記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月10日

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8月10日の太宰治

  1944年(昭和19年)8月10日。
 太宰治 35歳。

 長男正樹が、山梨県甲府市水門町二十九番地で誕生した。

長男・正樹の誕生

 今日は、太宰の長男・津島正樹(つしままさき)(1944~1960)が生まれた日です。

 まずは、正樹が生まれる前の1944年(昭和19年)8月1日、太宰が弟子・小山清に宛てて書いたハガキを紹介します。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都荒川区三河島町二ノ一〇八四 新藤方
   小山清

 拝復 留守して失敬。女房出産やら、何やらかやら、五、六、七月まるで無我夢中でした。自炊も、ひとつきばかりしました。きょう、甲府からひとりで帰り、雑用を片づけ、あさって、また甲府へ行かねばならぬ。十日頃にまたひとりで帰り、こんどは当分三鷹へ落ちつく筈。あちこち往来しながら、それでも「津軽」三百枚書き上げました。
 貴稿、たしかに受取りました。まだ読まぬが、いいもののような予感がある。いずれまたたよりする。
          不一。

 太宰の妻・津島美知子は里帰り出産するため、6月21日から実家・甲府へ帰省していました。太宰は、その間、甲府三鷹を往復しながら、津軽の稿を書き継ぎ、7月末に脱稿します。「自炊も、ひとつきばかり」しながらの執筆生活でした。

 続いて紹介するのは、同年8月29日、太宰が一番弟子・堤重久に宛てて書いたハガキです。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京市左京区聖護院東町二〇 三森豊方
   堤重久宛

 拝復 貴翰拝誦、まあいろいろやってみるさ。こちらは相変らず。男の子が生れた。津島正樹と言う。家は動物園の如し。きょうは夫婦ゲンカした。仕事をしていると腹がへってたまらぬので、「メシはまだですか」と言ったら、女房にはそれが気にいらぬという。「あなたもお仕事をせつかれたら、いやな気がするでしょう」という。「いや、たいへんいい気持だ。怒るのは、お前がわるい。あとで気がつく。」と大声で言って女房に逆襲し、女房を泣かせてしまった。つまらないケンカであった。きょうは、これから目黒へ支那料理を食いに行くつもり。もちろん一人で。河上徹さんが、ごちそうしてくれる事になっている。京都には、たいへん行きたいが、どうも遠すぎる。「まあ、そのうち、」という事にしましょう。「佳日」という短篇集が出た。つまらぬ。二、三ヶ月中に、「津軽」と「雲雀の声」が小山書店から、「新釈諸国噺」が生活社から出る。そろそろ魯迅に取りかかる。いまは小手調べに支那の怪談など試作している。これは志那語に翻訳される筈。要するに毎日仕事、毎日不愉快。御内の方々によろしく。

 正樹が生まれたあと、美知子と「つまらないケンカ」をしながらも、「毎日仕事」に勤しむ太宰。ハガキの中には、多くの作品名が登場しています。魯迅惜別として、支那の怪談」竹青として発表されました。太宰は、戦時中に最も多くの作品を発表し続けた作家でもあります。

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■津島正樹 1948年(昭和23年)撮影。

 正樹は、太宰が「毎日仕事、毎日不愉快」な生活を送りながら書き継いだ作品の中にも登場しています。

 まずは、ヴィヨンの妻から。

 あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのですから、そのまま黙って寝ていました。
 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっという荒い呼吸ばかりで、何をしている事やら、私が寝たまま、
「おかえりなさいまし。ごはんは、おすみですか? お戸棚に、おむすびがございますけど」
 と申しますと、
「や、ありがとう」といつになく優しい返事をいたしまして、「坊やはどうです。熱は、まだありますか?」とたずねます。
 これも珍しい事でございました。坊やは、来年は四つになるのですが、栄養不足のせいか、または夫の酒毒のせいか、病毒のせいか、よその二つの子供よりも小さいくらいで、歩く足許さえおぼつかなく、言葉もウマウマとか、イヤイヤとかを言えるくらいが関の山で、脳が悪いのではないかとも思われ、私はこの子を銭湯に連れて行きはだかにして抱き上げて、あんまり小さく醜く痩せているので、(さび)しくなって、おおぜいの人の前でないてしまった事さえございました。そうしてこの子は、しょっちゅう、おなかをこわしたり、熱を出したり、夫は殆ど家に落ち着いている事は無く、子供の事など何と思っているのやら、坊やが熱を出しまして、と私が言っても、あ、そう、お医者に連れて行ったらいいでしょう、と言って、いそがしげに二重廻しを羽織ってどこかへ出掛けてしまいます。お医者に連れて行きたくっても、お金も何も無いのですから、私は坊やに添寝して、坊やの頭を黙って撫でてやっているより他は無いのでございます。
 けれどもその夜はどういうわけか、いやに優しく、坊やの熱はどうだ、など珍しくたずねて下さって、私はうれしいよりも、何だかおそろしい予感で、脊筋が寒くなりました。

