5月8日の太宰治。
1922年(大正11年)5月8日。
太宰治 12歳。
五月初め、早稲田大学在学中の長兄文治が、黒石町大字上町五十三番戸岡崎春次郎六女れい(禮)(十八歳)と婚姻した。
長兄・文治に「嫁っこ、きたよお」
1922年(大正11年)5月初め。
早稲田大学在学中の、太宰の長兄・津島文治が、黒石の名門・岡崎家の六女・れいと結婚しました。
今日は、秋山
■祝言を挙げた文治、れい夫妻
「嫁っこ、きたよお」と、だれかが大きな声で叫んだ。一瞬、しんと静まり、そして、ため息とどよめきが流れた。栄橋を渡って、嫁っこの行列が姿を見せたのである。真っ赤な漆の
角樽 を先頭に、津島家の定紋、鶴丸のついた半纏 をまとった若い衆が続く。花嫁は、人力車に乗っていた。道路の両側は、もう、押すな押すなの人波である。竹竿を持った消防団員が、声をからして規制している。その中を行列は進み、やがて、赤い屋根の大邸宅についた。見物衆に紅白の餅が配られる。津島家のあんさま(跡取り息子)文治の嫁迎えの熱気は、最高潮に達した――。
文治が黒石の名門、岡崎家から花嫁を迎えたのは、大正十一年の春、桜が咲きほこる五月初めのことであった。岡崎家は、津島家よりも小さな地主だが、当主春次郎の息子や娘たちは、一高、東大を出て満鉄に勤めていたり、東京・目白の日本女子大の先生をするなど、頭のいい一族として知られていた。花嫁れいは十七歳、十人兄弟の九番目で、目白の女子大に通っていた。新興地主津島家の縁談の相手としては、家柄も育ちも、申し分のない相手である。源右衛門の津島家では、それまでにも、明治四十年に長女のたま、大正二年は次女とし、同三年は義妹きゑの二人の娘リエ、フミと、いくつかの祝言があった。それぞれ、大地主にふさわしい、にぎやかな祝言だった。が、あんさま文治は特別である。惣助、源右衛門と婿養子が二代続いた津島家では、総領の嫁取りは久しぶりのことでもあるからだ。源右衛門は、張り切って、この縁談を進めたに違いない。
この縁談を津島家に持ち込んだのは、津島家出入りの商人・
津島家では、若夫婦のために、母屋(現在の斜陽館)の文庫蔵前から右に伸びる渡り廊下の奥に、離れ「新座敷」を建築しました。
■津島家の母屋と新座敷の位置 「旧津島家新座敷 太宰治疎開の家」掲示物。2018年、著者撮影。
新座敷は、
■離れの建築から3年後、太宰の中学時代。 前列左から圭治、文治、英治。後列左から礼治、太宰。太宰の左胸についているバッジは級長のメダル
■離れの洋間 上の写真を撮影した場所。2018年、著者撮影。
しかし、この贅沢な離れは、新築当時、ほとんど使われることはありませんでした。結婚の翌1923年(大正12年)3月4日に、父・源右衛門の死という予期せぬ出来事により、文治夫婦が母屋に移ったからです。
1945年(昭和20年)7月、この離れには、三鷹と甲府での激しい爆撃の中を逃れ、郷里・金木に疎開してきた太宰一家が住むことになります。太宰は、この離れに妻子と共に暮らしながら、『パンドラの匣』、『冬の花火』、『苦悩の年間』、『親友交歓』、『トカトントン』など23作品を執筆しました。
■新座敷間取り図 「旧津島家新座敷 太宰治疎開の家」配布資料。2018年、著者撮影。
この新座敷は現在、「旧津島家新座敷 太宰治疎開の家」(9:00~17:00、入館料500円/小中学生250円)として公開されています。ガイドさんの分かりやすい解説もあります。ここは、文壇登場後の太宰の居宅として、唯一現存する邸宅でもあります。
■十畳間から撮影した、太宰が執筆で使用した部屋 2018年、著者撮影。
さて、話を戻し、文治の結婚式当日の様子について見ていきます。
津軽野に桜の花が咲き始め、祝言の日が近づいた。黒石から五所川原を通って金木まで、嫁入り道具が運ばれる。荷馬車十一台。長い行列だった。沿道にとび出してきた人たちは「たいしたもんよのお」とささやきあったという。そして、嫁迎えの日。津島家では、自動車二台を借り上げて黒石に差し向けた。花嫁はそれに乗って、金木の隣、嘉瀬村につき、出迎えの人力車に乗り換えたのである。見物人は多かった。金木ばかりでなく、近在の村々からも、じっちゃも、ばっちゃも、わらはんども、大地主の嫁取りを一目見ようと集まってきた。
祝言は、十五畳の部屋四室をぶちぬいた大広間で行われた。庭にも、広いたたきにも、見物の人たちがつめかけていた。料理人は青森から呼んできて、一の膳、二の膳、三の膳まで運ばれた。青森、弘前から芸者も五人呼んできた。宴は二日二晩続く。
■斜陽館の大広間 十八畳の「仏間」を中心にして、十五畳の「座敷」が二間、そして囲炉裏のついている十五畳の「茶の間」と、四つの和室から成る。襖を取り外すと、六十三畳の「大広間」になる。2011年、著者撮影。亭主役の角田金七が残した覚書によれば、祝言の裏方だけでも、帽子外套取り扱い係、座席案内係、自動車及車馬係、芸者世話係、灯火係、衛星係、見物人取締係、下足係、風呂係、火の用心など数十人になった。祝儀も、消防団、青年団、馬車屋、電灯会社、役場、警察署にいたるまで配っている。いかに豪勢な祝言であったかが、うかがわれよう。津島家のあや(用心頭)をしていた小林与助の娘タセは、この時十三歳で、たたきの敷台に座って、この宴をずっと見続けていたという。
「大広間に高い足のお膳がずらっと並んで、花嫁、花婿さんがお披露目して、芸者さんが踊って、絵巻物のようでありましたよ。おどさ(源右衛門)は、黙って、背筋を伸ばして座っていました」
おそらく、それは、源右衛門の津島家が、いちばん華やかな時でもあったろう。
【了】
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【参考文献】
・秋山耿太郎・福島義雄『津島家の人びと 太宰治を生んだ家』(ちくま学芸文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・「旧津島家新座敷 太宰治疎開の家」配布資料
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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