記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】完結のお礼

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【日めくり太宰治】完結のお礼

 本日7時の更新を以て、2020年 太宰治生誕111周年記念企画【日めくり太宰治】全368本(11月22日11月25日には座談会<特別編>も更新)の投稿が終了しました。

 継続することが苦手で、三日坊主で終わることが多い私が、毎日投稿しようと決意したのが、まさかの閏年。4年に1度しかやって来ない1日多い年。ほかの年より1本多い366回投稿しなくてはいけないタイミングで取り組むことになったのも、今となっては、太宰のお茶目なイタズラだったような気がしています。

 また、【日めくり太宰治】を企画した動機の1つには、"歴史"という枠組みの中で"太宰治"を捉え直したい、太宰が生きた時代背景を知る事で、より太宰に近づけるのではないか、という意図もありました。
 太宰は、第二次世界大戦中、最も多くの作品を執筆した作家です。「コロナ禍の中、毎日記事を更新し続ける姿が、戦禍の中で作品を執筆し続ける太宰の姿に重なる」という言葉も頂きました。明るい話題の少ない中、毎日の些細な楽しみを提供できればという、当初は想定していなかった気持ちも、更新を継続していく中で生まれてきました。

 予定していた記事の投稿は全て完了しましたが、毎日楽しみに記事を読んで下さった方々に、もう一度楽しんでもらいたい、また違った視点で記事を読んでもらいたいという思いから、最後にちょっとした「おまけ」をご用意させて頂きました。

 

太宰治の日めくり年譜

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 それが、太宰治の日めくり年譜」です。
 毎日更新していた【日めくり太宰治】の記事を年代順に並べ替えることで、太宰治の生涯を追体感することができるのではないか、という狙いがあります。
 太宰の年齢は満年齢で記載し、各年の冒頭には、1年間お世話になった山内祥史『太宰治の年譜を参考に、その年の太宰の動きが把握できるよう、概略を添えました。
 39年間という、短すぎる太宰の生涯を辿る際の、道案内となれば幸いです。

 

【1909年(明治42年)】
 太宰治  0歳
津島修治の誕生。

 6月19日:ダザイのトリセツ

 

 【1912年(明治45年・大正元年)】
 太宰治  3歳
1月、長姉タマ逝去。3月、タマ夫・良太郎実家に復籍。5月、近村タケが住込みで子守担当。父・源右衛門が衆議院議員に当選。母・夕子(たね)も療養のため、父母共に留守がちとなる。7月、弟・礼治が誕生。秋頃、父母が東京に一家を構え、在京が多くなる。

 5月 3日:タケさん、修ちゃんの子守りに
 5月18日:津島源右衛門、衆議院議員に当選
 9月12日:『将軍』と芥川龍之介

 

【1913年(大正2年)】
 太宰治  4歳
5月、叔母・キヱと地蔵堂の縁日に行く。絵本や童話を好み、タケに字を教わる。次姉・トシが津島市太郎と婚姻。

 

【1914年(大正3年)】
 太宰治  5歳
南大寺の日曜学校に通い、生玉(いくたま)和尚の話を聞く。4月、三上やゑに勧められ、金木第一尋常小学校に通い始める。11月、従姉・リエが季四郎と、従姉・フミが傍島(そばじま)正守と婚姻。

 

【1915年(大正4年)】
 太宰治  6歳
金木第一尋常小学校に休まず通学。3月、父・源右衛門が衆議院議員選挙への立候補を辞退。4月、長兄・文治が東京中学校に進学。7月、従姉・キヌが逝去。

 

【1916年(大正5年)】
 太宰治  7歳
1月、叔母・キヱが分家し、五所川原へ。4月、尋常小学校に入学。8月、父・源右衛門が叙勲。大正6年2月頃、タケ、叔母の女中となって金木を去る。

 1月18日:叔母キヱと「太宰治『思ひ出』の蔵」 
 4月21日:太宰、金木第一尋常小学校に入学

【1918年(大正7年)】
 太宰治  9歳
春頃、タケが実家に帰る。7月、タケが小泊に嫁ぐ。

 

【1920年(大正9年)】
 太宰治 11歳
2月、金木に町制が施行された。3月、金木銀行が増資され株式会社となり、父・源右衛門が引き続き頭取に就任。この頃から文学に関心をもつ。6月、級友代表で弔詞を読む。

 2月 2日:太宰と越野タケ
 6月16日:太宰が級友に読んだ弔詞

 

【1922年(大正11年)】
 太宰治 13歳
3月、金木第一尋常小学校を卒業。4月、明治高等小学校に入学。在学中、傍島正守から綴方などの個人指導を受ける。5月、長兄・文治が婚姻。12月、父・源右衛門が貴族院議員となる。

