記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】2月26日

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2月26日の太宰治

  1947年(昭和22年)2月26日。

 太宰治 37歳。

 朝九時頃、太田静子の大判ノート四冊に書かれていたという日記と「少女時代の断片」とを携帯して大雄山荘を発ち、小田原駅から、静岡県伊豆三津浜に向かい、同日、田中英光が妻子とともに借りて住んでいた桜井書店主桜井均の別荘前の、静岡県田方郡内浦村三津の安田旅館に止宿。新館二階正面の海に面した角の十畳間の部屋「松の弐番」に落ち着いて、「斜陽」の稿を起こした。

『斜陽』を執筆した安田屋旅館

 2月21日から、5日間にわたって滞在していた大雄山荘。滞在中の出来事は、21日24日の2回記事に書きましたが、今日は、5日間の滞在した大雄山荘を離れ、斜陽執筆のために伊豆へ向かった日です。

 大雄山荘で太田静子の日記を手に入れた後、伊豆での宿については弟子の田中英光に、事前にお願いしていたようです。滞在後のスケジュールについて太宰が語った部分を、太田静子『あはれわが歌』から引用してみます。

 駅前の広場で少年たちがキャッチボールをしていた。治は駅の建物にもたれて見ていたが、園子をふりかえり、
「僕はずいぶん、いけない子供だったんだよ。今日みたいな、日曜の朝だったんだ。客間で父や母や姉や妹や兄たちが集って談笑しているところを通りかかると『治はいまは勉強がよく出来ても、小さい時の成績はあてにならない』と言っているんだ。僕はその時一年生だったんだけど、みんなが僕の悪口を言っている、自分だけを馬鹿にしていると、みんなを恨んで、父も兄も姉も兄もみんな死んでしまえばよいと思っていたんだ」と言って微笑した。
 伊豆長岡までの切符を買って、
「宿は田中英光に頼んであるのだけど、ひとまず田中の家へ行くんだ。田中はどうしたのかと思って心配しているだろうなあ」と言った。園子は田中英光の作品は一つも読んだことがなかったが、治の弟子で、共産党員の若い作家だということを知っていた。
「田中さんはおひとりで住んでいらっしゃるの?」

 党員でない治が、伊豆の共産党支部で活躍している弟子のところへ行くということに園子は漠然とした不安と、期待をおぼえた。
「田中はね、奥さんと奥さんのお母さんと、子供と、みんなで七、八人で暮しているんだよ。たいへんだろうなあ」とひとりごとのように言った。
「田中さんの奥さんもコンミュニストなのでしょう?」
「いや、普通の奥さんだよ。美人なんだよ。田中はまだ恋愛をしたことがないから美人がいいんだ。田中も恋愛をしなければいけないなあ」治は笑いながら、そんなことを言った。

  太宰の滞在先を世話した田中英光(たなかひでみつ)(1913~1949)は、東京府東京市赤坂区榎坂町(現在の東京都港区赤坂)生まれ、太宰の弟子で小説家。代表作にオリンポスの果実(太宰が『杏の実』を改題)があります。
 田中は、早稲田大学政治経済学部在学中の1932年(昭和7年)、ロサンゼルスオリンピック漕艇(そうてい)(ボート)選手として、エイト種目に出場しています。

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 太宰と田中との出会いは、1935年(昭和10年)。田中は、大学卒業後に横浜ゴム製造株式会社に入社しながら、同人雑誌「非望」の同人になります。「非望」第5号に発表した『空吹く風』が太宰の目に留まり、太宰が田中宛に「君の小説を読んで、泣いた男がある。(かつ)てなきことである」とハガキを送ったのがきっかけでした。

 田中は、1948年(昭和23年)6月13日、太宰が玉川上水で入水したことに衝撃を受け、睡眠薬中毒に。
 翌1949年(昭和24年)11月3日午後5時頃、三鷹市禅林寺の太宰の墓前で、睡眠薬アドルム300錠と焼酎1升を飲み、安全カミソリで左手首を切って自殺しようとします。知らせを受けて駆け付けた新潮社の編集者・野平健一三鷹市上連雀の病院に運ばれて、処置を受けましたが、午後9時40分に死去。36歳で、その生涯の幕を閉じました。

 この日、太宰が田中に案内されて斜陽執筆のために向ったのは、「安田屋旅館」。現在は、国の登録有形文化財に指定されている創業1887年(明治20年)、純和風数寄屋造りの老舗旅館です。

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 太宰は、この「安田屋旅館」2階の「松の弐」(現在は「月見草」)の部屋で、太田静子の日記を片手に、斜陽の第1章と第2章を執筆しました。

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 太宰が滞在したこの部屋は、海に面して二方が廊下になった10畳の角部屋で、船着き場と富士山が見える眺望の良い空間。現在でも宿泊が可能です。

 ちなみに、太宰は同日付で、太田静子にハガキを送っています。

  静岡県田方郡内浦村三津 安田屋旅館内より
  神奈川県足柄下郡下曽我村原 大雄山
   太田静子宛

 拝啓 このたびは、お世話さまになりました。たけしさんにも、どうかよろしく御鳳声下さい。表記に落ちつきました。駿豆鉄道伊豆長岡で下車してバスで三十分くらいのところです。いつまでここにいるか、まだ見当がつきません。でもとにかくきょうから仕事を開始するつもりでいます。ではまた、おたより申します。お大事に。
                     不盡(ふじん)

 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「安田屋旅館」(http://mitoyasudaya.com/
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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