記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】義務

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今週のエッセイ

◆『義務』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)2月25日から29日までの間に脱稿。
 『義務』は、1940年(昭和15年)4月1日発行の「文学者」第二巻第四号の「随筆」欄に発表された。この欄には、ほかに「海についての本」(大森義太郎)、「小説の魅力」(春山行夫)、「好日」(榊山潤)、「炭」(新田潤)、「廣津村の思出」(和木清三郎)、「結婚式」(徳田一穂)、「酒」(岡田三郎)が掲載された。

「義務

 義務の遂行とは、並たいていの事では無い。けれども、やらなければならぬ。なぜ生きているか。なぜ文章を書くか。いまの私にとって、それは義務の遂行の為であります、と答えるより他は無い。金の為に書いているのでは無いようだ。快楽の為に生きているのでも無いようだ。先日も、野道をひとりで歩きながら、ふと考えた。「愛というのも、結局は義務の遂行のことでは無いのか。」
 はっきり言うと、私は、いま五枚の随筆を書くのは、非常な苦痛なのである。十日も前から、何をかいたらいいのか考えていた。なぜ断らないのか。たのまれたからである。二月二十九日までに五、六枚書け、というお手紙であった。私は、この雑誌(文学者)の同人では無い。また、将来、同人にしてっもらうつもりも無い。同人の大半は、私の知らぬ人ばかりである。そこには、是非書かなければならぬ、という理由は無い。けれども私は、書く、という返事をした。稿料が欲しい為でもなかったようだ。同人諸先輩に、媚びる心も無かった。書ける状態に在る時、たのまれたなら、その時は必ず書かなければならぬ、という戒律のために「書きます」と返事したのだ。与え得る状態に在る時、人から頼まれたなら、与えなければならぬという戒律と同断である。どうも、私の文章の vocabulary は大袈裟なものばかりで、それゆえ、人にも反発を感じさせる様子であるが、どうも私は、「北方の百姓」の血をたっぷり受けているので、「高いのは地声」という宿命を持っているらしく、その点に就いては、無用の警戒心は不要にしてもらいたい。自分でも、何を言っているのか、わからなくなって来た。これでは、いけない。坐り直そう。
 義務として、書くのである。書ける状態に在る時、と前に言った。それは高邁(こうまい)のことを言っているのでは無い。すなわち私は、いま鼻風邪をひいて、熱も少しあるが、寝るほどのものでは無い。原稿を書けないというほどの病気でも無い。書ける状態に在るのである。また私は、二月二十五日までに今月の予定の仕事はやってしまった。二十五日から、二十九日までには約束の仕事は何も無い。その四日間に、私は、五枚くらいは、どうしたって書ける(はず)である。書ける状態に在るのである。だから私は書かなければならない。私は、いま、義務の為に生きている。義務が、私のいのちを支えてくれている。私一個人の本能としては、死んだっていいのである。死んだって、生きてたって、病気だって、そんなに変りは無いと思っている。けれども、義務は、私を死なせない。義務は、私に努力を命ずる。休止の無い、もっと、もっとの努力を命ずる。私は、よろよろと立って、闘うのである。負けて居られないのである。単純なものである。
 純文学雑誌に、短文を書くくらい苦痛のことは無い。私は気取りの強い男であるから、(五十になったら、この気取りも臭くならない程度になるであろうか。なんとかして、無心に書ける境地まで行きたい。それが、(ただ)一つのたのしみだ)たかだか五枚六枚の随筆の中にも、私の思うこと全部を叩き込みたいと(りき)むのである。それは、できない事らしい。私はいつも失敗する。そうして、また、そのような失敗の短文に限って、実によく先輩、友人が読んでいる様子で、何かと忠告を受けるのである。
 所詮は、私はまだ心境ととのわず、随筆など書ける(がら)では無いのである。無理である。この五枚の随筆も、「書きます」と返事してから、十日間も私は、あれこれと書くべき材料を取捨していた。取捨では無い。捨てることばかり、やって来た。あれもだめ、これもだめ、と捨ててばかりいて、とうとう何も無くなった。ちょっと座談では言えるのであるが、ことごとしく純文学雑誌に「昨日、朝顔を植えて感あり」などと書いて、それが一字一字、活字工に依って拾われ、編集者に依って校正され、(他人のつまらぬ呟きを校正するのは、なかなか苦しいものである。)それから店頭に出て、一ヶ月間、朝顔を植えました、朝顔を植えました、と朝から晩まで、雑誌の隅で繰り返し繰り返し言いつづけているのは、とても、たまらないのである。新聞は、一日きりのものだから、まだ助かるのである。小説だったら、また、言いたいだけのことは言い切って在るのだから、一月ぐらい、店頭で叫びつづけても、悪びれない覚悟もできているが、どうも、朝顔有感は、一ヶ月、店頭で呟きつづける勇気は無い。