 4月 1日:学力補充のため、高等小学校へ
 5月 8日:長兄・文治に「嫁っこ、きたよお」
12月17日:源右衛門、貴族院議員に

 

【1923年(大正12年)】
 太宰治 14歳
1、2月、受験準備のため課題綴方を書く。3月、長兄・文治が大学卒業。父・源右衛門逝去。中学校受験。4月、青森中学校に入学し、豊田太左衛門方に下宿。5月頃、ユーモア小説を書く。ランニング、柔道、水泳に励む。夏休み、「幽閉」を読み興奮。二学期から級長に任ぜられる。

 3月 4日:太宰の父・源右衛門の死
 5月 2日:青森中学時代の太宰

 

【1924年(大正13年)】
 太宰治 15歳
芥川龍之介菊池寛などの小説に親しみ、文学書を多く読む。次兄・英治が婚姻。津島家が貴族院議員有資格者名簿から姿を消す。

 

【1925年(大正14年)】
 太宰治 16歳
2月、最初の創作「最後の太閤」を発表。4月、弟・礼治が青森中学に進学し、同居。10月、回覧誌「星座」に戯曲、詩、コント、随想などを寄稿。長兄・文治が金木町長に就任。宮越トキが津島家に住み込む。「校友会誌」に創作を発表し、11月、「蜃気楼」を創刊し以後各号に創作を発表。秋、西村教諭に平手打ちされ、生徒たちが抗議集会を開く。

 3月24日:最初の創作『最後の太閤』
 4月23日:「N君」中村貞次郎が語る中学時代
10月10日: 太宰の初恋『思い出』の「みよ」
10月21日:『角力』
11月 5日:同人誌「蜃気楼」創刊

 

【1926年(大正15年・昭和元年)】
 太宰治 17歳
1月、日記をつける。1、2、4、6、7、9、11、12月発行の「蜃気楼」と、9、10月発行の「青んぼ」とに、種々の文章を発表。4月、三姉・あいが婚姻。夏休み、飛島定城から高校受験の指導を受けた。11月、弁論大会に出場。12月、宮越トキが津島家を去った。

 1月23日:「蜃気楼」と『負けぎらいト敗北ト』
 7月16日:『哄笑に至る』
 8月18日:太宰、中学4年生の夏休み
11月 8日:『モナコ小景』
11月11日:「ユーモアに就いて」熱弁を振る
12月20日:『怪談』

 

【1927年(昭和2年)】
 太宰治 18歳
2月、「蜃気楼」最終号発行。3月、青森中学校四年修了。4月、弘前高校に入学し、藤田方に下宿。Bruhlの授業で英作文を書く。7月、芥川龍之介の自殺に感動。義太夫を習い始める。8月、鈴木信太郎弘前高校の校長に就任。9月、長兄・文治が青森県会議に当選。10月頃から青森で芸妓と遊ぶようになる。

 4月18日:太宰、弘前高等学校に入学
 7月24日:「河童忌」芥川龍之介の命日

 

【1928年(昭和3年)】
 太宰治 19歳
5月、「細胞文藝」を創刊し、6、7、8月号と4号を発行。8月、芸妓・紅子(小山初代)と識って親しくなる。10月、「猟騎兵」同人となる。12月、弘高新聞雑誌部委員に任命される。「校友会雑誌」に作品を発表。

10月 3日:太宰、「猟騎兵」の同人に
11月25日:太宰、平岡敏男と痛飲
12月15日:『此の夫婦』

 

【1929年(昭和4年)】
 太宰治 20歳
1月、弟・礼治が逝去。2月から12月に「弘高新聞」「猟騎兵」「校友会雑誌」等に創作や評論を掲載。2月、弘高鈴木校長の公金無断流用が発覚。同盟休校し、戸沢が校長就任。11月頃、心中未遂。12月、多量のカルモチンを嚥下し昏睡状態となる。意識回復後、母・夕子と大鰐温泉で静養。

 1月 5日:太宰を慕う弟の死
 8月29日:『虎徹宵話』
 9月25日:『花火』
11月 7日:太宰、最初の心中未遂?
12月10日:カルモチン服用による自殺未遂 

 

【1930年(昭和5年)】
 太宰治 21歳
1月から「座標」に長篇連載。4月、東京帝大に入学。戸塚諏訪の下宿で工藤永蔵に勧誘され、共産党支持者の組織に参加。5月、井伏鱒二と面会。6月、三兄・圭治が逝去。9月、小山初代が出奔上京。11月、長兄・文治と会談。除籍。結納目録。田部あつみとカルモチンを嚥下、あつみは絶命。12月、自殺幇助罪容疑。小山初代と仮祝言

