8月15日の太宰治。
1945年(昭和20年)8月15日。
太宰治 36歳。
正午、戦争終結の
金木で迎えた終戦
1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)、当時日本唯一の放送局だった、社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の音読が放送されました(玉音放送)。
■空襲で廃墟となった自宅跡に正座して、拾い集めて作ったラジオから玉音放送を聴く人々
この放送は、第二次世界大戦(1939~1945)における、日本のポツダム宣言受諾による終戦を日本国民に伝えるものでした。なお、日本が正式に降伏したのは、この半月後、降伏文書が調印された同年9月2日のことでした。
■太宰の金木の生家 現在は太宰治記念館「斜陽館」として公開されている。2011年、著者撮影。
太宰は、三鷹から妻・津島美知子の実家・甲府、甲府から故郷・金木へと疎開地を転々としていました。故郷・金木へは、15日前の同年7月31日に辿り着いたばかりでした。甲府から三鷹へ疎開するまでの経緯については、7月28日の記事で紹介しました。
金木に疎開してからの生活や、終戦の日の太宰の様子について、美知子は『回想の太宰治』で、次のように回想しています。
太宰はずっとふしぎなほど元気だった。
すべては家長の命令に従って、私たちはまた赤屋根の下に戻り、裏の畑の防空壕に出入りして過ごした。壕には当然のように、親戚縁者や近隣の人たちも入っていた。祖母は昔の鶏舎を清掃して移し、嫂 が三度の食事を運んでいた。私は大家族の家長の負担の重いことを思った。
終戦の詔勅のラジオ放送は常居 (居間)で聞いたが、よく聞きとれず、太宰はただ「ばかばかしい」を連発していた。アヤ(著者注:下男の年長者)が立ったまま泣いていた。
太宰は、金木に疎開した際、長兄・津島文治が結婚記念に建てた「新座敷」と呼ばれる奥の静かな離れの一廓に起居しました。
現在、この「新座敷」は、「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」として公開されています。ガイドさんの分かりやすい解説で、太宰が疎開していた時の様子を、より身近に感じることができます。ちなみに、この建物は、文壇登場後の太宰の居宅として、唯一現存する邸宅でもあります。
■太宰が金木に疎開中滞在していた「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」
食事は本家の家族、といっても兄夫妻と小学生の二女、時々帰省する弘前中学生の長男四人と、一緒に食膳に向かうことになった。兄にとって、弟一家を遇するのに、これ以外のことは考えられなかったろうと私はあとで気づいた。
と回想しています。
金木へ疎開中の太宰は、1日に2~3時間畑の手伝いをし、ほかは読書や執筆に専念。終戦とともに、和服の着流しに着替えて机の前に座って執筆活動を行う生活がはじまりました。
「新座敷」は、文庫蔵の前から母屋と鍵型に曲がった渡り廊下で繋がり、広い洋間を挟んで4つの座敷があり、森閑としていささか世離れした環境だったそうです。
■津島家の母屋と新座敷の位置(イメージ) 「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」掲示物。2018年、著者撮影。
■新座敷間取り図 「太宰治疎開の家(旧津島家新座敷)」配布資料。2018年、著者撮影。
太宰は、六畳間に、津軽塗の卓と帳場火鉢を置いて仕事部屋にあてていました。
この「新座敷」の縁側に立ち、雑草の茂って荒れた中庭を見下ろしながら、太宰は「これが配所の月というものだ」と呟いていたそうです。
金木へは、翌1946年(昭和21年)11月12日までの、約1年3ヶ月半滞在しますが、『パンドラの匣』『十五年間』『苦悩の年鑑』『親友交歓』『トカトントン』など18の小説と、5つのエッセイを執筆しています。
■十畳間から撮影した、太宰が仕事部屋として使用した部屋 2018年、著者撮影。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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