記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】10月16日

 

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10月16日の太宰治

  1946年(昭和21年)10月16日。
 太宰治 37歳。

 議会で上京していた長兄文治が午前十時の汽車で四か月振りに帰宅、早速伸びていた祖母イシの葬儀の相談をした。

祖母・津島イシの葬儀

 太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から、三鷹甲府を経て、故郷・金木町での疎開生活を送っていました。翌1946年(昭和21年)11月12日まで、約1年4ヶ月半を金木で過ごしましたが、今日紹介するのは、疎開生活も終わりが近づいていた頃の話です。
 終戦から1年以上が経ち、そろそろ三鷹へ戻ることを考えていた太宰ですが、すぐには上京できない理由がありました。

 1946年(昭和21年)7月4日、太宰の祖母・津島イシが、眠るように長寿を終えました。享年90歳。勝気な性格で、津島家の経営を取り仕切っていたイシは、「金木の淀君」と呼ばれていました。
 長兄・津島文治が上京中だったため、太宰は文治の妻・津島れいとともに、イシの最期を看取ります。長兄・文治は、同年4月10日に行われた、戦後初の第22回衆議院議員選挙で6位当選(得票数32,751票)。5日後の4月15日から上京しました。

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■津島イシ

 イシが亡くなってから約3ヶ月後が経過した、同年10月16日。議会のために上京していた長兄・文治が午前10時の汽車で帰宅し、早速、延びていた祖母・イシの葬儀の相談をしました。一旦、10月20日と決まりましたが、その日の夜、再度10月27日に延期し、葬儀の日が確定しました。
 「太宰が上京できない理由」とは、祖母・イシの葬儀が終わっていないからでした。

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津島文治

 太宰の妻・津島美知子は、長兄・文治の回想録『清廉一徹』に収録の『二十八年前』の中で、イシの葬儀について、次のように回想しています。

 祖母はその年の七月四日、九十歳の天寿を全うして、逝きました。長兄は在京中で、臨終をみとったのは、姉様と修治でした。新代議士帰郷して曰く、「ペルリからマッカーサーまでよく生きたものだ」と。
「昭和二十一年十月十五日、降ったり止んだり、夜津島代議士帰宅の筈のところ、明朝に延期。」「十月十六日午前十時の汽車で長兄四ヵ月ぶりに帰宅せらる。(すこぶ)るお元気。早速葬式の相談で一旦二十日ときまったが、夜又二十七日に延期確定の由。」(私の日記の抜き書)
 祖母の葬儀に伴う法事の宴、それはヤマゲン(”へ”の下に源)さいごの饗宴ともいうべきものでしたが、その折、襖を取り払った六十畳の広間の、膳部を運ぶ女たちが右往左往している、その下手の空いているところで、紋付羽織袴、正装の文治様が、よちよち歩きの晋吾さんを、「諏訪堂のオボ」「あんさま、あんさま」などと呼びながら追いかけてきたり、摑えて抱き上げたりして居られたお婆、それから、大きなコの字型に並べられた膳を前に、弔問客一同が着座したとき、下座の出入り口に近い最末席に、ぴたりと手をついて、喪主としての挨拶をされた整然たるお姿が、二十八年後の今も、彷彿と浮かんでまいります。

 葬儀の当日、太宰は羽織袴で香炉を持ち、ばさばさの長髪を風に(なび)かせ、寒そうに背をすくめて葬列についていたといいます。
 イシの葬儀は、三日間にわたって営まれました。

 【了】

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【参考文献】
津島文治先生回想録編纂委員会『清廉一徹』(筑摩書房、1974年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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