 3月13日:太宰の東大受験
 3月25日:太宰、東京帝国大学に合格
 5月19日:師匠・井伏鱒二との出会い
 6月21日:三兄・圭治の死
 9月 4日:”一人の若い左翼運動者”津島修治
 9月17日:太宰、小山初代に「上京せよ」
10月 1日:初代、赤羽で降車し、太宰と再会
11月23日:分家除籍と初代との結納
11月28日:太宰、田部あつみと小動崎へ
11月29日:鎌倉腰越町小動崎での情死事件
12月 2日:田部あつみの葬儀と中畑の後始末
12月 7日:太宰、自殺幇助罪に問われる

 

【1931年(昭和6年)】
 太宰治 22歳
1月、長兄・文治と会談し「覚」を交わす。2月、初代が上京し、神田岩本町に住み、五反田に移転。党要人にアジトを提供するようになる。3月頃、俳諧運座を開催。9月、工藤永蔵が検挙される。以後、共産党と青森労組との連絡先となる。10月か11月か西神田署に出頭。その後、神田和泉町に移転。11月、起訴され刑務所に収監された工藤永蔵に送金。

 1月27日:長兄・文治と交わした「覚」
 2月 7日:太宰と初代の新婚生活
 2月 8日:太宰と工藤永蔵
 2月18日:共産党へのアジト提供
 4月14日:同郷の在京学生を左翼運動に勧誘?
 4月15日:「俳人」太宰治

 

【1932年(昭和7年)】
 太宰治 23歳
2月か3月か、淀橋柏木に転居。6月、金木の生家に特高刑事が訪問。送金停止される。新富町、八丁堀に移転。7月、青森警察特高課に出頭。静浦村に滞在し、創作に専念。9月、芝白金三光町に移転。やがて飛島定城一家が同居。11月、警察署に出頭。12月、渡辺惣助が逮捕される。

 4月27日:太宰と小舘善四郎
 6月28日:太宰の逃避行とその終焉
 8月12日:創作活動を再開、静浦村での日々
 9月14日:太宰の朗読会
 9月28日:太宰、芝区白金三光町へ引越し
10月 8日:日本初の銀行強盗、大森ギャング事件
11月 3日:太宰の留置とペンネーム「太宰」

 

【1933年(昭和8年)】
 太宰治 24歳
1月、筆名「太宰治」を決定。青森検事局に出頭し、左翼運動との絶縁を誓約。「晩年」の諸作を発表し始める。2月、「海豹」に参加。飛島家と共に、2月、天沼三丁目に、5月、天沼一丁目に移転。8月上旬頃までに「海豹」脱退。12月、太宰卒業の見込みがないことが判明、長兄・文治に叱責される。

 1月 3日:ペンネームの由来 
 1月 9日:太宰と左翼運動
 1月19日:太宰と今官一
 2月15日:『田舎者』と今官一
 2月19日:太宰治として最初の小説
 2月27日:奥さんの母・小山きみ宛の書簡
 7月 5日:手製の『思い出』
 7月12日:久保隆一郎への手紙
 9月11日:木山捷平への手紙

 

【1934年(昭和9年)】
 太宰治 25歳
4月、井伏鱒二の名で合作を、また黒木舜平の筆名で創作を発表。「鷭」一、ニ輯に創作発表。7月、三島に滞在し創作執筆。9月、「青い花」の発刊を企画。12月、「晩年」の14篇完成。12月、「青い花」発刊。

 1月22日:太宰と久保隆一郎の交流
10月 6日:なかなかの熱の入れ方「青い花」
10月20日:太宰と中原中也①
11月10日:太宰と中原中也②
12月18日:文藝同人誌「青い花」創刊

 

【1935年(昭和10年)】
 太宰治 26歳
2月、商業誌に創作初掲載逆行)。3月、失踪、縊死未遂。4月、入院し手術を受け、麻薬性鎮痛剤の使用開始。5月、「日本浪漫派」参加。7月、船橋に転居。8月、芥川賞候補となり、落選。9月、東大除籍される。10月、芥川賞選考を巡り川端康成と相剋。

