記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月9日

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1月9日の太宰治

  1933年(昭和8年)1月9日。
 太宰治 23歳。

 津島修治は、青森検事局に出頭し、様々に調べられ左翼運動との絶縁を誓約、事後処理いっさい長兄文治に託して帰宅の許可を得、何処へも立寄らず状況の途に就いたと考えられる。以来、左翼運動から完全に離脱した。

太宰と左翼運動

 今回は太宰治と左翼運動(マルクス主義)について、参加のきっかけから脱退(転向)までの経緯を、簡単に追っていきます。

 1929年(昭和4年)2月、弘前高等学校長・鈴木信太朗の公金(校友会費・同窓会費・十和田湖畔弘高会館建設費・職員積立金など約一万五千円)無断流用が発覚し、学生たちは、社会科学研究会リーダー・上田重彦(石上玄一郎(いしがみげんいちろう))のもと、5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、鈴木校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取りました。
 弘前高校3年生だった太宰は、ストライキにはほとんど参加しませんでしたが、当時流行していたプロレタリア文学を真似て、事件を大藤熊太の書名で『学生郡』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせています。
 翌1930年(昭和5年)1月16日、弘前警察署は田中清玄(たなかせいげん)武装共産党の末端活動家として働いていた上田ら弘前高等学校社会科研究会の学生9名を、行内左翼分子として逮捕。同年3月3日、逮捕された上田ら4名は放校処分、3名は論旨退学、2名が無期停学を学校当局から申し渡されました。
 同年4月から東京帝国大学生となった太宰は、活動家の工藤永蔵(くどうえいぞう)と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをするようになります。小山初代との結婚をきっかけに津島家を分家除籍されたのは、政治家でもある長兄・文治に、太宰の非合法活動の影響が及ぶのを防ぐという理由もありました。結婚してからは、シンパを(かくま)うよう命令され、居を転々と移します。太宰は警察にもマークされるようになり、2度も留置所を経験しました。
 1932年(昭和7年)7月中旬、長兄・文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署の特高課に出頭させます。太宰は二泊して取り調べを受け、共産党活動との絶縁を誓約して釈放、帰京しました。取り調べの結果、起訴され書類送検となりましたが、形式上に過ぎなかったと言われます。これに伴い、長兄・文治からの仕送りは月額120円から90円に減額となったそうです。太宰の住居に出入りしていた党員も次々と検挙されていったため、共産党との繋がりは自然と絶えることになりました。

 今日1月9日は、青森警察署への出頭の翌年、青森検事局に出頭し、左翼活動から完全に脱退(転向)した日となります。太宰はこの出来事をきっかけに、本格的に作家活動に打ち込んでいきます。
 太宰は後になって左翼活動をしていた時期について、『東京八景』の中で、

例の仕事の手助けの為に、二度も留置所に入れられた。留置所から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪も無かった。それが皆のために善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。ぼんやり、Hと二人で、雌雄の穴居の一日一日を迎え送っているのである。

と記しています。

 【了】

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【参考文献】
三好行雄 編『別冊國文學№7 太宰治必携』(學燈社、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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