 

太宰の原稿執筆状況

 エッセイの冒頭で「はっきり言うと、私は、いま五枚の随筆を書くのは、非常な苦痛なのである」と漏らす太宰ですが、 普段の小説の原稿執筆状況は、どうだったのでしょうか。
 太宰の妻・津島美知子は、著書回想の太宰治の中で「午後三時前後で仕事はやめて、私の知る限り、夜執筆したことはない。〆切に追われての徹夜など、絶えてない」と回想しています。今回は、関係者の証言を引用しながら、太宰の原稿執筆状況について紹介したいと思います。

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■太宰と妻・津島美知子

 まずは、1938年(昭和13年)に石原美知子と再婚し、文筆家として再起を志した頃の様子について、妻・美知子回想の太宰治から引用してみます。

 この家(著者注:新婚後、最初に住んだ山梨県甲府市御崎町の家)での最初の仕事は「黄金風景」で、太宰は待ちかまえていたように私に口述筆記をさせた。副題の「海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて」を書かせて、どうだ、いいだろう、と言った。次が「続富嶽百景」で「ことさらに月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、――」から始まったが、私は前半を全く読んでいなかったので筆記しながら唐突な感じがした。

 太宰は、自分で執筆するだけでなく、美知子や雑誌編集者に口述筆記を依頼することもありました。ちなみに、太宰の人気作品の1つでもある富嶽百景ですが、当時は文芸雑誌「文体」に2回にわたって連載されたため、美知子はその前半部分を読まずに、後半を口述筆記したようです。
 また、美知子は口述筆記について「一番記憶に強く残っている」として、同じく回想の太宰治の中で、次のように回想しています。

黄金風景」と「続富嶽百景」のあと、「兄たち」「(アルト)ハイデルベルヒ」「女の決闘」(一部)が口述筆記でできた。「駈込み訴え」の筆記をしたときが一番記憶に強く残っている。「中央公論」に発表されるということで太宰も私もとくに緊張したのであろう。昭和十五年の十月か十一月だったか、太宰は炬燵に当たって、盃をふくみながら全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもしなかった。ふだんと打って変わったきびしい表情に威圧されて、私はただ機械的にペンを動かすだけだった。

 口述筆記にもかかわらず、「全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しも」せずに紡がれたという駈込み訴え。太宰の文体はリズミカルで、「音読に向いている文章」と言われることもありますが、太宰は「自ら読み上げたときにも心地よい文章」という、こだわりがあったのかもしれません。
 ちなみに、東京帝国大学に在学中、作品が出来上がると、友人を呼び集めて朗読会を開いていたというエピソードも残っています。

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■『駈込み訴え』と『富嶽百景』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 口述筆記の話題が続きましたが、今度は、必死に原稿用紙に向かう姿です。再び、妻・美知子の著書回想の太宰治からの引用です。太宰は、第二子・正樹の出産準備のため、美知子の甲府の実家へ滞在していました。

(著者注:1944年(昭和19年))六月十五日に「津軽」を起稿し、同月二十一日から甲府市の私の実家に滞在して、二十五日には「津軽」を百枚書き上げて、午後井伏先生を、疎開先の市外甲運村に訪れた。六月末まで甲府で、七月は一日から二十日まで三鷹で書き、二十一日からまた甲府で、月末に三百枚を脱稿した。起稿から脱稿まで一月半ほどである。
 三鷹の二十日間は自炊の不便を忍び、甲府では(夏向きに建てられた天井の高い家の、一番涼しい部屋に陣取っていたのではあるが)暑さに耐えての労作であった。私は第二子出産のためこの間ずっと実家に滞在し、毎朝早起きして煙草を買う行列に加わった。