 1月24日:東京帝大を卒業するために
 2月 1日:太宰の文壇デビュー
 3月14日:太宰の就職活動
 3月16日:鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂
 3月18日:縊死未遂からの帰還
 3月21日:縊死未遂事件の顛末
 4月 4日:太宰は、本当に麻薬中毒だったのか?
 7月 1日:「最も愛着が深かった」船橋へ
 7月29日:「なぜ、君は遊びに来ないのか」
 7月31日:弟のように可愛がった小舘善四郎
 8月21日:第一回芥川賞、落選直後
 8月22日:太宰と佐藤春夫、初めての出逢い
 8月23日: 鰭崎潤と「聖書知識」
 8月31日:「僕は君を愛している」
 9月22日:太宰、三浦正次への手紙
 9月26日:はじめての原稿料で湯河原旅行①
 9月27日:はじめての原稿料で湯河原旅行②
 9月29日:荒れた竹藪の中の、かぐや姫
10月31日:「難関をひとりで切り抜ける覚悟」
11月27日:『人物に就いて』
12月 4日:小舘善四郎と津村信夫に宛てた手紙
12月12日:『碧眼托鉢』
12月19日:太宰、「碧眼托鉢」の旅へ

 

【1936年(昭和11年)】
 太宰治 27歳
2月、佐藤春夫の紹介で麻薬中毒治療のため済生会芝病院に入院。3月頃、麻薬注射再会。5~8月、「狂言の神」を巡って騒動があった。6月、『晩年』上梓。7月、出版記念会。8月、水上谷川へ行く。10月、東京武蔵野病院の閉鎖病棟に収容される。小山初代が小舘善四郎の付添看護。11月、中毒全治退院。天沼一丁目に居住。11~12月、熱海に遊ぶ。

 1月28日:佐藤春夫に宛てた4mの書簡
 2月10日:太宰の芝済生会病院入院
 2月14日:太宰、入院中に檀一雄と病院脱出
 2月16日:太宰と鰭崎潤
 2月22日:外村繁と追悼文「太宰君のこと」
 3月12日:太宰のパビナール中毒
 4月17日:太宰、お金の無心をする
 6月 1日:『悶悶日記』
 6月22日:出来上がったばかりの『晩年』を
 6月25日:処女短篇集『晩年』刊行
 6月29日:佐藤春夫と川端康成からの手紙
 7月 6日:井伏の叱責と、太宰の言い訳
 7月 8日:太宰、佐藤春夫への誘い
 7月11日:『晩年』の出版記念会
 7月25日:『走ラヌ名馬』
 7月26日:中畑慶吉に宛てた自身の近況報告
 7月27日:佐藤春夫へ「オ許シ下サイ」
 8月 4日:『白猿狂乱』顛末記
 8月 8日:長兄・文治への近況報告
 8月14日:川久保屋旅館と第三回芥川賞落選
 8月25日:川久保屋旅館滞在中の手紙
 9月 6日:第2創作集の出版を急ぐ太宰
 9月19日:「小説かきたくて、うずうず」
 9月24日:信州でのサナトリアム生活を計画
10月 4日:伊馬鵜平と小山祐士の船橋訪問
10月 7日:初代、太宰の身を案じて井伏宅へ
10月 9日:小舘善四郎の自殺未遂
10月13日:太宰、東京武蔵野病院へ入院
10月15日:初代、小舘善四郎を付添い看護
10月19日:東京武蔵野病院入院中の太宰①
11月 1日:『先生三人』
11月 4日:東京武蔵野病院入院中の太宰②
11月12日:太宰、東京武蔵野病院を退院
12月28日:熱海事件(付け馬事件)①
12月29日:熱海事件(付け馬事件)②

 

【1937年(昭和12年)】
 太宰治 28歳
3月、小舘善四郎と初代との不倫を知る。初代と谷川岳で心中未遂。初代との離別を決意。4月、三姉・あいが逝去。5月、長兄・文治が選挙違反で公民権停止。6月、『虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ』上梓。初代との離別決定し、天沼一丁目に単身移転。7月、『二十世紀旗手』上梓。10月、津島逸郎が服薬自殺。

 3月 5日:小山初代と小館善四郎の過ち
 3月20日:太宰治水上心中
 3月23日:水上心中事件の顛末
 4月 5日:太宰にとっての初代
 5月 9日:太宰、石神井にて合コンす
 5月30日:太宰、三宅島に遊ぶ
 6月23日:太宰、鎌滝富方に引越す
 7月19日:太宰と離別後の小山初代
 7月22日:平岡敏男への近況報告
12月 1日:『思案の敗北』
12月11日:『創作余談』

 

【1938年(昭和13年)】
 太宰治 29歳
6月頃、本気で文筆活動を志願。7月、結婚話が始まる。9月、御坂峠の天下茶屋に止宿。石原美知子と見合い。10月、津島甫が自殺。11月、石原美知子と婚約。甲府西竪町に止宿。12月、石原家に結納金を納める。