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 続いて、桜桃から。 

(前略)四歳の長男は、痩せこけていて、まだ立てない。言葉は、アアとかダアとか言うきりで一語も話せず、また人の言葉を聞きわける事も出来ない。這って歩いていて、ウンコもオシッコも教えない。それでいて、ごはんは実にたくさん食べる。けれども、いつも痩せていて小さく、髪の毛も薄く、少しも成長しない。
 父も母も、この長男に就いて、深く話合うことを避ける。白痴、(おし)、……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込んでしまいたく思う。
  (中略)
 ああ、ただ単に、発育がおくれているというだけの事であってくれたら! この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑するようになってくれたら! 夫婦は親戚にも友人にも誰にも告げず、ひそかに心でそれを念じながら、表面は何も気にしていないみたいに、長男をからかって笑っている。

 正樹は、ダウン症でした。
 太宰の次女で、正樹の妹・津島佑子(本名・津島里子)は、書簡集『山のある家 井戸のある家』で、兄・正樹について、次のように書いています。

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津島佑子

 私にはダウン症に生まれついた兄がいました。私が十二歳のときにこの世を去った兄ですが、この兄とともに育ったことは私にとって大きな意味を残している、と年を重ねれば重ねるほど思うようになっています。(中略)
 ダウン症の兄は十五歳で亡くなったころに、やっと口で簡単な意思表示ができ、ごく限られた文字と数字が書けるようになっていました。でも、家族と自分の名前以外の文字は、兄にとってあまり意味がないままだったようです。絵を描くのは大好きだったようですが、絵本を楽しんでいた姿は記憶にありません。自分が絵を描くのと、だれかが描いた絵を楽しむのとは、意味がまったくちがうのでしょうか。
  (中略)
 私にとっては言うまでもなく、だれよりも大切な兄でした。兄に付き添って自分は一生生きつづけようと思い決めていました。それは無理しての考えではなく、ましてや、つらいという思いもありませんでした。でも客観的にみれば、十二歳の女の子がそうして自分の未来をすでに決めてしまっていたことになります。他人の話だったら、それは大き過ぎる犠牲ではないか、と考えずにいられないでしょう。でも兄が生きているあいだ、ふつうはこうじゃないんだ、と考えることがなかったのです。これも考えてみれば、不思議な人間の意識のありようですね。(中略)
 学校などで同級生に家族のことを聞かれるたびに、私はいつも困っていました。「兄」がいると言えばいいのか、「弟」がいると言ったほうがいいのかと迷ってしまう。またじつは小説家だった父についても、どうか、だれにも聞かれないように、といつも願っていました。父はいませんと言えば、それはなぜ、とひとは聞きます。事故で死んだ、と答えれば、なんの事故、とさらに聞かれます。そうなると返事に困ってしまいます。「自殺」とはどうしても自分の口から言うことはできませんでした。今でも言いたくない言葉ですが。そのうえ、よその女のひとと一緒に死んだなどとは、どうしてもひとには知られたくないヒミツでした。
  (中略)
 兄といると、世界は魔法に充ち満ちているように感じられました。兄は言葉に縛られず、空間や時間の観念にも縛られていませんでした。気ままに吹く風のように、ひらひら舞う蝶のように、気の向いたところを歩きつづけます。目的というものもなく、帰るときどうなるんだろう、ということも考えません。楽しいから、気持がいいから、とにかく歩くだけ。
 その兄のあとを追う私にとっては、びっくりの連続でした。えっ、こんな場所を通るの?  ここがどこかもう、わからないよ、こわいよ、疲れたよ。なにを言っても、兄の足を止めることはできません。疲れ果てて自分が動けなくなったとき、兄ははじめて立ち止まり、私を振り返ります。ああ、やっと帰る気になってくれたな、と私はほっとします。いくらへとへとになっていても、「健常児」である私にはひとに道を聞くことができます。いよいよとなれば、交番のおまわりさんに頼んで、家に電話してもらうという手も私は知っています。
 私は兄の気持をどのように理解していたのでしょう。どうやら兄の表情、動作のひとつひとつを敏感に、そして正確に読み取っていたらしいのです。でもここで、私たちのつながりを美化することがあってはいけませんね。ちょっとした痛みに襲われたりすると、兄はもう私の手には負えなくなり、母の出番になるのでした。

  正樹は、1960年(昭和35年)2月、肺炎のために亡くなりました。享年15歳でした。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島裕子・申京淑『山のある家 井戸のある家』(集英社、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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