記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月8日

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1月8日の太宰治

  1939年(昭和14年)1月8日。
 太宰治 29歳。

 午後、井伏鱒二宅で、井伏鱒二夫妻が媒酌し、山田貞一、宇多子夫妻(石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代)、北芳四郎などが同席、計九人で、石原美知子との結婚式を挙行。その夜遅く、美知子を連れて新宿発、甲府に帰り、新居に落ち着いた。

石原美知子との新婚生活

 左翼運動、心中未遂、パビナール中毒…、怒涛の20代を送ってきた太宰ですが、美知子との結婚を機に安定期に入り、充実の作家生活を送るようになります。
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 甲府での新婚生活の様子を、山内祥史太宰治の年譜』から引用して見ていきます。

 毎日、執筆に専念。「朝から規則的に机に向ひ」、(ひる)過ぎ、筆をまとめて午後三時近くの銭湯「喜久の湯」へ行き、帰りに増山町の分部(わけべ)豆腐店(分部丑三郎経営)に寄って木綿豆腐を一丁買って帰った。やがて、天秤棒(てんびんぼう)に桶を吊し喇叭(らっぱ)を吹きながら売り歩いていた分部丑三郎が、毎日太宰治の家に立寄るようになり、美知子がガラスの器をもって出てきて買うようになった。
 四時頃から「湯豆腐で晩酌」をし、時には「義太夫などが出ることもあった。「お俊伝兵衛」「壺坂」「朝顔日記」などがおはこだった。」という。「変にからんで」美知子を「泣かせたり、勝手気儘(かってきまま)に」「六、七合飲んで」九時過ぎには、「酔いつぶれて大鼾(おおいびき)で寝てしまうという「習わし」」であった。
 「酒はそのころ一升一円五十銭の地酒をとっていて、一升が二日とも」たなかった。「それで一月の酒屋の払いは、二十円くらいだったから、安心だった」という。窪田酒店の番頭が、自転車でよく布の袋に一升瓶を入れて届けていた。甲府を引き払った後、物置に酒の酒瓶が沢山あり、酒屋がリヤカーにいっぱい積んで帰った。
 家主の龝山(あきやま)浅次郎は「小説家なんて変り者だ、ろくにものも言わん」と言っていた。だが、夫婦は仲睦(なかむつま)じかった。夫婦揃ってよく散歩していたといい、夏、夕涼みの籐椅子(とういす)で一本のバナナを分け合っている姿なども見られたという。
 近所の子供達は、玄関前の三和土(たたき)に、当時小学校でよく使用した石筆で「しんこんさんのうち」と落書きしたりした。
 この年の正月、「国民新聞」が、新聞の長篇連載の向うを張った形として、短篇小説コンクールを催した。参加作家は、新聞社の方が指定したもので、年輩者も二、三混っていたが、大体いずれも三十代の若手少壮作家であった。各作家には、原稿料のほかに掲載期間の新聞代が贈られ、優秀作一篇には、百円の賞金が出るというものであった。
 一月九日以後、結婚後の新居でまず着手されたのは、この「短篇小説コンクール」参加作品の「黄金風景」で、「待ちかまえていたように」美知子に口述筆記させたという。

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 この太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ」は、2019年4月27日から6月23日まで山梨県立文学館で開催されていた「特設展『太宰治 生誕110年ー作家をめぐる物語ー』」で配布されていたものです。
 特設展に合わせて6月15日に行われた、東京大学教授・安藤宏氏と秀明大学学長(教授)・川島幸希氏の対談太宰治・著書と資料をめぐって」の参加ルポも書いています。
 処女短篇集『晩年』の収録作・構成についてや、サインを嫌がった太宰お伽草紙』初版・再版・異版についての考察など、興味深いテーマ盛りだくさんです。ぜひ、ご一読下さい。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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