 1月11日: 『「晩年」に就いて』
 7月 4日:長尾良と太宰の出会い
 8月 1日:『緒方君を殺した者』
 8月 7日:著作をめぐる2人の女性の物語
 8月11日:井伏鱒二へのお礼と決意表明
 9月13日:太宰、御坂峠の天下茶屋へ
 9月18日:太宰、石原美知子とのお見合い
10月 5日:『富士に就いて』
10月24日:太宰、井伏への「誓約書」
10月26日:「だめな男だとも思っていません」
10月27日:『校長三代』
11月 6日:太宰と美知子の結婚披露宴
11月16日:太宰、天下茶屋を後にする
12月 9日:『九月十月十一月』
 

【1939年(昭和14年)】
 太宰治 30歳
1月、甲府御崎町に移転。井伏鱒二宅で結婚式を挙行。短篇小説コンクール当選(『黄金風景』)。5月、『愛と美について』上梓。7月、三鷹の貸家を契約。『女生徒』上梓。9月、三鷹下連雀の借家に移転。鰭崎潤、久富邦夫等と頻繁に往来。青森県出身在京藝術家座談会に出席。

 1月 4日:太宰結婚の立役者・高田英之助
 1月 7日:太宰の甲府転居 
 1月 8日:石原美知子との新婚生活
 1月16日:結婚のお礼回り
 1月26日:『女生徒』誕生の舞台裏
 2月 4日:「原稿百枚紛失」事件
 3月 2日:結婚後、最初の仕事
 5月 5日:太宰と美知子の信州旅行
 5月10日:『当選の日』
 5月15日:『正直ノオト』
 5月26日:太宰、東京への移転を切望
 5月31日:「全く望外の印税」速達で届く
 6月 4日:難航する東京での貸家捜し
 6月 8日:『春昼』
 6月 9日:太宰、創作集の装幀を依頼する
 7月10日:『「人間キリスト記」その他』
 7月15日:太宰、三鷹の借家を契約
 7月20日:太宰、お見合いをセッティング
 8月 9日:三鷹の家が、予定どおり完成せず
 9月 1日:念願の、甲府から三鷹への引越し
 9月20日:太宰「うるせえ、黙ってろ」
11月13日:『困惑の弁』
12月27日:高田英之助からの吉報を聞いて

 

【1940年(昭和15年)】
 太宰治 31歳
1月から「月刊文章」に創作連載(『女の決闘』)。3月、田中英光三鷹に訪問。4月、『皮膚と心』上梓。四万温泉に遊ぶ。6月、『思い出』『女の決闘』上梓。7月から「若草」に創作連載(『乞食学生』)。7月、湯ケ野、熱川、谷津温泉に行く。10月、東京商科大で講演。11月、短篇ラジオ小説放送(『リイズ』)。小山清三鷹に訪問。新潟高校で講演。12月から「婦人画報」に創作連載(『ろまん燈籠』)。12月、戸石泰一、三田循司、堤重久ら文学青年が三鷹に訪れるようになる。第四回北村透谷記念文学牌を受ける。

 1月 2日:佐藤春夫宅へ年始の挨拶に
 1月25日:『心の王者』
 1月30日:『このごろ』
 2月12日:『鬱屈禍』
 3月 1日:『酒ぎらい』
 3月22日:田中英光との出会い
 3月26日:『作家の像』
 4月30日:太宰、四万温泉:湯元 四萬舘に遊ぶ
 5月 6日:「昔の恩義を忘れず」
 5月 7日:『大恩は語らず』
 6月20日:『蒼穹答えず』
 7月 3日:湯ケ野温泉「福田屋」での執筆
 7月13日:太宰、「洪水に急襲」される
 8月 5日:『貪婪禍』
 8月20日:太宰と木村庄助の書簡
 9月 3日:『自作を語る』
10月 2日:太宰の講演「近代の病」
10月14日:葡萄を狩るの記
10月23日:『オリンポスの果実』出版に尽力
10月29日:『砂子屋』
10月30日:『パウロの混乱』
11月18日:太宰、新潟へゆく
11月26日:『かすかな声』
12月13日:太宰、山岸に「君は一番強いよ。」

 

【1941年(昭和16年)】
 太宰治 32歳
5月、『東京八景』上梓。6月、長女・園子が誕生。7月、『新ハムレット』上梓。8月、衰弱した母・夕子を見舞う。『千代女』上梓。9月、太田静子らが三鷹に訪問。10月、三保に遊ぶ。11月、身体検査を受け、徴用免除となる。

