記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】5月7日

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5月7日の太宰治

  1940年(昭和15年)5月7日。
 太宰治 30歳。

 五月上旬、「婦人公論」編輯部野口七之輔から「婦人公論」七月号に「復讐」を主題とした随筆の執筆を依頼され、気がすすまぬままに、五月二十六日、「大恩(たいおん)は語らず」を脱稿。だが、この原稿は不掲載に終わり、没後「文章倶楽部」第六巻第七号(昭和二十九年七月一日付発行)に「太宰治未発表原稿」として、野口七之輔「未発表のいきさつ」とともに掲載された。

大恩(たいおん)は語らず』

 今日は、太宰の没後に初めて雑誌掲載されたエッセイ『大恩は語らず』を紹介します。
 太宰の没後、1954年(昭和29年)7月1日発行の「文章倶楽部」第六巻第七号に「太宰治未発表原稿」として初掲載された際の編集後記には、次のように記されています。

 今月は太宰治氏の未発表原稿を掲載することができた。この原稿ははじめB誌に発表されるはずであったが、無理にお願いして小誌にゆずっていただいたものである。短いエッセイだが、ここには氏の人柄が実によくうちだされている。殊に氏のエッセイは数が少なく、その意味だけでも貴重なうえに、「恩讐」というテーマは常に氏の内部にうずまいていたテーマであって、管見によればN氏にことよせてみずからの恩讐観を吐露したものにほかならず、太宰研究にみのがしえない資料となることと思われる。この稿を筺中(きょうちゅう)深く秘しておられた野口七之輔氏は、小林多喜二氏の無二の友人であり、小樽高商時代小林多喜二伊藤整らと同人雑誌をつくったことがある。

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三鷹の家の縁側で 1940年(昭和15年)春。

『大恩は語らず』

 先日、婦人公論のNさんがおいでになって、「どうも、たいへん、つまらないお願いで、いけませんが、」と言い、恩讐記というテエマで数枚書いてくれないか、とおっしゃった。「おんしゅうき。恩と(あだ)ですか。」と私は、指先で机の上に、その恩という字と、讐という字を書いて、Nさんに問いただした。Nさんは率直な、さっぱりした気性のおかたであった。「そうです。どうも、あまりいいテエマじゃ無いと、私も思うのです。手紙でお願いしたら、あなたは、きっとお断りになるだろうと思いましたから、ですから、私がきょうお宅へお願いにあがったのです。恩は、ともかく、(あだ)なんて、あまり気持のよいものでは無いですから、テエマにあまり拘泥(こうでい)せず、子供の頃、誰かに殴られて、くやしかったとか、そんな事でもお書きになって下さったら、いいのです。」
 私には、Nさんの親切は、よくわかるのだが、内々、やり切れない気持であった。とにかく、断るより他は無いと思った。「私には、書くことはありません。恩といえば、小さい時から、もう恩だらけで、いまでも、一日も忘れられない恩人が、十人以上もありますし、一々お名前を挙げて言うのも、水くさくて、かえって失礼でしょうし、『大恩は語らず』という言葉のとおり、私は今では、あまり口に出して言いたくないのです。復讐感の方は、一つもありません。(しゃく)にさわったら、その場で言ってしまう事にしています。」
 以前、私は恩を感じているお方たちに、感じているままに、「恩」という言葉を使って言って、かえってそのお方達や、またその周囲の人たちに誤解されてしまった事があるのだ。めったに、口に出して言える言葉でないようである。
「それでいいのです。」とNさんは、私の説明に肯定を与えてくれた。「いま、おっしゃった事を、そのまま書いて下さったら、いいのです。」Nさんは、私同様に、汗の多い体質らしく、しきりにハンケチで顔の汗を拭いて居られた。
「書きたくないんですよ。四枚、五枚の随筆ばかり書いていると、とても厭世(えんせい)的になってしまうのです。それこそ、復讐感が起りそうになります。だまって、小説ばかり書いていたいのです。」
「そうでしょうね。」とNさんは、本心から同感を寄せて下さる。「ほんとうに、いけないんですよ、こんな事をお願いするのは。ですから、テエマにこだわらず、どんな事でも、いいのです。書いて下さい。」
 Nさんは、この遠い田舎の陋屋(ろうおく)に、わざわざ訪ねて来てくれたのだという事を思えば、私は今、頑固に断ってこの場を気まずくするのが、少しつらくなって来たのである。私の心の中にはやっぱり臆病な御機嫌買いの(むし)がいる。とうとう書くことになった。けれども、「書くことはありません。書きたくないのです。」という言葉は、私の本心からのもので、それは、ちっとも変っていない。書くことが無いのだ。仕方が無いから、Nさんが、それからおっしゃった、気持のいい言葉を、歪曲すること無く、そのまま次に書き記す。
「復讐なんて、私は、きらいですね。忠臣蔵だって、考えてみると、へんなものですよ。婦女子ばかりの無防備の家に、夜盗のように忍び込んで、爺さんひとりを大勢かかって殺してしまうのですからね。卑怯ですよ。復讐なんて考えてないと嘘をついたりして。やりかたが、汚いじゃないですか。曽我兄弟だって、小さい時から、かたきの何とかという人を殺すことばかり考えていたわけでしょう? それをまた、母親が一生懸命にそそのかす。陰惨じゃないですか。十八年間も、うらみを忘れずにいるなんて、気味の悪い兄弟ですよ。私は、そんな人とは、とても附き合い切れない。武士道というのも、へんなものですねえ。」
「そうだ。それを書きましょう。」と私が言ったら、Nさんは快活に笑った。
 それから、Nさんがちかごろ見た映画の筋書や、戦争の事や、東北人(Nさんも、私と同じ、東北の生れであった。)の長所や短所、青年の無気力、婦人雑誌の売行きなどに就いて、いろいろ率直な面白い話を聞かせてくれた。この原稿の件さえ無ければ、私にとって実に楽しい半日であったのだ。
 結局こんな、不得要領の原稿が出来て、Nさんには、お気の毒でならない。けれども、恩讐記と題して、読者の下等な好奇心を満足させる為に、多少ゴシップめいた材料などを交錯させて神妙に五、六枚にまとめ上げるのが、作家の義務であるのなら、作家は衰弱するばかりである。年少虚名の害に就いては、私だとて、よく知っているつもりである。ろくな事にならない。読者もよくないのである。私は、現代(昭和十五年)の読者を、あまり、たよりにしていない。
 以上は、虚傲(きょごう)の放言ではありません。いろいろ考えた上で、言っているつもりであります。重ねて、Nさんには、おわびを言います。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随筆』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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