 根強い人気を誇る、小説津軽執筆の舞台裏でした。
 全く家事をしなかった、防空壕を掘る際も、ただ側に立って見ているだけだった、というエピソードも残っている太宰ですが、こと小説となると、やはり力が入るようです。

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■『津軽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 続いて紹介するのは、第二次世界大戦のため、故郷である金木町に疎開していた頃の原稿執筆についてです。
 1945年(昭和20年)9月、疎開中の太宰のもとを、宮城県仙台市にある新聞社・河北新報社の出版局次長・村上辰雄が訪れ、日刊新聞である「河北新報」への新聞連載小説を依頼します。この依頼を受けて執筆されたのが、太宰にとって初の新聞連載小説となるパンドラの匣です。太宰は、村上に「終戦後の希望」を書きたいと語り、「月末までに第一回を送稿する」と約束したそうです。

 約束の9月末、太宰は約束通り、「作者の言葉」とともに、パンドラの匣連載20回分にあたる、原稿80枚近くを村上に送付しました。
 原稿を受け取った村上は、パンドラの匣の挿絵を描くことになっていた仙台近郊に住む中川一政に原稿を届け、挿絵を依頼しましたが、中川は、「これはとても描けない。いや、こういう小説にタッチしたら、面白くて、精魂をつくし果てるまでに抜きさしならなくなる。僕がこのパンドラの匣をやるとしたら、きっと絵筆の勉強を投げ出してかかるだろう。それが怖いので、とても描けない。どうか太宰君によろしく言ってください」と断られてしまったといいます。
 最終的にパンドラの匣の挿絵は、版画家の恩地孝四郎が手掛けることになりましたが、恩地は、「新聞小説でこんなにまとめて原稿をもらったのは太宰さんが初めてだった」「これほど楽しい仕事はかつてなかった」と話したそうです。

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■『パンドラの匣』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 最後に紹介するのは、言わずと知れた有名長篇小説斜陽の原稿執筆についてです。斜陽は、太宰がベストセラー作家になるきっかけとなった作品でもあります。
 太宰は終戦後、1946年(昭和21年)11月14日疎開していた故郷の金木町から三鷹へ戻って以降、仕事部屋を持つようになりました。自宅が手狭なことや来客を避けるためで、三鷹へ戻ってから玉川上水で心中するまでの1年7ヶ月の間に、6ヶ所を転々と使用しました。

 太宰は、金木町から戻った後、すぐに新潮社を訪ね、「『桜の園』(作者注:ロシアの劇作家・チェーホフの戯曲)の日本版を書きたい、題名は『斜陽』だ」と意気込んでいたそうです。作家として「大ロマン小説を一つ書いて死にたい」と常に語っていたそうで、いよいよその時がやって来ようとしていました。
 太宰は、1947年(昭和22年)2月下旬、安田屋旅館の二階「松の弐」斜陽を起稿します。ここで、第一章と第二章を執筆して、三鷹に戻ります。
 その後、同年4月6日から5月20日まで仕事部屋としていたのが、田辺精肉店の裏のアパートでした。ここで、太宰は斜陽の第三章からを書き始めます。太宰が執筆を終える午後3時以降、だいたい飲んでいたという松屋の仲介で、田辺万蔵・かつ夫妻が経営するアパートを借りていました。
 田辺は、「空になったアパートのその部屋だけ、夜も遅くまで煌々(こうこう)と電気がついていた」と回想していたそうです。コラム冒頭で引用しましたが、妻・美知子は「午後三時前後で仕事はやめて、私の知る限り、夜執筆したことはない。〆切に追われての徹夜など、絶えてない」と回想しており、この様子から、太宰が斜陽に懸ける情熱が伺い知れるような気がします。

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■『斜陽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 このように太宰は、作家としての「義務」をしっかり果たしていたようです。
 ちなみに、妻・美知子によると、「死の前年秋の某誌に載ったインタヴューでは、夜中はだれかがうしろにいてみつめているようでこわいから仕事しないと答えている」そうです。斜陽を執筆していたのも、死の前年にあたるのですが…。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ―人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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