  1月15日:太宰と旅行
 2月11日:山岸外史から見た第一印象
 2月20日:全く同じ日に生まれた詩人・宮崎譲
 3月15日:太宰と将棋
 5月28日:真夜中のサイダー
 6月 7日:長女・園子の誕生
 6月11日:太宰、山岸に再婚のすゝめ
 6月18日:小山清にとってのLast man
 6月30日:山岸外史の「再婚機」
 8月 2日:セルフレビューと仮入歯
 8月 3日:菊田義孝、三鷹の住居を初訪問
 8月17日:太宰、10年振りに故郷・金木へ
 9月 7日:太宰と太田静子の出逢い
10月17日:『世界的』
11月17日:太宰に文士徴用令書が届く
11月22日:『日記抄』と太平洋戦争中の太宰
12月 8日:「太平洋戦争が始まった」
12月26日:「ぼくの生命を園子にあずける」
 

【1942年(昭和17年)】
 太宰治 33歳
1月、限定版『駈込み訴へ』上梓。2月、奥多摩御岳に遊ぶ。3月、奥多摩で稿を継ぐ(『正義と微笑』)。4月、堤重久とその友人達と奥多摩に遊ぶ。『風の便り』上梓。5月、『老ハイデルベルヒ』上梓。6月、『正義と微笑』『女性』上梓。8月、箱根で執筆(『花火』)。9月、繰上げ卒業の戸石泰一らと別れの宴を開催した。10月、母・夕子が重態のため初対面の妻子と帰郷。11月、『信天翁』上梓。甲府で短篇を執筆した(『黄村先生言行録』『故郷』『禁酒の心』)。12月、母危篤の報を受け単身帰郷。母・夕子が逝去した。

 1月 1日:正月の井伏鱒二宅訪問
 1月20日:『散華』のモデル・三田循司
 2月 5日:太宰の御嶽ハイキング
 2月23日:堤重久、甲府の太宰を訪問
 2月28日:ひばりのモデル・木村庄助
 3月19日:タイミングの悪い小山清
 4月 9日:堤重久の出征壮行会
 4月10日:堤重久の出征壮行会の帰途
 4月11日:『一問一答』
 4月26日:「吉祥寺のおばさん」のコスモス
 7月21日:太宰、義弟の下宿探し
 8月19日:義弟の下宿、見つかる
 8月13日:箱根の太宰治
 9月 5日:『天狗』
 9月15日:堤重久の除隊
10月28日:美知子、初めての金木
11月 2日:明日帰京と決まった日の午後
12月 3日:井伏の徴用解除と母・夕子の逝去

 

【1943年(昭和18年)】
 太宰治 34歳
1月、『富嶽百景』上梓。「右大臣実朝」の原稿に苦心した。3月、義母・石原くらを亭主に茶会を催す。4月、塩月赳の結婚式に尽力。。5月、木村庄助が自殺した。アッツ島部隊玉砕。9月、『右大臣実朝』上梓。10月、「雲雀の声」を完成したが、上梓を見合わせる。

 1月31日:太宰の「実朝時代」
 3月 6日:太宰と阿部合成
 3月 7日:山岸の送った絶交状
 3月31日:床の間の掛軸
 4月24日:太宰と阿部「思い出果てなし」
 4月28日:太宰、友人のために奔走する
 6月24日:『革財布』
 8月16日:『ユダヤ人実朝』事件
 8月24日:戦後の太宰と師匠・井伏鱒二
 9月 9日:桂英澄、入隊前夜
12月23日:阿佐ヶ谷会錬成忘年会

 

【1944年(昭和19年)】
 太宰治 35歳
1月、熱海で「佳日」を脚色。帰途。太田静子を訪問した。3月、甲府石原家へ行く。5月、津軽に旅行し、中村貞次郎、越野タケらと逢い、6月に帰宅。6月から9月まで、甲府石原家と自宅を頻繁に往来した。7月、小山初代が逝去。8月、長男・正樹が誕生した。『佳日』上梓。9月、「四つの結婚」が封切られた。10月、隣組長、防火群長に就任。11月、『津軽』上梓。空襲で印刷中の「雲雀の声」が全焼した。12月、魯迅調査のため仙台へ行く。

