記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月23日

f:id:shige97:20191205224501j:image

11月23日の太宰治

  1930年(昭和5年)11月23日。
 太宰治 21歳。

 会談の結果、長兄文治は、生家からの分家除籍を条件として、初代との結婚を承諾した。

分家除籍と初代との結納

 1930年(昭和5年)10月1日、太宰が東京帝国大学文学部仏文科に入学して5ヶ月が経った頃、青森県弘前高等学校2年生の時から懇意にしていた、料亭置屋「玉家」のお抱え芸妓・小山初代を東京に呼び寄せます。
  初代の上京事件から数日後、話をききつけた太宰の長兄・津島文治は、「玉家」の女将・野沢たまの息子・野沢謙三に連絡をし、文治と謙三は、青森市寺町(現在の本町)の呉服商豊田太左衛門方(津島家の縁戚。中学時代の太宰の下宿先)で対談します。
 この対談を受け、謙三は上京。太宰と初代に会って話をし、その時の様子を文治に報告しました。

 その後、同年11月上旬に文治も上京。11月9日、文治は戸塚の太宰の下宿を訪れ、会談しました。
 太宰は、この時の様子を、1940年(昭和15年)7月に執筆した小説東京八景で、次のように書いています。「H」と書かれているのが、初代です。

そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区駒形こまがたに一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのとき迄いちども無かった。故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父をうしなった兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。

 この会談の結果、文治は、生家からの分家除籍を条件として、太宰と初代との結婚を承諾しました。
 分家に際しては、財産分与の形は採らず、大学卒業まで毎月120円(現在の貨幣価値で、約230,000円)を仕送りすると決め、仮証文の「覚書」に署名させ、落籍の手続きをとるために、文治は初代を連れて帰郷しました。文治には、この一件を上手く利用して、太宰と左翼運動との関係を断ち切ろうという思惑もありました。
 この時の様子について、再び東京八景から引用してみます。

必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕慢きょうまんの弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。手渡すその前夜、私は、はじめて女を抱いた。兄は、女を連れて、ひとまず田舎へ帰った。女は、始終ぼんやりしていた。ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみをめさせてまで、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は、絶望した。朝早くから、夜おそく迄、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事は無かった。自分の其の方面に於ける能力の限度が、少しずつ見えて来た。私は、二重に絶望した。

f:id:shige97:20201122123832j:image
■小山初代

 文治が帰郷して10日後の11月19日、会談の通り、金木町大字金木字朝日山414番地の金木町役場に分家届出が提出され、太宰は除籍されました。

 同年11月24日、文治は、豊田太左衛門を名代とし、津島市三郎(津島家の帳場担当)を同道して、小山家と結納を交わしました。

f:id:shige97:20201122213935j:image
■中学時代の太宰 前列左端が豊田太左衛門、右端が太宰、後列左が太宰の弟・津島礼治

 初代宛の「結納目録」には、次のように書かれていました。

   覚
 熨斗(のし)
一 金五百円
一 紋付羽織 一
一 羽織   一
一 衿    一
一 衿    一
一 襦ばん  一
一 帯    一
一 コート  一
 以上

 昭和五年十一月廿四日
        津島修治
 初 代 殿

f:id:shige97:20201122125723j:image
■初代宛「結納目録」

 同年11月25日、豊田太左衛門から太宰に宛てて、「昨日結納相交」した旨を記した封書が投函されました。その封書には、次のように書かれていました。

愈々(いよいよ)来月六日午後十一時急行にて出立致シ事確定仕候(上野下車)万事可然御承引被下度

 封書には、「翌12月6日午後11時、初代が、急行で青森を出発し、上野で下車することに決まった」とありますが、初代の再上京は予定通りには行われることはありませんでした。

 【了】

********************
【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】