方では、「既成の物語を改作、脚色して新作に仕立てたり、身辺に起きるさまざまな事件をそれらしく表現することに、才能を発揮していた」と、同級生たちは揃って指摘しています。すでに、後の作家「太宰治」の下地が徐々に醸造されていたようです。
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■生家の庭で 左から三姉・あい、修治、従姉・テイ、次姉・トシ、四姉・きやう、甥・逸郎、弟・礼治

 修治は、小学校時代を通じて、いつも首席で、きちんと身綺麗にして、おとなしく礼儀正しかったそうですが、遊びの時などには、企画力、演出力にとんだ、健康ないたずらっ子という印象を与えたといいます。帰宅後は、屋敷内で本を読んだり、兄弟や姉や女中たちを相手に過ごすことが多かったそうです。

 当時の修治のことを知る人々の証言を少し引用してみます。

 金木第一尋常小学校から明治高等小学校修学まで7年間、修治と机を並べ学業を学んだという大橋勇五郎さんは、次のように回想しています。

 小学校六年生の頃、太宰は「僕は背は少し大きいが、相撲を取れば皆に負けるし、走れば皆に負ける。悔しくて家に帰ってからも僕はどうしてこんなに弱虫なんだろうと眠れぬ夜もある。だが、僕は大きくなるにつれ、誰よりも負けずに勉強し、やがて力の強い人よりも、走る人よりも、世の中の人に認められる人になり、君達を驚かせてやるぞ。」と同級生一同の前で胸を張り、眼を輝かしたことを今も忘れない。

  続いて、弟が太宰と同級生だったという、大橋カツさんの回想です。手元の資料だけでは確認できないのですが、大橋勇五郎さんのお姉さんでしょうか。

 小学生の頃の津島修治と言へば、頭のよい子で作文が誰よりすぐれて上手であった。先生は今日の修治の作文どんな事が書かれてるかなと楽しみ(なが)ら外の先生方にも聞かせたものでした。私も弟が同じ四年生でしたのでこんなに違ふものかと感心して聞いた一人でした。
 見るもの、聞くもの、すべて作文になるのです。作文ばかりではありません。何んでもよく出来るのでたまに受持の先生の代りに授業に行った先生は皆口をそろへて修治一人違ふなあ全くびっくりするなあと言ったものです。

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■金木第一尋常小学校卒業時の席次 成績は6年間オール甲、無欠席だった。

 1922年(大正11年)3月23日、修治は6年間全甲首席、男子児童34名、女子児童22名、計56名の総代として、金木尋常小学校を卒業します。
 そのまま中学校に進学できると思っていた修治ですが…。この後、修治がどうなったかについては、4月1日の記事をご覧ください。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『太宰治生誕110年記念展 ―太宰治弘前―』(弘前市立郷土文学館、2019年)
・『馬禿 第21集』(金木太宰会、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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