 1月12日:太宰と映画
 1月13日:太宰と相撲
 1月17日: 『「惜別」の意図』
 3月29日:根市良三/資生堂パーラー
 4月 2日:『芸術ぎらい』
 5月12日:太宰の『津軽』旅行①:三鷹~蟹田
 5月17日:太宰の『津軽』旅行②:今別~竜飛
 5月24日:太宰の『津軽』旅行③:金木~深浦
 5月27日:太宰の『津軽』旅行④:鰺ヶ沢~小泊
 6月 3日:太宰の『津軽』旅行⑤:蟹田~三鷹
 7月23日:小山初代の命日
 8月10日:長男・正樹の誕生
 8月26日:太宰と別所直樹との出逢い
 8月27日:津村信夫と『郷愁』
 9月16日:太宰と菊田義孝の甲府行
10月18日:『純真』
11月24日:戦時下における三鷹での太宰
12月 6日:太宰、小山清への近況報告
12月21日:『惜別』執筆準備のため、仙台へ
12月31日:菊田義孝と過ごす大晦日
 

【1945年(昭和20年)】
 太宰治 36歳
1月、『新釈諸国噺』上梓。3月、小山清が避難して来て、妻子を甲府疎開させる。4月、三鷹被爆し、甲府へ行く。7月、甲府被爆し、石原家が全焼。大内家に寄寓の後、津軽へ家族と再疎開。8月、終戦。9月、『惜別』上梓。10月、『お伽草紙』上梓。「河北新報」に小説連載開始する(『パンドラの匣』)。11月、四姉・きやうが逝去。12月、農地改革。

 2月13日:太宰と野田宇太郎
 2月25日:太宰が住んだ街、三鷹
 3月10日:太宰と東京大空襲
 4月 3日:「東京大空襲」以後、甲府疎開まで
 4月13日:太宰、甲府へ疎開する
 5月29日:太宰、甲府で「荷物疎開」
 6月26日:太宰と弟子・菊田義孝
 7月 7日:太宰、「甲府空襲」に遭う
 7月17日: 「甲府空襲」罹災後の太宰
 7月28日:太宰、甲府から津軽へ疎開
 8月 6日:田中英光、金木の太宰を訪問
 8月15日:金木で迎えた終戦
 8月28日:疎開先から弟子と師匠に送る手紙
 9月21日:太宰、終戦後の希望を書く
 9月23日:捗る仕事、断わる仕事
 9月30日:『パンドラの匣』にかける熱量
10月22日:『パンドラの箱』連載開始
10月25日:終戦直後、『お伽草子』を刊行
11月 9日:「大へん疲れてしまいました」
11月21日:太宰の四姉・きやうの死

 

【1946年(昭和21年)】
 太宰治 37歳
2月、青森中学で講演。3月、金木文化会に出席。4月、長兄・文治が衆議院議員に当選した。5月、芥川比呂志が来訪。6月、『パンドラの匣』上梓。7月、祖母・イシが逝去。11月、金木を離れ帰京。『薄明』上梓。坂口安吾織田作之助らとの座談会に出席。

 1月14日:太宰、初の新聞連載
 2月 6日:太宰の「勉強論」と「聖諦」
 3月 3日:長兄・文治の選挙応援
 3月17日:太宰、友人の小野正文を訪ねる
 4月19日:戦後の原稿用紙不足
 4月22日:堤重久に宛てた手紙
 4月25日:疎開中の太宰に「たけさん現わる」
 5月20日:芥川比呂志、太宰を訪問する
 6月15日:『政治家と家庭』
 9月10日:野原一夫、太宰に原稿依頼
10月11日:金木から「小田静夫」への手紙
10月12日:疎開先で弟子を気遣う太宰
10月16日:祖母・津島イシの葬儀
11月14日:太宰、金木から三鷹へ帰京
11月20日:野原一夫、三鷹通いのはじまり
11月22日:『現代小説を語る』
11月25日:『歓楽極まりて哀情多し』
12月14日:「太宰さんの文学はきらい」
12月16日:太宰「校正お世話になります」
12月24日:太宰の年越し準備
12月25日:「ぼくのクリスマスプレゼント」

 

【1947年(昭和22年)】
 太宰治 38歳
1月、織田作之助が逝去。同居していた小山清が夕張に出発。2月、伊豆への途中、下曽我の太田静子を訪問。静子の日記を携え、三津浜で稿を起こす(『斜陽』)。3月、山崎富栄を識る。次女・里子が誕生。5月、「春の枯葉」NHKラジオ放送。7月、『冬の花火』『ろまん燈籠』上梓。7月から「新潮」に創作を連載(『斜陽』)。「千草」を仕事場とする。「パンドラの匣」映画化。8月、『ヴィヨンの妻』上梓。9月、熱海に行く。11月、太田治子が誕生。

