記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月15日

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11月15日の太宰治

  1947年(昭和22年)11月15日。
 太宰治 38歳。

 太田静子の弟太田通が来訪。

(あかし)「この子は 私の 可愛い子」

 1947年(昭和22年)3月中旬頃、太宰は、太田静子の住む下曽我大雄山荘を訪れた際、静子から妊娠を告げられました。太宰は、同年2月21日斜陽を執筆するための日記を静子から借り受けるため、大雄山荘を訪問し、5日間滞在していました。

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大雄山 太田静子が親類のつてで疎開していた別荘。2009年(平成21年)12月26日早朝、原因不明の出火により全焼。

 静子から妊娠を告げられた太宰は、「それは、よかった」とにっこり笑って、とても素敵な表情をしたそうです。しかし、太宰は三鷹に戻ったあと、次のようなハガキを静子に送ります。

  東京都下三鷹下連雀一一三
   太宰治より
  神奈川県足柄下郡下曽我村原 大雄山
   太田静子宛

 昨日はありがとうございました。昨日帰宅したら、ミチは、へんな勘で、全部を知っていて、(手紙のことも、静子の本名も変名も)泣いてせめるので、まいってしまいました。ゆうべは眠らなかった様子で、きょう朝ごはんをすましてから、また部屋の隅に寝ています。お産ちかくではあり、カンガ立っているのでしょう。しばらく、このまま、静かにしていましょう。手紙も電報も、しばらく、よこさない方がいいようです。どうもこんなに騒ぐとは意外でした。では、そちらは、お大事に……

 同年5月25日、居ても立っても居られなくなった静子は、心配してついて来た弟・太田通と一緒に三鷹の太宰を訪ねます。新潮社の編集担当・野原一夫や太宰の親友・伊馬春部、太宰の愛人・山崎富栄たちと小料理屋「千草」で飲み、その後、「すみれ」で二次会をし、そのまま、洋画家・桜井浜江の自宅に宿泊することになります。
 翌日、静子は三鷹を後にしますが、静子と太宰は、ほとんど話すことはありませんでした。

 三鷹の太宰を訪れてから約5ヵ月半が過ぎた、同年11月12日。静子は、娘・太田治子を出産します。「お多福蚕豆(そらまめ)のような顔をした、八百八十(もんめ)の丈夫そうな女の()だった」と、静子は『あわれわが歌』に記しています。静子は、弟・通に、女児の出産を告げる電報を打ちました。

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■太田静子と治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

 静子が治子を出産した3日後の、同年11月15日。静子の弟・通が、三鷹を来訪。静子が生んだ子供が、太宰の子であるという(あか)しと命名とを太宰に要請しました。

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  (あかし)
   太田治子(はるこ)
 この子は 私の
可愛い子で 父を
いつでも誇って
すこやかに育つ
ことを念じてい

 昭和二十二年
   十一月十二日
    太宰治

 太宰は、「お金のことで困るようなことがあったら、いつでも言って下さい」という言葉を添えて、通にそのお墨付きを渡しました。
  出産から7日目の朝、通から、出産届の用紙と、太宰のお墨付きが入った書留速達を受け取ります。太宰のお墨付きは、「力のこもった、太い字で半紙いっぱいに書いてあった」と静子は回想しています。

 静子の産んだ子を「私の可愛い子」と認めた太宰ですが、このお墨付きが書かれたのは、太宰が仕事部屋としても使っていた、愛人・山崎富栄の部屋でした。富栄は、この時の様子を、自身の日記へ次のように記しています。

十一月十五日

 斜陽の兄君みえる。
 永井さんのお便りによる。
 どうやらこうとやらを御存知なくておいでになられた御様子。
 太宰さん。直接でかえってよかったよ、とほっとされた御様子。
    証
        太田治子
 この子は私の可愛い子で
 父をいつでも誇って
 育つことを念じている。
  昭和二十二年十一月十二日
        太宰 治

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■山崎富栄

十一月十六日

 伊馬さん、野原さんみえる。
 いろいろのことがありました。
 泣きました。顔がはれるくらい
 泣きました。わびしすぎました。
”サッちゃん、ツラかったかい”
 いいえ、そんなお言葉どころではありませんでした。もう、死のうかと思いました。
 苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられていくみたいでした。ほんとうは、ほんとうは泣くまい、泣くまいと頑張っていたのです。涙を出さないようにと、机の上を拭いてみたり、立ってみたり、縫物を広げてみたり、ほんとうは、そっとして、ふれないでいてほしかったのです。
  (以下、四行抹消)

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 しかも”大事にしてね””なんでも相談するから”と仰言っていらっしゃったのに。
”修治の治、これは「はる」とも読みますね。治子(はるこ)、この名はどうでしょう”
”サッちゃん、どうだろう”
 斜陽の兄君を前にして、”いやです”なんて、申せませんし、このときばかりは、ほんとうに何とも言えない苦しさでした。御自分のお子様にさえお名前から一字も取ってはいらっしゃらないのに。
斜陽の子ではあっても、津島修治の子ではないのですよ。愛のない人の子だと仰言いましたね。女の子でよかったと思いました。男の子であったら、正樹ちゃんがお可哀想だと思って、心配していたのです。
  (以下、三行抹消)

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”そんなこと形式じゃないか。お前には、まだ修の字が残っているじゃないか。泣くなよ。僕は、修治さんじゃなくて、修ッちゃだもの。泣くなよ”
”いや、いや、お名前だって、、いや。髪の毛、一すじでも、いや。わたしが命がけで大事にしていた宝だったのに”
”でも、僕、うれしい、そんなに思っていてくれたこと。ごめんね、あれは間違いだったよ。斜陽の子なんだから陽子でもよかったんだ。遅いよ、君のは。この前のときだって、君に逢ってさえいたら、伊豆へなんかいかなくてもよかったんだよ。そうすれば、僕だって苦しまなくてもよかったんだよ。もう一日早かったらなあ――”
”ネ、もう泣くのやめな。僕の方が十倍もつらくなっているんだよ。ね、可愛がるから。そのかわり、もっと、もっと可愛がるから、ごめんね”
 私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、分かっていたのです。でも泣くまい、そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が涙を湧かせてしまうのです。
 泣いたりして、すみません。
”僕達二人は、いい恋人になろうね。死ぬときは、いっしょ、よ。連れていくよ”
”お前に僕の子を産んでもらいたいなあ――”
”修治さん、私達は死ぬのね”(以下、二行抹消)
”子供を産みたい”
”やっぱり、私は敗け”
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたいくらいのくやしさで、涙が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に――。)
 救って下さい。教えて下さい。
 主よ、御意ならば我を潔くなし給うを得ん。わが意なり、潔くなれ。
 ――斜陽の女のかたにひとこと、
”あなたの書簡集はお見事でした”

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 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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