記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月7日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月7日の太宰治

  1939年(昭和14年)1月7日。
 太宰治 29歳。

 挙式の前日、杉並区清水町二十四番地の井伏鱒二宅に行ったところ、中畑慶吉の配慮で、挙式用の黒羽二重の紋服一重ね、袴、絹の縞の着物一重ねが届けられていて、感激したという。

太宰の甲府転居

 この日は、太宰と石原美知子の結婚前夜でした。太宰は小山初代を落籍した際、婚姻届は出していなかったため、戸籍上は最初の結婚ということになります。

 さらにこの前日1月6日、太宰は甲府に転居しています。

f:id:shige97:20191221165407j:image
 これは、美知子による「御崎町新居居間見取り図」です。
 それでは、転居当日の様子を、おなじみ山内祥史太宰治の年譜』から引用してみます。

 風の強い日に、甲府市御崎町五十六番地の借家に移転した。義母くらが見付けてくれた家だった。新居は、「上府中と呼ばれてゐる甲府の山の手のはづれの、静かな町」にあって、「御崎町の通りから小路を南に下った一番奥」であった。建築請負業の龝山(あきやま)浅次郎が、その地所内に自ら建築した二軒の貸家の中の南の方の一棟で、地所全体が黒い板塀で囲まれ、更に一棟毎に塀と小庭が設けられていた。八畳、二畳、一畳三間の家で、「八畳の西側は床の間と押入で、東側は全部ガラス窓、隅に炉が切ってある。三畳は障子で、二畳の茶の間と、一畳の取次とにしきってあった。ぬれ縁が窓の下と小庭に面した南側についていた。家の前には庚申バラなどの植込があり、奥は桑畑で、しおり戸や葡萄棚がしつらえてあっ」て、「通りから引込んで居て静か」な「隠居のやうな感じ」であったという。水門町迄約十分程であった。家賃六円五十銭。

 風呂好きの太宰には嬉しい、家から歩いてすぐのところに「喜久乃湯」があったり、道路を挟んで斜め向かいに分部(わけべ)豆腐店があったりと(歯が悪かった太宰は、酒を飲みながら湯豆腐を食べるのが好きでした。豆腐はタバコの毒を消すとも言っていたそうです。)、心機一転して執筆に(いそ)しむには好立地でした。

f:id:shige97:20191221171743j:image
f:id:shige97:20191221171812j:image
 上の2枚は、出張中に現地を撮影した写真です(あいにくの夜に雨ですが…)。
 太宰治僑居(きょうきょ)跡」には碑が建っており、「太宰治は昭和十四年一月から八ヶ月間ここ御崎町五十一番地で新婚時代を過ごした 短期間であったが充実した想い出の多い地であった」と刻まれています。
 「喜久乃湯」は現在も営業中(10:00~21:30、水曜日・毎月第三木曜日定休。基本料金400円)。1926年(昭和元年)創業で、源泉掛け流し。カランもシャワーも全て源泉のお湯を使用しているそうです。

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】