 1月 6日:太宰と日記
 1月10日: 『織田君の死』
 1月21日:生前に出版された『太宰治全集』
 1月29日:太宰と小山清
 2月21日:太宰、太田静子の日記を手にする
 2月24日:太宰、尾崎一雄宅を訪問
 2月26日:『斜陽』を執筆した安田屋旅館
 3月11日:太宰と「千草」
 3月27日:太宰と富栄の出逢い
 3月30日:次女・里子の誕生
 4月12日:田辺精肉店の裏のアパート
 5月 1日:富栄、薄ら寒い夜の記憶
 5月 4日:富栄、歓びと葛藤と
 5月21日:太宰を占う、若い女性占い師
 5月25日:太田静子の三鷹来訪
 6月 2日:太宰作品のNHKラジオ放送
 6月10日: 太宰、富栄に「別れよう――」
 6月27日:「太宰さんと旅をする」
 7月 9日:太宰の3通の手紙
 7月14日:菊田義孝「愛情うすし」
 7月30日:富栄、募る太宰への想い
 8月30日:「僕の内臓の一部のような気がする」
 9月 2日:富栄、太宰に会えぬ日々
 9月 8日:『同じ星』と宮崎譲
11月15日:證「この子は 私の 可愛い子」
11月19日:富栄「こうした私の心の飛躍」
11月30日:太宰に付き添う富栄
12月 5日:富栄「修ちゃんを、守りたい」
12月22日:富栄「お人好しの仙女では…」
12月30日:山崎富栄「女一人」

 

【1948年(昭和23年)】
 太宰治 39歳
2月、俳優座が「春の枯葉」を公演。大映女優・関千恵子が来訪し対談した。織田作之助の追悼会に出席。義妹・吉原愛子が逝去。3月から「新潮」に随想を連載した(『如是我聞』)。熱海へ行く。『太宰治随想集』上梓。4月、『太宰治全集』(八雲書店)を刊行開始。大宮へ行く。6月から「展望」に創作を連載(『人間失格』)。6月、山崎富栄と家出し入水した。自宅で葬儀。7月、五七日の法要。『人間失格』『桜桃』上梓。11月、『如是我聞』上梓。

 2月 3日:三鷹の仕事部屋
 2月 9日:「太宰治先生訪問記」
 2月17日:『晩年』への熱い想い
 2月29日:酒だけが俺を生かしておいてくれる
 3月 8日:起雲閣で『人間失格』の執筆開始
 3月 9日:太宰が富栄に告げた言葉
 3月28日:太宰の近況 ー富栄の日記から
 4月 6日:『如是我聞』の口述筆記①
 4月 7日:『井伏鱒二選集 第三巻 後記』
 4月 8日:太宰と林聖子さん
 4月16日:富栄、太田静子への手紙を代筆
 4月20日:最初の全集を刊行した八雲書店
 4月29日:『人間失格』執筆のため大宮へ
 5月11日:太宰、大宮を後にする
 5月13日:『如是我聞』の口述筆記②
 5月14日:太宰の「朝日新聞」連載小説
 5月16日:太宰と3人の女性たち
 5月22日:「恋している女があるんだ」
 5月23日:「修治さんに、憂鬱な嫉妬と不安」
 6月 5日:『如是我聞』の口述筆記③
 6月 6日:最後の「行ってくるよ」
 6月12日:太宰心中前日、大宮を訪問
 6月13日:太宰と富栄、玉川上水に入水す
 6月14日:太宰治の命日
 6月17日:心中事件後の朝日新聞報道
 7月 2日:『黒石の人たち』
 7月18日:太宰、三鷹「禅林寺」に葬られる

 

これから

 2019年の【日刊 太宰治全小説】、2020年の【日めくり太宰治】と、2年続けて太宰治関連の発信を続けたことで、多くの方との出会いがあり、貴重な資料のご提供やご助言を頂くなど、多くのご支援に支えられて、無事に更新を終えることができました。私の部屋には、頂いた資料や、自分で購入した書籍も含め、記事を書くために部分的にしか目を通していない多くの蔵書、貴重な資料が多く残りました。これからは、ゆっくり丁寧に目を通しながら、不定期更新ではありますが、ソウルフレンド・太宰治の魅力発信を続けていきたいと考えています。

 また、毎朝7時に投稿を続けた【日めくり太宰治】の記事の中には、個人的に納得のいっていないもの、後で追加エピソードを知ったもの、太宰治の日めくり年譜」を作成した際に、他の記事との関係で調整を加えたいものがあるため、適宜、加筆修正をしていく予定です。たまに思い出した時、覗いてみると、新しい発見があるかもしれません。

 1年間継続して来れたのは、毎日読んで下さった方々、応援して下さった方々のおかげです。1年間お付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 最後は、今後の再会への期待も込めて、太宰治の名作津軽の名フレーズで締めたいと思います。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

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 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【今日は何の日?
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